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夏と冬の百合  作者: m8eht
6/6

6 夏と冬

 ふと気付いたことがあった。それは、夏夜さんはあの日、なにかを変えたかったんじゃないかなってこと。行き場のない想いや、どうしていいのかわからない日々の中で、なにかが変わればいいって、そんな漠然とした期待を持って私の家に来たんじゃないかなってこと。

 だとしたら、あのとき、私はどんな役を演じたんだろう? 私はあのときの言葉を後悔していなかった。言えてよかったって心から思った。そして私は待った。私と夏夜さんの関係が変わる日を。そして、その日は来た。


 それは冬の日だった。冷たい風が吹いて、厚い灰色の雲が空を覆っていた。予報では夜から雪になるみたいだった。その日は土曜日で、私は朝から自分の部屋にいて、ぼんやり窓の外をながめていた。午前十一時を少し過ぎたころ、電話が鳴った。それは夏夜さんからだった。

「……あ、冬華ちゃん?」

「はい」

「これから会える、かな?」

「いいですよ。どこに行けばいいですか?」

 私たちは駅前の時計塔の前で待ち合わせをした。それから私は、お母さんに今日のお昼はいらないと言い、テレビの前に寝そべるお父さんからおこづかいを巻き上げて、家を後にした。

 時計塔の前に彼女はいた。紺色のコートを着て、首には濃い緑色のチェック柄のマフラーを巻いていた。私の姿を見つけると、片手をあげてゆるく手を振った。

「おまたせしました」

「ううん、私もいま来たとこ」

 寒さのせいか、彼女のほおや鼻の頭が赤くなっていて、なんだかかわいらしかった。

「お昼、もう食べた?」

「あ、いえ、まだです」

「それじゃ、まずはお昼ごはん食べよっか」

 私たちは街の大通りの方へと歩いた。街には大勢の人が歩いていたから、私はなるべく邪魔にならないようにと自分に言い訳しながら、夏夜さんにぴったり寄り添っていた。

「ねえ、さっき、時計塔の前の……」

「はい?」

「デートの待ち合わせみたいだったわね」

 冗談めかしてそう言って、彼女はにこっと笑った。私はそんなことを言う夏夜さんの左腕をそっと両手で捕まえて、彼女の顔を見上げてみた。彼女はなにも言わず私にほほえんで、私に左腕をあずけたまま歩き続けた。


 映画館から出たときには、空はもう真っ暗になっていた。映画館の前の広場。色とりどりのイルミネーションの中をたくさんの人が行き交っている。私の半歩前を歩く夏夜さんは、なにか考え事をしているような表情で、その足取りは目的地を定めずにただ歩いている人のそれによく似ていた。そのとき、ふと風が止んで、彼女は立ち止まった。

「あ、雪……」

 彼女が空を見上げ、つられて私も空を見た。雪がまるで桜の花びらのように舞い降りてくる。

「寒いね……」

 夏夜さんが左手をそっと私に寄せて、私たちは手をつないだ。

「ねえ、私の家、くる? 今日は誰もいないの……」

「……はい」

 夏夜さんはうつむいたままで、私のほうを見なかった。


 バスを降りて、私たちは雪の降る住宅街の中を手をつないで歩いた。一軒家の建ち並ぶなかで、ぽっかりと灯りのついてない家があって、それが夏夜さんの家だった。玄関を入ると、ふわっと夏夜さんの家のにおいがした。

「こっちよ」

 暗闇の中に沈みこんだようなリビングを横目に見ながら、私は階段をのぼった。そして私は、初めて夏夜さんの部屋に入った。そこは木製の家具と落ち着いた色でまとめられた部屋だった。部屋の中を見回して、ふと天井に違和感を覚えて上を見た。天井には、ところどころ、うすみどり色の半透明のシールが貼ってあった。

「ああ、これ?」

 私の視線に気付いた夏夜さんが、ほほえんで言う。

「蓄光塗料のシールよ。電気を消すと光るやつ。子供のころに貼ったの」

 手を伸ばせば届きそうな気がする星形のシール。誰かに肩車された小さな夏夜さんがひとつひとつ貼っていく光景が頭をよぎった。

「楽にしててね。いま飲み物を持ってくるから」

 私は用意されたクッションの上に座って、ほっと息をついた。ちょっと疲れていた。でもそれは、とても心地の良い疲れだった。今日のことを思い出してみる。イタリアンレストランでスパゲッティ相手に苦戦する私を優しいまなざしで見つめる夏夜さん。映画館でひじかけに置いていた私の手に自分の手を重ねる夏夜さん。きょう一日、私はしあわせだった。そしてこれから、何が起こるのかは分からなかったけれど、私はそのときを待っていた。

 ふと勉強机にある写真立てが目に入った。近づいて見てみると、それは陽光台高校の合格発表の日にとられた写真だった。桜の木の下に笑顔のお姉ちゃんたちがいる。私もその写真の中にいた。お姉ちゃんたちのそばに立って、遠慮がちにピースしていた。

「懐かしいでしょ?」

 振り返ると、おぼんに二人分のカップを乗せた夏夜さんがいた。

「陽光台に受かったときの写真」

 夏夜さんは、背の低いテーブルの上にカップを並べていく。私はクッションに座って、そのカップを手にとってみる。それはあったかいココアだった。カップを両手で包み込むようにしてひとくち飲む。一年前の夏の日に私が飲んでいたものを夏夜さんは覚えていてくれたのかな? もしそうなら、本当にうれしいと思った。

