3話 紅は猛り静謐は群青
――それで、エスメラの町に向かっているのか。
シルは呟く。口には先ほどまで肉を焼くのに使っていたのと同じ鉄串を咥えている。もう肉はすっかり平らげてしまって、鹿や兎の骨すらも巨大なオオカミのラルフとワイバーン(腕の無い竜。飛龍とも言う)のエルヴァンが処理してしまった。
シルの言葉に、リアは他にやることもないから、と答えた。
追放と大差ない形で旅に出たリアはワイバーンを竜に昇華させ、血統を取り戻すという谷長からの使命をおびていたが、そんな事に一生懸命になる気は起きなかった。当てのない旅に行先をくれたのはリィネスと言う女性。聖女として、汚れたマナを取り込むことによって発症する堕天病を治療し、彼女自身は己の魂を穢れに侵食されて、魔人へと身を窶してしまった。
――そして、その聖剣を奪おうとする奴が居る。
再び紡がれたシルの言葉にリアは頷いた。
今二人は、それぞれの相方に背中を預けて空を見上げている。日は完全に落ち、黒い天幕には粉々に砕いた宝石をぶちまけた様な光景が広がっている。宿の寝床では見られない光景だからこういう時、リアは野宿も悪くないと思う。
――戦っていくのか?
シルは問う。それは、場合によっては人を殺めるという人間としての禁忌を犯すのか、と言う意味も孕んでいるように感じられた。できる事ならば、血は見たくない。
そういうのは、最後の手段にしたい。と呟いたが、それが難しいことであることも理解しているつもりだ。『世の中、俺の様に聞き分けのいい奴等ばかりじゃねぇってことだ』両替商の言葉が脳裏を過る。その通りだ。リアだって、聞き分けのいい性分ではない。戦いたくない、殺したくないというのも彼女の勝手な意思であることに違いは無い。
――誰でも自分が一番かわいいんだろうさ、だから他人と衝突する。それに気づいたところで本当の自分を捨てられる訳でもなし……考えても無駄なことは考えない方がいい……。
そこまで言うと次第にシルの声は小さくなっていき、やがて寝息に変わった。
リアもすぐに追いかけるように眠りに落ちていった。
眩しい光に瞼を刺激され、目を覚ます。そこにシルの姿は無いようだった。
代わりに書き置きが一つ残されていた。
『先に行く。あと、水筒に水補充しといた。またどこかで会おう』
堅苦しくなくて、別れ際の言葉だというのに見ているこっちが微笑ましくなってくる。これが彼の人柄なのだろう。心の中でシルに向けてお礼を言いつつ、リアは一つ大きく伸びをした。起き抜けの気怠さが無くなって、だんだんと体と脳が覚醒してくる。
「僕が起きたときにはもう発った後だったよ」
「そっか……」
森のどこかで、遠吠えが響いている気がした。
せめて別れの言葉を送りたかったが、彼らにも事情があるのだろう。シルの修行の時間を奪うわけにもいかないし、寂しくはあるが、永久の別れでもあるまい。またどこかで出会うと信じて、それぞれの目指す場所を向いて行こう……と、思った矢先の事だ。
山の中腹で爆弾でも炸裂したかのような音が轟く。間違いなく、竜砲の響きだった。その後、オオカミの遠吠えが霊峰に響き渡った。
「リア!」
エルヴァンが叫ぶ。
「行こう!」
リアはすぐさまエルヴァンの背に乗る。エルヴァンは急な斜面を数歩走って、その勢いですぐさま大空へと駆り出した。
時刻は竜砲が鳴り響く数分前に遡る。
シルとラルフは自分たちのキャンプのポイントまで戻るべく山を下っていた。今はまだ日が昇って間がない。リア達の所をまだ暗いうちに後にしたのはあの空間の居心地が良かったからだ。あまり長く一緒に居ると、分かれる時の辛さがどこまでも深くなっていきそうだったから、早いうちに別れを告げた。
「……ま、旅の一幕としちゃ、まずまずの演出じゃねえか?」
名残惜しさを紛らしながら、槌を杖代わりに歩くこと数刻。彼は樹林の最中に女性と鉢合わせた。
赤い髪、白い肌に蒼の瞳。服と深くスリットの入ったロングスカートはどちらも黒い。腰には細身の簡素な剣が一本。
