6話 泥濘と天津風 後
昼下がりの町は騒然となった。
近所では有名だった仲の良い兄妹が死闘を繰り広げるなど誰が予期しただろうか、喧嘩などという生易しいものではない、妹の方は一般人にも分かるほどの殺気を放っているのだ。レィディアとエルヴァンは彼女の攻撃を何とか躱しながら周りに集まる人を遠ざけた。
ノエリはやはり、人間の少女とは思えない力を持っていた。踵で地面を割り、爪は一瞬で人の皮膚を抉り取る。レィディアは簡単にノエリに手出しできない状況にあった。そもそも、魔人とはいえ顔はノエリのままなのだから、殴るに殴れない、さらには時折その洗脳が解けたように元の表情に戻るのが殊更レィディアに攻撃を躊躇わせた。
逃げれば彼女は横たわるリアとテニレイに牙を剥くかもしれない。逃げられず、かといってろくに戦うこともできないレィディアは無尽蔵とも思える魔人の体力についていくことなどできず、やがてその胸倉をノエリの右腕が捉えた――。
どこかで誰かが話をしている。
深い森の奥だ。
日の光はほとんど差し込まず、木漏れ日が点々と小さな波紋を作るのみ。静寂の中にひたすら水が細く岩を打つ音だけが響いている。
そんな中に一軒の古びた小屋が佇んでいた。四角い木の箱の上に四角錐が乗っかり、斜面の中ほどから窓付きの小さな屋根が出張っている。どうやら二階か、ロフトのような部分があるらしい。声はその小屋の中から。
「やっぱり、マナには意思があるのよ」
少女の声である。その響きは少し大人びて聞こえる。得てして例の窓の部分はロフトになっていて、少女は足を投げ出すように座っている、顔は陰に隠れてはっきりしない、話し相手もまた、影に覆われてどのような形なのかわからない。
「どうしてそう思うのさ?」
もう一つの声はしゃがれた男の声。
「正確には、黒いマナには意思が宿っていると思うの。だって、彼らは生きようとするもの」
「マナが、生きようとするだって?」
男の声には驚きが混じっていた。少女は小さく首肯し話を続けた。
「彼らは仲間を増やそうとしているんじゃないかしら、そのためにはまず、自分が浄化されないことが大事、だから危険を感じて気配を隠す。さらに、宿主が死んでしまうことも困る。けれど衰弱していなければ支配できない、それを解決するために宿主に力を与えている。どう? 新説よ! 今度こそ心理に違いないわ! 私はまた一歩宇宙の真理に近づいたわ!」
少女は興奮した様子で身をくねらせる。もう一つの声は呆れたようにため息を一つ。
「なんで黒いのだけが意思を持っているのさ、マナは元を辿ればすべて同じという、君の説と矛盾してるぞ」
ぶっきらぼうに言い放つ声に少女は鼻を鳴らした。
「ふふん、もちろん考えてあるわよ、答えはね、『量』よ。一つ一つ意思は小さくてもそれが集まると大きな一つの意思になるのよ、それこそ、一つの生き物のようにね、ほかのマナは一か所に集中しにくくて力が弱い、けれど欲や嫉妬などの感情を司るマナは人間が集まる場所に多く発生する、城下町や栄えた都市で堕天の発生例が多いのがその証拠。現にこの前だって大きな町で患者が三人発症、治療に向かった聖女が一人死ぬ事件があったし」
「君の話は聞いていると頭が痛い。俺はもっと痛快な冒険物語を期待したいね」
それは私の専門外ね。と少女は言い、この会話は途切れた。
どうやら一瞬意識が飛んでいたらしい、レィディアは気が付くと煉瓦の壁を背にして倒れていた。周りには木樽が転がっている、どうやら胸倉を掴まれてここまで投げられたようだ。今ノエリのいる場所からは十メートル近くもある。しかもそれを片腕一本でやってのけるのだから、もはや人間業ではない。
酷く息苦しいのは壁に背中を打ち付けてしまったからだろうか、尋常ではない痛みに冷汗が滲み出る。ついに彼は全く動ける状態ではなくなっていた。
彼女はゆっくりと歩いてくる。レィディアは死を覚悟して深く息を吐いた。その距離が五メートルほどまでに縮んだとき、ノエリの顔に何かが掛かった、水だ。コップ一杯分ほどの水が彼女の顔半分を濡らしたかと思えば、とたんに熱い鉄に水を掛けたような音と白い靄が立ち上る。
「ノエリ……!?」
思わず妹に起こった異常を心配したが、自分が思うほどの声は出せず、言い切る前に激しくせき込んだ。
「大丈夫、聖水です。彼女の体には直接影響しません」
