3.星華《シンファ》
深夜。
私は喉の渇きで目を覚ました。
「うぅ……」
調子に乗って少し飲みすぎた。
水差しを飲み干しても喉の奥に残る熱は引かない。
酔いの余韻だろうか、身体の芯がぼうっと火照って、布団に戻ってもすぐに眠れる気がしなかった。
少し散歩でもすれば眠気も生じるはずと、私は足音を殺して回廊へ出る。
深夜の華の宮は、昼の絢爛さが嘘のように静まり返り、灯籠の淡い光だけが石畳に長い影を落としている。
香の匂いも人の気配も薄れ、代わりに夜露に濡れた花と土の匂いが、ひんやりとした空気に溶けていた。
「涼しくて気持ちいいわね」
頬を撫でる夜風が心地よく、胸に溜まっていた酒の熱と一緒に、昼間の鬱屈まで洗い流してくれるようだった。
喉を潤すために井戸端まで行くつもりが、気付けばそのまま庭園へと足が向いている。
月は高く白く冴え、池の水面に映った光が揺らめきながら、まるで無数の白詰草の花が咲いているかのように瞬いていた。
歩く度に衣の裾がさらりと音を立てる。
「少しだけ……ね」
自分に言い訳するように呟き、私は池のほとりの石欄に腰を下ろした。
水面に手を浸すと、冷たさが指先から腕へと伝わり、頭の奥の酔いの霞がすっと晴れていく。
ここが後宮だということを除けば、まるで楽園のよう。
その楽園に一人だけというのは、贅沢なような寂しいような。
恋人……とまではいかずとも、せめて友人でも一人いれば、この空間の心地よさを共有出来るというのに。
この華の宮でそんな相手が出来るとは思えないけれど。
……ちょっと試してみようか。
「華精招来」
小さな光が後方へ飛んでいく。
その時、カサッと微かな衣擦れの音が背後の回廊から聞こえた。
「誰?」
隠れる気は無いらしく、その人はすぐに姿を現した。
私の華術の光を手の上で遊ばせて。
「すまない、驚かせるつもりはなかった。何やら気配がしたものでな。何かと来てみれば華妃が散歩していたとは。邪魔をした。とはいえ、華妃が夜分に一人で出歩くのは感心しないがな」
何ともまあ顔の整った方だとは、その人に最初に抱いた印象だ。
高い背に甘い声色。
まるで絵画の中から出てきた月の精ような美人に、私は思わず息を呑んだ。
それと同時に、私は光を消し即座に姿勢を正して礼を――――――――しようとして転んだ。
「へぶち!!」
いけない慌てすぎた。
いったいこの華の宮に、華妃を敬称無しに呼べる者がどれだけ居ようか。
否、特段親しい仲を除き、無条件に華妃を華妃と呼べる者は一人しかいない。
「大丈夫か?」
心配の手を差し伸べられるけど、私は急いで取り繕い礼をした。
「た、大変なる無礼をお許しください! 白詰草の華妃四叶が、親愛なる皇帝陛下にご挨拶を申し上げますと共に、皇帝陛下のお目にかかる栄誉を賜われたこと、百花繚乱の華精に感謝いたします!」
あまりに美しいので月の精と見間違えたのは仕方ない。
けれど目の前に居るのは、たしかにこの国の皇帝であられる星華様その人。
たしかに皇帝陛下をお目にしたのは数度、直接お目通りしたのは後宮入りの際に一度だけだった。
とはいえ気付くのが遅れるなんて、とんでもない失態だ。
廃妃願望があるとはいえ、この無礼はいけない。
せめて鞭打ちで済めばいいけれど……ああやっぱり痛いのは嫌だ。
「よい。今は他に誰もおらぬ。それよりも顔を拭うといい」
「は、はい。恐れ入ります」
た、助かった……
寛大な方でよかった……
それにしても……呆けてしまうほど美しい方。
少し線が細い気もするけれど、それを補って余りある色気はなんだろう。
「寝付けないのか」
「はい……夕餉に少々飲みすぎてしまったようで」
「ほう。白詰草の華妃は酒を嗜むのか」
「いつもというわけでは……今日はたまたまにございます」
「そうか。園遊会で見かけたときは、おとなしい華妃だと記憶していたが、存外お転婆なようだ」
「それほどでも……あ、あの、陛下はこんな時間に何を……」
「ところで先程の華術だが」
や、やっぱり見られてた……
というか露骨に話を逸らされた。
陛下も寝付けずに密かに散歩でもしてたのだろうか。
「白詰草の華妃には、失せ物探しの才があると聞いていたが。我はそなたの失せ物であったかな?」
「と、とんでもございません! これはその、たまたま……」
「たまたまそなたの華術が我に止まった、と。そんな偶然があるものだな」
