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星座もの

水を得る

作者: 佐藤山猫

 仲睦まじい男女が河辺で愛を育んでいると、河から巨大な怪物が現れて二人を飲み込もうとした。

 二人は魚へと姿を変え、怪物を躱して逃げおおせた。魚の姿のままで、一生を添い遂げたという。愛の印のように、その尾鰭にはリボンが巻き付いていた。


「極めて有名な言い伝えです」

「今日日ならガキでも知っているおとぎ話だ」


 男は「おとぎ話」を強調したが、女は意に介する様子もなく微笑んだ。


「続きはこうだ。尾鰭にリボンのついた魚のアザを持った二人は、運命に導かれた二人であり、永遠の愛の下に結ばれるであろう、だ」

「その通りです」

「どっから生まれたおとぎ話なのか。昔は聞かなかったんだがな。迷惑なことだぜ。こうして信じきっちまったホンモノも出てくることだしよ」


 ホンモノ、と揶揄された女は意に介した様子もなく微笑を浮かべた。


「教会では広く信じられているお話です」

「教会ねえ」


 男の目は胡乱になる。

 この辺りでは、教会の勢力が弱い。憎まれていると言っても過言ではない。教義を信じない民族や少数の部族が離合集散し国家のように振る舞い、各所で小競り合いも珍しくない。野営中の教会の征伐軍を襲撃し壊滅させたことさえある。


「教会に伝わる物語は、神の御力を示したものが多いです。しかし、この怪魚の物語には、神が全く介在しません。珍しい例です。わたくしはこの点を気に入っています」


 男は顔を上げた。その目を真正面から覗き込んで、女の口許が微笑みを形作る。


「ようやく目が合いましたね、フマルサマカさん」

「チッ」


 返事の代わりに舌打ちをひとつ。男は不満げに腕を組み、腰を反った。くたびれつつも雄々しい筋肉で覆われた身体は、服と呼ぶには憚られるようなほつれた布一枚に覆われている。破れかけた下腹にはアザが覗いていた。尾鰭にリボンのついた魚の形のアザだ。


「ここに入られた方に、魚のアザを持つ方がいらっしゃると聞いて、居ても立っても居られませんでした。すぐにここから解放する必要があると思いました」

「…………」

「苦労しました。ここではわたくしの力もあまり効かないようでしたから。すべてを捧げてもなお、興行主様は渋っておられました。ようやく引き出せた条件は、『次の興行で勝つこと』」


 言葉を切って、女は男を──フマルサマカを見つめる。応えるように、フマルサマカは溜息をひとつ吐いた。


「あんた、名前は」

「レーヴァティと申します」

「どうして俺に肩入れするんだ」


 言葉の代わりに、レーヴァティは立ち上がった。腰紐を解き、徐ろに衣服を脱いでいく。


「おい、あんた……」


 何をしているんだ、と続けざまに、レーヴァティは一糸纏わぬ姿になって、その裸体をフマルサマカに晒す。


「カミサマに仕えるシスターの格好じゃないな」

「そのようなことは瑣末なことです」


 こちらをご覧ください。

 そう示されたレーヴァティの下腹部、臍の下あたりに、アザがあった。尾鰭にリボンが巻き付いた魚の形のアザだ。フマルサマカのアザと鏡合わせとなった形。

 フマルサマカは唸った。


「なるほどな」


 レーヴァティは脚のぐらつくテーブルを回り込んでフマルサマカにしなだれかかる。白魚のような指を隆々とした身体に這わし、耳元で囁いた。


「未婚の、しかもシスターの裸体を見たのですから、相応の責任は負っていただきますよ」


 下腹部が熱い。


「永遠の愛を誓えと?」

「まずはこの戦いで勝つことです。そうしていただければ、わたくしはあなたを手に入れることができます。そうしてから、互いを深く知り合うことを始めましょう」


 ザッザッと、足音が近づいてくる。


「大丈夫です。魔術は禁じられていませんよ」


 か細い指先が、アザを撫でる。フマルサマカは魔術になど心得がなかった。しかし、魔術でも使える気がしていた。


「面会時間は終わりですよ。ご両人」


 格子の向こうに現れた男が、二人に向かって冷たい声をかけた。続けざまに、


「人間同士のまぐわいは長い。早く済ませろ」


 レーヴァティが裸でフマルサマカに覆い被さる姿に対して、女の声が言った。








「今宵の対戦者を紹介するぜ! 