そこに立っていたのはテニレイだった。
ノエリが怯んだ一瞬の隙をついて今度は彼女の胴を黒く撓る尾が捉える。エルヴァンだ。どこかで機会を伺っていたか、縄のようにきつく締めあげている。
「できる限りのことはしますが、どうなるかわかりません、勿論、あなたを介抱する余裕も」
レィディアは苦しそうに頷いた、ノエリが元に戻るのなら、自分がどうなろうと構わない。
「可能ならば逃げてください、教会へ行っていただけるとありがたいですが、あなたの安全も最優先です」
そう言い置くと彼女はノエリの元へと駈け出した。
少し移動する程度ならば問題なさそうだが、教会までたどり着くのは難しそうだ。
息を整えるうちにテニレイに動きがあった。
ノエリに近づき、落ち着くよう声を掛けながら聖水を飲まそうとしている。しかし彼女は駄々を捏ねる子供のようにそれを拒む、長く強靭な飛龍の尾がノエリの動きに呼応して大きく揺すられている。水の入った器が近づいた時、彼女は吠えた。人間より獣に近いが、どんな獣にも該当しない声音の響きが街中を駆け巡る。そして、エルヴァンの尾の鱗の一枚を鷲掴みにすると、それを強引に引き剥がした。
「――!?」
瞬間、先の叫びの非にならない轟が木霊する。鱗のはがれた部分からは血が筋を引いている。エルヴァンの押さえが緩み、ノエリが再び自由を得る。
ノエリの脳の中に声が響いていた。壊せと囁く声がある。違うとわかっているのに、自分の意志ではないのに抗えない。暗く深い沼に嵌ってしまったかのように、意志はもがけばもがくほど自由を失い深く沈んでいった。もう体の支配は聞かず、思いも殆ど残っていない、視界すら、今は大きな影に覆われて曖昧だ。しかし、音は何となく聞こえていた。
体を沈めたノエリはエルヴァンの尾の束縛から完全に抜け出していた。テニレイの表情に絶望が浮かぶ。全てがスローモーションのように流れていく中でレィディアはようやく自分が走っていることに気が付いた。これでノエリが目覚めなければ終わりにしよう、そう思った。
渾身の力で拳を固め、テニレイを押しのけながら二人の間に割り込み、ノエリを殴った。ノエリとレィディアはほぼ同時に地面に崩れる、しかしノエリにダメージはほぼ無い、レィディアは息をするのも苦しそうだ。
だがノエリにすぐ反撃するような素振りは無かった。驚いたようにきょとんとした顔をして座り込んでいる。
レィディアは今にも消えるような声でノエリに語り掛けた。
「すまん、ノエリ……思わず殴ってしまった。しかしな、もう壊すのは止せ、お前が思うほど世界も悪くないんだ、困っていれば誰かが助けてくれるし、間違えたら道を示してくれる。そういう人達だっている……お前もそろそろ戻っておいで」
ノエリが微かに頷いたように思えたのだが、その瞳は未だ狂気に満ちている。まだ、足りない、何か言わなければ、そう思うのだが、声が出ない、いよいよ意識を保つのも限界だった。「もう遅い」ノエリの、いやノエリのふりをしたマナの声が聞こえる。
「遅くないよ」
誰かがレィディアの声を引き継いだ。いや、誰かと言いながらも、その声の主の判別はついていた。やっと、起きたのか。そう思いながら彼の意識は沈んでいく。
彼女の視線はリアに向けられた。リアは目を細めてノエリを見つめている、きっとリィネスと彼女の姿を重ねているのだろう。リアの瞳には強い意志が宿っていた。エルヴァンとテニレイが加勢に入ろうとするのを手振りで制してゆっくりとノエリに近づいてゆく。不思議と疲労感は取り去られていた。
夕暮れに染まり始めた空もあの日のことを彷彿とさせた。
「ノエリちゃん、戻って来なよ、お兄さん待ってるよ」
優しくも力の込められた言葉を投げかける。自分でこの呪縛を解く。リィネスの時のようにはしない、させるわけにいかない。こんなにお兄さん想いで優しい女の子が、すべてを憎みながら人ならざるものとして死んで逝くなど言語道断。だから、声をかけ続ける。
「戻ってきて、ノエリちゃん」
あの時、リィネスが一度、表情を戻してくれた時のように、名前を呼べば届くのではないか、そんな思いがリアの中にはあった。あるいはそれは届いてほしいという願望か。
ノエリは激しく首を横に振った。マナがそうさせているのか、拒絶の反応なのか判然としないが、まだ彼女は戻って来れていない。
「戻って来なさい! ノエリ!」
