4 姉妹
お姉ちゃんに彼氏ができたって聞いたとき、私がいちばん最初に考えたのは夏夜さんのことだった。
お姉ちゃんの話では、お姉ちゃんの彼氏は、お姉ちゃんが高校1年生の夏ぐらいから片想いしていた人だった。そしてお姉ちゃんがその彼に告白するとき、夏夜さんも秋穂さんも応援してくれて背中を押してくれたらしかった。夏夜さんはどんな気持ちで、お姉ちゃんに応援するって言ったんだろう? それは私には想像することしかできなかった。
でも私は胸の中で夏夜さんにつぶやいた。大丈夫だよって。高校生のカップルが結婚までたどり着くことなんて本当に少ないんだからって。もし夏夜さんがお姉ちゃんを想い続けるなら、きっとまたチャンスはあるよって。
私は夏夜さんのことが好きだった。そして、そのときはじめて、私は夏夜さんにどうしてほしいのかに気付いた。私は夏夜さんにしあわせになってほしかった。だから、そのために、お姉ちゃんと結ばれてほしかった。
彼氏と付き合いはじめて、お姉ちゃんはしあわせそうだった。週末には二人でお出かけをすることもあった。でも私は、そのときの話をつとめて聞かないようにしていた。お姉ちゃんの彼氏は私にとって顔のない存在で、そしてそのまま、私の人生からいなくなってしまう人だって思っていた。
夏が過ぎて、秋が来た。
その日は日曜日で、私は自分の部屋で参考書とにらめっこをしていた。そのとき、ドアをノックする音がして、ドアの向こうからお姉ちゃんの声がした。
「冬華?」
「んー?」
「ちょっと、下に来てくれる?」
「……? うん」
時刻はお昼少し前だった。お姉ちゃんの言葉に少し違和感を感じたけれど、私はとくに深く考えたりせず、少し早いお昼ご飯かと思って、お姉ちゃんと一緒に下におりた。
リビングに入ると、そこには知らない男の人がいて、食卓に腰掛けていた。一度も会ったことのない人だったけれど、それが誰なのかはすぐに分かった。
「冬華、紹介するね」
お姉ちゃんが私を振り向いて言う。
「お姉ちゃんが今お付き合いしてる、里山くん」
里山と呼ばれたその人は、私に笑顔を向けた。
「こんにちは」
「……どうも」
別に悪い人ではなさそうだったけれど、なんだか私はイライラした。はやく2階に戻りたくなった。お姉ちゃんは、そんな私の肩を抱くようにして、席に着かせた。キッチンではお母さんが上機嫌でお料理をしている。お父さんは見当たらなかった。どこかへ逃げたみたいだった。
その人は、何かと私に話しかけてきた。でも私は、ずっとおざなりな返事をしながら、じっとうつむいていた。
食事のときにも、私はずっとそのままだった。お姉ちゃんとお母さんが、にぎやかにその人に話しかけて、その人は照れたようにおどおどと返事をしていた。
食事が終わったら、私は食器を下げもせず、すぐにリビングから出た。
「冬華」
後ろからお姉ちゃんの声が聞こえたけれど、私は聞こえなかったふりをして、そのまま2階に戻った。
夜になっても、私の胸のいやな気持ちは残ったままだった。夕飯のときには、私はお姉ちゃんと目を合わせないようにして急いで食べた。そしてすぐに自分の部屋に戻った。胸がむかむかして、なんだかやりきれなくて、ベッドの側面に寄りかかって、じっと座っていた。そんなとき、ドアを遠慮がちにノックする音がした。
「冬華?」
お姉ちゃんの声がしたけれど、私は返事をしなかった。
「入るよ?」
ドアの開く気配がした。私には、これから何が起こるのか分からなかった。でも、間近にせまったそのときが怖くて、きつくひざを抱いた。
「ねえ、冬華、ちょっとお話しよう?」
お姉ちゃんが私のとなりに腰掛けながら言った。すまなそうな声。そんな声を出さなくてもいいのに。私たちには関係ない、あの男のために。そう思った。
「とつぜん連れて来てごめんね。でも、冬華にも会ってほしかったから」
肩をふれあわせながらお姉ちゃんは言う。
「冬華、あの人、どうだった?」
「……わかんない」
「そっか」
お姉ちゃんの声に湿ったところがないのはいつものことだった。でも、私はとてもイライラした。もっとちゃんと私のことを考えてほしい。私はいやだった。私の全く知らない人にお姉ちゃんが気を使っているのが。
