残暑の季節と名残惜しいアイスクリーム
九月とは言え、まだまだ暑い。
むしろ、数日前まで八月だったのだから暑くて当たり前だ。
教室にエアコンはついているものの、三年生教室は暑かった。
三十人を越える生徒が詰まっているのだ。しかも人生で最もエネルギッシュな十代である。人体が発する熱だけで相当量であろう。
「あーづーいー」
何やら学校側で規定があるようで、エアコンの温度は26度から下がらない。
そよそよと申し訳程度に吹いてくる涼風では物足りず、汗をかきかき勇太は呻く。
既にシャツのボタンは外され、豊かな谷間がちょっと覗ける程度には開かれている。
男子たちがチラチラと目線を走らせてくる。
彼らはこの暑さと湿気、そしてちっとも効かないエアコンに感謝していた。
合法的に、美少女のあられもない姿を拝めるではないか。
「うーん……絶対、これって電気代けちってるよね。うち、替えのシャツもう使っちゃったんだけど……」
麻耶もまた、下敷きで顔を仰ぎながら不満を口にする。
彼女も大変なのだが、もっと大事になっているのは彼女の相棒である。
大盛さんはじっと無言でいるが、シャツのあちこちがじんわりと汗で透けて、そりゃあもう凄い有様だ。
男子たちすら、これは直視してもいいものかどうかを悩んでいる。
彼女はぽっちゃりした女子というわけではなく、鍛え抜かれた肉体が結果的に分厚くなっているタイプである。それでありながら、クラス最大級の胸元のボリュームがある。これを包み込む下着の色が透けて見えているわけだから、これはもう視覚の暴力だ。見たら絶対セクハラに問われる。
「むっ」
ついに大盛栄さんがしおしおっと倒れた。
彼女は暑さに弱かったらしい。
「うわー!」
「ひやー!」
クラスがちょっとした騒ぎになる。
教師は慌てて、保険委員の出動を命じるわけである。
「あー、先生、これ、エアコン壊れてますよ……」
異変に気付いたのは郁己であった。
彼はエアコンの風が直接当たる場所を席としている。
クラスにおける特権階級者のようなものであり、そのような席を引き当てる彼のくじ運は、クラスメイトたちの羨望の的であった。
「これはいかんな。業者を呼ぼう。こんなに暑くては授業にならないからな……」
窓が開け放たれる。
むしっとした空気が入り込んでくるのだが、それすら涼しいように感じる。
はて、教室内は何度だったのか。
考えるだけで恐ろしい。
保険委員一人では大盛さんを運搬不可能だったため、
「よーし、勇、栄を運ぶよ。足持って」
「よし来た!」
力自慢の二人、岩田夏芽と金城勇の二人が担当することになったのである。
百八十センチを越える長身であり、体育大への推薦も決まり、さらには国際大会の強化選手に名も上がっている夏芽は、言わずと知れたフィジカルエリートだ。
縦に大きいだけでなく、肉体の中にはみっしりと筋肉が詰まっている。
そして勇太も、可愛らしくふんわりとした見た目とは異なり、大変快活で、しかもパワフルだ。
彼女が豆タンクと呼べるほどパワーがあることを、既にクラスメイトの誰もが知っている。
かくして、三年二組のパワー担当二人が、もう一人のパワー担当である大盛さんを持ち上げた。
「うーむ。軽々と持ち上げたな。あれはもう女子のパワーではない」
思わず呟いた下山を、麻耶が斜め後ろからノートを丸めて叩いた。
「下山、デリカシーなーい。そんなんだからモテないんだよ」
「な、な、なにぃっ!! そういう彦根だってお前ずっとシングルのくせに!」
「う、う、うおーっ! あんた、言ってはならんことを言ったなあー!」
むきー! と教室の一角でバトルが勃発する。
この暑さの中で大変元気な人々なのであった。
保健室に到着である。
扉をガララッと開けると、涼しい空気があふれ出してくる。
「やあいらっしゃい。熱中症みたいだね」
養護教諭は男のような話し方をする女性だった。
彼女はフォックス型メガネをきらりと光らせ、てきぱきと大盛さんに処置をしていく。
「まだ軽度でよかったよ。涼しくして、水分を取ってここで休んでいかせるといい。二人ともお疲れさま」
「あのー」
勇太がちょっとニヤニヤしながら切り出した。
大盛さんが無事で安心したらしい。
「ここ、すっごく涼しいんで、ちょっと休憩していっていいですか?」
「うんうん。私らも、すっかり汗だくになっちゃったんで」
「おお、それは大変だ。使い捨ての紙タオルで汗を拭きたまえ」
養護教諭の好意で、大盛さんのベッドの近くで休憩となった。
「面目ない……」
意識がはっきりしてきた大盛さんがうなだれている。
彼女はとある理由で、よく勇太の家の道場にやってくるから、他人と言う気がしない。
勇太は彼女を、
「いいってことよ! きにしないで!」
と、ぐりぐり頭を撫でた。
並ならぬ柔道家としての腕を誇る大盛さんに、こんなアクションが出来るのはクラスでは勇太くらいしかいない。
大盛さんからすると、勇太は合気道を使う、自分以上の実力者なので、ここは目上への敬意でされるがままになっている。
二人で何度か乱取りをやってみたが、大盛さんは勇太から一本も取ることが出来なかったのである。
「勇がそうやって元気なのに、私がダウンするとは。やはり未熟……」
最近柔道を再開した大盛さんである。
だが、彼女は熱を発する筋量が他の女子よりも多いので、仕方ないところはあるかもしれない。
「栄ちゃんも胸元だーんっと開いて涼めばよかったのに」
「そ、それはちょっと……」
「暑さよりも恥じらいを選ぶか……。乙女ねえ」
夏芽が何やら勝手に納得している。
そこへ、養護教諭の声がかかった。
「おうい、お三方。まったりしているならこれの処理に協力してくれないかな。私は甘いものが苦手なんだが、二年生の保険委員が差し入れてくれてね……」
「そ、それは……!」
勇太が目を輝かせた。
養護教諭は冷凍庫を開けるなり、そこから小さなバケツ大の容器を取り出したのである。
燦然と輝くブランド名、『ハーゲンティダッツ』。ソロモンの小悪魔がモチーフの、高級アイスだ。
これには、さっきまで意識朦朧の大盛さんも、普段は栄養バランスを管理された食事に勤しむ夏芽も唾を飲み込まざるを得ない。
濃厚な乳脂肪のコクと、人工甘味料を使わない、上品かつ心を蕩かせる甘み。
あれだけのサイズとなれば、二千円は下るまい。
高校生がおいそれと買ってむしゃむしゃ食べるには、勇気が必要なお値段だ。
「フフフ……」
養護教諭は、女子たちの反応を楽しみながらアイスクリームを、たっぷりと容器に盛った。
「おおおお」
「ああああ」
「うううう」
もう、三人は言葉にならない言葉を発する他ない。
かくして、冷菓の宴が始まった。
ちなみにこの養護教諭、後に聞いた話では、郁己の姉である綾音さんの大学の先輩だったんだそうで。
新しい縁が出来たりする、残暑の新学期なのだった。