5 告白
目を閉じて、まぶたの裏に夏夜さんを思い浮かべる。夏夜さんのことを忘れない、夏夜さんのことをずっと好きでいる。私にできるのはそれだけ。夏夜さんと私の間の距離はとても遠くて、私は自分が夏夜さんのためにできることを見つけられずにいた。
秋も深まって、少しずつ冷たい風が吹くようになったある日。私が学校から帰ってきて、自分の部屋の前まで来たとき、お姉ちゃんの部屋から話し声が聞こえた。一人はお姉ちゃんで、もう一人は秋穂さんだった。そして私は、二人の会話の中に夏夜さんの名前を聞いた。
「お姉ちゃん?」
ドアの前でそっと呼びかけてみる。
「冬華? 入っていーよ?」
お姉ちゃんの声が聞こえて、私はお姉ちゃんの部屋のドアを開けた。そこには、背の低いテーブルの脇に座るお姉ちゃんと、お姉ちゃんのベッドに腰掛けている秋穂さんがいた。
「よっ、冬華ちゃん!」
秋穂さんが片手を上げて、にっと笑う。秋穂さんに会うのも何ヶ月かぶりだったけれど、秋穂さんだけはいつ会っても秋穂さんのような気がした。
「ほら冬華、ここおいで」
お姉ちゃんが自分のとなりにクッションを置いて、ぽんぽんと叩いた。私はそこに座りながらお姉ちゃんに聞いた。
「なんのお話してたの?」
二人は顔を見合わせて、そしてお姉ちゃんが言う。
「なっちゃんがね、さいきん元気ないから、どうしたのかなって」
「そ! それで作戦会議中ってわけよ!」
「そ、そうなんですか……」
そう聞いたとき、私には一つだけ心当たりがあった。もしお姉ちゃんがあの話を二人にしたなら、たぶんそれが原因で夏夜さんは元気がないんだって思った。
「まあ、たぶん生徒会のあれやこれやで疲れてるだけだと思うんだよね。気晴らしに連れて行ってやりゃあ一発よ」
秋穂さんは右手でつまんだポッキーを前後に振りながら言う。
「あっ、それいいかもね!」
明るくそう言うお姉ちゃんの横顔を見ながら、私はなにも言えずにいた。そのとき、お姉ちゃんがふと気が付いたように言った。
「あっ、冬華の分も入れてくるね。冷たいココア、でしょ?」
「あ、うん」
お姉ちゃんは立っていって、部屋には私と秋穂さんの二人きりになった。秋穂さんはポッキーを食べ終えてコーヒーカップを手に取る。そしておおげさにその香りをかいだ。
「ん~、いい豆つかってますねえ……」
秋穂さんに聞いてもいいのかどうか迷ったけれど、目をつむってコップに鼻を近づけて、ゆっくりと首を横に振る秋穂さんを見ていると、なにを言ってもいいような気になった。
「あの、秋穂さん」
「ん~? なに~?」
「あの……もう聞きましたか? お姉ちゃんがあの、あの人と同じ大学に行きたいって……」
「おお、聞いた聞いた! うおー、あたしも彼氏ほしーー!」
秋穂さんは、コップを手に持ったまま足をパタパタさせる。
「……夏夜さんが元気ないのって、それが原因なんじゃないでしょうか? たぶんその、大学で離れ離れになるのが、つらい、とか……」
「んー、まあ、それもあるかもなー。でもさー今度ばかりはどうしようもないっしょー。陽光台受けたときとは話が違うからなー。あたしも夏夜の第一志望と同じとこに行けって言われても困るし。ぜったい無理☆」
かわいい顔を作って、横向きのピースサインをする秋穂さん。
「秋穂さんはそれでいいんですか? さみしくならないんですか?」
「さみしいよ? でもさ、もう会えなくなるわけでも、友だちじゃなくなるわけでもないもんな」
そう言って、秋穂さんはカップを置き、自分のひざをぱしんと叩いた。
「そうだな、今のうちに思い出たくさん作っとくか! 夏夜がさみしくならないようにな!」
明るく突き抜けたような声で秋穂さんは言った。でも、思い出だけで夏夜さんは大丈夫なのかな? そんなことを考えたのが表情に出ていたのか、秋穂さんは私に言う。
「ばかやろ、思い出はたいせつだよ! 楽しい思い出があれば、おまえ、いろいろあれするんだよ。まあ、任せとけ、っと」
お姉ちゃんのベッドに後ろ向きにぱふっと倒れて、秋穂さんは天井の方を見た。そして、そのまま少しの間、部屋の中がしんとした。
