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――ものすごく、面倒なことに巻き込まれてしまった気がする
高槻は深い深い溜め息と、煙草の煙をゆっくり吐き出した。
高台の駐車場からは青空がよく見える。
助手席では桜がすやすやと寝息を立てていた。なんとなく年下の女性に触れることも憚られて熱すら測れずにいるが、顔色は先程より格段に良くなっているようだ。
桜が突然気を失ってしまってから一時間。
桜が気を失ってしまった時は流石の高槻も慌てた。こんな事はこの人生で初めてのことで、久々に頭の中が真っ白になってしまったほどに。
それでも、あたふたと事を先走らなかったのはこれまでの人生経験の賜物だろう。
「結局ご挨拶はパァか・・・」
なんとかアポを取り付けた例の会社にも桜がこれでは行けるはずもなかったが、事情説明と謝りの電話を入れた時に先方が怒るどころか桜を心配していたのは意外だった。
加藤さんにまたいらしてと伝えて下さいね、だなんて。
何度か顔を出しているとは報告で聞いていたが、ここまでちゃんと客に顔を売っていたとは全く知らなかった。あとで褒めてやらないと。高槻はそんなことを思いながらもう一本煙草を取り出した。
「煙草は体に良くないわよ」と、誰かの声が耳の奥で聞こえた気がした。でもこれはいつものこと。高槻が煙草に指をかけると、いつも、いつかこんなことを言っていた女の声が耳に響く。
「いいんだよ。どうせ、二回目なんだから」
高槻は誰一人苦笑いしながらまた煙草に火を点けた。そして、何気なく助手席の方を見て、心臓が跳ね上がる。
桜が、ぼんやりと自分の方を見ていた。
気配がなかったせいで、いつから起きていたのか全くわからない。ただ、人形のように澄んだ目を自分の方へ向けて瞬きだけゆっくり繰り返している。高槻は背中に冷たい汗が伝うのを感じながら、なんとか喉の奥からなるべく平然を装った声を絞り出した。
「…お、起きてたのか」
「いま起きました」
今の独り言を聞いていたに違いない後輩はちょっと身動ぎして顔を反対側に向け、シートベルトを枕にまた動かなくなってしまった。
高槻は喉がぎゅうと握りつぶされるような苦しさを感じた。沈黙が苦しく感じられ、手持ち無沙汰に灰皿を引き出して煙草を揉み消す。
静寂は先程となにも変わっていないのに、ひどく居心地が悪い気がして、空気を入れ替えようと運転席の窓を少し開けた。
「高槻さん」
桜の小さい声が聞こえ、高槻はびくりと肩を跳ねさせる。
ただ独り言を聞かれただけなのに、どうしようもない焦りが全身を駆け回っている。高槻が返事もしないでいると桜は構わず話を続けた。
「すみませんでした」
え?と間抜けな声が飛び出しそうになるのをなんとか抑えて高槻は言葉を探す。
そうだ、そういえば今の状況は桜が気を失ってしまったことから始まったんだった、謝罪が一番先に出てくるのは自然なことだろう。自分は何を焦っているのか。
「いや、大丈夫だ。体調が悪かったんだろ?こっちこそ、気づいてやれなくて悪かった」
桜はいつも「大丈夫」だと言う。大丈夫でも、大丈夫でなくても、いつも「大丈夫」だといって笑うのを高槻は知っていた。それでも敢えていつも気付かないふりをしていたのだ。
本人が大丈夫だと言うのなら、こちらもそれを信じたように行動するのが良い。これは社会人として頭のいい選択なのだと思う。あまり深入りすると余計に面倒なことになる可能性があるし、おかしな風に懐かれても困る。
高槻は自嘲した。
自分はいつからこんな考え方をするようになったのだろうか。少なくとも、最初はもっと違う次元で物を考えて社会に飛び込んできたはずだった。そう。さっきの桜のように、人形の目みたいな澄んだ目をしていたはずだ。
「さっき、誰とお話していたんですか?」
――と。桜がぽつりと呟いた言葉は、完全に自分の世界に意識を埋めていた高槻を一気に現実に引き上げるには十分すぎる内容だった。
「・・・ただの、ひとりごとだよ」
整理中だった思考を強制的に停止させられた高槻の頭は、先程よりももっと混乱していた。
横隔膜がぐっと押し上げられたように肺が苦しい。ただの独り言を聞かれただけ、そう自分に言い聞かせても瞬きすらぎこちない瞼は眼球を乾かして視界をぼやかせる。
「本当に?」
「・・・」
「私、会社を辞めようと思うんです」
高槻が顔を上げると、いつの間にか桜は高槻の方へ体を向けていた。
桜の目は硝子玉のように澄んでいて、表情も何もないその顔は、ビスクドールか何かのように空っぽに見えた。――何を考えているのか、分からない。
最近の若者は、何を考えているのか分からない。
「なんて、嘘です」
空っぽの顔が、ふっと笑った。
高槻の思わずぽかんと開いた唇から、「はぁ?」と、間抜けな呟きだけが漏れる。
桜はすぐに前を向いて少しだけ撫でるように髪を弄った。イマドキの女の子には珍しく、染められていない髪がフロントガラスから差し込む光を受けて揺れる。
高槻が混乱している間に、桜は髪を手櫛で整えて、スーツの埃をはらって、ふうと大げさな溜息をついて胸元に手を当てた。何かを心に決めているような、気持ちを新たにしているような、不思議な所作。最後にバッグから携帯を取り出して現在時刻を確認、そしてまた高槻の方を向いた。
先程までとは違う、どこかきりりとした顔つきで、ぺこりと頭を下げる。
「ご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありませんでした。私の体調管理ができていなかったことが原因です」
「あ、いや・・・。朝から具合は悪そうだったし、いろいろと重なったから疲れたんだろ。兎も角、大事がなくて良かった」
「ありがとうございます。引き続き、よろしくお願い致します」
完全に桜のペースに乗せられて車のアクセルを踏むしか選択肢のなくなった高槻。
これでいいのだろうか、もっと色々と、聞かないといけない気がする。ついさっきこの子はものすごく大変なことを言っていなかっただろうか。それについてもっと深く聞き出すなり注意なりするべきじゃないのか?
――こんな自問自答は、エンジン音と一緒に掻き消えて、高槻の頭の中で霧散した。
新しい煙草に火を点けなるべく助手席の方を見ないように運転していた高槻には、会社に帰るまでの間、桜がどんな顔をしていたかなんてことは分かるはずがなかった。