模試予告は戦場の香り
「月末に模試をやる」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
和田部教諭の宣言に、クラスのあちこちから驚愕と戸惑いの声が上がる。
これでも、今年度受験を控えた高校三年生のクラスである。
クラスの大部分がのんびりしているのだ。
「大丈夫だぞ。昨年度の試験問題を参考にした実践さながらの一日かけたテストだからな。これでいい点取れれば自信を持っていいぞ!」
「いや、あの、どこが大丈夫なんですかあ」
麻耶の悲鳴がみんなの心を代弁する。
一日かけて試験!?
通常のテスト週間は、一日二教科から三教科で半ドンになるけれど、これはつまり朝から夕方までやるということだ。
なんだろうその恐ろしいテストは。
「うむ……俺はな。このクラスがちょっとのんびりし過ぎていたと今更ながらに反省しているんだ」
しみじみ、和田部教諭は言う。
「この俺ですら、すっかり今年みんなが受験生だということを忘れていたんだ……」
おいおい、と内心で突っ込む生徒が数名。
だが、確かにこの三年二組があまりにもまったりし過ぎていたことは確かだった。
やる気がある人々はみな特進クラスに行ってしまっているので、残る生徒たちは大抵エンジョイ派なのである。
まあ、何事にも例外はいるのだが。
「おっ、いよいよ模試か。楽しみだな」
「ええっ、郁己、ちょっとその言葉は正気を疑うよ……!」
勇太の言葉に、郁己はにんまりと笑って見せた。
「何のために今まで力を蓄えてきたと思っているんだよ。今こそ日頃の努力の成果が出る時だろ」
「いや、その、私、あんまり努力してないかなーって。特別講習くらいしか受けてないし」
「なるほど……。では、久々にやるか」
「久々と言うと……泣いたり笑ったりできなくなるあれですか」
「そうそう」
実に三年ぶり。
郁己によるスパルタ式家庭教師の開始であった。
「それじゃあ、やろうか」
「はっ、お願いします」
勇太の部屋は座敷である。
そもそも金城邸は平屋で、道場を有する日本家屋。
廊下の板の間は床暖房を内蔵してはいるが、一見すると純和風の家なのだ。
畳の上で向かい合った二人が、一礼した。
「これは、俺が勉強するに当たって作ってるノートだ。今日はこいつを問題形式で作り直して持って来たぞ」
「おおー!」
ぴらりと手渡された一枚のプリント。
表計算ソフトで作られたそれは、お手製とは思えぬクオリティである。
「では、時間は実戦形式で行くぞ。40分だ」
「えっ、この問題数を!?」
「よーい、スタート!」
「ひいー」
必死になって問題に向かう勇太。
テストの内容は特別講習に即したものなのだが、見事に記憶からすっぽ抜けているのを痛感する。
これはいかん、実は講習内容を覚えてないぞ、と嫌な汗をかきながら勇太は実感した。
「そこまで」
「うひい……だめだあ……」
背中からばったり倒れこむ勇太。
「むむう、仰向けになっても形が崩れない……!!」
何か郁己が凝視しているが、気にしている余裕も無い。
「郁己、なんかさあ、習ったはずのところ、全然分からなくなってるんだけど……!」
「お、おう。まあそんなもんだよ。一度習っても、一時間後には結構忘れてるし、翌日なんかかなり歯抜けになってる。復習やってる?」
「ぜんぜん」
「さらっとおさらいでいいんで、講習が終わったら内容を一通りその日の内におさらい。あとは朝とかさ、時間を見つけて二回くらい目を通しておくんだ」
「ほへー」
復習と言うのは大事だったのかー、と目からうろこが落ちる思いの勇太。
昔の脳筋状態から、大分マシになったとは言え、まだ平均点は真ん中より下である。一時期ぐぐーっと上がったのだが、またゆるゆると下がってきている。
「よーし、俺がみっちり教えてやろう」
勇太を起き上がらせると、郁己はノートを開いて真横にやってきた。
なんか近い。
とっても距離が近い。
勇太はちょっとドキドキした。こうして二人きりで間近で、しかも密室にいるのって、久しぶりじゃないだろうか。
目の前には、郁己のノートが開かれている。
乱雑に殴り書きされたノートと、もう一冊は同じ内容が整理整頓され、分かり易く書き直されたノートだ。赤いペンで注釈も付いている。
「ここまではやらなくていいけど、ノートに集中すると今度は頭に入ってこないからさ。書いたことに満足するんじゃなくて、書いたものを飲み込む意味で清書するのが俺のやり方で……おっ! 柔らかい!」
肘が胸に当たって、何やら郁己のセリフが理性から感情の方向に振り切れる。
「ち、ち、近い近い。郁己、近い」
「いやいや、これはあれだぞ。マンツーマンで勉強を教えるには適度な距離感って奴が必要で、今肘が当たって今も当たり続けているのは単純な事故で」
「距離って言うか密着してるよ!? うひー、頭に入んないよ!?」
そこで勇太、郁己がこっちを見ていることに気づく。
ハッとした。
郁己もどうやら、勉強続きでフラストレーションが溜まっているようだ。
気づいていなかった。
それでこの露骨なボディタッチだろうか。
明らかに坂下郁己、正気ではない。
でも、しかし。
これは……もう、流されちゃってもいいんじゃないかな……なんて勇太も思って、二人の顔が近づいていく。
今まで我慢してきたんだし、こんなに付き合いも長いんだし、もうゴールしてもいいよね、的な。
「お茶ですよ」
「ぐわーっ!!」
「ぎゃーっ!!」
飛ぶようにして二人は距離を離した。
その光景を見て、お茶とお菓子を運んできていた心葉。
フーム、と唸った。
「勉強するのはいいと思うのですが、今そういった方向の勉強をするのは受験に差し支えるのでは……いえ、若い情熱は止められませんね。では私はこれで……あとは若い二人でごゆっくり」
勇太と双子なのだから、若い二人も何も同い年の心葉である。
だが、見られてしまった気恥ずかしさから、二人はハッと我に返った。
「勇太、これではいかんと思う」
「うん、私もそう思ったよ! 道場で乱取りして発散しよう!!」
そう言う事になった。
時に若い欲求は、勉学に牙を剥くのだ。
ちなみに、体を動かした後の勉強はそれなりに成果を上げたようである。