「それにさ、ま、いろいろあるんだよ」
ふと、少し真剣な口調で、秋穂さんは言った。でも、その顔はあくまでのんきそうだった。
「夏夜さんがお姉ちゃんのことを……ってことですか?」
「なんだ、知ってたのかよ」
「なんとなく……」
自分が秋穂さんに夏夜さんの秘密をほのめかしたことにも、秋穂さんがぜんぜん驚かなかったことにも、私は驚かなかった。たぶん、気付いてないのはお姉ちゃんだけなんだって思った。
「まあ、こればっかりは、あたしにはどうしようもないからなー」
秋穂さんは、天井を見上げながら、ぼんやりとそうつぶやいた。私はただ、じっとしていた。
「まあ、なんだ、夏夜に会ったら優しくしてあげてよ」
「はい」
秋穂さんは天井を見上げたまま、にんまりした。そして、お姉ちゃんが階段をのぼってくる音がした。
秋穂さんは、夏夜さんといっしょにたくさん思い出を作ると言った。でも私は、思い出だけじゃ、夏夜さんのさみしさを埋められないような気がしていた。でも私に出来ることといえば、夏夜さんに会ったとき優しくすることだけ。ただ、それだけだった。
そしてその日は、思ったよりもはるかに早くやってきた。
それは、冬がもう間近にせまったある日の夕方だった。キッチンで私はココアを入れるためにお湯を沸かしていた。キッチンにある窓から夕焼けの赤がどこにもない鈍い鉛色の空が見えて、キッチンは薄暗かった。そしてとても静かだった。両親は共働きで、お姉ちゃんは帰りが遅い、そんな生活に私はもう慣れていた。
かすかに自転車をとめる音が聞こえた気がした。そして、しばらくしてインターフォンが鳴った。それは予感のようなものだったと思う。私は火を止めて、内線の受話器をとらずに、そのまま玄関へと向かった。
玄関の扉を開けると、そこには夏夜さんがいた。まだ灯りをつけるほど暗くはない、その薄暗がりの中に、夏夜さんは立っていた。陽光台の制服を着て、相変わらずとても綺麗で、でもどこか迷子のような夏夜さんが。
「あ、春、香……?」
少し戸惑ったような声で、彼女は私をそう呼んだ。
「夏夜さん」
私のその声に、夏夜さんはふと我に返ったように、その顔は戸惑いの混じった笑顔になった。
「あっ、冬華ちゃん? 久しぶりだね……。もう1年ぶりくらいかしら?」
「えと、1年4ヶ月ぶりくらい、です」
「そっか、もうそんなになるんだ。大きくなったね」
「はい。……あ、どうぞ」
私は、夏夜さんが私の家に来た理由も聞かずに、夏夜さんに家に上がるように言った。私が夏夜さんに優しくする機会は、今日を逃したらいつになるかわからなかったから。
「えっ? あ、うん」
夏夜さんは少し驚いたみたいだったけど、やがて、おずおずと中に入ってきた。
「あっ、きょ、今日はね、ちょっと、えと、春香に貸してた本があって、それで、ちょっと、すぐに使う用事が出来て、それで取りに来たの」
「そうなんですか。お姉ちゃんはまだ、帰ってませんけど」
「そ、そうなんだ。じゃあ、また出直そうかな?」
「せっかく来たんですから、コーヒーでも飲んでいってください」
なるべく明るい声を出して、私はそう言った。そして、リビングの電気を付けて、そのままキッチンの方へと歩く。こんなふうに振舞っておけば、夏夜さんはお茶に呼ばれてくれるだろうって思っていた。
「そ、それじゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかな……」
私の後ろで、夏夜さんがつぶやくようにそう言ったのが聞こえた。
私がお湯を沸かしている間、夏夜さんは食卓に座って、すぐ近くにある出窓に飾られたお姉ちゃんと私の写真に見入っていた。
「どうぞ。ブラックでよかったですよね」
私がそう声をかけると、夏夜さんは少しびっくりしたふうに振りかえった。そして、夏夜さんの前にコーヒーを置く私に、ぎこちなく笑って見せる。
「あ、うん。ありがと。ごめんね、気を使わせて」
「大丈夫です。『最近元気ないから優しくしてやれ』って秋穂さんに言われてますから」
「ああ、もう……」
夏夜さんは困ったように笑った。秋穂さんが自分に気を使ったことや私をまきこんだことに、ちょっと怒ってみせたみたいだった。