 夏夜さんは私に背を向けて、さっき私が見ていた写真を手にとって見ているみたいだった。そして、写真立てを置くと、私のとなりに来て座った。あとほんの少しで、肩がふれあう距離で。

「みんな、いなくなっちゃうね」

 夏夜さんがぽつりと言った。

「おんなじ高校に行けてうれしかったのに、でも今度は……」

 テーブルの上を焦点の合わない目で見やりながら、夏夜さんは言葉をつなげていく。

「今度はばらばらになっちゃう。さみしくなるよね……」

 夏夜さんの横顔を見る。生真面目な表情に暗い影が落ちていた。私はカップをテーブルに置いて、夏夜さんの手に自分の手を重ねた。映画館で彼女が私にそうしたように。そして次の瞬間には、私はその手を引かれ、夏夜さんに抱きしめられていた。夏夜さんの熱い、やわらかい胸に、私の顔が押し付けられる。

「ごめんね……。少しのあいだ、こうしてていい?」

「は、い……」

 夏夜さんの息づかいを、鼓動を、すぐ近くに感じながら、私は夏夜さんの腕の中でじっとしていた。時が止まったような、気が遠くなるほど心地良い時間だった。

 やがて夏夜さんは、私の頭を胸から離して、ふるえる声でささやいた。

「ねえ、冬華ちゃん……」

「はい」

「悪いんだけど、ベッドまで連れて行ってくれる……?」

 その言葉に、胸が高鳴った。お互いを支えあうように立って、夏夜さんをベッドのふちに腰掛けさせようとしたとき、私の視界が反転した。私は夏夜さんに、ベッドに押し倒されていた。私の頭の横に手をついて、夏夜さんが私を見下ろしている。夏夜さんの長い黒髪がさらっと私のほうへ流れ、私を見つめるそのまなざしには、まだ迷いがあった。私の方へと顔を近づけ、そしてお互いの息づかいがわかる距離まで来て固まってしまう。

「どうして、なにも言わないの……?」

 怯えて余裕のない、今にも泣き出しそうな顔がそこにあった。私は、ああ綺麗だなぁって思いながら、その顔を見ていた。

「なにか……言ってよ」

 今にも泣き出しそうな声で、彼女は言う。そして、そんな彼女に私が言えることは、自分の気持ちだけだった。

「私……夏夜さんのこと、好きです。……私じゃダメですか?」

 私はそう言って、夏夜さんの背中に腕をまわして、すぐそばまで来ていた私のいとしい人の体を抱き寄せた。彼女は目を閉じ、私にくちづける。そしてまた顔を離して、私にほほえんだ。

「ありがとう、冬華ちゃん」

 彼女の目に涙がたまっていって、ふいに顔が歪んだ。涙のしずくが私に降ってくる。そうして泣きながら彼女は私をその胸に抱きしめ、私はむせてふるえる彼女の背中をそっとなでていた。

 思い出に惹かれ、前に進めなくなった。そんな想いが今、私の中にお姉ちゃんの面影を見て、私をお姉ちゃんの代わりにしようとしている。

 お姉ちゃんは、自分のしあわせを見つけた。だからもう、私のとなりにはいない。私のあこがれだった人は今、私を抱きしめて泣きじゃくっている。時間の流れとともにいろんなものが変わっていく。私にとって確かなもの、普遍のもの、そう思えたものが変わっていく。確かなものなんてなかった。私は全てが変わっていくのを見ているしかなかった。


 夏夜さんは泣き疲れて、そのまま眠ってしまった。蛍光灯が明るく照らす部屋の中。外の寒さのせいか、空気はひんやりとしている。涙のあとを残して、でもおだやかな寝顔の夏夜さん。私は蛍光灯を消そうとして、そっとベッドから抜け出す。電気を消すと、天井にぼんやりとした明かりが散らばった。それは夏夜さんが子供のころに作った星空だった。窓辺に寄って、カーテンをそっとめくってみる。キンと冷たいガラス、舞い落ちる雪が街路灯に照らされている。

「ん……冬華ちゃん?」

「ここにいますよ」

 私はベッドに戻って、また夏夜さんに添い寝する。夏夜さんは、私の腕をつかみ、安心したみたいにため息をひとつ吐いて、また眠りに落ちた。

 私は天井の星空を見上げていた。その子供っぽい輝きは、夏夜さんによく似合っている気がした。そんなことを思っているとき、夏夜さんの手が私の胸にふれて、夏夜さんが私に体をすりよせてくる。

「春香ぁ……」

 そう甘えた声でつぶやきながら。

 私は大丈夫だと思う。こんなことが続いても、きっと耐えられる。この広い世界で、私が夏夜さんを、ただ一人の人を想い続けるなら、きっといつか、なにかが変わる。そう信じてみたいと思う。

 私にはあこがれの人がいた。今、その人は私のとなりで眠っている。天井の星空。窓の外の雪。

 私たちはこれからどこへ行くんだろう? この気持ちは私たちをどこへ連れて行くんだろう? 先は見えなくて、ここにあるのはただ彼女の体温だけ。

 彼女は私のお姉ちゃんのことが好きだった。ただそれだけ。ただそれだけのことだったのに。



お読みいただき、ありがとうございました!

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