10-拾-森を抜けて
二日目の朝は、意外なほど清々しかった。
簡易結界の内側で目を覚ますと、湿った土の匂いと、遠くで聞こえる鳥の声が耳に届いた。
寝床に敷いた魔術式は効果を保っており、背中は痛くない。夜中に魔物に襲われることもなかった。
空を見上げると、まだ緑の天井が重くのしかかっているが、葉と葉のあいだから朝の光がぼんやりと滲んでいた。
(……案外、悪くない)
フェイルはゆっくりと体を起こし、魔力を切って寝具を解除する。
寝ぼけたまま火を起こし、鍋に水を張る。昨日覚えたばかりの雑草の煮沸調理を、無言でこなす。
味はやっぱり不味い。それでも、食べられるだけマシだった。
三日目には、もう少し香りの少ない野草を見つけた。
昨日のような失敗は繰り返したくないと、慎重に鑑定スキルを発動させて候補を絞る。
(なるほど、“苦味は残るが、繊維は柔らかい”。こっちの方がマシそうだな)
調理器具も魔術も変わらない。けれど、ちょっとした選択が、口にしたときの不快感を軽減してくれる。
フェイルはその差を“成長”だと感じることはなかったが、行動は少しずつ確かに変わっていた。
四日目の昼、木陰で休んでいたとき、彼はあることに気づいた。
今、自分は「魔術を使っていない時間」の方が多い、ということだ。
これまでの人生、魔術は“生きること”そのものだった。
だが今は、枝を払い、火を起こし、口にするものを見極め、結界を張って眠る。
それらの全てに魔術は使われているが、思考の中心はもはや“術式の完成”ではない。
(……生活って、こういうことなのか)
そう思ってしまった自分に、ひどく照れくさくなり、フェイルは何も言わずに火をいじった。
五日目、進行中に一度だけ、獣の気配があった。
だがそれはフェイルの姿を見ると距離を取り、音もなく森に消えた。
襲いかかってくる気配はない。こちらも追う理由はなかった。
六日目、木々の密度が微かに変わった。
気づいたのは、陽の角度がいつもより鮮やかに肌に差し込んだからだ。
そして、七日目。
正午を少し過ぎた頃だった。
森の先に、いつもとは違う明るさが見えた。
目を凝らすと、木々の間に切れ目があり、風が一気に吹き抜けてくる。
足元の苔が減り、土が乾き、音が戻ってきた。
フェイルは無言でゴーレムを進めた。
その先、ひと際高い木の影を抜けた瞬間、視界がぱっと開ける。
そこには、果てしなく続く草原が広がっていた。
木々の縁から一歩、陽の下へと踏み出す。
久しぶりの直射日光が肌に触れ、フェイルは目を細めた。
(……森を抜けた、か?)
思ったより、あっさりだった。
だが、思っていたより長くも感じた。
振り返れば、暗く、深く、そしてどこか静かな森の口がある。
風に揺れる木々は、まるで見送りのようだった。
(まあ、最初の課題としては、合格点……ってところか)
誰に言うでもなく、小さく呟くと、フェイルは手綱代わりの魔力糸を指に巻き直した。
進む先は、まだ白紙だ。
だが、空は高く、風は優しかった。
彼の旅は、ようやく本当の一歩を踏み出したばかりだった。