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3日後のこと。新たな物語の執筆を始めたは良いが、珍しく出だしから筆が進まない。取り立てて優れたアイデアが思い付くでもなく、書きかけの原稿用紙は次々紙くずと化していった。
鬱屈とした気分はバイト中も収まらず、今日一緒に夜勤に入っている朝霧さんには「なんか連続殺人犯みたいな顔してるよ」と指摘される始末である。
「すみません、ちょっと私生活で上手く行かないことがありまして……」
「あ、ひょっとして小説?頼むわよー、私楽しみにしてるんだからさあ」
肩をぽんと叩かれる。
「は、はい。頑張りますよ、ええ」
三年前、大学時代に何の気無しに書いて応募した恋愛小説が新人賞を受賞してしまい、単行本が売り出された。
朝霧さんは、その受賞作を読んでファンになったクチだ。去年の暮れから俺がこのコンビニで働くことになり、初めて顔を合わせた時は非常に甲高い声で「まぁーーーまぁまぁまぁまぁ」を繰り返しながら抱きつき「えっ、ええ、ホントに?ホントにあの真田亮介なの!?」と涙を流しながら何度も聞いてきた。俺の書いた本が再び書店に並ぶことを強く望んでいる数少ない人間のうちの一人であろう。
41歳の主婦である朝霧由紀江さん。いつもは日中勤務で、仕事場で顔を合わせることは稀なのだが、普段同じシフトに入る小川がバイクの運転中に転倒して入院し、急遽代わりが必要になったと聞いて真っ先に、私がやりますと言ったのだそうだ。
大方、俺と同じシフトに入りたいとかそういうことなのだろうが、普段から個人的に良くしてもらっているし、今回も夜勤の人間が不足しがちな中で率先して入ってくれたりと、非常にありがたい人である。
「それはそうと良かったんですか、突然夜勤に入ったりして。お体に障りませんかね」
「良いのよ、少しくらい。お昼は人手が余ってるし、私が夜勤に入る間、お昼の仕事は他の人に任せてるから」
「そうですか。いや、ありがとうございます、本当に助かります」
「気にしなさんな。私も真田くんと一緒に働くの楽しみだったから。あ、そうだ。小説のネタに困ってるなら私手伝うわよ。アイデアっていろいろあった方が役立つでしょう?」
あはは、と中身の無い笑いを返す。俺自身、口数はそれほど多くなく他人と会話することも得意ではないから、おしゃべりの好きな朝霧さんと一緒にいる時は聞き手に回ることが多い。今日も、掃除や品出し、接客の合間はそうやって時間を潰していた。
気が付けば1時を回っている。
「もうそろそろ終電ね。この時間過ぎたら、お客さんもほとんど来ないでしょう」
「ええ、こんな時間に出歩く奴なんてそうはいませんからね」
ふと、3日前に来店した金髪女のことを思い出した。確かあの女が来たのはこのくらいの時間だったか。
「…………」
なぜだか妙な胸騒ぎがした。少し鼓動が早くなったように思う。何事も起こらなければ良いが。最終の電車が動き出す音を裏から聞きながら、それを切に願っていた。
「いらっしゃいませ、こんばんは」
ほどなくして、スーツを身に纏った男が店に入ってくる。えらく疲れ果てた顔から察するに、こいつは相当遅くまで残業していたのだろう。ご苦労なことだ。
男は早足で店内を回り、整髪料と飲食物をいくらかカゴに入れて持ってきた。
「お会計は……」
財布を開く男の手元を見て、心臓が高鳴った。褌一丁につんつる頭の奴らがいる。姿を見たのはあの女以来だ。
よく見ると、ズボンにも湧いている。男の腕にしがみついたりよじ登ったり、動きは様々だ。
「……ん?どうかしたんですか」
間抜けな声で質問してきた。ああ、こいつもおそらく奴らの存在を認識していない。
「失礼しました。お会計は1,919円になります」
千円札を二枚受け取り、レジから81円を取り出して手渡す。
「ありがとうございました、またお越しくださいませ」
退店していく男の背中を見ると、相当な数の奴らがへばり付いていた。詳しくはわからないが、十数体はいる。以前見た奴に比べて明らかに多い。
あれ、大丈夫なんだろうか。このまま放っておいたらあのおっさんも……。
「真田くん……、真田くん。大丈夫?」
「えっ」
朝霧さんに呼びかけられて我に返る。
