【8】異教の祈り(2)
ミーシャは迷わなかった。彼女にとって善の規範は神でもなければ聖書でもなく、他人の子供を守るために帝国兵に立ち向かった神父のヴァルターだった。ミーシャは剣を抜き、光輝く衝撃波を魔獣に向けて放った。前脚を上げた四足獣の腹を光の刃が裂いた。子供は地面を這いながら必死で逃げようとしている。魔獣は己の臓物がこぼれ出るのも厭わずに、目の前の子供に喰らいつこうとする。ミーシャはエリシス教の聖句を唱えた。巨大な四足獣の頭上に光の槍が現れて、子供の肉を喰らう機会をその魔獣から永遠に奪った。
巡礼者がどよめいた。中には神への感謝の祈りを口にする者もいた。彼らは皆一様に、神の奇跡を目にしたような眼差しをミーシャに向けていた。彼女の魔術や唱えた聖句が異教徒のものだとは、彼らには知る由もないのだろう。
しかしただ一人、若い聖騎士だけは違った。
部下の兵士が親子四人の保護に向かう中、彼は剣の柄に手を添え、抜け目ない視線をミーシャに向けていた。
「……おまえ、今の魔術は何だ? おまえが唱えたのは、エリシス教の聖句だよな?」
ミーシャに対する彼の言葉に巡礼者が静まり返る。
ミーシャは答えなかった。やましいことはしていない。しかしそれを言ったところでこの場では通用しないだろう。ただ、グレンを巻き込んでしまったことだけは申し訳ないと思った。視界の隅でグレンが剣の柄に手を伸ばすのが見えた。その動きに気づいた聖騎士は、グレンを見やりながら、挑発的な笑みを見せた。
「おいコラ、爺さん。やんのか? 俺はヴィクトール・ヴァルトハイム。聖騎士団長セオドリック・アイゼンリート直属の指揮官だ。ガキだと思ってナメた真似してると……」
「ほう。貴公の上官はセオドリック殿か……」
「あ? なんだてめぇ。団長の知り合いヅラして俺にマウント取ろうってのか、あぁ?」
ヴィクトール・ヴァルトハイムと名乗った男が気色ばむ。
二人の間に割り込むように巡礼者が口を挟んだ。
「ヴィクトール様、どうかご慈悲を。この方は、魔物に襲われた子供を助けてくださったのです」
「ああ、それは俺も見ていた」
ヴィクトールは少しだけバツの悪そうな顔をしたが、すぐに先ほどまでの不遜な態度に戻る。
「確かにおまえの言うとおりだ。この女が魔術を使わなければ、子供は今頃あの魔物に殺されていただろう。だがな、それとこれとは話が別だ。俺の仕事は子供を助けた異教徒を表彰することじゃねえ。不法入国者の取り締まりだ。子供を助けたことを理由に不正を見逃すわけにはいかねえ」
言いながら、ヴィクトールはミーシャに視線を戻す。
「……おい、おまえ。爺さんもだ。教皇庁の推薦状を出せ。推薦状が本物なら、今のは不問にしてやろう」
ミーシャは無言でヴィクトールの指示に従った。