こ、これが五月病……!
「うあー」
「なんだなんだ。板澤が死んだ魚みたいな目をして突っ伏してるぞ」
「さっきから瞬きしてないよな」
一年三組教室。
死んだように倒れこんでいるのは板澤鈴音である。
夜鳥一弥は彼女に近づくと、頬をつついた。
「うー」
うめき声は出る。
だが、動かない。
登校して来てからずっとこうである。
本日は、GW明けの初日。
連続した長い休みで体もなまっており、一弥たちも本調子ではなかった。
だが、これほど本調子ではない生徒がいるだろうか。いや、おるまい。
「これは重症だな……」
「おーい、板澤、板澤ー」
「うーうー、だるいー」
「これは……荒療治しかないな。よし、一弥」
黒金淳平が一弥の肩をぽんと叩いた。
「スキンシップで目を覚まさせてやるんだ」
「なっ!? なんで俺がやるんだよ!」
「……僕がやったらセクハラだろう……!!」
今現在、女子の肉体を持ち、女子制服に身を包む一弥と、どこからどう見ても男子で男子制服の淳平。
「しかし俺は来年は男子になっている予定だぞ……!」
「今はセーフ! セーフ!!」
なんだか勢いで押し切られてしまった。
周囲の女子たちも、一弥は今のところ女子、という扱いでまとまっている。
それゆえか、むしろ面白がっているのか、みんな遠巻きに彼らのやり取りを見つめている。
「くっそ、なんで俺が……。お、おーい、板澤ー」
念のために声を掛けてみる。
だが、GW明けの彼女はゾンビのような声を返すばかりだ。
「これはもしや、五月病……」
もうじき教師がやってきて、朝のショートホームルームが始まってしまう。
鈴音をこのままにしてはおけまい。
「ええい、ままよ!!」
一弥は火照る頬を感じながら、指先を伸ばした。
彼の指先が、鈴音の柔らかなわき腹に突き刺さる。
「ぎゃわっ!!」
反応は劇的だった。
鈴音は座った状態からいきなり飛び上がり、吹き飛んで隣の椅子を巻き込みながら倒れた。
「うおおおおお! い、板澤大丈夫かーっ!?」
「ぎゃああああ、頭打った! 肩打ったー!」
わき腹をつつかれたくすぐったさに仰け反ることはよくある。
だが、これほどまでのオーバーリアクションはなかなか無い。
一年三組、おおいに盛り上がる。
どこからも鈴音を心配する声が聞こえてこないのは、この一ヶ月間の付き合いで、彼女がどれだけ頑丈な少女なのかが周知された結果である。
一弥が助け起こすと、案の定、鈴音は怪我の一つもなくピンピンしている。
「あのねー! 乙女の肌に傷がついたらどうするのよー!」
「板澤普通に頭から倒れてたのに、傷のほうを心配するのか」
「頭はちょっとくらい馬鹿になっても見た目じゃわからないでしょ?」
「あ、だめだこいつ」
一弥にとって鈴音は憎からず思う特別な女子なのだが、彼女がおばかである事は厳然たる事実である。
鈴音との意思疎通をそっと諦める一弥。
「それにしても、板澤はなんであんなにぐったりしてたんだ? 五月病?」
「そうそう! まさにそれよ!」
何やら今までの無気力さとは180度反転したハイテンションで、鈴音がびしっと一弥を指差す。
「四月で色々あってさ、もう超びっくりする事ばっかりじゃん? ほら、一弥が女だったこととか、握ったら本当に無かったこととか!!」
「それは言うなよう」
「それでいきなりゴールデンウィークじゃん! そりゃもう気が抜けるよー。あ、うちのお姉ちゃんは受験勉強で殺気立ってたけど」
つまり話を聞くに、受験に挑む姉を他所に、年頃の女子がひたすら家で惰眠をむさぼっていたと。
食っちゃ寝、食っちゃ寝の自堕落ライフを送っていたらしい。
「お前さー。太るって、それは」
「そうそう、そうなのよー」
難しい顔をして鈴音が頷いた。
「全部胸に来ちゃってさあ」
この瞬間、クラスの視線が鈴音に集中した。
男たちは無言で振り返り、横目になり、目を見開いて同級生の制服を押し上げるふくよかな膨らみを凝視する。
女たちは衝撃に目を見開き、怒りと嫉妬とやるせなさを含んだ視線をこの同級生にたたきつける。腹に!! 脂肪が腹につかないのか!! なんだそれは!! そんな無法が許されると言うのか!! おお神よ!! どうしてあの女の脂肪は腹回りや首や顎周りではなく胸に付くのですか!! おお神よおられないのですが!!
なんだか女子たちがかもし出す雰囲気が鬼気迫るものになってきた。
淳平、背筋が薄ら寒く感じ、慌てて一弥と鈴音から距離を取った。
一弥はというと、一瞬鈴音の言葉が理解できない。
しばらくして、目線を落として……確かに四月よりもちょっとサイズアップした気がするそれを見た。
誰が見ても分かるほど、一弥が真っ赤になる。
「なっ、なななななななっ!? おおお、お前、板澤なにいってるんだよお!?」
この瞬間、クラスの視線が一弥に集まる。
男たちは、彼が元々男である事は知っているものの、今はすらりと背の高い可愛らしい女子である。胸だってそこそこあるし、この純な仕草は女子にはなかなか見られないものだ。自分はノーマルだがこれってひょっとして可愛いんじゃないか。ありなんじゃないか。むしろ新しい世界に目覚めそう……。
女たちは、彼が元々男である事を知っているからこそ、この純粋な反応にニヤニヤ。恋バナの香りを感じて二人の行く末を見守りたい気分。だが相手はあの板澤鈴音なので多分だめだろうなって。
つまり概ね一弥には好意的な視線が注がれたわけである。
むしろ彼はクラスのマスコットみたいな存在になってきているのかもしれない。
「はあ? 何がってもう、おっぱいよ! おっぱいが大きくなったって言ってるの! ほら!」
「ほらじゃねえよ! 制服めくるなよばか!?」
「何がばかよー!! ばかって言ったほうがバカなんだからね!?」
ぎゃあぎゃあやり始めた二人。
このやり取りが、入室してきた教師に注意されるまで続く事になる。
「うん、まあお似合いなんじゃないかな」
淳平は誰とも無く呟いたが、これは概ね、クラスの総意だったりするのである。
ともあれ、板澤鈴音の五月病はきれいさっぱり消し飛んだようだった。