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最高の魔術師、世界を謳歌する。  作者: 遥
第二章-第五王女リリィ・ルーズライフ
14/15

14-肆-フェイル、王女の先生になる

 夕暮れが近づくころ、馬車は長く続いていた馬車道の終点にたどり着いた。

 前方に、簡素ながらも堅牢な石造りの門と、その奥に静かな街並みが見えてくる。


 街路にはまだ馬車の轍が残り、所々に補修の跡もあった。

 王都のような賑わいはないが、必要な設備と秩序は保たれている。兵が門の前に立ち、通行を監視していた。


「ここが……君が住んでいる街か?」


 フェイルが尋ねると、リリィはわずかに微笑んで答えた。


「はい。王都から離れた、辺境の地方都市です。

 正式な名前は『セフィリア』と言います。……とはいえ、あまり知られていないかと」


 馬車は街門をくぐり、石畳の道へとそのまま滑り込んでいく。

 左右に広がる建物は質素だが清潔に保たれ、民の気配は穏やかで、どこか安心感があった。


 街の門を抜けてからしばらく、馬車は石畳の道を静かに進み、やがて少し開けた丘の上へと差しかかった。

 その一角に、木立に囲まれるようにして建つ白壁の屋敷が見えてきた。規模としては領主館に準ずる大きさだが、城と呼ぶには素朴すぎる造りだった。


「こちらが、私の滞在先です」


 リリィが窓の外を示しながら、控えめにそう口にする。

 簡素な門柱、二階建ての石造りの本館、そしてその奥に控えの建物がいくつか並んでいた。屋敷というより、静かな学寮か修道院のような佇まいだった。


 フェイルは特に感想を述べることもなく、ただ目だけを動かしてその構造を一瞥する。

 魔力の流れや術式の痕跡は見えない。純粋に「暮らすため」の場所だと、すぐにわかる。


 馬車が止まり、従者が駆け寄って扉を開けた。

 先に降りたリリィが、馬車の外で軽く裾を整えたあと、振り返ってフェイルに向き直る。


「お疲れでしょう。中で少しお休みになってください。客間をお取りします」


 フェイルは小さく頷くと、無言のまま馬車を降りた。


 屋敷の中は外観以上に静かで、ほこり一つない清掃が行き届いていた。

 足音が吸い込まれるように柔らかく、天井の梁には古い装飾がわずかに残っている。

 使われている調度品はどれも上質だが、装飾過多ではなく、住む人間の気質がよく表れているとフェイルは感じた。


 案内された客間は南向きで、やわらかな日差しが部屋の奥まで差し込んでいる。

 椅子と机、それに小さな書架が一つ。必要最低限の構成ながら、落ち着いた空気が漂っていた。


「何か必要なものがあれば、お申し付けください。

 ……すぐに休まれますか?