その美麗な容姿にシルもラウルも一瞬目を奪われるが、すぐ何か異様なことに気付く。こんな森の中に人、それも女性が居るとは。リアの先例があるが、彼女は特別な事情を背負った存在。では、この目の前の女性は? 何が理由でこんな場所に姿を現したのか。その答えは諮らずしも彼女の口からもたらされた。
「この辺りで……ワイバーンを連れた女の子を見なかったかい?」
その一言はリアの持つ聖剣の存在を彷彿させ、彼女に警戒を抱くに十分なものだった。その所為でシルは手痛い失態を犯してしまう。
「な……!?」
「知ってるんだね? ちょいと話を聞きたいんだ、なに、時間は取らせないよ」
ゆったりと流れるような口調で彼女は問いかける。シルは自分のミスに舌打ちした。
馬鹿野郎が、そこは白を切るところだろうが、と自分を叱咤したところで失敗は消えない。ならば、どうする? シルは右手の槌を構え、ラウルも牙を剥いて唸りを上げる。
「言わないって? アタシは拳で語らうのは好きじゃないんだけどね」
「目を見ればわかるよ、あんたは常人のそれと全く違う目をしてる」
途端に彼女の纏う雰囲気が変わった。今のやり取りでシルの実力をある程度推し測ったのだろう。圧倒的な殺気が放たれる。
その気当たりにシルはおろか、遠方の森でオオカミ達を統括していた実力を持つラルフでさえ怯み、反応が瞬間遅れた。
身体が言う事を聞くようになったのは急迫する彼女の剣が鞘から放たれる寸手のところだった。
槌を翳し、剣激を受け止める。彼女は防がれたと見るや否やすぐさま後ろに跳び、ラルフの初激を事もなく躱した。流麗なステップで再びシルに接近し、剣と槌を組む。シルの持つ槌を打ち払い、後方より飛び掛かる巨狼に女は自らの左腕を翳した。腕をラウルの鋭い牙が捉える。地面に押し倒し大きく首を振るうラルフだが、手応えがない。そもそも牙が肉に届かない。訝しむ間もなくラウルの胸部に痛烈な蹴り、思わず捉えていた腕を離してしまう。敗れ落ちた袖の間から現れたのは白銀の腕甲だった。腕をぐるりと包み込むその武装にラルフの牙は防がれたのだ。
一瞬間できた隙に彼女は身体を転がせ、ラルフの間合いから外れる、その直後には元々顔の有った位置に槌が振り下ろされ、地面に穴を穿った。
「おいおい、女の顔をそんなに躊躇なく狙うなよ」
「オオカミに本気で襲われても無傷なやつを女とは呼びたくないね」
「わんちゃんの遊び相手なんて慣れたものさ」
わんちゃん扱いが勘に触ったのか、ラルフがいきり立つ。直後彼の遠吠えが響いた。その種の頂点に君臨する者の権力で森中のオオカミを一か所に掻き集める。すぐさま木々の向こうから二、三の影が踊り来る。森の数か所から反響するように別のオオカミ達の返答が返ってくる。そして、新たに聞こえる声は上空よりもたらされることになる。
それは雷の如く木を引き裂きながら飛来した。振動と、土煙を上げながら巨影は迫りくる群狼の前に降り立った。
その巨体は、生き物の声とは思えぬ音を放射する。胸を何かが突き抜けたのかと錯覚するような衝撃破と共に轟音が鳴り響く。まさに爆音と表現するに相応しいそれは、群れるオオカミを一瞬で怯ませ、戦意喪失に追い込むのに十分すぎる威力だった。
ドラゴンのようだが、違う。その巨体に腕らしい部位は見当たらない。リアと一緒に居たワイバーンのエルヴァンとよく似ている。
天より出でて地の生を貪る者。この世界でワイバーンとはそう表現され、恐れられる。オオカミを遥かに凌ぐ獰猛さ、猛禽類を思わせる驚異的な視力、半日以上も上空に留まることのできる翼を持ち、その足はあらゆる物を握りつぶす。岩のように頑丈な鱗、鋭利な爪と牙、その舌には蛇に通ずる臭いを捉える器官を備え、尾も強靭な筋肉の集約である。強すぎる力を持つが故に彼らは神によって腕を奪われたのだ、古の神話でそう語られるほど彼らの力は常識離れしていた。
合流しようとしたオオカミ達はどうしていいか分からずその場で様子を窺っている。ラルフもこの伏兵は察知できなかったらしく、無理に彼らを突進させようとはしなかった。
「グラム! お前は上で待機って言ったろ!」
