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3**

空は快晴、真っ青な色が広がっているのに、外はひどく寒い。


助手席で車に振動に揺られながら、桜は朝から憂鬱だった。

朝から資料が完成していないことで部長に怒られ、今日挨拶をしに行く予定だった会社へはアポを取り忘れ、それがまた部長の怒りに火を注いだ。更には今日は「あの日」だったので、体調もひどく優れない。

頭の中で脳みそがぐるぐる回転しているような不快感に襲われながら、桜は車に揺られる。


「そんなに落ち込まなくても大丈夫だって。飛び込み営業だってあるわけだし、なんなら明日でもいい訪問だったわけだろ?部長の機嫌が悪かっただけだから気にする必要はないよ」


低い声が桜を慰める。


「…はい」

「でも最近、加藤さんがぼーっとしてるのは本当かもな。ちゃんと夜寝てるか?」


高槻はいつでも大人だった。

月並みと言えば聞こえは悪いが、良い言い方をすれば、その場に合った言葉を選んで相手を傷付けないようなことを口にする。



「はい、睡眠はとってます。すみません」


桜は小さく謝罪を口にした。何に対する謝罪なのかも分からないのに。

社用車の乗り心地は良いとは言えない。まるで固いシートが重い腰を容赦なく叱咤してくるようで。ただ、桜にとっては、あの重い空気のオフィスに比べればこの固いシートの方がまだ百倍もましだった。


ただ、この逃げ場所にも桜を憂鬱にさせる要因がまだ一つ。

桜は自慢ではないが、鼻が良かった。良かったというよりも、それは半ば「利く」にも近い感覚で、例えば、営業所の入口の前に立っただけで誰が中に居るか分かるなんていう面白い特技と化していた。


その「利く」鼻がこの場に第三者の存在を確かに捉えていた。

誰かが遠くから私を狙っている!――そんなわけがない。

つまりはこういうことだった。自分と、


「…あの、」

「なに?」

「……なんでもありません、すみません」


桜は目はそんなに良い方ではなかったけれども、耳と鼻は良かった。

だから、嫌でも分かってしまうのだ。例えば、隣の運転席にいる高槻からいつもと違う匂いがすることも。


高槻からはいつも煙草の匂いがする。桜は煙草を吸わないが、匂いは嫌いではない。

今日はその煙草の匂いに混じって、微かに甘いような果物のような、不思議な香りが桜に届いていた。飴じゃない。ガムでもない。


桜はちらりと隣を伺い見た。

高槻が運転している。また、桜には分からないあの表情を浮かべていた。この表情をポーカーフェイスと一言で片づけてしまうにはあまりも軽い。

不意に、目が合った。

その瞬間に、桜の心臓は何かで刺されたように痛んだ。


「どうかした?」

「……すみません」

「謝ってばっかりだな。別に気にしなくていいって」



ぐるぐると頭の中を色々な言葉が回る。ぐちゃぐちゃになった感情も回る。

別に誰がどう過ごしていようが桜には関係ないことではないか。特に、ここは会社という一つの世界の中。人は皆、日常の中にいくつも世界を持っている。桜のいるこの世界も高槻にとっては日常を取り巻く世界の一つに過ぎないのだろう。


世界は増える。年を重ねれば、経験を積めば、友人が増えれば、それだけ世界は増える。桜は高槻にとって会社という世界の中に組み込まれたパーツの一つでしかない。

多分、たったそれだけの存在なのだろう。


桜にとって世界はまだ一つしかなくて、高槻だって桜の世界を大きく占める存在だというのに。高槻にとって桜は、会社というきっと一番つまらない世界の中の、居ても居なくても変わらない小さなパーツの一つ。



「ばかみたいだ」



声に出たか出なかったかは分からない。

フロントガラスから差し込む日差しはやけに熱くて、鼻孔を突く香水の香りはとても不快で、それが頭の中でぐちゃぐちゃになって、

キャパシティ オーバー 。



目の前が真っ暗になった。





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