4話 移ろいゆくモノ
声が聞こえて来たのは意識もまだ朦朧として、現と夢の境もはっきりしない、そんな折だった。今から思えば時刻はまだ日も明けきらない頃の事ではなかったろうか。
ああ、またこの夢か、少女はぼんやりと考える。暗いのか明るいのかも定かではない混沌とした空間の中に身を置き、何かに話しかけられている気のする……夢と言おうか、想像と言おうか。取り留めもない夢だと思っていたのだが、今日のこれはやけにはっきりとしていた。自分の意識がしっかりとあって、声を発することすらできた。
――誰?
人では無い。
空間から答えが返ってくる。聞こえているのか感じているだけなのか、その感覚すらひどく曖昧で、自分が生きているのかどうかも分からず不安になる。恐る恐る自分の心臓に手を当ててみれば、それは今も確かに動いているようだった。
不安の満ちる世界に少しの安心感を抱いた少女は、さらに質問を続ける。
――なら、何なの?
ソレを説明するのもまた難しい……。
我に存在意義は無いが、我を生み出すのは専らお前たちだ。
――どういう意味?
人は我をマナと呼ぶ。マナは世界を循環している、星の血液とでも言おうか、その中に顕れた悪玉が私だ。
そこまで聞いて少女はようやく思い至る。これは、夢などではない。意識の中に現れた声こそが人に堕天を齎す原因、穢れたマナであると彼女は悟った。そしてそれは彼女のタイムリミットが近い事を同時に教えている。
――私、また堕天してしてしまうの?
クフフ、と可笑しそうに空間は嗤う。声は一つのようでも幾重にも重なっているようにも聞こえる。楽しげに、悪意を孕んだまま笑う。どこまでも混沌とした雰囲気だ。光と闇が、表と裏が同時に存在しているかのような有り得ざる違和が少女の感覚を狂わしていく。
堕天だって? 地に在りながら天から堕ちるとは、人間とはどこまでも可笑しくて、愚かしい生き物だな。これから起こるのは堕天ではない、悪意の“覚醒”だよ。
そして少女は身を起こす。ベッドの上には窓から降り注ぐ日差しが切り抜きのように落ち込み、白いシーツからの照り返しがやけに眩しく感じる。声はもう聞こえなかったが、気怠さがわずかに残っている。長い間水の中に沈んでいて、今ようやくと浮かび上がって来たような感覚だ。果たして私は、沈む前と全く同じで居るのだろうか。
一人の青年の弔いが終わった盛り土の前でリアと青年は話していた。
「つまり、知っているのは聖剣についてだけで、リィネスのことは詳しく知らないと」
少女リアは男に確認する。男は無言で頷いて肯定を示した。彼女は幼少期より共に過ごしてきたワイバーン(ドラゴンの一種だがそれよりも位が劣るものを指す)と共に見識を広める旅をしていたが、その道中、ひょんなことから聖女リィネスに聖剣を託され、北方の街に居るというアリシアと言う女性に聖剣を渡すと約束を交わす。
聖剣の名はアドハラスト、その短剣は持つ者を革新へと導き、使用者に風の恩恵を与えるという。
これは昨日の昼頃、そしてほんの今剣先を交えた暗殺者の男が教えてくれたことだ。(といっても相手をしたのはエルヴァンで戦闘らしい戦闘にもならなかったが)
一通り話を聞いた後で、大した話が聞けずにがっかりだろう? と男は薄ら嗤う。
「剣の名とその概要が分かっただけでもめっけものです。貴方をさっさと殺してしまうのは簡単だったでしょうけど、それを調べるのは骨です。多分私は文献を漁るのは得意ではありませんから」
以前エルヴァンに言われたことを思い出して蛇足とする。
ちらりとエルヴァンを見れば白眼視を決め込まれたので肩を竦ませた。
「なるほど、救うことによって得る物もあるという事か。ならば、利を得た後はどうする、俺はもうただのお荷物だが?」
「捨て行くのは簡単です。でもこの森の中で話し相手を探すのは難しそうですから」
「ワイバーンが居るじゃないか、意思の疎通ができるのだろう?」
「毎日アップルパイばかり食べていると、時々ミートパイが食べたくなるんです。そういうものでしょう?」
「なるほど分からないでもない、ならば暫らく付き合ってやってもいい、この怪我で森の中に放置されるなど、ぞっとする」
深手を負っているとはいえ、まだまだ元気そうな暗殺者に不安を隠しきれないエルヴァンであった。
「ところで、何て言うんですか、名前」
リアが男を支えながら問いかける。彼が未だに木に凭れたままだったのは無視できぬ目眩を感じていたからだ。先ほどからそれも少し収まり、ようやく重い腰を上げた。