赤髪の女性が飛龍に向かって叫んだ。飛龍は反抗的な視線を返すのみだ。
「まったく……可愛いやつめ」
口の端を釣り上げて言うや否や、彼女は飛龍に駆け寄っていく。シルが追い縋ろうとするが、飛龍が睨みを利かせた瞬間、足が竦む。死線。あと数歩を歩んだ先にそれが見えた気がした。「そこを超えたら容赦はしない」と飛龍が言っているようだ。辺りのマナが騒めいているのが、魔法使い特有の感覚でわかる。これ以上は自分の手に負えない。己の未熟さを悔いながら、シルは飛び立つ飛龍と女をただ睨んでいるしかなかった。
「この辺りだよね、エルヴァン」
「ああ、確かにこの近くで竜砲が……あっ!」
竜砲を聞きつけてすぐさまやって来たリアとエルヴァンはたった今飛び上がって来たワイバーンを発見する。飛龍はエルヴァンよりもさらに一回りも大きな体格で、その身体はエルヴァンと違って群青をさらに濃くした様な色味をしていて日の光に照らされると深い青を一層輝かせた。
「ワイバーン……騎手がいるけれど、追手かしら」
リアはエルヴァンに近づきすぎないように旋回するよう呼びかけた。
向こうもこちらに気が付いたらしい。下からはラルフの物と思われる遠吠えが聞こえて来た。エルヴァンがその意味を読み解く。
「逃げろって」
「山を越えましょう」
山では海からの風が吹きつけ、上昇気流となっている。すぐさまエルヴァンは身を返して方向を転換し、森林の上すれすれを飛ぶ。
「追って来たわね」
リアが言い、エルヴァンが頷く。
「追手なら当然だね」
「もっと速く飛べる?」
「易いことだ。後ろ見ててね」
「任せて」
エルヴァンの翼は早くも上昇気流を掴み始めていた。大きな気流を見つけてそこに乗ると、猛烈な息吹がエルヴァンの巨躯を押し上げ、あっという間に山の頂上を超えた。
相手も風を掴んだらしい。蒼きワイバーンの猛追が始まる。
「エルヴァンに着いて来られるなんて」
「それは僕を評価し過ぎだ、リア。ドラゴンと比べれば僕は断然早いけど、ワイバーンと比べれば五部程度なのは当然だよ、だから、本気で飛ぶ」
「久しぶりだね」
そう言いながらリアは服の中に押し込まれていたゴーグルを引っ張り上げて装着した。同時にエルヴァンの鞍から延びるバンドを手首にしっかりと巻き付ける。
「行くよ!」
エルヴァンの掛け声と共に身体を前のめりに倒し、空気の抵抗を減らす。エルヴァンはたっぷり上昇した後翼を折り畳み、頭から落下した。その体重を以て、一気に速度を得ながら空中で追手のワイバーンと交差する。
すぐに相手も降下を始めたが、勢いのついたエルヴァンの方が早い。エルヴァンは地面をギリギリまで引きつけてから両翼を展開、ぶつかる寸前で身体を右方向(山の斜面から離れる向き)に切る。山の反対側は上昇気流がほとんどない。
此処からは相手との心理戦だ。再び安定した速度で飛ぶエルヴァン、その後ろにはやはり追手、距離は先よりも少し開いた。下は森、高所は後方の霊峰しかなく、身を隠すのは困難に思われる。
となれば、相手が諦めてくれるまで逃げ続けるか、地上で決戦するしかないだろう。逃走側と追走側では大抵追う方が有利だ。
リアが後方を確認する。
「え? 居ない!?」
リアが言うように、さっきまで後ろにいたワイバーンの姿が消えている。
「下だ!」
エルヴァンは即座に進行方向を右に急旋回する。その直後、同じポイントを追跡者も右に曲がる。距離は少し縮まった。
「なんで、さっきまで離れていたのに」
「下降すれば勢いが付くから、その速度を利用して間合いを詰める。それに気づかずに僕はロール(水平方向の旋回)してしまった。おかげで僕の進行方向に先回りされていたんだね」
エルヴァンが説明を施した。それによってリアに分かったのは、その原理よりも、向こうの方が圧倒的に飛行経験が豊富、という事だろうか。
「なるほどね、駆け引きに負けたってことは、よくわかったわ。何とかなる?」
「君の信頼が本物ならば、なんとかしろと命令してくれればいい」
「……任せたわよ」