 北側! 人呼んで殺しの専門家! 殺人こそ天職と言って憚らない狂気の傭兵! その名もブラヌン! 殺した人数は200を超え、一度たりとも敗北したことがないという歴戦の猛者だ!

 対する南側! 素性不明の剣闘士! フマルサマカが初めての対人戦だ! 実力は未知数! はたしてどのような戦いを繰り広げてくれるのか!」


 レフェリーの声に、観客の厚い歓声が応える。空気が震えるのを感じて、フマルサマカは階段を見上げた。舞台に続くその口は、篝火の赤い光だけを見せていた。


「行くか」

「健闘を祈ります」


 介添人は医者を名乗る男だった。風体の怪しい医者が隣立つ意図が分からず、訝しむフマルサマカに、医者はすげなく言った。


「勝っても負けても、あなたは大事な商品です。万が一死んでしまってはいけませんから」

「商品だと」

「違いますか? あなたが勝てば、レーヴァティさんの戦利品として、あなたは彼女に買われる。あなたが負けても、ただの剣闘奴隷にご執心のレーヴァティさんがいる。きっと程なくして、再び大金を賭けに投じてくれる。あなたには万が一にも勝ってもらうと困りますが、しかし死なれても困るのです」


 歯に衣着せぬ物言いにフマルサマカはただ鼻を鳴らした。

 久しく会話したと思ったら、ことごとくが変なやつときている。何の因果かと思うとどうしてもフマルサマカは苦笑してしまう。


「仕方ねえなあ」


 フマルサマカは肩をぐるりと回した。


「どっち道、負けられなくなったしな」

「それはどうしてだ」


 女の声で質問が飛ぶ。医者ではない。その首にストールのように巻き付いた蛇の言葉だ。人語を話すのだから、蛇そのものでもない。蛇の魔物だ。魔物を飼い慣らす者が世の中にはどうやらいるらしい。我が身に降りかかったことも含めて、つくづく不思議なものだと、世界は広いのだなとフマルサマカは思った。


「てめえは蛇だから分からねえだろうけどよ。未婚の女は身内にすら裸を隠すもんだ。晒すならそれは夫くらいなもんさ。不本意にもそれを見せられちゃあ、もう引き取るしかないだろうが」

「責任を取る、というやつですか」


 顎に手を当て医者は言うが、その首に巻き付いている魔物は納得しなかった。問いを重ねる。


「ここに辿り着く途中、誰彼かまわず裸でまぐわう女を見た。なんならこの地でも。街の屋台の裏手や路地裏、窓を開け広げた宿なんかでだ。まぐわいを迫るけばけばしい女もいた。特定の相手を持たずまぐわうことは珍しくないようだが」

「不信心ってことだろ。教会の教えでは貞淑を重んじろって言ってる。んで、見た通り、あの女はシスターで、カミサマの僕だからな」

「あなたも随分信心深いようですね。この地域は、どうやら教会の権威があまり及んでいないのでしょう? それなのに教義にお詳しいし、それを守ろうともされている」

「ああ。手前ぇ、俺がいつ、この辺りの生まれだと言った?」


 フマルサマカはギロリと医者を睨めつけた。


「俺の生まれはもっと北だ。教会が国よりも強い地域。そこで教会から仕事を貰っていたんだ。

 ちょっと前のことだ。教会が軍を起こした。俺はそん中にいた。徴兵されたんだ。ここら一帯は軍の侵攻ルートでな。あの日、教会の軍は山の上で野営をしていた。そこをここいらの民兵に襲われた。閉じこもったまま一ヶ月は保ったんだ。上出来だろうさ。軍は散り散りに壊滅した。俺は逃げたけどな、捕まって売られた。売られた先が剣闘場だったって訳だ」