「レィディアだ」
「私はリアです。こっちはエルヴァン」
レィディアは二人を交互に見、そして一つ頷いた。エルヴァンの表情はまだ晴れない。本当にこの男を信用していいのか、測りかねているようだった。
その様子に気づいていたリアがエルヴァンに微笑んだ。
「大丈夫よ、それにあんまり疑うのも悪いわよ? 用心深いのは貴方のいいところだけど、もう少し相手を信用してもいいんじゃない?」
「俺としては今の今まで命を狙っていた人間を信じろと言う方が無茶だと思うんだが……」
殺し屋と言う非常識な職業の男が世相の声を代弁した。それはエルヴァンが言いたかったところでもある。
心中で男はさらに「俺だって、立場が逆なら信用しないだろうな」と付け加えた。
エルヴァンは特に何も言わず諦めやら呆れを綯い交ぜにした複雑な溜息を吐いてリアに先を促す。
もうこれ以上口を挟むつもりはないらしい。もっとも、口を挟んだというより無言の圧力を放っていたという方が正解だが、圧力は少し大人しくなっても未だに鋭く男に注がれていて、変な気を起こそうものなら、さっきの男の二の舞だぞ、とエルヴァンの目が語る。レィディアは小さな息と共に無事な左腕だけで肩を竦める仕草をして見せた。
「しかし、この後はどうするんだ。また町へ戻るのか?」
「まさか、まだあの町には貴方の仲間が居るんでしょう? そんなところへみすみす戻れないわ」
だろうな、とばかりに男は頷く。
「それに、関税払えないし」
今彼女の懐は隙間風どころか、普通に風がひゅうひゅう吹いているのだ。お金が少ないというか、無い。紛れもなく、間違いなく、全く以て無一文である。この隙間風はアドハラストの力を使っても如何ともしがたい。
――アドハラストを両替商や彼の属する組織に売ってしまえばあっという間に大金を得られるが、そんなことは例え腕を落とされようともやろうとは思わない。
「ならば、どうする?」
「別の町に移動しましょう。このウェンズベル霊峰の末にトリシテア市国っていう小国が有るでしょう? とりあえずそこまで」
レィディアがエルヴァンの背を盗み見た。それに目敏く気づいたリアが釘を刺す。
「飛ぶのは無しね。腕への負担凄いんだから」
リアが自分の手をひらひらと振りながら言う。彼女自身、まだかなり疲労している状態なのだ、そんな中、男一人支えながらエルヴァンの手綱を握り続けるのは困難だ。それに、鞍に収まれば二人は密着状態、とても耐えられそうもない。主にエルヴァンが。
よって、取れる移動手段は徒歩のみ、エルヴァンの背にはレィディアが乗り、リアは傍らを歩く。
リアは喋るのが好きな少女だ。よってここでもしきりにレィディアにあれこれ聞いていた。
明るい性格といえどもただ天真爛漫なだけではない。
暗い感情も人並みには持っている。むしろ、谷での境遇から悲しみや怒りを発露させることは幾度もあった。自分のことならばなんと言われようが平然としている彼女だが、親友や大切なものを貶されたり攻撃されると途端に爆発するタイプだった。
それがワイバーンを庇い立てるというタブーを犯すものだから、谷では常に怒り心頭だったし、周りも危険物を見るかのような目をしていた。
それでなぜ明るく振る舞えるかと聞かれればワイバーンがエルヴァンであったからに他ならないだろう。彼はリアの期待に大抵応えた。意思の疎通ができるようになってからはリアの愚痴を聞き、励ますことに専念した。ある日、エルヴァンがリアの手を見ながらこう言った。
「人間の掌は、実に簡単に返るね」
リアは唐突な言葉の意味を少しばかりの間考えて、答えに至った。
「簡単に気持ちがひっくり返るってことね?」
エルヴァンは頷いてから「僕らは掌を返さない」と付け加えた。ワイバーンは手を持たない種族なのに。
彼の茶目っ気に笑わせられると同時に、その言葉はリアの中に一つの意識を芽生えさせた。
たとえ意見が噛み合わなくともそれっきりではないはずだ。何度も語り掛けて、話し合って、それでだめならもっと時間を掛ければ、なにか変るかもしれない。
それからは谷の人たちの意識を少しでも変えようと話しかけてみたが、結局何も変わることはなかった。
周りに対しての苛立ちと、状況を好転させられない口惜しさが募っていく。このころからもう、谷を出ることを考えていた彼女だけに、谷長からの勅令は待ち望んだものと言ってよかった。