「なんか思いつめたような顔してるから……。それに、すごい汗よ。体調悪いんじゃないの?」
「い、いえ……」
朝霧さんは俺を心配していた。店内は十分すぎるほどクーラーが効いている。それに、今は気温も高くない。確かにこれでダラダラ汗を流していたらタダ事ではないと考えるだろう。
実際、タダ事ではないかも知れないのだが。このまま何もせず、明日の朝テレビであのおっさんが変死体で発見されたと報道されたらさすがの俺も寝覚めが悪くなる。
「あっ!お釣り渡すの忘れてた!すみません、ちょっと追いかけて渡してきます!」
俺の目にしか映らないアレが、連続変死事件と結びついているとは考えたくなかった。が、それならそれで無関係であると確認すべきだろう。
そこで、適当な嘘を吐いて男の後をつけることにした。
「ええ?早く戻ってきてね?」
ごめん、朝霧さん。ちょっと時間かかるかもしれない。
先日うちの店を訪れた女の遺体は、西舞子2丁目の交差点付近で見つかったそうだ。店からなら徒歩でも10分弱程度で到達可能。件の女が家路に就く最中に体を動かすことが出来ない状態に陥り、仮に奴らがその事件に関係があるとするなら、今からそう長い時間が経たないうちにあのおっさんの身にも何らかの異変が起こるのではないかと俺は考えた。
コンビニを出て左手にはJR舞子駅がある。が、営業はすでに終了しているので構内の明かりは点いていない。男は、舞子駅に隣接する自転車置き場の脇を進んでいた。常夜灯に照らされて、奴らも男の背中を這い回っている。遠目に見てもわかるほど、黒いスーツは奴らの色に侵食されていた。コンビニから出て行った時よりも明らかに数が増えている。
男は舞子駅前交番の前を通る。中にいた警官は男を一瞥するが、気に留めることも無く机の上に置いてある何かの書類に視線を戻した。俺から見ればどう見ても様子がおかしいのに、何も知らない奴は実に呑気だ。
舞子駅とクロスする高架道路をくぐり、松林に囲まれた舞子公園の遊歩道に足を踏み入れる頃には、男は奴らに覆い尽くされていた。これは、見えていようがいまいが知らせるべきだ。
「あ、あの……」
そう思い、たまらず声を掛けると、わさわさと絡みあうような音の中から、覇気の無くなった声で「はい」と返ってきた。振り向いたのだろうか、全身奴らに集られ、もう顔すら見えない。俺の目にはかろうじて人の形を留めて見えた。
「大丈夫ですか……」
俺の問いに対し、男はボケた老人の寝言のような声で返事をする。それはもう、言葉にすらなっていなかった。直後、奴らが覆い尽くしている人型の物体はバタリと横たわり、男の声も聞こえなくなった。
「おい、おいっ、おっさん!あんた大丈夫か!しっかりしろ!」
慌てて男の上半身を抱え、奴らを手で振り払っていく。ようやく見えた男の目は虚ろで、口から涎を垂らしていた。顔を手で叩いたり、時折耳元で声をかけるが、残念ながら反応はない。一体どうすれば……。
途方に暮れていると、今度は俺の体に奴らが集ってきた。
「くそっ、なんで俺にまで……!」
俺とおっさんの周り、半径2メートルくらいに奴らが群がっている。一体どこから湧いて出てきたのか、何百体いるのか、冷静に考える余地などもう無い。無我夢中で奴らを振り払うが、その振り払った手を伝って首元までよじ登り、服の中にも潜り込む。
「くそっ!やめろ、湧いてくんな!!」
奴らは、顔についているバツ印の口からタコの足のようなものを出して、更に俺の体に絡みついてきた。こうなると、振り払ったくらいでは剥がすことはできない。
「離れろ、離れろ、離れろっ!」
そう連呼しているうちに、徐々に俺の意識が遠退いていく。じたばた動いていた疲れなのか、はたまた他に要因があるのか、体も重くなり、満足に動かせなくなっていた。
体を支えるだけの力が無くなり、膝を付く。もう顔を上げることが出来ない。そのまま地面に横たわる。
頭痛がひどい、目眩もする。
俺も、今目の前で倒れているおっさんのようになってしまうのか。
嘘だ、そんなことになってたまるか。
こいつらを振り払わなきゃ。
こんなところで変死体になるわけにはいかない。
しかし、もう体は動かない。聞こえるのは奴らが俺の体にわらわらと群がる音だけ。
意識が途切れる、そんな中で、俺に何かが振りかかったような、そんな感覚があった。