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「煙草は止めてって言ったのに」
「簡単にやめられるものじゃないんだよ」
「百害あって一利なし、なんだからね」
「分かっているけど止められないんだ」
「厄介なのね」
「そうだよ、厄介なんだ、煙草は」
「値上がりしたらどうするの」
「値上がりしても止めないさ」
「懐が寒くなるわ」
「心は暖かくなるよ」
「寒いわ」
「怒るなよ」
「怒ってないわ」
「怒ってる」
「怒ってないわ」
ふわふわふわふわした不思議なやり取り。
嫌いな煙草の匂いと一緒に、ちょっと怒ったような女の声と、困ったような男の声がふわふわと辺りに漂う。
とても柔らかくて、温かい、これはまるで、
――がばっ、と。
そこで桜は飛び起きた。
「・・・夢?」
カーテンからはまだ朝日が差し込んでいない。
暑くもないのに桜の体は汗だくで、薄い布地のパジャマはぐっしょりと濡れていた。まるで、マラソンでも走ってきたかのように息が上がっている。心臓はばくばくと早鐘を打って、うるさい。
携帯を探そうと思って手を枕の周囲に這わせるが、桜の手は握り慣れたフォルムを探し当てることができなかった。
代わりに小さなデジタルの目覚まし時計が指先に触れる。桜が加減せず上部のボタンをぐいと押し込むと、ぼんやりと青いライトの中に数字が浮かび上がった。
“03:16”
随分と長い間夢を見ていた気がするのに、まだ布団に入ってから三時間しか経っていない。
「喉かわいた・・・」
おかしな夢を見て脱力していた桜には、電気を点ける気力もなかった。
それでも何か喉を潤すものが欲しくて、暗闇の中テーブルの辺りを手で探る。そしてマグカップを探し当て、夜のコーヒーの残りを飲み干した。冷たくて苦い、味気ないブラックコーヒーが喉を流れていく。
そのままぼんやりベッドに座り込むこと五分。汗も止んで濡れたパジャマが冷たく感じられるようになってきた頃、ようやく桜は身じろぎして体をベッドに倒した。空のマグカップが行き場をなくしてベッドに転がる。
「どこまでが夢で、どこまでがほんとなんだっけ」
桜の呟きに応えてくれる人はいない。
それでも桜は続ける。
「車の中で気を失っちゃって」
「高槻さんに迷惑をかけて」
「それで」
――それで。
見てしまったのだ。いや、正確には、“聞いて”しまった。
高槻は確かに誰かと話していた。
今まで聞いたことがないような優しい声で、誰かに語りかけたのだ。まるで、桜には見えない誰かが窓の外から高槻に話しかけでもしていたかのように。
あの時、焦っていた高槻は空っぽなどではなかった。零れてしまったとても大切な何かを掻き集めようと焦っているような、そんな顔だった。
「誰と話していたんだろう」
桜は胸を押されるような苦しさを感じで瞼をきつく閉じた。
手元にあったはずのマグカップはいつの間にか行方不明になっている。明日の朝、踏みつけないようにしないと。そんな心配は胸の苦しさで消えていく。
「苦しくない。苦しくない」
桜の閉じた瞼から涙が溢れて枕に吸い込まれていった。
胸が締め付けられているような苦しさで一杯で、涙もぼろぼろとまるで大雨か何かのように止めどなく零れて止まらない。
枕がしとどに濡れて胸を締め付ける何かが弛んだ頃、ようやく桜の意識もまた涙で濡れた枕に溶けていった。
= = = = =
「おはよう」
「おはようございます」
七時五十七分。
会社は九時から業務開始なので、業務が始まるまではまだ一時間以上も時間があったが、桜はもう席についていた。桜が席について五分後、オフィスに入ってきたのは、タイミングが良いのか悪いのか、昨晩散々悪夢を見せてくれたあの人。
「加藤さん早いねえ」
「高槻さんこそ早いですね」
高槻はいつものように眼の下に薄くできている隈を擦って曖昧に笑った。