「──へえ。きみもあの中にいたのか」


 蛇の魔物が言った。フマルサマカはぎょろりと目を剥いた。


「きみも、と言ったか?」

「ほんの短い間でしたが、わたしたちも従軍していましたから。ご無事で何よりです」

「無事? 皮肉か?」

「まさか。命は助かり、魔術を手に入れて、奴隷からも解放され、美しい妻を得る。報われるならまさに今からです」

「負けられなくなったとは言ったが、お前、まさか俺が勝てると思っているのか? さっきの実況の野郎が聞こえただろう? 相手は百戦錬磨の傭兵だ。大方、俺を負かすために用意されたんだろうぜ。俺が負け続ければ、その分、あのシスターから金を獲り続けられるってな」

「勝てるでしょう。相手はただの人間。対してあなたは魔術師だ。──まさか、まだご自分の魔術に気付いていないのですか」


 喇叭と銅鑼の音が鳴る。いよいよ戦いの幕が上がる時だ。「時間だ」と階段の上から怒鳴り声がかけられる。


「せいぜい頑張ってくるわ」


 階段を上っていくフマルサマカの背中は筋骨隆々としていて、いっそ堂々としていた。

 見送る医者の顔は、さきほどまでの余裕綽々に煽る様子から一転して、心許なげな表情に変わっていた。


「……急に不安になってきた」

「さっきまでの自信ありげな態度はどうしたんだい?」


 蛇の魔物は呆れた口調で言う。


「どうにでもなれ、だ。わたしたちは彼らとは元より無関係だ。だから入れ込んだりしないように。キミはやさしいのだから。──ほら、観客席に行くぞ。あのレーヴァティとかいう女もいることだろう」








 やるしかねえな。

 あれこれ考えることは苦手だった。フマルサマカは肩をぐるりと回した。

 目の前の男は傭兵だという。闘技場に堕ちた剣闘奴隷には相応しくない身なりだ。それ自体は不思議でもない。剣闘奴隷があからさまに勝てない相手と殺し合いをするようあてがわれ、無様に足掻き甚振られる様を見世物にする──それが闘技場であり、剣闘という興行だからだ。

 剣闘奴隷と戦う相手は、猛獣であることが多い。次いで魔物で、人間同士の戦いは三番手というところだ。人気度は一番なのだが、いかんせん無法の戦いだ。降参は無く、殺すか殺されるかしかない。戦いのたびに剣闘奴隷の数が減っていくから、リソースの確保が重要で、つまり、いくらいても足りないのだ。


 決められた位置に立つ。完全な円形をした舞台は、周囲を水堀に囲まれている。フマルサマカが歩いてきた跳ね橋はいま上げられて、完全な島となった。


「いい身体だな。剣闘奴隷にしておくにはもったいない」

「……それはどうも」

「オレはブラヌン。傭兵だ。お前は?」

「フマルサマカ」

「変わった名前だな。覚えやすくて助かるぜ。忘れてしまうのは悲しいからな」


 悲しい。

 場にそぐわない単語だ。フマルサマカの片眉が上がる。


「命のやり取りまでした相手だ。ずっと覚えておきたいだろうが。オレは今まで殺った258人すべての名前を覚えている」

「……イかれたやつだ」


 フマルサマカの感想に、傭兵ブラヌンは我が意を得たりとばかりにニヤリとして、


「よく言われる」

「今日は本当についていない……」


 満足そうに鼻を鳴らす傭兵ブラヌンは、次のフマルサマカの言葉で固まった。


「イかれた野郎ではあるが……まだまともだな。本当に、喋る魔物に魔物と共生するやつに、しかも頭のネジが飛んだシスターに……。はあ、そいつらと比べたらマシか」

「……聞き間違いじゃあねぇよなぁ」


 表情を強張らせながらブラヌンは言った。伏し目になって、フマルサマカに剣の先を突きつける。


「オレは一番じゃないのが大嫌いだ。オレより狂ったやつなんざ認められねえ。てめぇ、二度とその口を開けなくしてやる!」

 












 土を階段状に固めただけの長椅子は、戦いの舞台を見物するのに最適だった。

 興奮に唾を飛ばす観衆たち。

 思いの外善戦している。

 それが、彼らの大半の素直な感想だろう。


 丸腰のフマルサマカに対して、ブラヌンは片手に大剣を持って振るっている。剣の軌道を、フマルサマカは読み切っているようだ。剣が振るわれる瞬間には、身を屈めたり引いたり、適切な動きで攻撃をいなす姿は、曲芸師を連想させた。ガタイの良いフマルサマカのアクロバットに、観客は熱狂していた。上がる声は、怒号か野次か歓声か、もはや区別もつかなかった。