「これからね、少しずつ仲良くなっていってくれたらうれしいな」
お姉ちゃんは私の手を取ろうとする。まだなにも納得できていなくて、だから私はその手を振り払った。なにかひどいことを言ってしまいそうな、そんな気持ちになっていた。そんな気持ちのままに、私は言った。
「どうして会わせたの?」
「どうして、って?」
お姉ちゃんが困ったように聞く。
「私には関係のない人。あんな人どうでもいい。ただ付き合ってるだけなんだよね? これから別れるかもしれないし。そんな人にいちいち会わせないでよ……」
床に広がるフローリングの模様をにらみつけながら、私はそう言った。自分でも自分の声をとても冷たいと感じた。お姉ちゃんは何も言わなかった。二人とも黙ったまま、ただコチコチと時計の音がした。
どのくらい時が経ったのか、私はお姉ちゃんの方をそっと見て、そしてドキッとした。お姉ちゃんはつらそうにうつむいて、涙ぐんでいた。今まで、こんなことなかった。私が何を言っても、お姉ちゃんは優しくて、私のぜんぶを包み込んでくれていたのに。私には信じられなかった。私の言葉がお姉ちゃんを傷つけたことが。そして、私の言葉でお姉ちゃんが傷ついたことが。お姉ちゃんのその表情を見たとき、私にはあの男のことがどうでもよくなった。
「お姉ちゃん!」
私はお姉ちゃんに抱きついた。そして、お姉ちゃんをなぐさめるためだけに言った。
「ごめんね、お姉ちゃん。私、お姉ちゃんが取られちゃったみたいで、いやだったの!」
それは半分本音で、半分嘘だった。お姉ちゃんは私の言葉を信じた。目に涙を浮かべたまま、ぱあっと笑った。
「よかった……」
そう言って、私を抱きしめ返してくれた。私はしばらく、お姉ちゃんの胸に顔を押し付けていた。お姉ちゃんの匂いが、私を落ち着かせてくれた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なあに?」
「お姉ちゃんは、あの人のどんなところを好きになったの?」
「どんなところ? そうだなぁ……」
そう言いながら、お姉ちゃんはやわらかい光をたたえるひとみを宙に泳がせた。
「やさしいところ、かな?」
そのときのお姉ちゃんの表情は、お姉ちゃんのことを話していたときの夏夜さんのそれによく似ていた。私はくやしくなって、お姉ちゃんの腕を強くつかんだ。
「ねえ、お姉ちゃん、約束して。結婚するまで、あの人にそういうことさせたらダメだよ。もし本当にお姉ちゃんのことが大切なら、待てるはずなんだから」
そう訴える私を、お姉ちゃんは少しびっくりしたように見ていたけれど、すぐに私を優しくからかうように笑った。
「いいよっ、わかった」
私はそんなお姉ちゃんの笑顔に、ほんとにわかってくれたのかなってちょっと心配になった。
私たちはしばらくの間、黙ったまま寄り添って座っていた。私はお姉ちゃんの肩に頭を預けて、ぼんやりしていた。
「ねえ、冬華。お姉ちゃんね、里山くんと同じ大学に行こうって思ってるの」
お姉ちゃんが、ふとそう言った。
「冬華の言うとおり、先のことは分からないよ。でも、それでも今どうしたいか考えて、精一杯やっていこうって思うの」
静かな部屋の中に、お姉ちゃんの声が静かに響いて、私はぼんやりとその声に耳を傾けていた。
「……不安じゃないの?」
「不安だよ。でも、頑張ってみたいの」
あの人と同じ大学に行くことは、もうお姉ちゃんの心の中で決まったことみたいだった。私はなんとなく、いつまでもお姉ちゃんと一緒にいられるような気がしていたけれど、実際には、そんなことないみたいだった。
「そのこと、夏夜さんたちは知ってるの?」
「ううん、まだ言ってない。今はじめて冬華に言ったの」
そう言って、お姉ちゃんは優しく私の頭をなでた。ふとお姉ちゃんの顔を見た。そのときのお姉ちゃんは、お姉ちゃんじゃなくて『ひとりの女の人』のようにも見えた。それからもお姉ちゃんはお姉ちゃんだったけれど、このときの印象は消えることはなかった。そして私は、お姉ちゃんに頭をなでられているとき、夏夜さんのことを思っていた。