【4】老騎士グレン(2)
グリフォンの厩舎の天井は、家畜用のものよりも遙かに高い。彼らは建物内でも飛行する習性があるため、不慮の事故を避けるべく、そのような設計になっている。厩舎内では、専門の飼育員が働いている。グリフォンに餌をあげる者、藁の上でグリフォンを休ませようとしている者。怪我をしたグリフォンの手当てをしている獣医もいる。彼らの半数近くは有翼人だった。飛行能力を持つ有翼人は険しい山岳地帯に住み、独自の社会や文化を築いている。彼らは人間と関わることを好まないが、中には人間社会に出稼ぎに訪れる者もいる。ここにはそのような労働者が集まっているようだ。グリフォンは獰猛な性格と言われているが、有翼人の飼育員には驚くほど警戒心を見せない。空を飛べる者同士、通じ合うものがあるのかも知れない。
グリフォンを飼育員に預けたミーシャは簡易宿泊施設に向かった。そこには小さな食堂があり、気さくな中年女性が干し肉と野菜のスープにパンを添えて運んできた。温かいスープが食道を通るのを感じながら、ミーシャは自分の体が冷え切っていたことに気づいた。
温泉に入っていきなよ、と店員に勧められ、ミーシャは岩場に向かった。湯船は石を積み上げただけの簡易的なものだったが、岩間から湧き出す温泉が冷えた体に染み入った。服をすべて脱ぎ捨てても、ミーシャは首にかけたペンダントを外さなかった。細い鎖に下がっているのは、エリシス教の聖印を刻んだメダリオンだった。ミスリル製のそのペンダントは、錆びることも変色することも曇ることもない。
ミーシャは旧ヴァルディス王国の聖職者の家に生まれた。大陸北部を除く全土で広く信仰されている、エリシス教の導き手にミーシャもなるはずだった。しかしヴェルサリア帝国の侵略によって国は滅び、両親は死んだ。孤児となったミーシャは辺境の町の教会に引き取られた。神父ヴァルターは酒浸りだった。ミーシャは悲しみ、憤った。何故神はこのようなことをするのか、この世に神はいないのかとヴァルターに詰め寄った。すべては神の思し召し、神は試練をお与えになった、などと返答しようものなら、知り得る限りの罵倒語を吐きつけてやろうと思いながら。しかし神父の返した答えは、ミーシャの予想とは違っていた──神などいないと嘆く暇があるのなら、聖書を利用し、人を欺き、自ら神になればいい。何を畏れる必要がある。この世に神などいないのだろう?──その言葉は何よりも強くミーシャを支え、突き動かした。ミーシャが帝国兵に乱暴されそうになったとき、ヴァルターはミーシャを庇って殺された。ヴァルターにとってミーシャは数いる孤児の一人に過ぎなかったが、彼はミーシャのために命を投げ出した。ミーシャは迷わず剣を取り、肥え太った醜悪な帝国兵をその場で殺した。そして帝国の横暴に苦しむ民衆に告げた。「私は神の啓示を受けた」……
セレスタンに対しては後ろめたさを感じていた。彼はミーシャのことを、神の啓示を受けた救国の聖女だと信じていたが、実際のミーシャは神の啓示など受けていない。私はセレスタンを騙している。しかし、だからといって、自分のしたことが間違いだったとは思えなかった。そのように思うことは、ヴァルターの言葉、ヴァルターの行動、ヴァルターの信じたものを否定することだ。ミーシャにとってヴァルターは、本物の神父だった。
こうして一人になるとようやく解放されたような気分になる。いや、今に始まったことではない。アリシアがセレスタンを奪ったとき、心のどこかで安堵していた。セレスタンから離れる口実ができたことに。セレスタンにとって自分が最愛の女ではなくなることに。そう、私は最初から王妃の器ではなかった。だから何も悲しむ必要はない。そう思ったときに初めて涙が溢れ出した。
簡易宿泊施設には、個室と共同寝室がある。個室は本来は上級士官や貴族専用だが、王妃の許可証を有するミーシャには個室の使用許可が下りた。一人用のベッドと机が設えられているだけの簡素な個室だったが、それだけあれば充分だった。重い毛布にくるまってミーシャは泥のように眠った。夢一つ見ない深い眠り。どれほどの時間が経っただろう。争うような声が聞こえて、ミーシャははっと飛び起きた。