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「高槻さんって、出会いがないのかなあ」
そう言いながら吉井はもぐもぐとオムライスを頬張った。
大きめの弁当箱には黄色の卵が敷き詰められ、赤いケチャップがそれを彩っている。スプーンで掬われて欠けた一部からはグリーンピース入りのチキンライスが覗いていた。
「どうなんでしょう。すごく仕事できる人ですし、見た目だって悪くはないし、結婚なされていないのが不思議ですよね」
桜もコンビニのパンを齧りながら首を傾げる。
「彼女いたらしいのよ。でも基本的に高槻さんってウソツキでしょ?んー、ウソツキっていうのは変か。そうじゃなくて、なんていうか…いつも冗談めかした喋り方をするから、何が本当で何が嘘かが分からないのよね。だから、もしからしたら、今もいるのかも」
吉井がうーむと小さく唸った。
噂好きの吉井はおっとりした美人で、普段は八時半から十五時までのパートタイム勤務で事務をやっている。背も高くスタイルも抜群なのに、これで子供が三人もいるというのが桜には衝撃だった。
桜にとって吉井は営業所内で唯一の同性、そして頼りあるお姉さんのような存在。二人だけ社内に残った時などはこうやって一緒に昼食をとったり、こっそり雑談に花を咲かせたりするだが、それが桜の密かな楽しみでもあった。
今日、話題に上がったのはなんともタイムリーに高槻の話である。
「桜ちゃん、高槻さんを旦那さんに、どう?」
にやにやしながら聞いてくる吉井に桜は苦笑いを返す。
「私じゃ高槻さんには釣り合わないと思いますよ。高槻さんから見たら私なんて小娘だろうし」
「その小娘がいいのかもよ~。うふふ、私想像したらにやにやしてきちゃった」
「ちょっとー、からかわないで下さいよー」
うふふと笑って吉井は弁当箱を閉じた。席を立って給湯室の方へ歩いていく。弁当箱を洗いに行くのだろう。それにしてもなぜだか足取りが軽い。
「…はぁ」
桜は盛大に溜め息をついた。
桜はこの手の話が苦手だった。そもそも、桜は恋愛云々の話をするのが好きではなかった。
大学時代に彼氏なるものがいた事はあるが、三カ月で破局。ちなみに原因は相手の浮気だった。デートをすっぽかされ、メールも電話も無視され、挙句の果てに「お前には面白みがない」などという有り難いお言葉までいただいた散々な交際だったのである。
こうして初めての恋愛は見事にトラウマとなり、今に至る。
「コウイチのばかやろう」
元彼、コウイチくんのことは恨んでも恨みきれない。――なんて。そもそも、こんなものはちょっとした言葉遊びであって、もうコウイチのことなどこれっぽっちも心に留めてはいなかったのだけれど。
コウイチのばかやろう、なんて空の言葉で八つ当たりをすると少しだけ心が晴れる気がして、桜はこの言葉遊びが少し気に入っていた。
「コウイチって、誰?」
桜の肩が大げさなほどに跳ねた。
わざとではない。本当に驚いたのだ。
今までこの言葉遊びに突っ込みが入ったことなど一度も無かったから。
「…脅かさないでください」
む、っと頬を少し膨らませて桜はくるりとオフィスチェアを回した。
目に入ったのは笑顔。こんな爽やかで裏のなさそうな人の良い笑顔を浮かべてしまうから、お客さんに頼りないなんて言われてしまうのだ。桜はこっそりとそう思った。
「清水さん、今日も牛丼ですか?」
「いや、今日はコンビニでパン買ってきた」
そう言って笑顔を浮かべた清水はコンビニの袋をちょっと掲げてみせた。
一体どこからどこまで話を聞いていたのだろう。そんな桜のひやひやした内心をよそに、清水はなにも気に留めていない様子でデスクに戻っていった。
桜は心に決めた。もう会社ではあの言葉遊びをしない、と。
いつだったからか、こんな風になってしまったのには何か原因があったような気がするけれども思い出せない。
昔はもう少し、純粋だったはずだ。普通に恋をして、友達と笑い合って、希望だって持っていた。
煙草を始めたのが18の時。当時、ちょっとワルだった先輩がいて、吸ってみろと言われたのがきっかけだった。最初は煙にむせて味わうどころではなかった煙草が、今では一番気の許せる存在だ。
二本目の煙草にライターの火を当てた時、隣でさわさわと布の擦れる音がした。
「ねえ、今日は仕事は?」
甘くそれでいて鼻をつくような不思議な香水の香りで煙草の匂いが消える。この香りは嫌いだ、そう思った。
「…休み。たぶん」
「ええー、そんなのでいいの?いい加減なのねえ」
高い声を上品にくぐもらせて笑う女が気に食わない。露骨にそんな表情を出したら反感を買いそうなのでそんなことは決してしないけれども。
それに、「たぶん」とは言ったものの今日が休みではないことは前もってしっかり分かっていた。携帯のサブディスプレイには7時15分の文字が浮き上がっている。
シャワーは浴びられないが、遅刻するような時間でもない。
今日がまた、始まる。