「バスターソードだ」


 ブラヌンの得物に見入って、無意識のうちに医者はひとりごちた。その首には蛇が巻き付き、そして隣には貞淑なシスター、レーヴァティが座っている。観客たちの発する轟音の中で静粛に観戦するレーヴァティは異質だった。


「フマルサマカさん。魔術は使ってないですよね」


 医者がレーヴァティに尋ねる。


「そのようですね」


 フマルサマカから目を離さず、レーヴァティは答える。その答え自体が、レーヴァティは魔術に目覚めていることの証左だった。

 質問を重ねる。


「あなたは自分の魔術がどんなものか、理解していらっしゃるので?」

「理解しています。しかし、フマルサマカさんまでそれを理解していらっしゃるかは分かりかねます」

「……そうですか」


 沈黙が降りる。

 会話が続かない。

 どうにも居た堪れない空気だ。医者は首に巻きつく蛇の魔物を撫でた。舌をチロチロ出し入れしていた蛇の魔物は、鎌首をもたげて呆れたような目を医者に向けた。


「戦いをどう見る?」


 問われ、蛇の魔物は言下に答えた。


「ふむ。焦っているな。あの剣を持っている方」

「そりゃあ想定外だろうしなぁ」


 武器を持っている自分が、百戦錬磨の自分が、まさか武器も持たない相手に辛酸を舐められるとは、思いもしなかったに違いない。


「それに対してフマルサマカとかいうのは冷静沈着だな。身体は相応に温まっているのに頭は冷えている。良い傾向だ」

「さすがです」

「お嬢さん。きみはあの男の勝ちを信じているんだな」

「当然です」


 相も変わらずレーヴァティは闘技場から目を離さず答えた。


「そうでなければ困ります」

「理由をお伺いしても良いですか? どうして彼にそれほど執着するのか」

「それはもちろん、彼を愛しているからですよ」


 レーヴァティはくすくす笑った。


「信じられるか」

「同感ですね。本当の理由はなんですか? もちろん、あなたが言いたくないなら、無理に聞かせろとは言いませんが」


 レーヴァティは初めて闘技場の舞台の上から視線を変えて、彼方の空を見遣った。


「話すと思いますか?」

「…………いえ」

「あら。ハズレです。わたしは、お二人には隠さなくても良いと思っているのですよ? 

 実はですね、わたしは教会の中でも高位にあるのです」

「知っています」

「年齢を考えれば、異例とも言えるでしょう。理由は分かりますか?」

「さあ」

「それは、わたしが大司教の娘だからです。教会の中での地位に、出自は関係しないことになっています。建前の上では。ですから、ええ。わたしが高位にあるのも、世襲の影響はほとんど無いでしょう。言うなれば、環境が生んだ、英才教育の賜物です。恐らくはそうなのでしょう。

 物心ついた時から、わたしの側には聖書があり、教会があり、神の教えがありました。神は万物の創造主です。万物をあるべき姿形に創造なさいました。それは人間に限りません。植物も、動物も、水も空気もすべてです。魔物を除いて。──わたしはそう教えられてきました」


 話の進む方向が分からず、医者はただ黙ってレーヴァティの首筋をじっと見ていた。「あんまりじっと見ているようなら怒るぞ」と蛇の魔物が耳元で囁く。

 続く言葉は、意外なものだった。すなわち──。


「月経が起きないのです」


 こともなげにレーヴァティは言う。それはあたかも、空に舞う羽根のような軽さで発せられた。


「正常な女性であれば、大人になれば月経を生じるものです。わたしの周りにも、そのような女性ばかりいます。母もそうです。わたしだけ、周りと異なるのです」

「先天的に生理が来ない人もいますよ」

「生まれながらに正しくなかったということです」


 慰めのつもりだった医者の補足は、レーヴァティにとっては信念の補強にしかならなかった。あくまでも穏やかな口調で、闘技場のフマルサマカを見下ろしながら、レーヴァティは語りを続ける。