エルヴァンは頷き、再び高度を落としながら加速する。森を眼下に見ながらしばし真っすぐ飛んだかと思えば大きくロールしながら斜め上方に向かって高度を上げる。それを繰り返しながら徐々に高度を上げていく。時折右に左に急激に方向を変えながら、撹乱しようと試みるが、相手もかなりいい反応をしている。
ロールとループ(垂直方向の回転)、急旋回、降下、上昇。あらゆる三次元的な動きを尽くしてただひたすら逃げ回る。終わりの見えない逃走劇は開始から二時間を数えようとしていた。
後方でフレイヤは呆れていた。
「やれやれ、あっさり諦めるかと思っていたらとんだ誤算だ。まったく、楽しませてくれるじゃないか……!」
追われる側のリアは驚嘆する。
「どこまでついてくるのよ! 追いつかれたって、絶対に聖剣は渡さないんだから。でもワイバーンを操れるなんて、一体何者なの……?」
普通ワイバーンは人に懐かない。自分が異端であることを知るが故に、未知の敵に不気味さを感じる。
だがリアは首を振って不安を払った。
転機は不意に訪れる。
それは丁度、エルヴァンが相手の動きを読み違え、あわや両者が接触するかと言う時のことだった。
下からの圧力を感じたエルヴァンは自分の意志も関係なく、上昇する気流に身体を押し上げられた。普通ではありえない現象だ。
しかし、その奇跡のような風のおかげで状況は好転する。
エルヴァンの下を追従するワイバーンが通り抜けたのだ。すかさずエルヴァンは逆にその後ろを取った。逃と追の逆転現象が起こる。上昇したことによって得た高度は速度と同じ意味を持つ。エルヴァンの目の前に相手の飛龍の尾がチラついている。この尾に噛みついて引っ張りでもすれば向こうは諦めてくれるだろうか。
同族を傷つけるのを嫌ったせいもあるかもしれない、少し躊躇った瞬間、前方に銀の閃きを見た。飛龍の背に乗る女性がナイフを投げつけて来たのだ。
「うわっ!?」
幸い当たることは無かったが、エルヴァンはバランスを崩し、高度と速度を数段落としていた。
「降りるしかない……かな?」
リアの言葉にエルヴァンは賛成できなかった。下りれば自分たちが圧倒的に不利だ。
ワイバーンの争いは基本的に一瞬でケリが付く。相手がどんなに頑丈な体を持とうとも、上空から落下してきたあの巨体に押しつぶされて生き残れる生物は稀だろう。たとえ回避しても彼らには強靭な体があるし、竜砲という第二の武器もある。自分もそれらを持つが故に、その恐ろしさもよく分かっている。
だからといってこのまま飛び続けてもジリ貧になるだけだ。
「リアは、下りた方がいいと思う?」
「うん……て、言うかね、手が……限界」
「あ……」
エルヴァンもすっかり失念していた。自分は大丈夫でもパートナーはそうではないかもしれないということを。人と飛龍とでは体のつくりが余りにも違いすぎる。人間が彼らに着いて行こうとすると、努力ではどうにもならない壁がありすぎた。
危険を承知で降りようと覚悟したとき、手前を飛ぶ赤髪の女性が指で下を示した。どうやら降りろ、と言っているらしい。向こうも降りてくれるならこちらとしてはありがたい。
そうしてお互いは少し距離を開けて、地面に降り立った。森の中にぽっかりと円形に開けた場所にて、それぞれは初めてまともに対面した。
「楽しい追いかけっこだったね」
リアに近づきながら彼女は言う。その表情に宿るのは楽しそうな笑みだった。
「貴女は、何者なんですか?」
「あたし? あたしはただのなんでも屋。フレイアって言うのさ。こっちは相棒のグラム」
そういうあんたは? とフレイアが問い返す。
「私はリア。この子、エルヴァンと旅をしています」
「リアにエルヴァン……なるほど、いい名前だ」
「……どうも」
リアは彼女が何を言いたいのか、何をしたいのか、未だに測りかねていた。この場でフレイア本人を除けば、相方の飛龍であるグラムだけが知っている。フレイアがただ単にリアに興味があるだけだと言うことを。
「聖剣を渡してくれ」