ここ数日でたくさん好きな人が増えた。
リィネスは好きだった、もっとたくさん話をしたかった。
シルも、ラルフも好きだ、またいつかと言わず、今すぐにでも会いたい。
フレイアも、怪しい人だけど、そのうち好きになれそうだった、ワイバーンを駆る者同士色々話をしてみたい。ただエルヴァンが何と言うかはわからないけれど。
さて、ならばこの人はどうなのだろう? さっきまで自分の命を狙っていたこの人もいつかは好きに分類されるのだろうか。
彼女は知っている。人間の心はいともたやすく反転することを。
初めてそれを思い知ったのは五歳の時だった。エルヴァンと出会って周りからの視線はがらりと変わった。それをとやかく言うつもりはない、昔の自分がどうだったかはさて置いて、少なくとも今は前向きにとらえている。
白から黒になるなら、きっとその逆だってある。それが彼女の思うところ、だから今日も変わらず語り掛ける。相手が誰であろうと、何であろうと、彼女のスタンスは変わらないのだ。
ゆっくりと、のんびりと森の中を進みながら話を続ける。
「で、早く町に入りたくて雨の中一日飛んだんですけど、結局到着できずに、挙句熱を出して寝込んじゃって」
色々話して今はつい先日の失敗談を語り終えたところだ。
レィディアの反応はと言えば、時折相槌を打ってみたり、小さな微笑を返してみたりする程度だ。
そこから話はリィネスとの出会いになって、関所を通った時の事を語って、あの日の夜の事になった。溌剌と語っていたリアもいつの間にか少し声のトーンを落としていた。
「堕天してしまったんです、彼女」
それを聞いたレィディアの双眸が俄かに開かれた。今までの話をただ聞き流していただけの彼に起こった顕著な反応にリアも違和感を覚えた。
「えっと、レィディアさん?」
「……別に、なんでもない」
「そうですか」とリアが答えてそれきり、暫くの間は会話が途切れ、辺りを静寂が満たす。
視線を彷徨わせれば辺りは一面苔生した地面が広がっている。細い茎がまっすぐ伸びて葉が交互についた名前も分からない植物が等間隔に生えていて、木々はどれを見ても太く高い。
どこかで鳥が囀っている。虫の声も時折。
木漏れ日が心地よく辺りを照らしている。悲しい話をしていたというのに、不思議と落ち着く。むしろこの雰囲気があったからこそ、彼にリィネスの事を話せたのかもしれない。
無言でいたのはほんの数分だった。今度はレィディアの方から声を発した。何度か聞いた返答の声より少し控えめな声量だったように思う。
「お前、姉弟とかは居るのか?」
「居ませんよ、一人っ子です」
「そうか」
彼はそういうと緑の天井を仰ぎ見た。リアは何も言わず黙ったままだ、会話が好きだからと言って、ひたすら喋り倒しているわけではない。基本的には相手との掛け合いを楽しんでいるのだから、その時その時の雰囲気を大事にする傾向にある。
「……俺には、妹が居るんだ」
彼女もエルヴァンも無言で続きを待った。エルヴァンが地を踏みしめる音だけが規則正しく聞こえている。
「堕天した」
ゴクリ、と唾を呑む音が辺りに響いたように感じたのは果たしてリアの勘違いだったのだろうか。鳥も今は囀りを止めて息を潜めているようだ。
「じゃあ、妹さんは……」
「いや、生きている」
リアの表情に安堵の色が浮かぶ。エルヴァンも話の成り行きを気にしているようだった。しかし語り手である彼の面持ちは浮かない。
「堕天の治療には成功したが、それだけでは終わらないケースがあるのを知っているか?」
彼の問いにリアは首を振る。一度治療してしまえば終わりではないのか? と疑問符を浮かべながら。
「一度魔人になると、穢れたマナを取り込みやすい体質になる場合があるらしい。妹がそうだった。何度も教会に行き、マナの状態を見て貰わなければならない。穢れを祓うとなれば、勿論タダじゃない、治療に高価な物が必要なのだそうだ。とても下流階級の庶民が何年も払い続けられる額ではない……もうじき、また診て貰わなくてはならないが、既にそんな金もない。しかし放っておけば、妹は堕天して殺されても仕方のない存在になってしまう……そんなことは、どうしても耐えられん、だから俺は、数年前に平凡を捨てた」
俄かに語気を荒げながら彼は語る。その声は悲痛に満ち満ちていた。悔しさや苛立ち、やるせなさ、色々な感情が懇々と渦を巻き続けているのだろう。