「異教は異形。はじめから神に見捨てられている魔物は、自然の一部のように振る舞いながら、実は自然の敵なのです。あるべき姿に生まれ育たないのですから。

 ──わたしは、正しく生まれなかった。わたしは魔物なのでしょうか。これほど神を信仰していても、わたしの側に神はいないのでしょうか。大司教の娘でありながら、神はわたしをお見捨てになられたのでしょうか。わたしはシスターの形をしていますが、それは見た目だけなのでしょうか」

「……理解できないな。きみがなんと考えようが、先天的な疾患があろうが、わたしからすれば、きみはヒトそのものだ。魔物であるはずがない」

「宗教者でなければ、そのような発想になるのですね……」


 レーヴァティの端正な顔が歪んだ。受け入れ難い辛苦を飲み込むように、一息をついて、レーヴァティは歪んだ表情のまま自嘲げに笑った。


「わたしは納得できませんでした。完全無欠な人になりたかった。神が創られた通りに生きていたかった。

 ──物心ついた頃から、身体に魚の形のアザがありました。古い民話にそのアザについて触れた物語を見つけたのは、神を傍に感じなくなった後のことでした。わたしは自分の天命を悟りました。魚に変じて、魔物として生き遂げるのだと」

「…………ふん。全く訳が分からないな。理解できない」


 蛇の魔物が言った。呆れるようでも嘲笑うようでもあった。


「理解いただかなくても結構です。突拍子もない話ですから」


 強がりも怒りも差し挟める余裕がないくらい、レーヴァティの言葉は諦念に沈んでいた。レーヴァティの視線の先、見上げた空にリボンが舞っていた。服飾から千切れたのであろうそのリボンは、青い空に透き通るように消えた。

 悄然としたレーヴァティに気兼ねするように、おずおずと医者は話しかけた。


「よく分からなかったのですが、結局、なぜフマルサマカさんに執着するのです? 愛だなんて納得できませんよ。だって、フマルサマカさんと接触して、魔術も手に入れたのですから、彼はもう不要でしょう。違いますか」

「……ええ。まあ、そうかもしれませんね」

「ならばちょうどいいな。あの男、もう保たなさそうだからな」


 蛇の魔物がこともなげに言い、観客席のどよめきが続いた。

 舞台に目を遣れば、フマルサマカが地面に倒れ伏している。微動だにしていない。その傍らで、傭兵ブラヌンが、遠くから分かるほど肩を怒らせていた。手に大剣は無く、両手はガラ空きだった。

 大剣を奪おうと組みついたフマルサマカと、武器を死守する傭兵ブラヌンとの間で揉み合いになったのだ。両者の体格はほぼ同じ。それがどう作用したのか、武器は戦場である舞台の上から転がって、観客席の壁際に落ちていた。


「はっ! 所詮オレの相手じゃねえってことよ!」


 息を呑む音が聞こえた。次いで、衣が擦れる音。ふわりと、レーヴァティの法衣が床に降り落ちた。医者が目をやった時には、レーヴァティの姿はどこにもなかった。


「ほう。感心した」

「……消えた? レーヴァティさんはどこへ?」

「地面の中だ」


 顎をしゃくるような動きで蛇の魔物が示した先には、フマルサマカがいままさに戦っている舞台があった。


「……消失した」

「ある程度深く潜られるともう無理だな。追えない」

「魚だからな。地面の中を泳ぐ能力か」


 医者と蛇の魔物は顔を見合わせた。互いに同じことを思っているようで──処置なしと言わんばかりの表情だった。










 起き上がれなかった。

 武器持ちのブラヌンと素手で戦うのはどう考えても分が悪かった。だからフマルサマカは、ブラヌンの手から武器を奪おうとした。

 一瞬の隙をついてブラヌンの腕に組み付き、剣を奪おうとした。

 目論見はまずまずだった。結果的には、ブラヌンの手から得物を失わせることになったのだから。

 しかし、フマルサマカは今ひとり、地面に倒れ伏している。

 純粋に体力と戦闘技術が無かったのだと、フマルサマカは憔悴の中で思考した。

 全身が痛い。鈍い痛みがひと塊になって、波浪のように打ち寄せてくる。

 立ち上がる意思はあった。

 しかし指の一本さえ、ぴくりとも動かなかった。


「はっ! ざまぁねぇ!」


 傭兵ブラヌンがフマルサマカの側頭部を踏みつける。靴の裏を通して押し付けられる重さ。歯軋りが鳴った。


(終わったか……)


