15-伍-フェイル、王女の先生になる
フェイルはリリィたちの反応に、正直なところ、内心で首を傾げていた。
火を灯した。それだけのことだ。
彼にとって、それは文字通り“初歩の初歩”であり、特段感動するような現象ではなかった。魔術師として歩んできた道の中で、最も基本的で、最も当たり前にできて然るべき技術。それを成功させたからといって、涙ぐんだり、声を震わせたりする理由が、彼にはわからなかった。
だが、理解できないからといって、否定する気もなかった。
リリィにとっては、これは“初めて”の達成だったのだ。
魔法が使えないという長年の劣等感。自分にはできないのだと、半ば諦めていたはずの力を、自らの手で顕現できた喜び。それが、目の前の反応にすべて詰まっているのだと、フェイルは理屈では理解していた。
(……だからって、あんなふうに走るか?)
勢いよく飛び出した騎士の少女に続いて、扉の外から入ってきた女性の姿を目にして、フェイルはそっと小さくため息を吐いた。
彼にとっては微温の現象。だが、彼女たちにとっては、心を揺るがすほどの奇跡。
その温度差こそが、今の彼と世界との距離を象徴していた。
しばらくして、リリィがメレアの胸元からそっと身を離した。
涙の跡を指先で拭いながらも、その表情には明らかに、先ほどとは違う光が宿っていた。
それは、何もできなかった少女が、“できた”ことによってようやく立てた、最初の地面。
フェイルは黙ったまま机の前に戻り、先ほどの紙片を指で軽く払って灰を落とした。
感情の余韻に浸る時間を、あえて与えることも、切り上げることもせずに。
ただ、自分の中にある“教えるべきこと”を、淡々と整理していた。
リリィも、やがてそれに気づいたのか、小さく頷いて席へと戻ってくる。
涙の痕がまだ頬に残るまま、それでも真っ直ぐにフェイルを見た。
「……続けても、いいですか?」
フェイルは頷くでも、微笑むでもなく、ただ短く言葉を返した。
「当然だ。次に進もう」
それは彼なりの、“歓迎”だった。
「文字以外にも、魔術の用法はたくさんある。
たとえば──こんな構文だ」
フェイルはそう言うと、机の上に残っていた紙片のひとつを引き寄せた。
魔力を指先に集中させ、そのまま紙の上に、記号のような線を描き始める。
一見して意味を成さないような、幾何学的な線と点。
だが、その配置には明確な規則性があった。
「これは“変換構文”のひとつ。
対象に流れる魔力の性質を、火から風へと変える起点になるものだ」
構文が描かれた紙から、ほんのわずかに空気が揺れた。
魔力が“形”を持ち始めたとき特有の、微細な振動だった。
リリィは身を乗り出すようにして、紙面をのぞき込む。
「……読めないけど、綺麗です。
何か、音楽の譜面みたい……そんな風にも見えます」
フェイルは、その感想に特に頷くこともなく、紙片を脇に除けた。
「構文の形に意味があるわけじゃない。
意味を持たせる“構造”があって、そこに魔力を流すことで機能が生まれる。
読めるかどうかより、理解できるかどうかの方が重要だ」
部屋の隅で控えていた騎士とメレアは、互いに一度だけ視線を交わした。
言葉を交わすこともなく、何かを伝える必要もなかった。
リリィの声と、フェイルの説明に、すでに十分すぎる意味が込められていたからだ。
メレアは静かに扉へ向かうと、途中で一度だけリリィの背中を見つめた。
椅子に座ったまま、夢中で構文をのぞき込んでいるその姿に、彼女はほんのわずかに目を細める。
何かが始まったのだと、確かに感じていた。
騎士は無言のまま扉を開け、通り道を確保するように一歩横へずれた。
メレアがそれに続き、二人は音を立てぬように部屋の外へと出ていく。
扉が閉じる直前、かすかに聞こえたのは、リリィの問いかけに応じるフェイルの変わらぬ声だった。
構文の形に意味はない──そうフェイルに言われても、リリィは紙の上の記号をしばらく見つめ続けていた。
線の交差、点の配置。見れば見るほど、意味がないはずなのに、そこに“秩序”を感じてしまう。
「少しだけ、わかってきたかもしれません」
リリィは呟くように言った。