生死の問題に金が掛かるというのは一見、酷く不条理で歪んでいるようにも見えるのだが、それは一方から見ているからそう見えるのだということを今のリアはちゃんと理解している。関節的にではあるがリィネスに教わったことだ。
彼女がなぜ堕天したのか、その原因を考えれば双方の視点からこの問題を見つめることが出来る。要は、どちらにも命が掛かっているという事。命がけの仕事だから、高い報酬を貰う。命に関わることだから、どうしても治療して貰いたい。
どちらも正しく、当然のように思われる。
きっと、元々彼は至極平凡な青年だったに違いない。それを狂わした原因は何か? やはり人々の間に蔓延った愚かしく、そしてどす黒い欲望の所為であると言わざるを得ないだろう。世界は時に不条理だ。己が利益のみを求める人間たちが発生させた穢れはこうして何ら関係ない人たちにまで悪害をなすのだ。その所為で彼は通常の暮らしを捨て、異常な職に就いた。人としての禁を犯す事を幾度も繰り返さなくてはならないような仕事に。
「分かった……」
リアは小さく、しかし強い意志のこもった声で呟く。しかしレィディアも、エルヴァンでさえ、それが何を意味しているのか理解できなかった。
「行こう、妹さんの所へ」
「な、なんだと!?」
驚愕の声を上げたのはレィディアだった。
そして、それはエルヴァンも。
「何を言っているのさ、リア! それどころじゃないし、君もボロボロじゃないか、関係ない事にまで首を突っ込んでいたら身体が持たないよ」
身体が持たない? 関係のない事? 否、そんな事は、どこかで苦しんでいる人の苦痛に比べれば、遥かに小さなことでしかない! もうすでに彼は、リアの中で無関心ではなくなっている。
同情か、と問われればそうなのかもしれない。
自己満足だ、と言われてしまえばそうだと言うしかない。
不可能だ、と断ざれたって構わない。
リィネスと同じ運命を歩まんとしている人間が居る。リィネスはあの時、悲痛に歪んだ顔で、声には出さずとも救いを求めて叫んでいたのでは無かったか? その叫びと違わぬものが、今この青年から聞こえて来たのだ、リアにそれを無視することなど出来る筈もなかった。
「エルヴァン、飛べるわね?」
リアの表情を見て梃子でも動きそうにないと見たか、彼は盛大な溜息を一つ吐き出した。そんな相棒に礼を言い、リアはさっとエルヴァンの背に飛び乗り、レィディアの後ろに陣取る。
「どこに行けばいい?」
「え、あぁ、西の……アルトレアと言う町の南居住区に」
彼は歯切れ悪くそう答えた。返答を聞いて一瞬顔を眇めた彼女は少し困った顔になり、レィディアの小脇から顔を覗かせて不安げにこう言った。
「あの、突然じゃ信じられないかもしれないけど、本心なの、貴方をどうこうしようとかじゃなくて……何ができるか分からないけど、何かしたい……ただの自己満足だけど、何も出来ないかもしれないけど、こうして声を聞いてしまうと、見て見ぬふりなんて出来なくて……」
先まであれ程流暢だった彼女の口調は突然たどたどしく、それでも気持ちを伝えるために必死で訴えかける。それはどこまでも純粋で純真で透き通っている。
そして彼は無事な左腕で、顔の半分を隠していた布を下げる。柔らかく微笑む口元が印象的な、優しそうなお兄さんと言った風貌が晒される。レィディアの表情は最初に出会った時とは別人のように柔和になっていた。いや、むしろ最初会った時の彼の表情の方が異常だったに過ぎない。罪悪感やストレスに苛まれながら、それでもやらなければならない。きっとそういったプレッシャーが彼の人格を歪ませていたのだ。
殺し合いを演じた間柄なのにも関わらず、彼女はどうしてここまで真っ直ぐ自分を見つめているのだろう。不思議でならないし、理解不能で、不安でもある。彼女が本当はなにか姦計を巡らしているのかもしれない、そう疑う事もあったが、今はそんなこと微塵も思わない。この少女の純朴さを疑ってしまえば、この世で自分は何を信じて行けばよいのだろう、そこまで思わせる何かが、彼女にはあった。
だから彼はリアを信じてみることにした。
彼女こそが聖剣の持ち主に相応しいような気がしたのだ。
「君に凶刃を振るった手前、言いにくいことではあるが……俺をアルトレアまで運んでくれ、頼めるだろうか? そして、妹にも会ってやって欲しい」
すぐにリアの表情も明るく晴れる。
上空にて、レィディアは困惑していた。
なぜ、こんなことになっている?
