【2】夜を往く
新生ヴァルディス王国の北方に位置する寒冷地帯に、強大な軍事力を有するセリオン教国が存在する。セリオンは教皇を頂点とする宗教国家で、厳格な戒律によって統治されており、異教徒に対しては極めて排他的。国内外に敵は多く、故に政策は強硬的で、不正に潜入した者は決して生きては帰れないと言われていた。そのセリオン教国が旧ヴェルサリヤ帝国領、現ヴァルディス王国領への侵略を企てているという。そこで王妃アリシアは、救国の聖女ミーシャにセリオン教国への潜入調査を命じた。危険な敵性国家に対する単独でのスパイ活動。それは実質的には国外追放、そして死の宣告だった。
グリフォンの背に騎乗して空路で北に向かいながら、ミーシャはヴェルサリヤ帝国皇帝カイウスと対峙したときのことを思い出す。彼はミーシャにこう言った──北方のセリオン教国がこの国を狙っている。彼らは光による救済を掲げながら、異国を侵略し、思想の自由を奪う悪しき侵略者だ。我々は強くならねばならない。そうでなければ我々は自由はおろか、思想すらも奪われる。貴様は悪政を布く役人や貴族が許せぬと言う。しかし貴様は北方のセリオンの脅威を知らぬ。己の身分にあぐらをかき、私腹を肥やす役人や貴族と、真の脅威の存在を知らず、目先の生活の安寧を求め、国力の低下を招くような反乱を起こした貴様ら民衆。いったいどう違うのか──
ミーシャには答えられなかった。聖騎士アリシアは、正義、民衆、民のため、それらを盾に押し切った。アリシアの生き方は野蛮で暴力的、好きか嫌いかで言えば嫌いだ。それでも完全に否定することができないのは、事を起こしてしまった以上、すみません、間違ってました、やっぱりやめます、などと引き下がるわけにはいかないと知っているからだった。ミーシャは皇帝カイウスを討ち、結果としてこの地はセリオン教国の侵略を退けていた守護者を失った。事を起こしてしまった以上、安易に引き下がることはできない。皇帝カイウスの果たしていた役割は、彼の首をはねたミーシャにのしかかっていた。
遙か彼方の地平線の空が白み始めている。
眼下に広がる森林と、点在する村や町。誰かの暮らす家屋が一粒の麦より小さく見える。ミーシャは解放感を覚えた。人々の営みはなんて小さいのだろう。私一人が消えたところできっと何も変わらない。蟻の生死が私にとって何の意味も持たないように、世界にとって私の生死は何の意味もないのだろう。だから今から行き先を変え、セリオンに行かずに逃亡し、名前を変えて見知らぬ土地で静かに暮らしたとしても、きっと何の問題もない。生きて戻ってくることなど、期待されていないのだから。
そう思いかけたとき、セレスタンの言葉がミーシャの胸を締めつけた。
──ミーシャ、無事に帰ってきてくれ。いつまでも待っている。
そうだ、彼は待っている。だから無事に帰らなければ。セリオン教国に潜入し、その機密情報をヴァルディスに持ち帰らなければ。帰ってこなくなった私をいつまでも待たせるわけにはいかない。誰にもできなかったということが、私にできない理由にはならない。
東の空に太陽が昇る。前方にそそり立つエルムリッジ山脈にまばゆい朝日が彩りを与える。グリフォンの休息と補給を兼ねた第一中継地点が近づく。セリオン教国の国境は、この山の向こうにある。