「生徒会が忙しいんですか」
「うん、まあ、ちょっと……」
ぎこちなく言ってコーヒーのカップに口をつける夏夜さん。夏夜さんが生徒会の副会長になったのはお姉ちゃんから聞いて知っていたけれど、私はそんな世間話はしたくなかった。そして、夏夜さんはどうしてうちに来たんだろうって考えた。今日、お姉ちゃんはデートで、夏夜さんならそのことを知っててもいいはずなのに。
夏夜さんはコーヒーカップの取っ手に手を添えたまま、どこか思いつめたような表情でぼんやりしている。私は夏夜さんのとなりに座って、ココアを飲みながらその横顔を見ていた。正直に言ってしまえば、夏夜さんが私にそういう姿を見せてくれたことが、私には嬉しかった。表面的な明るい笑顔で振舞われたら、私はさみしかったかもしれない。
「好きな人と、何かありました?」
私はそう聞いてみた。
「えっ? あ……」
夏夜さんは驚いたように私を見て、そしてすぐに顔を伏せた。私にだけは『好きな人』の話をしていたことを思い出したみたいだった。
「う、うん。そんなとこ、かな」
夏夜さんは、私を見て、ちょっと笑ってみせる。
「その人にね、恋人ができたの」
そしてまた私から視線をそらして、夏夜さんは湯気をたてながら動かないコーヒーの表面を、じっと見つめた。その表情は、口もとに少し笑みが浮かんではいるけれど、いつその頬を涙が伝っても誰も不思議に思わないような、そんな表情だった。
「こんなことなら、ちゃんと告白しておけばよかったかなーって。やっぱり好きな人には好きって言いたかった……」
自嘲気味な笑いが、夏夜さんのくちびるを歪ませていた。夏夜さんは、そのまま会話を続けようともせず、物思いに沈んでいった。部屋の中は静かで、私の心臓を打つ音が不自然なくらいにはっきりと聞こえた。
私はココアをひとくち飲んだ。私はうれしかった。夏夜さんのそばにいられることが、そして、何も取り繕わない夏夜さんが私のとなりにいることが。
やがて、駐車場の方から車を停める音が聞こえてきた。それが彼女の物思いを途切れさせたみたいだった。
「あら、おばさまかしら?」
「はい、たぶん」
「ごめんね、ちょっと長居しちゃったみたい」
彼女はすっかりぬるくなっているはずのコーヒーを飲み干した。
「コーヒーありがと。……あ、私が今日言ったことは忘れてね」
そう言って照れ笑いをする夏夜さん。私はあいまいにうなずいておいた。
「ただいまぁ!」
買い物袋をガサガサさせながら、お母さんが帰ってきた。部屋の中がとたんににぎやかになる。
「あら、夏夜ちゃん、いらっしゃい!」
「おじゃましてます、おばさま」
お母さんと夏夜さんがお話している間に、私は受話器の横のメモに自分の携帯の番号を書いた。私は後悔したくなかったから、今日、夏夜さんに特別な言葉を言おうって決めた。
お母さんには、ちょっとそこまで送ってくると言って、私は夏夜さんに付いていった。外はもう暗くなっていた。彼女は自転車を押して、私と歩幅を合わせてくれていた。そして、住宅街を横切る二車線の道路に出たところで、彼女は私に言った。
「冬華ちゃん、ここでいいよ。今日はありがとね」
「いえ……。あの、夏夜さん、これ」
「……? なあに?」
「あの、私も携帯買ってもらったんです。これ、私の番号です」
私はそう言って、夏夜さんにメモを手渡した。
「あの……」
息が苦しかった。笑われたら、拒まれたら、そんな考えが頭をよぎった。でも、言ってしまいたかった。
「さみしいときは、いつでもかけてきてください。私、会いに行きますから」
私の心臓は痛いくらいに強く打っていた。でも、後悔はしたくなかった。夏夜さんは、きょとんとして私のことを見て、私はその目を見つめ返した。どのくらい時間がたったんだろう?
「ありがとう」
夏夜さんはそう言って、私に優しくほほえんでくれた。
街路灯に照らされて遠ざかる背中を私は見送った。その背中を見たとき、雨の降る荒野を一人っきりで歩いていく人の後ろ姿を見たときのような、さみしい気持ちがして……そして私は心を決めた。