こんな事と言うのは今の状況の事である。つまり、飛龍の背に乗り、自分の後ろに陣取った少女に抱き着かれるように支えられているこの状況を指す。
連れて行ってくれと頼んだのは自分だ、それは間違いない。だがしかし……。
「お、おい、少し密着しすぎではないか……?」
「仕方ないでしょ、貴方は手綱も満足に握れない状態なんだから」
そう言われてしまうとぐうの音も出ない。今レィディアの腕は添え木がしてあるとはいえ、関節が一つ増えているも同然の非常に悲惨な状態なのだ。
反論の余地がないと言ってもそれでこの困惑が解消されるわけではない、むしろ動悸はだんだんと激しくなっている。荒事を生業としていた彼だが、元はと言えばごくごく普通の青年でしかなかったのだ、妹をここまで想っているとなれば彼が大方どのような性格をしているのかは想像に難くない。
妹の堕天があったのは数年前、それからというもの、常に仕事に追われてきた。勿論遊ぶ時間などないし、無論女性経験も皆無である。自分の妹とそう変わらない年端の少女が恋愛対象となるかは別として、彼の本質である生真面目さが災いして背中に当たる温もりにパニックに陥りかけていた。こればかりは暗殺者といえども自分の意志ではどうにもならなさそうである。
(お、落ち着け、こんな事なんでもないはずだ……くっ、やはりどうしても意識が背中に行ってしまう。動悸も全く収まる気がしない、こういう時はそう、羊を、羊を数えるのだ! 羊が一匹、羊が二匹……)
……どうにもならなさそうである。
その背後にて、リアも動揺していた。
異性に自ら抱き着くことへの抵抗もあるのだが、それ以前に、大変なことに気付いてしまったからだ。
(どうしよう、もう丸一日以上、身体洗ってないよ!)
一旦気付いてしまうとどこまでも汚れが気になり始める。服についた泥や血、汗、実は自分が今ものすごく不衛生なのではないかと言う疑念に駆られる、(実際に不衛生ではあるのだが)そして何より。
「お、おい、少し密着しすぎではないか……?」
「仕方ないでしょ、貴方は手綱も満足に握れない状態なんだから」
(まさか遠まわしに『臭い』って言われてるわけじゃないよね!?)
彼よりも風下にあってさらに風が吹き付けている状況で気にしても仕方がない事まで気にする有様。
しかしながらリアも年頃の少女、自分の信念に突き動かされて行動に出たはいいが早速後悔していた。胸が早鐘を打つ、離れたいが、急にそうしてしまうと不自然なのではないかと余計なことを勘ぐってしまう。
休憩で草原に降り立てばお互いに素早く距離を取って深いため息を吐く。
(溜息……まさか、動悸を悟られたか?)
(溜息! もしかしてやっぱり臭ってた!?)
お互いに悶々としながら、空の旅の道程はあと半分もある。
――何をやっているんだか。
エルヴァンだけがその様子を尻目に悠々と大空の風とそこから見える絶景を堪能していた。
アルトレアの町――町の規模は大きく無い。人々は主に商業と農耕によって慎ましやかに生活を送っている。町へ入るのに外壁は無く、関所も設けられていない、これは偏に田舎町の特徴と言ってよい。中心部から東、北、西には見栄えのする建物が多いが、それらから追いやられるようにして南にはみすぼらしい建物が密集している。そこが、彼の生まれた場所。
どこにでも格差はあるものだなと、ある種諦めにも似た感想を抱きながらリアはアルトレアの地を踏んだ。
ウェンズベル霊峰から西へ休み休み行くこと六、七時間の旅だったが、それだけの時間で到着できているのは運が良かったと言わざるを得ない。無論エルヴァンの力もかなり貢献してはいるが、上空で長時間の移動ともなれば風の機嫌に大きく左右されるのだ、それは速度であったり方向であったり、色々な面に現れる。今回調子が良かったのは常に追い風の状態で緩やかに上昇していく気流は程々に温かかったからだ。風を感じていれば丁度良い体感温度となった。エルヴァンも翼を広げているだけで良いから楽だと言っていたし、おかげで道中の休憩回数をぐっと減らすことが出来た。
これもアドハラストのおかげなのだろうか。
「案内、よろしくね」
そう言いながらリアはレィディアに向かってウィンクをして見せた。元々パチリとした目のおかげで芝居染みたその動作も様になる。
「ああ、わかった」
レィディアは少し目を逸らしつつ素気の無い返事を返す。彼はまだ整理が完全には済んでいない様子で、時折不安げな表情を浮かべる。
