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相変わらず教育上は良くない。
「お婆さんの御見舞いに行くの」
赤頭巾は痩せた指にいっぱい花を摘みながら、狼に背を向けたまま言いました。
元は燃えるように赤かったであろう頭巾の下で、油の抜けた前髪が顔を覆っているので、表情はよく見えません。
「その花はお婆さんにあげるの?」
「……ええそうよ。」
「おかあさんに言われたのかい、摘んでけって。」
「まさか。」
「……じゃ、寄り道?」
「まごうことなくね」
手の届く範囲の花を摘み終わったのか、赤頭巾はすっくと立ち上がり、そのままふらりとよろけて草の上に倒れました。
まさかそのまま倒れるとも思わなかった狼は少しびっくりして、赤頭巾を助け起こしました。服から、何とも言えない人間の脂のにおいが立ち上ります。人里で、人間として生きていた頃の狼ならば思わず息を止めて目をそらしていたかもしれませんが、獣にならんがために森に生きるようになってからは何の嫌悪感もなくなりました。
「……大丈夫?」
はらりと前髪をのけると、赤頭巾の額から目元にかけて大きな痣が出来ています。少し殴られたくらいでは、こんな大仰な痣は出来ないでしょう。執拗に、何度も、毎日のように強い力で叩かれなければ。
息がなかなか整わない赤頭巾の痩せた胸を、狼は伸びてきた爪で引っ掻かないように手の甲で出来るだけ優しく撫でます。早くなってきた夕暮れ、少し肌寒いというのに赤頭巾の額にはジンワリと汗が浮かんでいます。焦点の合っていなかった目が、少しずつ狼の目と合い出しました。にっ、と力なく笑ってみせる赤頭巾はしかし、まだ四肢に力が入らない様です。
「ほんとは御見舞いのお菓子なんか、私が食べてしまいたいのよ」
「ご飯食べてないの?」
「ご飯もお菓子も、何にもね。ここ一週間ばかり。川はあるから、水だけはのんでるけど。」
こわばった頬で皮肉に笑うと、血の気の引いた顔で、赤頭巾はバスケットを指差しました。骨ばった指はすでに老人のようで、乾いています。
「おかあさんは、狼はお菓子の匂いに釣られて出てくるから、私だけで森を歩くときはお菓子を持って歩いちゃいけないって言ってたけど、あなた、あの匂いに釣られてきたの?」
「まさか」
そもそも森を子供だけで歩いてはいけないと、人里や町では幼い頃から口を酸っぱくして教えるのです。が、如何せん物心ついてからは森の中に隔離状態で同年代の友人もおらず、いわゆる子供の常識と隔てられて生きていた赤頭巾には今ひとつ何が正しくて何が危険かの尺度がありません。
もしかしたらそれすらも、夜の夜中に食べ物を入れたバスケットを持たせた幼い娘を、暗い森にたたき出すという荒技をやってのけた母親の計算だったのかもしれませんが、はてさて。
「何が入っているか、おかあさんに聞いた?」
「バターと胡桃とレーズンのケーキに、上モノの赤ワイン。それから蜂蜜とジャムが一瓶ずつ。いやしん坊だと思われたくないから開けてないけどね」
「そうなんだ。そいつは魅力的だね。」
見つからないように開けたバスケットのスキマの中からは、干からびたパンの匂いしかしません。カビが生える程の水分がなかったのが救いでしょうか。
いくら自分も三日も何も食べてないとはいえ、狼として森で生きて行こうと決めた手前、そこまで落ちぶれようとは思わないのです。
しかしながら、赤頭巾の目が皮肉に笑っているという事は、きっとそんな物ははいっていないと知っているのでしょう。
「……何か食べたいかい?」
「当たり前よ。私はまだ生きていたいもの。」
狼は、年の割に貧相で、鶏がらみたいになった体を抱えなおすと、立ち上がりました。とにもかくにも少し緊張が過ぎる。少し休ませてやらないと、このままでは本当の獣の狼やら熊やら、あまり歓迎したくない森の住人に頭から食われてしまうでしょう。本当なら家族のいるあばら屋に預けて行ければ良いのでしょうが、妹と同じように股を開いて生きる覚悟を決めるにはまだ赤頭巾は幼く、そうなれば邪魔に思った父親に連れられて町で売り飛ばされてしまう。それならふたりで森をさまよっていた方が、ずっといい。
二人とも共倒れになってしまうかもしれないけれど、このままひとりずつ死ぬよりは余程上等に感じました。
「でもここで捨て置かれても私は貴方を責めないわ。」
「そういうわけにも、いかないよ」
ふと、足元を見ると、さっき細い指に摘まれていた哀れな花が、今は足の下でぐしゃぐしゃに潰れています。
べたべたとした汁がついて気持ち悪くて思わず脛に擦り付けると、硬い岩をも踏みなれた足の裏から感じた事の無い奇妙な痛みが走りました。針の山に立つ様な、かゆみを伴う痛みです。じわりじわりと固くなった筈の皮膚から小さな小さな針が体内に侵入する様な、嫌な気持ちになりました。
「……この花、おばあさんにあげるはずだったんだよね?」
「そうよ」
「何をあげる気だったの?」