 剣闘奴隷に堕ちた時点で、人生には見切りをつけていたはずだった。それなのに、いま、生に執着している自分がいる。ガラにもなく、フマルサマカは血が昇っていた。


(くそっ! 動けよ……、俺の身体……)


 フマルサマカが手を持ち上げようとする。

 その時、指が沈んだ。


 幻覚を見たのだとフマルサマカは思った。

 しかし、


「んあっ!?」


 側頭部を踏みつける傭兵ブラヌンが動揺もあらわに飛び退いた。

 フマルサマカもそうしたかった。何せ、顔が地面にめり込んだのだ。それも力任せに押し込まれたのではなく、泥に体重をかけたかのように、重力に従ってなめらかに沈んでいく。奇妙な感触に、ブラヌンは足を外した。それでもなお、フマルサマカの身体は沈み続けた。

 顔が埋まった。

 目は開けていた。それでもフマルサマカの視界には闇が広がっていた。

 地中だ、

 フマルサマカはそう直感した。


「このようなところで負けてはいけません」


 女の声がした。

 レーヴァティの声だ。フマルサマカはそう感じた。


「泳げますか?」


 流線型の影がフマルサマカを誘う。

 二人は魚に変身して──。おとぎ話の一節が頭に浮かんだ。

 既に全身がドロドロに溶けた地面の中に埋まっている。

 背筋を伸ばし、身体を左右にくねらせる。ボロボロの身体と、普段使わない筋肉が悲鳴をあげる。


「くっ」


 ほんのわずかな距離を泳いで、フマルサマカは地上に飛び出した。

 目の前には背中を向けているブラヌンがいた。


「なにっ!?」


 驚いて首を回したブラヌンを殴りつける。

 地面に倒れ込むブラヌン。


「どういうことだ!?」 


 目を白黒させている。


「さあな。俺にもよく分からないんだ」


 フマルサマカがブラヌンの腹部めがけて踵落としを放つ。

 済んでのところで身体を捻ってブラヌンは躱す。

 勢いよく地面に落とされた踵は、地面をドロドロに溶かしてしまう。


「ああ。よく分からんがうまくいった」


 フマルサマカの声色には余裕があった。

 身体の傷は治っていない。

 ブラヌンを出し抜いた、優位に立った。その事実が向精神作用を及ぼし、フマルサマカの脳は痛みを感じなくなっていたのだ。


「沈めましょう」


 地中から女の声がするのを、ブラヌンは聞いた。

 その眼前。

 フマルサマカの足の裏が迫ってくる。

 二の足は避けきれなかった。


「うぐっ!」


 靴裏と、硬い地面の板挟みになって、ブラヌンは呻き声をあげた。

 そして、同時に。


「なっ! なんなんだっ!?」


 服が掴まれて、引き摺り込まれる感覚。

 遠目に見物していた観客たちも異変に気付いたのだろう。

 興奮の声に交じって、懐疑に由来するどよめきが感じられた。


「おい。観客の目がごまかせなくなったぞ」

「仕方がないですね。では、わたしは観客席を溶かしてきます。この方の相手はお任せしますね」


 気配が消えた。

 うっすらと、地面から振動が伝わる。観客席の方へ離れていくような波動。

 そして、埋められたように、ブラヌン地面に半身を取られ身動きが取れなくなっていた。


「なにしやがったんだっ!?」

「さあな」


 フマルサマカは首をゆるゆる振った。


「俺にも分からねえことだらけだよ。そうだな、ああ、でも、あの医者が言うには、【魔術】ってことらしいぜ」

「魔術、だと……?」


 幽霊に遭ったかのようにブラヌンは目を見開いた。


「なんなんだよ、それ……。そんなの、おとぎ話だろ……?」

「俺もそう思うんだけどな」


 苦笑いが返ってきて、ブラヌンはいよいよ絶望する。話の通じない化け物が、自分を害そうとしている。身の毛もよだつ。


 遠鳴りが聞こえる。人の挙げる悲鳴に似た音が。揺蕩う水に飲み込まれるように、視界が土塊の波に飲まれる。

 溺れていく。