この悪戯めいた笑み……まるで風妹を彷彿とさせる。
まるで、隠し事をすればこのまま不敬に問うことも厭わぬぞ?とでも言わんばかり。
美の暴力を突きつけられた私は、観念してため息をついた。
陛下が横に座ったのを機に、私は開口した。
「皇帝陛下に申し上げます。私の華術は、ただ失せ物を探すだけのものではございません。言うなれば、対象の幸福の在り処を示すというものです」
「幸福の在り処?」
「そうですね……陛下は今、何か小物を身に着けていらっしゃいますか?」
「髪を結う組紐なら持っているぞ」
「僭越ながら拝借しても?」
構わぬ、と紺の紐で編まれたそれを受け取る。
「これは陛下にとって大切な品ですか?」
「大切とまでは言わぬが、よく使っているものではある」
「これが無くなったとしたら?」
「代わりのものを用意するが、それが出来なければ困ることもあろう」
「つまりそれは、陛下にとってこの組紐が手元にあった方が幸福である、という状態を指します」
ふむ……と唸るが、あまりピンときてはいない様子。
無理もない。
私でさえ、自分の力を上手く言語化は出来ないのだから。
「そうすると、陛下と組紐の間に幸運という繋がりが生まれます。この繋がりは当然目には見えませんが、私の華術はその幸運を辿ることが出来ます」
「幸運の先にあるものが幸福の在り処ということか。ふむ、何ともおもしろい。その華術ならば、どんなものでも探し当てられるのか? 失せ物に限らず迷い人も?」
「求めるものの度合い次第と言ったところでしょうか」
求める人物と品物の持ち主が違えば、上手く術が機能しないこともある。
対象が品物でなく迷い人の場合も同様。
その場合は求める側の人物の必死さや懸命さが重要になるけれど。
ここまで話して、陛下は一言。
「おもしろいな」
興味深そうに呟いた。
「華術は華精の数だけ存在するが、白詰草のそれは初めて見た。他にはどんな事が出来る?」
なんだかやけに楽しそうな顔をしている。
そんなに物珍しいのだろうか。
そういえば陛下の前で華術を披露する機会は無かったっけ。
華の宮入りしたときも華術の披露を命じられた覚えはないし、園遊会でも術を披露するのは主に上級妃だけだったし。
「そうですね……簡単な占いくらいなら」
「そなた占術をやるのか?」
「呪い師ほど大それたことはとても。何々すれば吉、どの方角に難有り、という風なことが感覚でわかります。あとは目に見える範囲でなら吉兆凶兆を予感出来ますが、具体的に何があるかは私にもわかりません」
「的中率は?」
「十割ほどでございます」
数字が立派なだけ。
とてもじゃないけれど人に誇れるものではない。
なのに陛下は神妙な面持ちで私を見た。
にわかには信じ難いという表れだ。
数拍置いて、陛下は懐から巾着を一つ取り出した。
「この中には飴玉が二つ入っている。片方は普通の飴玉。もう一つには毒が仕込まれている」
「毒?!」
「ここに手を入れどちらか一つをつまみ上げる。それが毒かどうかを占ってくれ」
……?
何かの冗句だろうか?
「お戯れは程々に願います陛下。中身はただの飴玉でございましょう? そちらの袂には、何やらよからぬものを仕込んでいるようですが」
毒や短刀の類らしい。
どちらも護身用に忍ばせているようだ。
陛下は目を丸くした。
容易く言い当ててしまったけれど、もしかして機嫌を損ねたのではないかと焦った。
「も、申し訳ありませんでした! 余計なことまで……」
「クク、ハハハ! なるほど大した華術だ。いや、大した華妃だと言うべきであろうな」
夜の静寂を破るように、陛下はまるで少年のように声を上げて笑った。
「勿体ないお言葉でございます」
「愉しい思いをさせてもらった」
こっちはいつ無礼を咎められるかとヒヤヒヤしていましたが。
すると陛下は、私の頬に手を伸ばした。
「月下に咲く華も美しいが、次は日の光の下で咲くそなたとまみえたいものだ」
「ほぇっ?!」
な、なんという色気……
免疫が無い私では卒倒してしまいそう。
また呆けていると、陛下の指に押し込まれ口に何かが入ってきた。
「はむっ?!」
甘い……飴玉?
「また逢おう四叶」
気を失わなかった自分を褒めてあげたい。
酔いは覚めたけれど、これはいけない。
また別の意味で眠れなくなってしまったと、私は口の中のものとは別の甘さに頬を赤くした。




