汐見留美の過去
汐見留美はごく普通のサラリーマン家庭として育った。
兄弟はいなく、とりわけ何かうるさく言われるわけでもなく、過度に接されるわけでなく、留美は「家庭とはこういうものなのだ」と思っていた。クラスメイトたちが話す『おかあさん』や『おとうさん』は私の母と父とは違うのだな、とやんわりと理解出来たのは小学校の高学年に上がる頃であった。その頃から母は違う男と交際を始めていることに気が付いた。父がうるさく言わないのは外で女と会っていてそちらに気を回しているからだということに気付いた。ネグレクトというわけではない、が、機能不全家族と呼ばれるであろう家庭で留美は育った。
留美はその頃から高校生になったら別の場所に行こう、と決めていた。本当は私立受験をして遠方の寮にでも入ろうかと思ったが、今から私立受験用の勉強をするには遅く、高校生にもなれば一人で過ごすことも認めてくれるだろう、そう思っていた。
中学二年生の秋、進路希望に他県の学校名で提出した。それを見た母は猛烈に反対した。留美はその時になって初めて母に怒りを覚えた。自分は他の男とこそこそ逢引しているくせに、よくも私に母親ヅラを出来たものだ。淡々とそのような旨を伝えると、留美の母の顔は真っ青になり、そのまま車でどこかへ行ってしまった。それ以来母とは顔を合わせていない。
父は日に日にやつれていった。途端に白髪が増え、家にいることも増えた。女とは別れたのか、受験を控えた一月ほど前に気まぐれで訪ねた。素っ頓狂な顔をした父はとても40代には見えない。どこかの駅で寝泊まりしているホームレスのようだった。
この人たちは何を思って私という人間を作り出したのか。
その問いは留美の思考を蝕んで行った。
当初の予定通り、目的の学校の近くに部屋を借りた留美は入学前にも関わらず卒業式が終わった翌日そのまま引越しの手続きを終わらせ、その名の通りとても寂れてみえる『木枯らし荘』に引っ越し屋が後日運んでくれる荷物以外の衣類などを持って訪れた。父は仕事に行っていたので顔を合わせずに済んだ。一応父の金で暮らしているのだから、娘としては最低限の接し方で過ごしたが、父は怯えるようにこちらを伺うだけであった。
実に晴れやかな気持ちだった。管理人の男性に挨拶をする。管理人というからには父と同じくらいの年齢か、それよりもっと年上かと思っていたが、見たところ20代にしか見えない。やけに若々しい、そして少し柄の悪そうな青年であった。突然現れた留美を訝しむように睨みつけていたが「引越し予定の音無です」と伝えると「管理人の猪狩です」とひょい、と頭を下げた。
「まだ引っ越し予定日じゃないはずだけど」
「そうですね、もう業者からは越せる状態だと伺っていたもので、来てしまいました」
「はぁ……親御さんには伝えたのか」
「ええ、まあ」
にこやかに嘘をつく。嘘を付くことに抵抗を憶えていないので、留美の顔には微塵の迷いもなかった。
それでも管理人・猪狩はなんとなしに勘付いていた。この少女はどこか訳ありだな、と。
「なんでまた今日にしたの」
遠回しの疑り。
留美は少しの間迷った。なぜ、今日か。早く越して来たかった。それもある。だけど……。
「天気が良かったので」
口から出たのはそんな言葉だった。
主に学生や独り身の下宿人が多いらしいこの木枯らし荘では、規定の時間になると猪狩か他の暇を持て余した下宿人が食事を作るのだという。適当にパンでも食べて過ごそうとしていた留美には好都合だった。食べられれば、さほど味には気にしない。好き嫌いも特にないのでその日に振舞われた料理も出された分だけ平らげた。
「もっとマシなもん作れよ」
「だって今日くるなんて知らなかったんだよ……」
別に気にしなくても良いのに、と思いつつ、少し慌てた様子の今日の料理当番である下宿人の女を横目で眺めた。
キーマカレーに添えられたアボカドを噛み締めてから「ご馳走様でした」と席を立った。台所で自分の分の皿やスプーンを洗い、自室へ戻る。
春先だからかまだ夜は冷える。ストールを羽織り、レンジで温めたチャイラテを飲みながら先週買った文庫本を開いた。適当にかけたチャイコフスキーが部屋に響く。
『雲はどこへ流れ、どこへ行き着くのか』
その一文だけがやけに頭にこびり付いて、離れない。