樹の仔
「樹の仔」は、世界の記録者。
人間のような姿だけど、人間じゃない。
世界樹から産まれて、いつかはまた世界樹へと還る。その時代の、世界の記憶を樹に持ち帰るために。
人間のように世界へ溶け込むけど、決して人間ではない。
「樹の仔」は、そんな男の子。
数百年に一度、この世界へ現れる。
でも誰も、「樹の仔」のことは知らない。ふらりと現れ、旅をし、出会いを重ねて、ふらりと消えていく。
不思議な男の子。
さて。
いつだったか。
世界樹へ還ろうとしない「樹の仔」が現れた。
彼は、世界樹へ言った。
「あなたの元へ、戻りたくない。私は、この世界を愛してしまった」
世界樹は怒った。
その姿を、盲目の巨大な化物へと変えて、「樹の仔」を連れ戻そうと這い寄ってきた。
「樹の仔」は必死で逃げた。
ずっとずっと逃げて逃げて、色々なことが頭をよぎる。
これ以上、あの化物を野放しにはできない。
例え盲目であっても、もうすぐに気付かれてしまう。
それならいっそ、いっそ。
「樹の仔」は、身を沈めた。
誰にも見つからないところへ。世界樹でさえ、見つけられないところへ。
「樹の仔」がどこかで朽ち果てたことを感じ取り、世界樹は動きを止め、また樹へと戻った。
数百年後、新しい「樹の仔」が産み落とされた。
今までの世界の記憶で予習を済ませて、世界へと出て行った「樹の仔」は、ゆっくり一つ息を吐いた。
世界は真っ暗だった。
広がっていたのは、死の大地と、黒い海。
生き物の姿は、もうどこにも見当たらない。
この星は、とうの昔に滅んでいた。
たった一つ、世界樹を残して。
新しい「樹の仔」は、何もない世界を、ただただ彷徨い歩いた。
数十年後、黒い海の浜辺に、誰かが倒れているのを見つけた。もう生きているはずはない。でも、その姿はきれいだった。
それは、世界樹へと還らなかった、前身の「樹の仔」だった。
彼の記録が、記憶が、流れ込んできた。
彼が産まれたときには、もう世界は滅んでいた。
この世界には、もう何もなかった。
彼のすべきことは、もう何もなかった。
たった一つ、この風景を、世界樹へと持ち帰るだけ。
でも、それをすればどうなる。
世界樹は、世界が終わったと知った時に枯れてしまう。
いや、世界樹が枯れてしまうと、世界に本当の終わりが来てしまう。
命の全てが、無くなってしまう。
彼が戻ったら、この風景を世界樹が知ったら、この世界は本当に終わってしまう。
だから、彼は逃げたのだ。世界樹を偽るため。世界を終わらせないため。愛する世界を守るため。
『私は、この世界を愛してしまった』
その言葉は、偽りではなく。
それを知った新しい「樹の仔」は、また一つ、ゆっくり息を吐いた。
やがて「樹の仔」は、世界樹へと還った。
変化のない延命になど、何の意味もない。そう考えて。
世界樹は、世界の全てを知った。世界の記録が、「樹の仔」の記憶が、流れ込んできた。
二人分の、悲しい記憶が。
世界樹はもう一度、盲目の化物へと姿を変えた。
そして世界を、這いずり回った。
やがて動き疲れて、天を見上げると。
「オオォオォオオ」
潰れた目から涙を流し、真っ暗な空へ、悲しい雄叫びを轟かせ。
死の大地の真ん中で、一匹の化物はそのまま静かに枯れていった。