向かうは遠浅の海
大きなシャチのビニールボートである。
既にレンタルショップで、膨らませたその巨体。担ぐのは男たち。
「ひい、ふう」
明らかに体育会系ではない、この中で最年長の男子大学生。町田春彦氏は大変辛そうな様子である。
シャチの大部分は、高校二年生にして堂々たる体躯の、龍が担当しているのだが。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ、うん。まだ頑張れるっ……! うわーっ」
細い腕でガッツポーズを取ろうとして、バランスを崩してシャチに潰されかける春彦氏。
龍は慌てて巨大なボートをがっしりと持ち上げた。
「龍にいちゃんすごーい!」
真下ではしゃぐのは遥の弟の陽。
この場にいる男子メンバーの一人なのだが、さすがに小学二年生にこれを持たせる訳にはいかない。
龍がちらっと目線をやると、そこにはこの場で二番目の膂力を有した女性が、知らんぷりを決め込んでいる。
ばっちり、体型を強調するビキニと大人びたパレオで決めている、彼の姉たる由香である。
「姉貴ぃ……」
「だって、この姿でシャチなんか担いでいたら、怪力女みたいで格好悪いじゃない?」
「いやあ、あんた結構な怪力だろう」
「なんのことかしら。さあ、行こうか遥ちゃん、陽くん」
「え、あ、はい」
「はーい!」
海用に新調してきたというメガネの遥。レンズの奥の目が、心配そうに一瞬龍を見た。
男の矜持というやつである。龍は問題ない、とばかりにうなずいてみせた。だが姉は許さん。
「りょ、龍くん、僕は置いておいて、彼女と遊んできたまえ……」
「あ、いえ、あいつは出来たやつなんで待っててくれますから。それより大丈夫っすか? ゆっくり行きましょう」
この状況で俺に任せて先に行けとは、この春彦氏、やせ我慢ではあるのだがなんと男らしいのか。
龍はこのモヤシな青年が気に入った。彼を見捨てることは出来ぬ。
ということで、二人でえっちらおっちら、のんびりと運んでいく。
砂浜までは大した距離ではないのだが、随分時間がかかった気がした。
ざぶーん、と大きなビニールボートが海面を打つ。
「わはー!」
「そら、乗り込むわよー!」
由香と陽が我先にとボートに搭乗である。
どちらが年下なのかわからない有様だ。
情勢学園亜香里野キャンパスの人々がこんな姉を見たら、きっと目を丸くする事だろう。
そう、こっちが彼女の素だ。
「ぐふう……ぼ、僕はもう駄目だ」
ボートの後ろの方にへばりつき、春彦氏が崩れ落ちた。
「先輩お疲れ様。後は休んでていいですよ」
死力を尽くした先輩へのねぎらい。まあ、ねぎらうだけマシだろう。由香はそれなりにこの頼りない先輩に好感を持っているようだ。
龍は先にボートに上がり、遥かに手を差し出した。
「ほら、来いよ」
「うんっ」
遥の指先が、龍の手のひらに乗る。
うむ、ペンタブを使うことでできるペンだこがある手指である。漫画家の手だ。
この日遊びに来るために、速攻で今週号の原稿を終わらせた遥である。
ちょっと寝不足でふらふらしていたようだが、行きの車で少し寝たせいか、今は顔色がいい。
「あっと……!」
波に揺られてボートが傾ぐ。
遥がバランスを崩して倒れこんできた。
無論、龍が危なげもなくキャッチする。
誤算は彼女が、今は裸に薄布一枚の水着姿ということであろう。
「うおっ!?」
細身ながらも柔らかな感触を受けて、龍は呻いた。
遥は龍にしがみつくような姿勢で、なんとか乗り込む。
そして、
「うわあ、龍の胸板厚い……! また筋肉ついた?」
「き、鍛えてるからな」