リアの言葉は一際大きく、強くなった。
吊り上がった彼女の目じりが下りた。
狂気が消え失せ、元の彼女の面持に、ただの少女の表情に戻る。しかし、その葛藤が終わったわけではなかった。どうしても言わなければいけないことがあるのに、声が出せない、口を開きかけては閉じ、それの繰り返しが続く。
ノエリの頭の中にあらゆる言葉が氾濫を起こしていた。何を言えばいいのか一瞬では選択できない。絶望的な言葉と救いを欲する言葉が脳裏に渦巻いている。どちらを選べばいいのかは明確だ、けれど、何かが自分の意思を縛り付けて放そうとしないのだ。その力は次第に強まっているように感ぜられた。とうとう、頭の中を黒い影が覆い尽くす。
彼女は腕をだらりと垂れ、項垂れたまま小さくも邪気を孕んだ声で呟いた。その言葉はもう、ノエリの言葉ではない。
「もう、遅いよ……」
「ノエリちゃん! ダメ! 意識をしっかり持って」
「煩いっ!!」
ノエリが腕を振るう、リアの顔面を掻くように振られた腕を退きながら躱した。彼女の眉間には皺が寄り、苦々しい表情をしている。その表情があらわすように、彼女は今、自分の無力さを噛みしめていた。フレイアと戦った時のように風が読めないこともリアの不安を大きくしていた。アドハラストから力が感じられない。まるでリア自身の意思と一緒に沈黙してしまったかのよう。
短剣と左腕でノエリの攻撃を捌きつつ、何とか打開の糸口を探す。エルヴァンはテニレイとレィディアを庇うようにノエリの動向を伺っている。教会から応援が来るのはいつになるかわからない。できれば時間稼ぎなど考えず何とかしたい。
エルヴァンの叫ぶような声が聞こえたような気がした。瞬間、天地が反転する。ノエリに足を掛けられたのだ。地に落ちた瞬間腹部に蹴りが入る。普通の人間を遥かに凌駕する威力の蹴りだ、リアは弾き飛ばされ、エルヴァンの横腹に背中からぶつかった。
「リア! 大丈夫!?」
エルヴァンの心配そうな声を朦朧とする意識の中で聞き、一瞬、眠ってしまいそうになった瞬間、レィディアの助けを求める声を聴いた。過去の夢を見たのか、それとも全くの妄想だったのかは分からないがなんとか、意識を繋ぎ止め、無理やりに目を開いた。
あの日の事を忘れたかと、自分を奮い立たせ、膝に力を入れる。
絶対に、負けるわけにはいかない。
風が吹き始める。
アドハラストが小さく瞬いた。
そよ風程のそれは本命の先駆けに過ぎない。
地平の果てから、広大な草原を一陣の風が吹き抜けていく。
アドハラストの輝きはいよいよ大きなっている。風も強くなり、リアたちの髪を靡かせた。
「もう苦しむのは終わりだよ、ノエリちゃん」
リアは心の中で強く念じた。アドハラストが真に清浄を齎すのなら、今此処に変革の風を!
突風が町を突き抜ける。
風が唸りを上げる中で聞いた悲鳴は果たして人々の間から聞こえたのか、それとも穢れその物であるマナが発したのかは分からなかった。
砂やゴミを巻き上げながら、住宅街を吹き抜け、スラムを、王宮内を、貴族たちの間を駆け抜けたその風は人々の穢れを拭い去り、爽やかな清浄と静寂を残して天高く舞い上がり消えていった。
いがみ合う貴族たちも、スラムの若者たちも、一様に顔を見合わせていた。
「何だったんだ、今のは」
誰もがそう思い、さっきまでの怒りや鬱々とした気持ちを思い出すころには、そんなことが全てどうでもよくなっていた。ただ後に残された街にそよぐ心地よい微風と、澄み渡る体内の清涼感にもう少しの間浸っていたい。貴族たちはいがみ合いを止め、領主は過去を省みるようにテラスから街を見下ろす。スラムの中では革命を画策する者たちが犠牲者を鑑みない第一号案を破り捨てた。
ノエリは道の真ん中で呆けた顔をして、リアを見ていた。エルヴァンも、テニレイも、同じように呆けた顔をしていた。
「おかえり、ノエリちゃん」
彼女はたっぷり間をおいて、目を涙ぐませながら「ただいま」と声を絞り出した。彼女は周りの惨状を見て頬を濡らし、膝を着いて泣いた。夕焼けが町と空を赤く染めている。
彼女はたくさんの罪悪感を感じ、大きな恐怖に震えているのだろう。しかしそれはどうしようもなく起きてしまったことの筈だ。
風邪を引かない人がいないように、堕天病もまた誰にでも起こり得るものだ、そこにあるのはきっかけの有無だけ、人の心は弱い、少しの引き金で容易く崩れ落ちてしまう。崩れた部分を補うマナが穢れていれば、身体が弱っているときに悪い菌を体に入れるのと同じことだ。