 ブラヌンは意識を手放した。













「地面が崩れる」


 蛇の魔物が言った。


「あの二人の仕業か」

「そうだと思う」


 地盤が緩んでいく感覚に、観客たちは顔を見合わせている。立ち去ろうとする者も現れ始めている。


「ははっ。ヘタな魔物よりも魔物らしいではないか」

「魚にできる範囲を超えてるだろ」


 医者は吐き捨てるように呟いた。


「わたしもそう思います」

「うわっ」


 足元から声がして、思わず医者は腰を浮かせた。「驚くなよ驚くだろ」。蛇の魔物が苦情をつける。

 一矢纏わぬ姿のレーヴァティが地面から浮上してきて、二人の目の前に立つ。レーヴァティの足元には波紋が同心円状に広がっていった。水面に立っている泉の精が連想されて、医者は思わず「オーラリー」とこぼしていた。


「驚かせてしまったようですね」

「そうでもない。わたしは温度を見ることができるからな。ある程度はお前を捕捉できる」

「気付いていたなら言ってくれ」


 レーヴァティが微笑み、蛇の魔物が澄まして、医者が悔しげに愚痴を垂れる。


「もうすぐ、この会場ごと沈めます。フマルサマカさんも直ぐに手伝ってくれると思います」

「そうですか。せめてわたしたちは逃してくれませんか?」

「…………最初からそのつもりでしたが、その……命乞いをするのが早過ぎませんか」

「素直が一番です」

「そうですね」


 レーヴァティは暫時、困ったように眉を落として、それから気を取り直して、「さあ、わたしの手を取ってください」と医者の手首を掴んだ。


「しっかりつかまっていてくださいね」

「水の中で目を開けられた試しが無いので、目は閉じておきます」

「お任せします」


 レーヴァティに連れられるままに、医者と蛇の魔物は揺蕩う地中に消えた。


(速い! 酔いそうだ……)


 粘性の高い流体が身体にぶつかってくる。

 泥の中を掻き分けているようだ。

 目を開けるなんて、冗談でもやらない。

 医者は必死に目を閉じていた。


 そして、泳ぎ抜けて上がった先は会場の外だった。

 肩で息をしながら医者は闘技場を見上げた。桶に入った水が揺らされるように、円形の闘技場は、その形のままで波打っていた。


「大丈夫ですか」


 レーヴァティが医者の顔を覗く。

 半眼になって、「もうこりごりです」と医者は言った。


「ほんとうはもう少しお話ししたいのですが、フマルサマカさんを放っておけません」

「ああ……。そうでしたね」

「ええ。それでは、さようなら。またお会いできる日を楽しみにしております」

「フマルサマカさんにもよろしく」


 医者は踵を返し、レーヴァティは見送りも早々に地面に潜って消えた。

 闘技場の中はますます混乱しているようだ。どよめきはやがて悲鳴となって、街にも漏れ出している。何事かと近付く街の人の流れに逆らって、二人は街を離れた。

 街を出て人の気配がなくなったところで、街中ではずっと黙っていた蛇の魔物が医者に喋りかけた。


「そういえば、なんであの女は、わたしたちに身の上を話したのだと思う?」

「……予想だけど、大方、似ていると思ったんだろう。たとえば、お前が元人間だとか。人語を話す蛇の魔物の正体は人間、だなんてありそうな話じゃないか」

「おとぎ話というやつか? そうだったとしても、話す理由にはならないと思うが」

「シンパシーってやつだよ」

「ふむ。人間とは難しい生き物だな」


 二人は薄暗い森へ分け入る。魔物はいないが、獰猛な獣が目を光らせ獲物を待ち続けている森だ。僅かにぬかるんだ地面が足跡をつける。医者は少しだけ顔を顰めた。


「そうだ。久しぶりに──」


 踵が四つ。泥濘の上に足跡が、暗い森の奥へ続いていった。

 


 


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