「あっ……そ、その、ごめん……! す、すぐどくからねっ」
「むおっ」
思わず若々しい反応をしてしまっていた龍のとある箇所。
太ももで挟みこむように乗り込んでしまった遥は、真っ赤になって、彼のすぐ隣に腰を下ろした。
龍が何やら、呼吸法にて息を吸い吐きしている。心を落ち着けているのだ。鎮まれ、鎮まれ我が肉体よ。血潮よ。
「準備はいいかしらお二人さん?」
「龍にいちゃんとにいちゃんがアッチッチー」
「こぉら、陽ったらぁ!」
怒る声も可愛らしい。
陽も段々、生意気盛りになってきたようだ。
プラスチックの櫂を使い、遠浅の海へと漕ぎだすボート。
遊泳禁止区域にはブイが浮かんでいるからわかりやすい。
その結構手前くらいが、浅くなっているようだ。
子供がキャッキャと走り回っている。
近づくボートに気づいたのか、その子供がこちらに走り寄ろうとしてきて、深みにズボッとハマった。
「おっと」
躊躇なく、由香が海に飛び込んだ。
一瞬で子供の体を抱き上げると、水面に上がってくる。
思っていたよりも深かったようだ。
子供はきょとんとした顔から、途端に由香の胸元にしがみついて泣き出す。
「あっ、いいなー」
陽が羨ましそうな顔をした。
小学二年生にして立派なおっぱい星人の資格を見せ始めている。
遥は由香の動きに、流石と感心しながら、ちょっと弟の先行きが心配になった。
迎えに来た親御さんにお子さんを返しつつ。
ボートは浅瀬に乗り上げた。
「見ての通り、ちょっと油断すると危ないところもあるみたいねえ。気をつけてねー」
「僕は泳げるからだいじょうぶ!!」
陽は自信満々である。
ちなみに遥は泳げない。
龍のレッスンを受けたが、基本的に水に顔をつけるのが大変苦手なのである。
「ほら、先輩も起きる」
由香にほっぺたをぺちぺちされて、ぐったりしていた春彦氏が上体を起こそうとした。
「う、うーん」
船べりから身を乗り出していた由香の胸元にぶつかるように起き上がる。
「あっ!!」
「おおっ」
龍は瞠目した。姉の豊かな胸元に、ちょうど顔面が当たる形になるとは……。
あの男性、ラッキースケベの才能がある。
「……」
由香が無言でボートをひっくり返した。
「ぐわーっ!!」
海に落ちる春彦氏。
あの二人、いつもこういうやり取りをやっているのかもしれない。
あれはあれで楽しそうだ。
「よし、遥。何して遊ぶ?」
「うーん、そうだね」
きょろきょろと足元を見回す遥。
遠浅の海は、少し行けば深くなっている。
だから、足元には小さな魚がまとわりついてくる。
するりと足の間をくぐりぬける感触がくすぐったい。
「僕はこうして、浜辺の方を見てるだけでもたのしいかなあ」
ゆっくり、浅い水底に腰を落ち着けていく。
押しては引いていく波が心地よい。
ちょうど、腰から下が沈むくらいの深さだった。
「そうか。じゃあ、そうするかな」
龍もうなずき、腰を下ろそうとして……。
「ていっ」
後ろに近づいてきていたものに向かって、足を振り下ろした。
震脚である。
一瞬、水面が垂直に爆ぜた。水底があらわになり、そこに顔を出したのは1mほどのサメ。
「ほっ」
サッカーボールでも蹴るような要領で、龍はそれを蹴り飛ばした。
軟骨魚類が空を飛ぶ。
ちょっと向こうで着水した。
ぷかぁ、と脇腹を見せて浮かび上がる。気絶したようだ。
「りょ、龍……」
「いや、サメがな」
「あれはネコザメの仲間だから無害だよ……」
「えっ、サメってみんな人を喰うんじゃないのか!」
思わぬところで天然を露呈した彼に、遥は笑い出してしまうのであった。