今、ノエリの肩をリアが包み込み、テニレイがレィディアの背を支えて上半身を起こし、ノエリの無事を伝え、エルヴァンが安堵の息を漏らしていた。
それからしばらくの間、リアとエルヴァンは町に留まった。ノエリとレィディアのその後だけ確かめてから町を出たかったからだ。
結果として、ノエリが処罰されることはなかった。堕天病の患者はその脅威が除かれても罪に問われない。ただしレィディアはそうもいかなかった。それに、有耶無耶にしてしまうことを彼も嫌った。罪は償うという彼に、一つの通達が来たのは、騒動の四日後であった。
その日、リア、エルヴァン、ノエリは畑にいた。ノエリが彼女の母から譲り受けた小さな畑の世話を、ここ数日リアとノエリの二人で繰り返していた。彼女はエルヴァンともすっかり打ち解けた。
「尻尾、大丈夫?」
ノエリはしょっちゅうそのことを気にする。
「大丈夫、爪が剥がれたようなものさ」
自分の詰めを剥ぐ様子を想像した二人が身震いするのを見て仕返し完了とする。リアはとばっちりだが。
そんな彼の尻尾の中ほどに巻かれた包帯はノエリが巻いてくれたものだ。もうそろそろ鱗も生え変わっているだろうに、一向にその白い布を取ろうとしないのでリアは焼き餅を焼いていたがそれも今となっては焦げ付いて燻るだけのようだ。
そこへレィディアがやってくる。手には何やら羊皮紙を持って。
「通達が来たのだが」
と切り出すのを三者三様に見つめる。
「この町から出て戻ってくるな、とさ。しかし金だけはきっちり払わなければならないらしい」
「世知辛い話ね、仕方なかったのに」
リアの同情にレィディアは首を振った。
「確かに金は欲しかったが、他の手を選ぶべきだったよ、ノエリも、そんな金で治療されても嬉しくないだろうと、思い立っていればよかった」
ノエリが何か言い返す前に、彼は「過ぎたことだけどな」と晴れやかな顔で言い切ったので彼女は何も言わずに頷いた。
「すぐにでも発たなくてはならない」
「あら? 一緒に来る?」
彼は首を振る。リアも分かっていて聞いたのだが。
「私は一人で行く。これは私の罪滅ぼしだから……だからノエリ、少しの間待っていてくれ、必ず迎えに来るよ。それまで待っていてくれ」
「うん、兄さんも、気を付けて」
ノエリの表情に影は見えない。その事に安堵の息をついて、出立の覚悟を決める。
「では私は行くよ、これ以上長くいると決心が鈍りそうだ」
そういってレィディアは妹とリア達に見送られながら静かに町を出た。
小さくなっていく背中を見送りながら、リアはエルヴァンと目を合わせる。
「僕らも出る?」
エルヴァンが尋ねる。
「そうね、これ以上彼女たちの家計を逼迫するわけに行かないし」
「行っちゃうの?」
「うん、怪我はもう良さそうだし、レィディアの結果が出るまでって決めていたから」
もう見えなくなってしまったレィディアの背中を見るようにリアが言うと、ノエリは暫く迷った様子を見せて、リアに尋ねた。
「あの、兄さんの事、好きなの?」
エルヴァンがぶしゅんっ、とくしゃみのような音を立てた。リアは一瞬面食らった後、笑った。
「大丈夫だよ、私もうカレがいるから」
そう言ってエルヴァンの顎をぺしぺしと叩いた。
「君はそれでいいのかい? 人よりもトカゲに近いような生き物だよ、僕」
「取られそうにないから安心できるわ」
「そうかい」
安心そうなのは隣の少女もだったが、二人は気づかない振りをした。
畑の世話を済ましてしまってから、二人は旅の支度を整えた。町の外れまでノエリが見送りに来てくれた。お礼の言葉と一緒に深く頭を下げる彼女はあの時の暗い気配を微塵も感じさせない、ただの少女だった。
「元気で!」
リアはそう言い、エルヴァンも首を振って同意を示す。そしてその翼を振り下ろすとすぐにその巨体は大空へと舞い上がっていった。ノエリはいつまでもその場で空を見上げていた。
ある日の昼下がり、旅人の頭上を一匹の飛龍が追い越していく。旅人は大きく手を振る。感謝の思いを込めて、飛龍と少女を見送る。空はよく晴れ渡り、風は澄んで草原は旅人達を励まし、道は遠い未来へと続いている。
まだ続きますので、よろしくお願いします。
細かなことは活動報告をお読みください。