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世の中の女が皆、気立てがよくて愛想もよくて可愛いかといったら、そうではない。

加藤桜かとうさくらはどちらかといえば、そうではない方の人間だった。



「加藤さん、部長のお酒、」


一つ年上の先輩、清水に促されて桜ははっとして部長のジョッキを見る。部長の前のテーブルに置かれた中ジョッキはもう空だった。桜が慌てて店員を呼び止めようとおろおろしている間に、見かねた清水がもう店員へ手を上げていた。


「生中一つ。――あ、高槻さんはどうします?」「俺はいいよ」「じゃあ、生中一つで」「はーい、かしこまりましたー」

こんなやりとりをぼんやり見ながら、桜は小さく溜め息をついた。そっと、誰にも気付かれないように。


飲み会が始まって六十分。

百二十分コースということは、今が丁度折り返し地点だ。



海鮮料理が売りの華やかな雰囲気の飲み屋。金曜の夜ということもあって、店内は仕事帰りのサラリーマンでごった返している。

そこかしこで笑いが起こり、時折カランとジョッキを打ち合わせる音が聞こえる。

そんな雰囲気は嫌いではなかったが、桜は飲み会が苦手だった。

なにせ、桜は気が利かない。自分でもそれをよく分かっていたので。




昨今の就職氷河期を乗り越えて手に入れた一つの内定。男ばかりの職場に咲く一輪の花としてとある小さなIT会社に迎え入れられたが、悲しいかな、桜は採用した管理課の意向にそぐわない人間だったらしい。


――自分の芯を持って上層部にも臆することなく自分の意見を言える。はきはきしている。


この辺りが管理課を唸らせた桜の良さだったのだが、管理課のおじさま達はもうひとつ、女性としても桜に期待をしていたらしい。

それは勿論、変な意味ではなくて、女性らしい気配りだとか華やかさだとか、そんな意味で。


しかし、残念なことに桜はとてもマイペースな人間だった。勿論、それが周りに影響されない桜の強さでもあるのだが、逆に言えば上手く周りに合わせることや、細やかな気配りができないという意味でもあって…。

この辺りが、会社からすれば物足りない部分のようだった。

桜も自分の性格のことは自分でよく気付いていて、最近はこのことで頭を悩ませることが多かった。


「加藤さん、そういえばこの前のレビューのまとめ、よくできてるって部長に褒められたそうじゃん?」


梅酒のソーダ割を四杯も飲み干して上機嫌で桜に話しかけてくるのは営業部の田中。田中は小柄だが、明るく、仕事もできる社内のムードメーカーだ。ちょっと額が後退しているのがトレードマーク。


「はい。でも、それは先輩たちに見てもらってから出しただけで…」

「もーもー、謙遜しちゃって~。でもそこが加藤さんのいいとこなんだけどさ~。ね、清水っちもそう思うっしょ?」


上機嫌の田中に肩を叩かれ、清水が部長にメニューを促していた手をとめて笑う。


「そうですね。加藤さんはさすがうちのホープですよ!俺も負けてらんないっすね!」

「いえ、そんなことは…」


少し、会話が止まる。

桜が話を繋げられず曖昧に笑っていたとき、桜の向かいの席で静かにビールを飲んでいた高槻が口を開いた。


「そりゃ、俺らがあれだけ指導しましたからね」

「さっすが高槻さん。中堅さんは頼りになるねえ」

「加藤さんが元からしっかりしてるって言うのもありますけど。勿論ね。――あ、加藤さんジョッキが空だぞ。ほら、ビール。やっぱ酒豪はすごいね~」


高槻は自分の前の前にあったジョッキを桜の方へ置いて酒を促す。なぜだか桜は入社当初から酒豪、というイメージをこの高槻によって作り上げられている。


「私もうビール三杯目なんですけど、…ああ、もう、よし!いただきます!」


ぐびぐび、とジョッキを煽ってぷはーと息を吐く頃には、桜の周囲は仄かに盛り上がりを見せていた。



そんなことをしている内に、桜が溜め息をついていた残り六十分はあっという間に過ぎ、桜の一月最後の週末は幕を閉じていった。






桜の務める会社は従業員40名ほどの小さな会社で、拠点は四つ。主は下請けでプログラムを組む仕事だが、別拠点ではLEDを販売していたりもする。この別拠点の仕事が最近のエコ・ブームに上手く乗って大盛況となり、今はそれで殆どの利益を得ているので桜達のチームは激務を強いられてはいなかった。