「まずは教会に行くべきよね」
レィディアは「そうか?」と疑問を呈す。先に妹の様子を見ておきたかったのかもしれないが、リアとしてはそれよりもっと目先の問題を優先した。
「その腕を妹さんに見せる気?」
そう言われてレィディアはようやく自分の腕の事態を思い出したらしく、痛々しく歪んだ腕を一瞥して苦い表情をした。
よく耐えられるものだ、とリアも感心していたのだが、意識が怪我に向かなかっただけなのかもしれない。或いは、本意ではないにせよ暗殺者として活動し、その中で培った一種の特殊技能と言うものだろうか。歴の長いアサシンになれば怪我や拷問の痛みを耐え抜く屈強な精神力を持ち意思操作で痛みから思考を切り離すことが出来るのだとか。話を聞いた時リアは万年掛けても自分には出来そうにないな、と思ったものだ。
さて置いて、そんな見た側も目を逸らしたくなるような腕を妹に見せる訳には勿論いかないわけで、レィディアもそのことをすぐに理解し、教会へ向かうことを承諾した。
「そうだな、流石にこのままでは不味いか」
この世界で教会と言えば、様々な方面で活躍するプロフェッショナル集団というイメージが強い。ある時は魔を祓うエクソシストとして魔人や堕天に対応する。またある時は病院として人を癒す、おかげでこの世界では医学の発展がいまひとつ進んでいない。(魔術や儀式で本当に傷が癒えてしまうのだから仕方がないかもしれない)そしてやはり本命は神様を奉る神殿として、神聖な竜や動物、あるいは道具、武器を祀っている。教会の仕事を全て列挙すればキリがないが、メジャーな活動は概ねそんなところである。
今回潜る門は教会の治療専門の施設だ。協会の構造は大抵どこも同じで、白磁色の石を積み上げた一層の建築で統一されている。一階のみではあるが、天井は非常に高く、巨大な円錐形をしている。中央に祭壇を備えた大聖堂。そこから四方に色々な施設が部屋割りされている。壁や天井の数か所にステンドグラスを填め込んであるのも特徴だ。
この町の教会も例に洩れず立派な造りをしている。いつもの如くエルヴァンを外で待たしてレィディアと二人教会の中へと踏み込む。床は大理石で、どこを見ても艶やかに光っていて、リアには自分がそこに居るのが酷く不釣り合いに思えた。簡素な案内の張り紙を見て大聖堂から右にある通路を通り、さらに奥へ、廊下は光を取り込むための天窓のおかげで明るい。通路はステンドグラスによって鮮やかに彩られて不思議な雰囲気を醸している。
通路を抜ければそこにまた大きな部屋が現れた。かまくらの様な空間にはランプが幾つか下がっていてその光は室内を仄明るく包んでいた。その中にある人影は一対、二つのベッドに挟まれるようにして通路に椅子を置き、座っていた。部屋の中にベッドは四つ、部屋はベッドによって『田』の字の通路を成している。
人影は女性だった。細かい特徴はリィネスが着ていた正装とほとんど同じ物を着ているので、髪や足腰はまるで見えない。その女性が手元の分厚い本から顔を上げる。
「あら、いらっしゃい。治療ですか?」
彼女と目が合った瞬間思わずリアは声を上げていた。
「貴方は、あの時の!」
そう、二人には面識があった。と言ってもお互いに名前も知らない間柄なうえに話をしたのもほんの少しでしかない。
彼女は紛れもなく、リィネスが堕天した夜、あの町にやって来た聖女だった。運命の悪戯か、はたまた神の思し召しか。リアの反応を見るまでもなく彼女はリアの事に気が付いたようだった。恭しく一礼して口元を緩めた。
「あの日はごめんなさいね、もっと早くに到着できればよかったのだけれど……」
リアも、そう考えることは間々あった。彼女らがもっと早く来てくれたら、或いは自分がもう少し時間を稼げていたら、結果は違っていたのではないだろうか。しかし、考えても仕方のない事だという事も分かっている。過ぎた事を言っても仕方がない。
だからリアは首を振って応えた。
「気にしないで、誰かが悪いなんてこと無いんだから、それにあの時私を窘めてくれたことは、感謝してるし」
彼女はリィネスを救えなかったと自分を責めるリアにそれは違うと断じた。そのお蔭でリアはこうして自責の念から抜け出すことが出来ている。しかし、それを聞いた彼女は少々微妙な表情だった。
「あぁ、そんな偉そうなことも言ってしまいましたね」
彼女は恥ずかしそうに俯いてしまい、リアは慌てて胸の前で手を振って否定した。