 それとも、少しお話しするお時間をいただけるでしょうか」


 扉口でリリィがそう尋ねる。

 表情は控えめながら、声にはどこか期待の色がにじんでいた。


 結論から言えば、フェイルは彼女に魔術を教えることにした。

 だからこそ、リリィはその“始まり”を、今か今かと待ち望んでいるのだろう。


 そんなリリィの様子は、魔術を広めようとする者にとって、好ましく思うことはあっても、疎ましく感じることはない。


「少し話そうか。魔術の初歩の初歩を」


 フェイルは椅子に腰を下ろし、リリィにも隣の席を示すように軽く手を動かした。

 その仕草を見届けた騎士のひとりが、背後から鋭い視線を向けてくる。

 だがフェイルは、それをまるで気づかぬふりでやり過ごした。


 リリィはすぐに頷き、示された席へと静かに腰を下ろした。

 その動作には、王族らしい品位と、学び手としての緊張が混じっていた。


「まず、魔術の根っこにあるのは“認識”だ」


 フェイルは背もたれにもたれかかることなく、机の上に手を組んで置いたまま、静かに言葉を紡いだ。


「世界は、理に従って動いている。熱は高いところから低いところへ移動し、重いものは下に落ちる。

 ……魔術ってのは、それを“例外なくそうなる”と仮定して、その理をどう操作するかを考える技術だ」


 リリィは瞬きを一つして、小さく頷いた。

 難しそうだと感じたのか、あるいはまだ意味を測りかねているのか──表情には戸惑いと集中の両方があった。


「魔法は“起きた”で終わるが、魔術は“どうして起きるか”を扱う。

 たとえば、火をつけるとき、魔法なら“火が出た”で済む。

 でも魔術の場合は、“熱を作る要素”や“対象を燃やすための条件”がある。

 そしてその条件を、こうやって世界に刻み付けるんだ」


 フェイルは人差し指を軽く上げ、空中を滑らせる。

 指の軌跡を追うように、何もないはずの空中に、淡く発光する文字の列が現れた。

 それはまるで、空間に直接“理屈”が刻まれているかのようであった。


 やがて、その文字が燃えた。


 無音のまま、赤い火花が浮かび上がり、光の線がひとつひとつ、炎へと変わっていく。

 熱の気配が肌をかすめた瞬間、リリィは息を呑んだ。


「なぜ、文字を描いただけで火が?」


 リリィは目を見開いたまま、まだ消えきらない残光を見つめていた。

 その問いは、至極真っ当なものだった。


「魔術がなぜ“魔”術と呼ばれるのか──

 それは、文字を用い、世界に意味を刻み込むという、不思議な力を起点としているからだ」


 フェイルは一息を吐き、さらに言葉を続けた。


「その“不思議な力”ってやつは、魔力のことを指してる。

 リリィは、自分の魔力を放出することはできるか?」


 魔術の基礎の基礎。これができなければ、話を進めることはできない。


「えっと……これで、お間違いないですか?」


 リリィは「むむむっ」と気合の入った表情を作り、人差し指を前に突き出した。

 フェイルの目には、確かにごく微量の魔力が、空気中へと放たれたのが見えていた。


「間違ってない」


 彼は静かに肯定し、紙片を一枚、机の上に滑らせた。


「じゃあ次は、放出した魔力を使って、この紙に“火”と書いてみよう」


「……えっと、どんな文字ですか?」


「まずは、君が知っている文字でいい」


 魔術というのは、世界に“意味”さえ刻めれば、文字の形式には縛られない。

 重要なのは、構造と意図──それだけだ。


 リリィは紙の前で少し息を整えると、そっと人差し指を紙面に近づけた。

 その指先には、先ほどと同じように魔力が微かに集まっている。彼女なりに集中して、それを一定に保とうとしているのが伝わってくる。


 フェイルは黙って見守っていた。助言も、指示も出さない。ただ観察するだけ。

 彼女の魔力が、意図を持って形になろうとする様を、静かに注視していた。


「……火」


 リリィはゆっくりと、魔力を帯びた指先で紙に“火”と書いた。

 文字は彼女が日常的に使っているものと同じ、素朴な書きぶりだった。

 だが──その瞬間。


 書き終えた文字が、ふっと光を帯びる。

 そして、まるでそこが芯になったかのように、紙の中央からじわりと熱が広がった。


「っ……!」


 リリィが思わず身を引いたときには、すでに文字の輪郭が赤く輝き、小さな火が紙面に灯っていた。

 炎は弱々しくも確かにそこにあった。無風の中、紙を焦がす香りが淡く立ち上る。


 フェイルは口元だけで、わずかに笑った。


「成功だな。条件は整っていたってことだ」


 火が灯った瞬間、リリィは一歩身を引いたまま、じっと紙を見つめていた。

 目の前でゆらめく小さな炎。それは、誰かから与えられた力でも、護られて起きた奇跡でもない。

 紛れもなく、自分の意志と魔力が形となって現れた“結果”だった。


 その様子を見ていた護衛の騎士が、何も言わずにその場を離れ、走り去っていった。


 しばらくのあいだ、リリィは言葉を失っていた。

 ただ、唇が小さく震え、視線は紙の上の炎から離れようとしなかった。


 やがて、かすかな声が漏れる。


「……わたし……できた……」


 その声は震えていた。けれど、それは怯えではなかった。

 その瞳には、抑えきれないほどの喜びと、自信の芽が、はっきりと宿っていた。


「魔法は……ずっと、使えなかったんです。だから、これは……本当に、初めてで……」


 そう言いながら、リリィは笑った。

 それは誰かに向けたものではなく、自分自身への、小さな誇りと歓喜の表れだった。


「姫様っ!」


 先ほど走り去った騎士が戻ってきた。

 その後ろには、落ち着いた足取りの初老の女性が続いていた。

 長く仕えてきた者にしか出せない気品と、遠慮のない眼差しがそこにはあった。


 リリィが振り向くより早く、その女性は静かに声をかけた。


「リリィ様……本当に、あなたが?」


 その声には、驚きと安堵、そして信じたいという想いが重なっていた。

 彼女は、リリィにとって血以上に近しい、たった一人の“家族”とも呼べる存在だった。


 その姿を目にした瞬間、リリィの肩がぴくりと揺れた。


「……メレア」


 リリィは、誰に語るでもなくその名を呟くと、机を離れ、女性のもとへ駆け寄った。

 メレアと呼ばれたその女性は、何も言わず、ただ両腕を広げて彼女を受け止める。


 リリィはその胸元に顔をうずめ、小さく震えながら言葉を漏らした。


「わたし……できたの。自分で、火を……」


 メレアはそっと、少女の背を撫でた。

 それはまるで、何もかもを理解していたかのような、静かな仕草だった。


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