1 プロローグ/出会い
私にはあこがれの人がいた。今、その人は私のとなりにいて静かに寝息をたてている。彼女の部屋の彼女のベッド。二人分の体温が私たちを温めている。天井には星空があった。それは彼女が子どものころに蓄光塗料のシールで作ったものだった。うすぼんやりと緑色に光る星々。窓の外では、しんしんと静かに雪が降っていた。
私たちはどこへ来てしまったんだろう? これから、どこへ行くんだろう? 私には何も分からなかった。これが、ほんの一時の仮初めのものなのか、それとも、死が二人を分かつまで続くものなのかも。
彼女は私のお姉ちゃんのことが好きだった。ただそれだけ。ただそれだけのことだったのに。
私がはじめて彼女に会ったのは、私が小学6年生になってすぐのころ。私が学校から帰ってくると、お姉ちゃんが二人の友だちと一緒にリビングのテーブルで宿題をしていて、その中の一人が彼女だった。
「ただいま」
「あ、おかえり、冬華っ!」
リビングにお姉ちゃんの元気な声が響く。私より3才年上のお姉ちゃんはいつも明るくて、私とは性格があんまり似ていなかった。でも、私はそんなお姉ちゃんのことが大好きだった。たぶんシスコンだったんだと思う。春の風の温かくて優しい匂いがする、そんな季節にお姉ちゃんは生まれた。だから名前は春香。お姉ちゃんにぴったりの名前だと思う。ちなみに私は冬華。雪がしんしんと降る夜に生まれたから。
「やほー、冬華ちゃん、おじゃましてるよー」
秋穂さんが私に向かって手を振る。秋穂さんは、小学校のころからのお姉ちゃんの親友だった。二つ結びにした黒髪、その目は楽しそうに笑っている。
「まあまあ、ちょっと見ないうちに、すっかり大人っぽくなってぇ~」
「でしょー?」
近所のおばちゃんみたいなことを言う秋穂さんに、お姉ちゃんが相づちを打っている。そんな二人の間に、彼女はいた。気の強そうな整った顔立ちにストレートの長い黒髪がよく似合っていた。本当に綺麗な人。私はいっしゅん、彼女に見とれてしまった。彼女は、笑いあう二人の間で私のことをきょとんと見ていた。そして、私が彼女を見つめているのがわかると、あわてて視線をはずした。
「あ、なっちゃん……夏夜さん、だよ。さいきん友だちになったの!」
私が彼女の方を見ていることに気付いて、お姉ちゃんが彼女を私に紹介した。
「なっちゃん、私の妹だよ。冬華っていうの」
私たちはお互いに顔を見合わせる。
「こ、こんにちは……」
「はじめまして……」
ぎこちない挨拶のあとで、彼女はおずおずと私にほほえもうとした。そして、かぁっとほおを赤らめて、うつむいてしまった。どうしてだろう、そのとき、何も知らないはずの彼女のことが全部分かったような気がした。そして、胸がぎゅっと苦しくなって、ドキドキと心臓を打つ音がはやくなった。
「なっちゃん? どうしたの?」
うつむいてしまった夏夜さんにお姉ちゃんが声をかける。
「えっ? あ、いや……」
「冬華ちゃんがいるから恥ずかしいんじゃない?」
「あ、そうなの? だいじょーぶだよっ! うちの妹、とってもおとなしいから!」
お姉ちゃんがちょっとずれたことを言った。
「べ、べつに……」
「こーゆーときにさぁ、『冬華ちゃんっていうんだぁ!あたし二ノ宮夏夜!よろしくね!キャピ☆』ぐらい言えるようになるといいんだけどなー」
「わ、私は……」
困ったように口ごもる夏夜さんの肩に、お姉ちゃんはポンと手を置いた。
「これから言えるようになるもんねえ! そうだ、冬華? 宿題まだなら、いっしょにやろうよ!」
「……うん」
「よーし、ほら、こっちゃ来い」
秋穂さんが引いてくれた椅子に腰掛けて、私はお姉ちゃんたちの勉強に加わった。