満面の笑みでそう言われ、目から入ってくる情報と、耳から入ってきた情報が一瞬合致しなかった。あまりにも爛漫な笑みを湛え、発した言葉はリアが今一番危惧していることで、ちぐはぐなイメージが噛み合わず、それはそのまま空白の時間となった。
「リア!」
エルヴァンの声によって我に返った時にはすでに二人の間合いに隙間は無かった。フレイアはリアの顎に手を掛け、顔を上げさせて、リアに自分の顔を見させた。否、それはリアから見たイメージであって、実際にはフレイアがリアの顔を見るために顎を上げさせたのだが。
「可愛い顔をしているね」
とフレイアに呟かれた瞬間えも言えぬ不穏な気配がリアの全身を巡る。嘗めるような、と言おうか、這いずり回るような、と表現するが近いか、とにかくそれに類する、とてつもなく不快で不安になる気配。
慌てて距離を取ろうとするがそれは叶わない。軸足はフレイアのブーツによって軽く踏まれていて動かせず、左手はリアの背中から肩にかけて置かれている。
「ねぇ……聖剣持ってるよね? 渡してくれない?」
耳元で囁かれ、吐息が掛かる。男であればあっという間にその気になってしまうのだろう、しかしリアは恐怖しか感じない。リィネスと刃を交えた時と言うよりは、つい先日、どこぞのオオカミに襲われた時に感じたのと同種の恐怖に近いものを感じていた。しかし怯んでいるわけにもいかない。
「ダメです。渡せません、腕づくで奪うと言うならエルヴァンに飲み込ませて彼だけ行かせます」
明確な否定と、強引に奪い取ろうとすればより厄介なことになる可能性を付きつけられてフレイアは表情を曇らせた。
「どうしても?」
「ど、どうしてもです」
「どうして?」
「どうして、と言うと」
「どうしてそこまでしてその剣に拘るのさ? 力がそんなに欲しいのかい?」
リアが強く首を振ることで、このどうして合戦は終結した。
言いたいことはある。明確な理由もたくさん、しかし伝えたい言葉がうまく取捨選択できない。結局、自分の意志の根幹にある一つの言葉を紡ぐに至った。
「私がそうしたいから。こう見えて私は聞き分けの悪い女なの」
そういうとフレイアは小さく噴き出した。
「いいよ、そう言うの。あたし好きだな、あんたの事ますます気に入っちゃったよ」
どうやら悪くない返事だったようなのだが、雲行きが見えない。
「じゃあ……今回は見逃してあげるよ。勿論、条件付きでね」
「条件……」
「その聖剣であたしと戦ってくれ、絶対とは言い切れないが、まあ殺さないようにはする。あんたは殺す気で来ていいよ」
「えっ」
「おっと、逃げるのは無し、だよ? これはあたしがあんたを“見逃す”条件なんだから。それに、あたしだって」
「……聞き分けが悪い?」
「正解」
止む無くリアはフレイアの申し出に首肯した。
「助かるよ、なんせ手ぶらで帰ったらあたし首が飛んじゃうからさ」
などとおどけて首元を手で切るような動作をしていたが、果たして本当なのだろうか。もし事実なら、彼女は人ひとりどうとでも出来るような組織に属しているという事になるのだが、リアからすれば彼女は一度のミス程度で切り捨てられるような人材ではないように感じていた。
そんなことを考えているうちにフレイアは適度に離れて間合いを作った。
「本気で来なよ、手を抜いたり、びびって動けないようならあんたを斬ってその聖剣持って行くからね」
リアは頷いて、上着のナイフホルダーから短剣を抜き取る。白い鞘から現れる刃には世界が反転して映り込んでいる。柄を握ればその聖剣はリアの手にしっかりと収まって違和感と言うものを知らないくらい馴染んだ。いつもの彼女なら手が震えてもおかしくない状況だが、自然と落ち着いていた。まるでリィネスがそっと手を添えてくれているような温かさがある。翠の宝玉が小さく煌めいていた。
リアは剣を真っ直ぐ立て、右手の肘を少し落とし、剣の柄尻にそっと左手を添える格好で構えた。足は右足を前に、ほぼ肩幅。ゆったりとした構えは辺に力が入りすぎておらず、仕上がっている。その構えを見てフレイアは少し気を引き締めた。
(伊達にワイバーンを飼い慣らしているわけじゃないってことかな?)