フェイルは反応を示さず、新しい紙を机に置いて、魔力の導線となる線の組み方を描き始める。
「意味がなくても、そこに規則がある。
規則があるから、機能になる。構文は、論理の塊だ」
「でも、綺麗ですね。こういうのって、芸術とは違うんですか?」
そう言って、リリィは楽しそうに紙の角を指で押さえる。
学びというより、観察に近い姿勢で見つめるその様子に、フェイルはわずかに眉を動かした。
「芸術は、意味がなくても成立するだろ。
魔術は、意味がなきゃ成立しない。それが違いだ」
「……なるほど。じゃあ、これは“頭を使う美しさ”なんですね」
微笑んだリリィの横顔は、つい先ほどまで涙を流していたとは思えないほど、晴れやかだった。
その明るさに、ふと影を落とすように、彼女がぽつりと漏らした。
「兄たちに言わせれば、“頭を使う暇があったら、魔法のひとつでも出してみろ”ってところですけど」
フェイルが手を止めた。
「王族は、基本的に魔法が使えるものだと、兄たちはそう言ってましたね」
リリィは肩をすくめた。
「四属性のどれかは、王族であれば自然に扱えるはずなんです。
でも私は……本当に、何一つ、できなかった。小さな火ひとつ灯せなくて。
王族の中で“外れ”だなんて呼ばれても、反論すらできませんでした」
彼女の手が、さっきまで触れていた紙をそっと撫でる。
そこに刻まれた構文の線が、まだほんのりと魔力の余韻を残していた。
「でも、魔術なら、“意味がない”ものにも、意味を与えられるんですね」
その言葉は、まるで自分自身を肯定するように響いていた。
「“意味がない”って、どういうことだ?」
フェイルは静かに問いかけた。
「えっと……」
リリィは言葉に詰まり、明らかに戸惑いを見せた。
困ったように眉を寄せながら、視線を伏せ、言葉を探すように唇を噛んだ。
「先に言っておくが、人生に意味なんてないぞ」
フェイルの言葉に、リリィは顔を上げた。静かに視線を向ける。
「っていうか、“意味”ってなんだ?
社会の歯車になるってことか?」
その例えは、リリィにはどこかしっくり来なかった。
なぜなら彼女は、生まれながらにして“国の歯車”として育ってきたからだ。
「それとも、幸せになることか?」
リリィの瞳が、わかりやすく揺れた。
「……君は、今、幸せじゃないのか?」
その様子を見て、フェイルは声音をわずかに和らげ、問いの調子も変えた。
「……幸せって、なんですか?」
リリィは、素直な疑問をそのまま口にする。
「知らないよ。人それぞれ違うから、人はみんな探し続けるんだと思う」
フェイルは首を横に振った。
即答だったが、その答えに迷いはなかった。
「じゃあ、フェイル様の“幸せ”は?」
「俺か?
俺は──こうやって、魔術に関わっているときだな」
魔術を通して、誰かが笑う。前を向く。救われる。
それは、フェイルにとって心から嬉しいことだった。
自分が知っている技術で、誰かの未来が変わるのなら、それだけで価値があると思える。
「魔術に興味がありますって言ってくれる人に、できる限り教える。
もっと広めて、いろんな人の生活が少しでも楽になったらいいと思う。
……特に、君を見て、そう思ったよ」
リリィは、たったひとつの小さな火を起こしただけで、全身で喜びを表していた。
その姿を見て、魔術を愛する彼が“広めたい”と思わないはずがなかった。
「私を、見て?」
リリィは思わず問い返した。
「そうだな。……そういう意味で言えば、俺にとっては“意味があった”な」
「なる……ほど……」
リリィは少し頬を赤らめながら、小さく息を吐いた。
十五歳の少女は、少女でありながら王女でもあった。
それ故に、フェイルに子供扱いされたことには気が付いた。気を遣わせてしまったこと、子供扱いをさせたことに羞恥した。
「……余談だったな。魔術構文を、さっさと作れるようになろう。きっとできるようになるさ」
フェイルは再び紙へと視線を戻した。
リリィもそれに倣い、机の上を滑る彼の指先に目を向ける。
淡く光る魔力の軌跡が、ふたりの間に、静かにまた新たな線を描いていくようだった。