勉強をしている間、夏夜さんはほとんどしゃべらなかった。お姉ちゃんと秋穂さんの話に相づちを打ったり、ときどき秋穂さんにいじられたりしていた。お菓子を出されても、遠慮したふうにちょっとしか食べなかった。私は何度も何度も惹きつけられるようにして彼女のことを盗み見した。大人しくて綺麗な人。それが、私が初めて夏夜さんに会ったときの印象だった。帰り際、彼女が私のそばを通り抜けたときの、彼女の髪の毛の匂いとほのかな体温は、私の記憶の中で今も消えずに残っている。
お姉ちゃんの話では、夏夜さんは3年生になったときお姉ちゃんと同じクラスになった人で、お姉ちゃんと席がとなり同士になったのをきっかけに仲良くなったらしかった。私は、だれとでも気軽に話せるお姉ちゃんや秋穂さんのことが、いつもうらやましかった。
その夜、私は夢を見た。夢の中で私は夏夜さんと手をつないで、公園を散歩していた。なにかお話した気がするけれど、朝起きてから思い出そうとしても、なにも思い出せなかった。ただ、夏夜さんが私に向けたおずおずとした笑顔と、ふわふわした心地よい感じが胸に残っていた。カーテンを開けて空を見上げてみる。そしてこの世界のどこかに夏夜さんがいるよって自分に言ってみる。そうしたら、なぜかむやみにうれしくなって、胸がドキドキした。はやくもう一度会いたい。そう思った。
そんな私が、彼女に再会したのは、夏休みの少し前だった。
家にいてリビングのテーブルで宿題をしているとき、お姉ちゃんが友だちを連れて帰ってきた。
「ただいま、冬華っ!」
「ちぃーす! おっ、久しぶりじゃのう!」
「おかえり、お姉ちゃん。秋穂さん、いらっしゃい」
そして、お姉ちゃんと秋穂さんの後ろに彼女がいた。私が夢に見た、その人が。
「あ、冬華ちゃん、覚えてるかな? 私……」
彼女は恥ずかしそうに、おずおずと私に笑いかけた。
「二ノ宮……夏夜、さん」
「あ……」
私がそう答えると、彼女はちょっとうれしそうに笑った。
「あン、冬華ちゃんン、覚えてるかなン、あたちィ……」
そんな彼女の笑顔を見た秋穂さんが、腰をくねくねさせ、鼻にかかった声で夏夜さんのせりふを真似しだした。
「ちょっと、なによそれ?」
「かわいこぶるなってこと! そろそろ本性見せとかないと、あとでキツイよ?」
「秋穂の中の私ってなんなの?」
「あっ、今すごくイイ顔してるぅ! いてっ!」
夏夜さんは、からかってくる秋穂さんのひたいをペチンと叩いた。きっと学校でもこんなやりとりをしてるんだろうなって、なんとなく思った。
そして「あれ、こんな人だったっけ?」って思った。久しぶりに見た彼女の表情は明るくて生き生きとしていた。この前のような遠慮したところがなくなっていて、彼女は本当に自然にお姉ちゃんたちと一緒にいた。私の知らないところで、お姉ちゃんたちはどんどん仲良くなっていってるみたいだった。そして、私が一度も忘れたことのない人は、私に「私のこと覚えてる?」って聞いた。なんだかさみしかった。
「冬華、いっしょにいい?」
「うん」
お姉ちゃんたちもテーブルについて、夏夜さんが私の隣になった。それからしばらくは、みんな静かに宿題をしていた。私は時々、となりにいる夏夜さんの横顔を盗み見た。勉強に集中している生真面目な横顔を私は本当に綺麗だと思った。
何度目かのとき、彼女はふと私の視線に気づいて、私の方を見た。私はあわてて視線をそらしたけれど、間に合わなかった。
「どうしたの?」
夏夜さんが私に聞いてくる。私はなにも答えられなくて、ただ顔がほてるのを感じていた。
「馬鹿だなぁ。『ちょっと分かんないところがあるのぉ、教えてお姉さまぁ☆』に決まってんだろ?」