フレイアは腰の鞘から細身の剣を抜き、鞘は後ろで控えている飛龍、グラムに預けた。
彼は何も言わずおとなしく鞘を咥える。
彼女は剣を右下から左上方に向かって斜に構えている。柄には手を守る金属板。左手にはやはりむき出しになった銀の腕甲、右半身を前に出すように構え、左足と左腕は後ろに引いている。
闘争本能むき出しの戦闘狂に見えて守ることも弁えているのか、とリアは少し臆する。
しかし弱気になってばかりもいられない、リィネスが命に代えて託したこの聖剣をそう簡単に渡すわけにはいかない。心の中の弱気が少し薄れ、いつもの自分が戻ってくるように感じた。
静かに、深く息を吐き出し緊張と疲労感を追い出していく。
幾何かの静寂の後、リアが少し足の位置をずらした瞬間を合図にフレイアが動いた。
ほとんど一度の足運びで間合いを半分以上詰め、刺突を繰り出す。フレイアの一撃目は短剣に弾かれ、次には彼女の懐深くに切り込む短剣が襲い来る。それを左手の腕甲でいなし、容赦の無い薙ぎ。細身の剣のため一発で首が飛ぶようなことは無いだろうが、当たれば致命傷は免れない。リアが横薙ぎの一閃を姿勢を低くして躱した直後、フレイアの剣は軌道を変えて振り下ろされる。
その剣が届かなかったのはまたしても短剣に防がれた所為だ。
鍔迫り合いなど全く生じない応酬は息を付く暇さえ無いほどだった。
短剣を武器とするリアは相手の懐へ入り込もうと低く構え、対するフレイアは剣のリーチを活かすために自ら離れようと、また相手が距離を取らざるを得ないように剣を振るう。
打ち合っては距離を取り、すぐに肉薄する。その繰り返しの末、リードを得始めたのはフレイアだった。リアはその経験の不足と飛行の時の疲労によって徐々に押され始め、防戦一方となっていた。防ぎ、躱し、打ち込んでは距離を取り、上がる息も流れる汗も気にせず、とにかく相手の剣先に集中していた。
だが、やはり先に一撃を貰ったのはリアだ。左の肩を剣が浅く沿うように走る。急激に熱を感じる切り口に表情を歪める。切れた服の袖からはその傷口と流れる血が見えている。
後方でエルヴァンが何事かを叫んだが首を振って相手にしなかった。
まだだ、まだ彼女は満足していない。
リアは本気でやっているつもりだが、彼女はまだ本気で無いことが分かる。悔しさに歯噛みもしたいが、同時に彼女にはいつでもこの茶番を終わらせることが出来る権利を持っていることに恐怖も覚える。
もっと、もっと見せつけなければいけない、彼女に。
どうすればいいかなんて考えて答えを見つけられそうもない。ただがむしゃらに、この短剣を振るうしかないのだ。
「どうした、諦めるか!?」
フレイアの声が飛ぶ。リアは数歩先にいる彼女をきつく睨み返した。
「どんなに傷ついたって……絶対に渡さない! 約束したから!」
「ふふ、さらに良い目になったね……おいで」
自らに引き寄せる様にフレイアの左手の指が動く。その仕草が示す意のままにリアは再び足を踏み込んだ。
お互いの剣を交え始めて暫くするとリアは不思議な感覚にとらわれ始める。
普段と視界が異なる。正確に言うと、普段は見えていないものが見えている。ぼんやりと映るそれは別段視界を邪魔するわけでもなく、見えているというよりは感じているというに近い。
うねり、渦を巻き、時には散り散りになっていくそれが風の動きだと解るまでに幾分かの時間を要した。今自分は風の動きを、空気の流動を見ているのだと理解した。なぜ、そんなことが起こるのか、答えは手に握る一本の剣しか思い浮かばなかった。
最初から妙に馴染んでいた短剣だったが、今は既に自分の体の一部のような感覚すらある。この感覚は彼女がエルヴァンと意思疎通をしているときによく感じるものと似ている。
そして思い至る一つの真実。そうか、上空でのあの風はこの聖剣だったか、と。
剣が自分を信頼している、そんなことがあるのか、信じ難いことだがリアはそれを信じることにした。信頼には信頼を以て返す、彼女なりの流儀だ。
(剣が私を信ずるなら、私もこの一本に全幅の信頼を乗せる!)
突如として彼女を包み始める風。
それは次第に強さを増していく。足元からリアの周囲を螺旋状に風が這い登ってくる。肩にそろえて切られた髪が靡く。短剣に嵌められた宝石が脈動するような感覚。風を纏いながらその一歩を踏み出す。
追い風は、吹き始めた――!
右腕の一本でフレイアの剣を弾き、続くリアの剣激を防ごうとする甲は剣に生じる風圧で押し退けた。風に乗って一気に間合いを詰め、風を読み攻撃を躱す。
リアの肩への一撃を与えてから以降、フレイアはリアにかすり傷一つ付けることが叶わなくなっていた。
フレイアの顔から余裕の色が影を潜める。押され、圧倒されながらその実、どこか楽しそうでもある。勝利を確信していた表情から慢心が消え去り、喜色を孕んだ笑みに取って代わっていた。
裏社会での荒事の渦中にはフレイアの影があると謂われるほどに彼女は戦いを好んだ。だが、あくまでそれは虐殺ではない。彼女は一方的な殺戮というものをしたことがない。己と実力が比肩する手合いを探して流離う、その理由は相方であるグラムですらはっきりとした解を得られなかった。
フレイアはこの勝負に際限のない充実感を得ていた。自分の完璧な筈の読みが、洗練された剣技が尽く通じない。こんな手合いは今までに一人だって居なかった。たとえそれが聖剣による強さだったとしても、こう思わずには居られないのだ。
(強い……勝ちたい!)