「一時間電車を間違えちゃってさー」
嘘だ。高槻は電車通勤なんてしていない。あのZで通勤しているんだから、電車を間違えるはずなんてないのだ。けれども、これもいつもの高槻の本当か嘘かわからない愛嬌なのだと桜は分かっていた。
だから、笑ってちょっと首を傾げるだけで、あとは自分の書類整理に没頭することにした。
五分、十分、カタカタカタ
桜がキーボードを叩く音だけが響く。提案資料作成は順調だった。色はビジネスらしく、グリーンとブルーを基調に整えて、図はステンシルを使って統一性を持たせて。桜はこういった資料作成は得手としていたので、熱中するのにそう時間は掛からなかった。
「加藤さん」
「は、いっ!」
熱中していたお陰で、同じ空間にいた高槻がいつの間にか自分の後ろに立っていたことにも全く気付かず、突然声を掛けられて桜の声はひっくり返った。
そして驚く勢いでマウスを左クリック。
『保存せず終了しますか? はい いいえ』
「あ!」
「いいえだよ、いいえ、」
「保存しないのはだめだから・・・いいえ!」
「そうそう」
落ち着いて『いいえ』をクリックした所で保存画面が表示され、桜はほっと胸を撫で下ろした。後ろでは何のツボに入ったのか高槻がけらけらと笑っている。これまた昨日に引き続きあまり見たことのない高槻の意外な一面だ。
――今なら、疑問に思っていることを聞ける気がする。
昨日のことは本当に独り言だったのか。高槻はいつもどんなことを考えて過ごしているのか。尊敬する先輩に対する後輩からの質問にしては、少し私的な面へ食い込み過ぎている気もしたが、桜にとっては夜眠れなくなるくらいの大事なのだ。
桜は意を決して聞いてみることにした。
「高槻さん、お伺いしたいことがあります」
「なに?」
まだ笑っていた高槻は目の下の隈を擦って桜を見た。顔はまだ少し笑っているが、もう目は笑っていなかった。
「高槻さんはいつもどんなことを考えていますか?あと、昨日の・・・誰かと話していたように見えたあれは、本当に独り言ですか?」
案外、一言口をついて出てしまえば簡単に言葉は次々滑り出てしまうもので、桜の聞きたかった事柄は無事に一言一句漏れずに高槻の耳に届いた。
ごくりと唾を飲み込む桜。高槻の表情は変わらない。
その時、ギイ、と音がして立て付けの悪い事務所の扉が開いた。
はっとした桜に対して、高槻は落ち着いた様子でそちらを見て片手を上げる。
「おはよ、清水っち」
高槻のあいさつ通り、清水が眠そうな目を擦って欠伸を漏らしていた。
「おはよーございまーす。早いですねお二人とも」
「おはようございます」
「おはよー加藤さん。ねえねえ加藤さん、さっきコンビニ行ってきたらさ、レプトンの新作出てたよ」
清水はひょいとコンビニの小さな袋を掲げて、にっと人懐こい笑みを浮かべた。これぞ、取引先のお姉さまおばさま方を落とす必勝スマイル。
「いいんですか?」
「いいよ。代わりに元気だしてね」
「ありがとうございます」
桜は受け取ったコンビニ袋を抱いて頭を下げた。ちらりと見ると袋の中からは500ミリリットルの紙パックとストローが覗いている。パックには『レプトン レモネードティー NEW』の文字。
そこで桜ははっとした。
何だか自分はすごく大切なことを忘れていやしないだろうか。何かものすごく大事なことをしている途中だったような。
「あ、」
気付けばもう高槻は自分の席に座ってパソコンに向かっていた。
――逃げられた。
やっとその事実に気付いた桜は頬を少し膨らませる。
「どうかした?」と首を傾げる清水に慌てて首を横に振って返し、もう一度高槻を盗み見たが、高槻は何くわぬ顔でカタカタとキーボードを叩いていた。
桜はやりきれない気持ちに襲われてぎりりと歯を食いしばったが、逃してしまったタイミングはどうにもならない。清水が来てしまった今となっては話を蒸し返すこともしづらい。
桜は諦めて紅茶の紙パックを開いた。