【5】老騎士グレン(3)
扉の向こうで二人の男が言い争っている。宿泊者の中に知人がいるのかどうかを知りたいと言う男と、それはできないと答える従業員。男には何か、差し迫った事情があるようだったが、彼はただ、人を捜していると言うだけだったので、施設の管理者としては断らざるを得ない様子だった。男の声に聞き覚えがあったので、ミーシャは急いで身繕いし、ドアを開けて部屋を出た。声のする方に進む。
木造の階段を降りていくと、階下につく前に言い争う二人の姿が見えた。所属不詳の軽甲冑に身を包んだ痩せた男は、ミーシャの想像していたとおりの人物だった。旧ヴァルディス王国の聖騎士団長を務めた老騎士グレン。グレンはミーシャを認めると、彼女に呼びかけようとして、慌てて口をつぐんだ。
その理由は知っている。ミーシャはアリシアの計らいで偽名を使っている。国境付近の兵士の意識、セリオンに対する危機感は、カイウス帝のものに近い。補給基地を訪れた娘が、反乱軍の指導者ミーシャその人であることが露見すれば、反感を買って思うように協力を得られない危険性がある。故に王妃の許可証には、ミーシャの偽名が記されていた。グレンの口にした名前が許可証のものと違っていれば、いらぬトラブルを招きかねない。ミーシャは従業員に声をかけた。
「この人も密命を受けていて、私とここで合流する手筈になっていたの。でも私が少し寝坊をしてしまったから……申し訳ないことをしたわ」
ハッタリで理由をでっち上げ、王妃の許可証を提示すると、従業員はあっさりと引き下がった。
ミーシャは声を潜め、老騎士に問う。
「グレン、どうしてここに……?」
グレンは跪き、ミーシャに臣下の礼をした。
「セレスタン様の……国王陛下のご命令です。命に代えても貴方をお守りするように、と陛下は仰せになりました」
「セレスタン……陛下が……」
ミーシャは首から下げたエリシス教の聖印を服の上から握りしめた。
私は本物の聖女ではない。神の啓示など受けていない。だけどセレスタンは私のためにここまでしてくれた。ミーシャにとってその事実は、セレスタンに対する己の裏切りのほどを知らしめるものだった。彼はここまでしてくれたのに、私は彼と離れること、彼の最愛ではなくなることに安堵してしまっていた。別れ際のセレスタンの言葉が再び蘇る。
──ミーシャ、無事に帰ってきてくれ。いつまでも待っている。
彼はあのときどんな顔をしていたのだろう。振り返らずに去ったから、心に残すことができなかった。
ミーシャの様子をどう受け取ったのかは分からない。グレンは立ち上がり、ミーシャに笑いかけた。
「王妃の密命を知っていれば、陛下に命じられずとも貴方についていきました。貴方を一人でセリオンに行かせるわけにはいかない。どこまでもお供いたします」
「ありがとう、グレン……」
ミーシャはグレンが自分のために命を捧げる理由を知っている。旧ヴァルディス王国の聖騎士団長だったグレンは、自国の国王暗殺容疑で投獄されていた。彼の容疑は冤罪だった。帝国貴族のギデオン・シュアフェルド、すなわちアリシアの父が魔術でグレンになりすまし、国王を暗殺したのだった。国王の死によって旧ヴァルディス王都は陥落、ギデオンは皇帝から莫大な褒賞を受け取った。一方、グレンは己の冤罪を晴らそうとはしなかった。王も国も民も守れなかったことを、騎士として恥じていたからだった。
グレンの無実を知る者は帝国内にも存在した。騎士団長になりすまし国王を暗殺したことを、当のギデオン本人が武勇伝として吹聴したためだ。旧ヴァルディス王都の統治者となった帝国軍人たちも、ギデオンからその話を聞かされていた。彼らの多くは横柄なギデオンを嫌っており、冤罪を着せられたグレンに同情的だった。故にグレンが帝国に処刑されることはなかったが、王都陥落から二十年、ミーシャ率いる反乱軍に救出されるまで、彼は暗い牢獄で過ごしていた。