一段と強い踏み込みがフレイアにあった。
それを得てリアも最大級の攻撃を予知して身構える。
彼女の渾身の突きが繰り出され、リアはそれを避けるでも受け止めるでもなく、流した。短剣を添わせ、自分の顔の横数センチのところまで逸らし、やがてフレイアの腕が伸び切ると靡いていた髪が数本散っていく。
風が導くその先は、一点の隙。
フレイアはゆっくりと息を吐き出した。
(風の聖剣、アドハラスト。その風は持つ者を革新へと導く……か)
フレイアの喉元寸手の所に短剣が付きつけられる。リアはそのまま肩で息をしながら動かなかった。
「殺さないのかい? ここでやっておいた方が、後々楽だと思うよ」
「私はこの剣さえ守れれば、それでいいんです。旅の目的は人を殺める事ではないから」
「つくづく聞き分けないね、あんた」
「その方が好きなのでしょう?」
フレイアは快活に笑った。リアの口元もようやく少し綻んだ。
そして、彼女は銀の腕甲を擦りながら言う。
「アタシは今最高に気分がいい、ちょいとおしゃべりに付き合え」
リアもエルヴァンも表情を失う。
フレイアの後ろでは群青の飛龍が呆れたように首を振っていた。
「おしゃべりって、私は、もうそんな余裕……」
未だに肩で息をしているリアに対してフレイアは「気にするな」と言ったが、リアには意味不明であった。
「なぁに、ちょっと耳を傾けてくれるだけでいいんだ」
「それなら」とリアも了承し、エルヴァンの体に背を預けた。
「えっとね、昔々あるところにお爺さんと……」
「行こうか、エルヴァン」
リアはフレイアの語り出しを無視してエルヴァンの背によじ登ろうとする。ふざけていたフレイアも腰を浮かして止めた。
「待った待った! 冗談だよ、冗談」
コホン、と咳払いをした後に彼女は話し始めた。
それはリアの持つ聖剣についての事だった。
「信じるかどうかはアンタ次第だけどね、あたしに勝ったご褒美に一応教えといてあげるよ、その剣に込められた意味と、その伝説をね」
彼女曰く、聖剣の銘はアドハラスト。
有名な刀鍛冶の最後の一本だという、アドハラストとは失われた古の言語で「新風」を意味するそうだ。
「持つ者を革新へと導く」と謳われ、使いこなせば風を意のままにできると言われる。この剣を打ってすぐに、その鍛冶師は槌を置き以降剣を打つことはなかった、剣はその町の教会に寄与された。
――この剣を手にした者が人類を革新へと導き、穢れた空気を祓う清浄なる風で有ることを冀う。
老いた鍛冶師はそう言い残した。
その言葉は名言として各地を巡り、やがて言葉の後半部分が省かれ、前半の一文だけが世間を渡り始める。
そうするうちに何時の間にか、剣に込められた思いは捻じ曲げられ、別のモノになってしまったのだ。
――持つ者が世界を変える。
そう言った意味で捉えられるようになり、この剣は何度も賊に狙われるようになった。
「そういう経緯でその剣は色んな方面から狙われてる。アタシは別に聖剣が欲しいわけじゃないからこうして教えてあげるわけさ」
「本当に戦うための口実なんですか」
「うん」
彼女は真顔で頷いた。リアにはとても着いて行けない感覚の持ち主のようだ。
「殺しが好きなんですか?」
「殺しが好きなわけないだろ、アタシは殺人鬼じゃない」
「決闘が好きなんですか?」
「アタシが好きなのは強くて可愛い女の子だな! さて、任務は失敗しちゃったし、お暇するとしますかね。次の勝負が楽しみだ。それまで聖剣は大事に持っていてくれ給え……じゃあね」
(次がないことを祈ろう……)
真剣にそう思うリアをしり目に、彼女は相棒、グラムの背に立つと風と共に空高く舞い上がった。
「はぁ、疲れる……なんだったんだろう」
「本当にね」
エルヴァンの、同情するような声が響いた。
「とにかく休みたいよ」
「昨日のキャンプに戻ろうか」
リアは首肯して、エルヴァンの背に跨った。ここへ至る時とは打って変わってゆっくりと、のんびりと霊峰の高みを目指す。
山の頂上を超えたとき見えたのは一筋の煙だった。
以下は少し前に起こったとある事件に巻き込まれた聖女の話である。