「そんな! 本当にあの一言で心が軽くなったというか、少しだけ負担が小さくなったような感じで、とにかく、貴女達にお礼が言いたかったんです」
そこまで言うとさすがに彼女も恥ずかしそうだ。少し熱に浮いたように頬が桜色に染まる。そんなやり取りをしている間レィディアは隣で居心地悪げに佇んでいた。
その様子に気が付いたリアが慌てて状況を説明する。
所々掻い摘んで説明すれば彼はすぐに納得したように頷いた。どうやら先にリアが話していたのを一応はちゃんと聞いていたらしい。おかげで説明が大分省けた。
彼女は一歩踏み出して二人に近寄ると改めて頭を下げた。
「テニレイよ、よろしくね」
「そういえば紹介していなかったですね。リアです。こっちはレィディア、ちょっと色々あって腕を怪我してしまったの。ちなみに、あの時のワイバーンはエルヴァンって言って、今外で留守番中です」
差し出された手は白く細い。まずその手をリアが握り返し、レィディアも躊躇いがちにそれに倣った。
ことの詳細は誤魔化しておく。教会と自警団や司法機関は密に連絡を取り合う協力関係にある。司法機関の権力はそこまで大きく無いのだが、それでも無視はできない。彼は今までに何度も罪を犯している筈、それを償うのは妹を守ってからでも遅くは無い、と思う。
彼に償う気が有ればの話ではあるが、そこをとやかく言うつもりはリアには無い。この先、何時自分が人としての禁を犯すかなど、分かりはしないのだから。
すると、レィディアが小声でリアに耳打ちした。
「おい……勝手に話を進めているが、金はあるのか? 言っておくが、俺はこの間妹の元へ送金してしまったから、今は殆ど持っていないぞ」
「まかせてよ、前の町でそれなりの収入になったんだから」
「それは……まさか俺の仲間に投げつけたりしていないだろうな?」
リアの顔が一気に青ざめた。汗もだらだらと滴っている。レィディアは特大の溜息を吐いて額を押えながら首を振った。
「まぁいい、用は済んだという事だ。行くぞ」
「え、ちょっと!?」
レィディアはリアの手を引いて来た道を戻ろうとする。
リアも驚いたが、テニレイも同じように呆気にとられていた。一間置いて我を取り戻したテニレイは慌てて二人の背中を追った。
通路をさっさと進んでいくレィディアに半ば引きずられるようにして進むリア、そしてその後ろからテニレイが追い付いて来た。
「どうしたの? 急に」
もっともな質問だ。リアは簡潔な回答を探して逡巡した後に応える。
「私たち、彼の妹に会いに行くんです。堕天病の患者で……彼も怪我をしているのだけれど、お金が無いから治療はいいって」
テニレイはそういう事情でしたか、と呟いてから言った。
「ならば私も同行しましょう」
「え、どうして……お仕事中ですよね?」
彼女は少し困ったような、寂しそうな表情になった。
「迷惑なら無理にとは言いません、貴女は私の事をどう思っているかはわかりませんが、私は、少なくとも全く赤の他人だとは思っていないのですけど……」
リアは大きく頷いて彼女の手を取る。
「勿論、貴女がいいなら一緒に行こう、テニレイさん」
「ありがとう、それと彼にもお話があります」
「俺に?」
レィディアは訝しんで振り向いた。テニレイは警戒心を抱かせないふんわりとした笑顔でリアを抜かしてレィディアと並ぶと、彼の肩を捕まえた。
「その腕を見てそのまま行かせるわけには行きませんね」
「し、しかし……」
「お金など取りはしませんよ、私個人のすることですから」
そういうと彼女は廊下の途中であるが、彼の前に立って腕に指の先をそっと触れさせた。
魔法の詠唱が始まる。彼女は口の中で小さく言葉を紡いでいく。リアやレィディアでは無くもっと別な物に語り掛けていることが分かる。やがて彼女の持つ十字架がぼんやりと光を放ち始める。
「世界を満たすマナよ、我が声に応えて彼の者の穢れを祓い傷を癒せ……」
青白い光の粒がレィディアの腕に収束していく。纏わりつくように彼の腕に付いた光はその輝きを鈍らせながら離れて消えていく。それがマナであることはリアにもわかった。
『マナと言うのは人に似た所がある』とシルが言っていたのを思い出して、少しの不安が胸中をよぎった。
「あの、これ……この光って、マナですよね」
「ええ、そうです」
テニレイは簡単に応えた。
「消えて行ったマナって、死んじゃったんですか?」
不安げなリアに彼女はふふふ、と笑った。