秋穂さんが楽しげにそんなことを言う。
「そうなの?」
「いえ、だいじょうぶです」
私はそれだけ言うのがせいいっぱいだった。顔が本当に熱かった。
「そう? 何かあったら遠慮せずに聞いてね」
「あ、はい……」
「どうしたん? きょう完全にキャラ変わってるじゃん」
「もう! かわかわないでよ」
夏夜さんは頬を赤らめて秋穂さんをにらみつけた。秋穂さんはそんな夏夜さんを見てにやにやして、お姉ちゃんは私たちの事をにこにこしながら見ていた。
夏夜さんは、私に優しかった。でも、それは私がまだ子供だったから。そして、私は私服で、お姉ちゃんたちは中学校の制服を着ていた。
勉強が一段落すると、お姉ちゃんたちはソファの方に移って、おやつを食べながらくつろいでいた。私も、宿題を終えた後、何気ないふうをよそおって夏夜さんのとなりに座った。
そのとき、秋穂さんがふと気づいたように聞いた。
「そういえば、二人は志望校どこなの?」
「私は陽光台にしよっかなって。お父さんもお母さんもそうだったし」
お姉ちゃんはそう言った。
「あ、私も」
夏夜さんも同じみたいだった。陽光台高校はこのあたりでは一番の進学校と言われていたから、夏夜さんに似合うと思った。秋穂さんは、二人の答えを聞いて、ちょっとさみしそうにした。
「やっぱそうかぁ。まぁ、あたしは私立のどっかかなぁ~」
「秋穂、なに言ってるの? 逃がさないわよ?」
間髪入れずに夏夜さんが言った。
「え?」
「そうだよ、あきちゃん! いっしょの高校いこうよ!」
お姉ちゃんもソファから身を乗り出しながら言う。
「いや、あたしにはハードルが高すぎるでしょ!」
「大丈夫。これから私がびしばし鍛えてあげるから」
「うんうん」
夏夜さんとお姉ちゃんにそう言われて、秋穂さんはたじろいでいるみたいだった。私がそんな秋穂さんを見たのは、たぶんこれが初めてだと思う。
「いや、あのさ、相性ってのがあるんじゃない? あたしはさ、陽光台と相性があんまりよくないんじゃないかな。ほら、あたし、勉強苦手だし」
「あー、私、あきちゃんと同じ高校に行きたいなぁ……」
「自分で自分に見切りつけると、のびしろがなくなるわよ? いいからやるの!」
「ええ~、まじかよぉ……」
お姉ちゃんに押され、夏夜さんにびしっと決めつけられ、秋穂さんは途方に暮れたように弱々しく笑った。
「まあ、任せておきなさい。私たちで、ちゃんと陽光台に放り込んであげるから」
そう言って余裕そうに笑う夏夜さん。私はそんな夏夜さんのかっこいい横顔に見とれてしまった。その言葉を聞いてふっきれたのか、秋穂さんもいつもの調子で言った。
「オーケー。やれるもんなら、やってみろよ」
その言葉に、お姉ちゃんはけらけら笑い、夏夜さんは「やってやるわよ」と言って不敵にほほえんだ。
二人が帰ってから、お姉ちゃんは私の気持ちを見透かしたような笑顔で言った。
「なっちゃん、いい子でしょ? 冬華がなっちゃんのこと好きになってくれてよかった」
どう答えたらいいのか分からなくて、もじもじしてたら、お姉ちゃんはそんな私を抱きしめて、もみくちゃにしてしまった。
この日から、私の中に、おずおずと笑う夏夜さんに加えて、強気な夏夜さんも入ってきた。夜、おふとんに入って私は想像してみる。
「いい、冬華。自分で自分に見切りをつけると、のびしろがなくなるわよ!」
私に向かって、びしっと決めつける夏夜さん。私は、そんな夏夜さんも素敵だと思った。
それから時々、お姉ちゃんたちはうちで勉強するようになった。私はそのたびに夏夜さんに会えるのがうれしかった。お姉ちゃんたちと勉強するようになって、私の成績も少しだけ伸びたりした。