時は数ヶ月前に遡る。
教会で、一人の聖女が女神像を拝んでいる。顔を見ればリィネス、その人だ。
彼女はこうしてしばらくの間女神像を拝むことを日課としている。最近は拝む対象に聖剣が加わり、日課に掛ける時間は少し多くなった。
黙想も終わり、勤務に戻ろうと立ち上がった瞬間、聖堂内が俄かに騒がしくなった。
幾人かのサンクティスが講堂に逃げ込んできたかと思えば、数名のパラディーンが甲冑を身にまとい剣を携えて外へと駆り出していく。口々に「賊だ」とか「聖剣を狙っている」と叫んでいた。
それから幾何もしないうちに天井に影が差した。
否、正確には大聖堂の上部にあるステンドグラスに、だ。
ステンドグラスが叩き割られ破片が降り注ぐ、一瞬にして堂内は悲鳴の嵐に塗りつぶされた。
ロープを使ってあっという間に侵入した黒装束の男三人は持っていた脇差で傍に居た聖女を切り伏せた。三人の聖女が凶刃に倒れ、辺りでは混乱の渦が収まるところを知らない。その時点で聖剣に一番近いところに居たのがリィネスだった。
慌てて祭壇に取り付き、女神像の足元から聖剣を取り、盗賊と向かい合う。
襲い来る無数の刃を凌ぐうちにリアが感じたものと同じような同調を彼女も感じていた。アドハラストは一薙ぎのうちに三人の男を烈風を以て吹き飛ばし、一人はそのまま昏倒した。向かい来る二人の男を暴風で防ぎ、押しのけて一人の利き腕を深く切り、最後の一人の腹に剣を深く突き立てた。その男はそのまま動かなくなった。
白い堂内に赤い絵の具がぶちまけられ、独特な臭気を漂わせた。
震える手を必死に抑えながら、ゆっくりと短剣を引き抜いてゆく、どろりとしたものが溢れ出し、紅く染まった刃と自らの手を見て、思わず剣を取り落した。
そこに数人の聖騎士が駆け付けてくる。三人の身はすぐに抑えられ、リィネスに目立った外傷は無かったが、心に負った傷は大きかったに違いない。
結果的に腹部に傷を負った男一人は助からず、聖職者として御法度である殺人を犯してしまうことに相成ったリィネスだったが、正当防衛や情状酌量の余地があるとして、普通ならば解職と厳罰が科せられる所を聖剣との適性があるという事でそれを別の街の、さらに大きな教会に移動される任を負った。
その相手はリィネスの友人であった。
勿論本命である堕天病の治療も可能な限り行わなくてはならない。
それから数ヶ月、彼女は北の教会を目指して旅を続けたが、その道中、自らの異変に気付く。自分の中に黒い影が落ちて心を蝕んでいるのが分かる。このまま治療を続けていけば、あと数回で間違いなく堕天が起こり、人では無くなってしまうのだ。
目前の堕天病患者と自分の命が心の中で天秤に掛けられる。
やがて天秤はリィネスの命を示した。そのことにリィネス自信、愕然とする。これも自分の中に溜まった穢れの所為なのだろうか、それとも結局、その程度の覚悟しかなかったのだろうか、自分でもよくわからない。ただ、死を間近に感じるにつれて恐怖は底なしに大きく深くなっていく。
そしてリィネスは、彼女を待つ患者に背を向けてしまったのだ。
そこに現れたのは、栗色の髪をした少女を背に乗せた一匹のワイバーンだった……。
わずかな時間で打ち解けたリィネスは苦心と戦いながらも決心を固めた。彼女に聖剣を託し、己はここでこの命を散らそうと。
あわよくば、彼女が穢れた空気を祓う清浄なる風で有ることを願いながら。
リアはそんなことをそのことを知る由もないが、今も彼女の手の中に聖剣が握られているという事実はリィネスが今生にしてただ一つ願ったことであった。それが彼女の願い通り教会に届けられる日は来るのか。全てはリアの手に掛かっている。
聖剣アドハラスト――その力を求めるものは多い。
果たして後ろより感じる気配は追い風か、それとも追手の影か――。
誤字脱字があれば報告願います。修正します。
細かい今後の方針等、作品の世界観及びネタバレ要素のある話は活動報告にてということでここでは特に何も書かず〆とさせていただきます。
次回投稿は四月下旬を予定。