「大丈夫、マナは死んだりしないから、マナは……そうねぇ、世界を満たす意思。そう、星の血液とか、星の意志という様に言うけれど、それは増えることも減ることもない。ただそこにあるだけの物なのよ。時々こうして私たちの意志に応えてお手伝いしてくれるけれど、基本的には、世界に干渉することは無いの。今のは怪我の治療で疲れてしまっただけ、時間を掛ければ回復するわ、太陽や月の光、清浄な空気や水でマナは活力を得るのよ、その活力を使えばほら、こうして」
彼女はレィディアの腕をポンと叩いた。ギョッとしたレィディアだが、痛みは無く、いつの間にか腕の傷はすっかり治っていた。
「そうなんですね、良かった」
「リアさんは優しいのね、どう? 聖女でも目指してみる?」
「えっ! 私にも成れるんですか!?」
「一日六時間の瞑想に耐えることが出来れば、ですけれど」
「じ……辞退します……」
リアはがっくりと肩を落とした。テニレイやリィネスと同じようなことが出来るのなら、と思ったが、どうしたって無理そうだ。
「貴女には聖女になるより先に役目が有りますものね?」
聖剣の事だとすぐに分かって、大きく頷く。いきなり寄り道となってしまってはいるが、いずれはこれを届けるのだ。目的地はここよりずっと北方の地、目的の女はアリシアと言う事しか分からない上に、危険は付き纏うし、無事に届けられるかどうかも分からない、それでもやろうと思う、半日も一緒に居なかった人にここまで思えるというのが自分でも不思議だ。けれどきっと一緒に居る時間の長さなど関係ないのだ。リィネスの事をリアは何も知らないし、その逆も同じ。逆に彼女の事を知り尽くしたとしてもきっと、リアの出す答えは変わらないだろう。
それだけに、彼女ともう会えないことが彼女の心には一つの楔のように残り、今も取れないでいる。
でもそれはそれで良いとも思う。例え心痛む楔だとしても、それはリィネスが存在した確かな証拠となるならば、胸の痛みにも耐えられる。
その意識は聖女であるテニレイにもマナを介して伝わっていた。リアやレィディアには分からずとも彼女の周りにはマナが豊富に集まっているテニレイが魔療(魔法による療養)を使うために呼び寄せたマナはその場にとどまり、リアの周囲で漂っていた。このようなことは極珍しく、マナが自分の意志によってその場に留まろうとするなど、瞑想などの修行では無く、真に純粋な心を持っていないと起こり得ないことだ。その光景を見てテニレイは思う。
(マナとは星の意志、マナに好かれるという事は世界に好かれているという事。時代が時代なら、勇者や英雄と呼ばれることになったでしょうね。これから先どうなるかは分からないけれど、この心が曇ってしまわぬよう願いましょう。あわよくば、星の意志が彼女を守って下さることを)
考えに耽って動きを止めてしまったテニレイにリアは首を傾げた。
「どうしたんです。テニレイさん」
そう言われてようやく彼女は我に返った。
「あぁ、いえ、なんでもありませんが、どうしました?」
「レィディアが、お礼言いたいって!」
「え、俺はそんな事一言も……!」
「顔に書いてあります」と言ってリアはレィディアの完治した腕を引っ張り、テニレイの前に押し出した。
レィディアは躊躇いながらも、それを避けるような愚は侵さなかった。むしろ本来の実直な性格から礼のタイミングを逸して悶々としていたところに渡された船だ、拒もう筈もなかった。
「その、済まない、手間を掛けさせた。教会へ払う金以外に私から貴女個人にしてやれることなど思いもつかないのだが、もう少し力を貸してもらえると嬉しい」
その言葉に彼女は躊躇うことなく頷いた。
「人々に救済を与えるのが我々の役目です。相手が誰であれ、平等にね」
ありがとう、と噛み締めるように呟いた彼の言葉は確かに二人の耳に届いた。
「さぁ、行きましょう、エルヴァンが待ちくたびれちゃうわ、それに、妹さんも」
「そうだな」
答えた彼の瞳には強い覚悟の光が宿っているような気がした。それが何に対する覚悟なのか、リアとテニレイには知る由もない。しかし……。
直に突きつけられることになる、現実の非情さを。
思い知ることになる、己の無力さを。
そして感じる事になる、内に秘めたる力を。
吹き抜けていった風は果たして清浄を齎しているのか、或いは、嵐の前触れだろうか……。
なんとなくうまく書けなかった話なので悶々としながら投稿しました
書き直せたら修正するかもしれません。