…最近まではそうだった、のだが、


「加藤さん、これ、明後日までの仕上げでよろしく」

「はい。分かりました」


部長の“お願い”は時に非常にハードルが高い。

明後日までの仕上げ、はとても難しそうな内容が書かれた資料を受け取って桜は自分の席に戻った。


頭がぐらぐらする。これは残業だなあ、なんて心の内で呟きながらパソコンに向かおうとした時、桜はふと視線を感じて顔を上げた。斜め前、低いデスクパーテーションの向こうの視線とばちりと目が合った。


高槻だった。

桜と目が合った高槻は、薄く隈のできた目を細めてふいと視線を逸らした。そして何事もなかったようにカタカタとキーボードを叩き始める。




高槻という人間は、桜にとって謎の多い人間だった。

プロフィールは三十五歳、独身、役職は係長。フェアレディZ(桜は車の良し悪しなんてさっぱり分からなかったが、どうやらお高い車らしいことくらいは知っていた)に乗るやり手のSEだ。


見た目はそこそこ整った顔立ちなのだが、目の下には常時薄い隈があり、なんとなく不健康そうな印象を抱かせるのが特徴。


実際、健康面の方も酒と煙草のせいであまり良好とはいえないようで、桜も健康診断の結果が良くないのを冗談交じりに自慢されたことがある。

その一方で、客先では饒舌で人の心を掴み、技術を以てそれに応える。どんな事態にも慌てず、冷静。同僚には気軽に冗談なんかを言って場を和ませたり、時には場を取り仕切ったり、チームリーダーとしても申し分ない実力を持っていた。


しかし、桜は一つ気になっていた。


それは高槻が時々見せる、ひどく空虚な一面。例えば、一人でいる時、誰もいない時、高槻はとても無表情になる。勿論、一人でいるのにいつも笑っていればそれはそれでおかしな話だが、それとは訳が違うのだ。


高槻は時々、中身がないような空虚な表情を見せる。それは桜が今まで生きてきた中で見てきたどの表情とも違うものだった。


「加藤さん、一個相談したい案件があるんだけど…、…あ、なんか忙しそうだね」


桜がぼんやりしていたところに清水がファイル片手にやってくる。しかし、桜のデスクに置かれた部長の“お願い”を見て苦笑いを零す。


「いえ、大丈夫です」


「本当?じゃあこの案件なんだけど、来週までになんとかならないかなと思って――」


お仕事がまた一つ増えたことに内心がっくりとしながらも、桜は笑顔を繕ってファイルを受け取った。結構な厚み。これは早く部長の“お願い”の方を片付けて取りかかった方が良さそうだ。



桜が腕まくりをして形の気合いを入れた時、ふと横から声が掛かった。


「あーあ」


高槻だった。いつの間にか桜の横まできていた高槻は、いかにも面倒くさそうな口調で言いながらちょっとだけ肩を竦めた。


「また清水っちが変なの取ってきたなあ」


「変なの?」


「ちゃんと案件聞いといた方がいいよ。清水っちのお仕事は『ハマる』って有名なの知ってるだろ」


「ま、まあそれは…」


清水っちこと、清水はまだまだ未熟な営業で、顧客とのコミュニケーションを取り切れていないことが多い。そのために後になってあれやこれやと不都合が発生する……いわゆる、『ハマる』というのが技術部の中ではちょっとした問題になっていた。



「加藤さんも、大変だったら断らなきゃ」


もやっ、と。

桜の心に靄がかかった。

断れたらどんなに楽なことでしょう!

いっそきっぱりとそう言ってしまいたかったけれども、桜の性格がそれを口にすることを許すはずもない。


「大丈夫です」


思ったよりも低くて感情のない声が出た事に驚いて、桜がちらりと高槻の方を伺うと、高槻は薄い隈を擦って笑っていた。桜の態度に別段怒っている様子はない。少なくとも、表面上は。


「そうか?ま、大変だった言うんだぞ。会社の仕事は、社員みんなの仕事なんだから」


「はい。ありがとうございます」


高槻は営業所の扉を開けてのんびりと外に出ていく。煙草でも吸いに行ったのだろうか。

桜はまだ心に靄が掛かったような感覚を拭いきれずにいた。



気付くと営業所内には桜と、部長と、パート勤務している事務員の吉井さんの三人だけになっていた。

部長が営業所内にいるだけでなんとなく空気が緊張する、…というよりもはっきり言ってしまえば空気が重い。



とても居心地の悪い空気に苛まれながら、桜は終業までのあと二時間を耐えることにした。

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