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【1】祝宴を背に

「……どうしても行くのか」

 不意に呼び止める声がして、胸の奥が軋むように痛んだ。

 顔を確認しなくても判る。自分に対して向けられることを狂おしいまでに望んだ声、愛しい男の声だった。

 ミーシャは振り返り、声の主を見上げた。戦勝祝賀会の喧噪を背に、金髪の美丈夫が立っていた。月明かりを受けた長い髪が夜の風に柔らかく舞う。新生ヴァルディス王国の新たな王セレスタン。胸の奥を苛む痛みが暖かな安らぎに変わるのを感じて、ミーシャは穏やかに微笑んだ。

 いいえ、行きません。生まれたばかりのこの国で貴方にお仕えしたいのです。生涯に渡ってお仕えしたい。だからどうか私を貴方のおそばに置いてください──

 しかし実際に喉から溢れ出したのは、全く別の言葉だった。

「はい。私は行かなければなりません。新生ヴァルディス王国の脅威を取り除くために」

 そうか。セレスタンの呟きに落胆の色が見えたのは、そうであってほしいとミーシャが期待したからに過ぎないのか。胸の奥がずきりと痛んだ。セレスタンの唇が震える。続くはずだった彼の言葉を、自信に満ちた、棘のある、女の声が遮った。

「明日は私たちの結婚式なのよ? 旅立ちは式が終わってからでも決して遅くはないわ」

 セレスタンの背後から女が現れた。豪奢なドレスを纏った彼女は勝ち誇るように笑いながら、つり上がった細い目をミーシャに向けている。新生ヴァルディス王国の新王妃アリシア。救国の聖女ミーシャから、王子セレスタンを奪った女。アリシアは肩にかかる金の髪を指でかき上げ、さっと払い落とした。

 ミーシャはアリシアに笑いかけた。悪しきヴェルサリヤ帝国の圧政に苦しむ民衆に天使のようだと賞賛された笑顔を憎き恋敵に向けた。ミーシャは自分の笑顔が好きではない。これは天使の顔ではない、牙を剥いた獣の顔だ。そう自己評価を下しながら、ミーシャはアリシアに答えた。

「そういうわけにはいかないわ。一刻も早く旅立たなければ」

「そう。貴方に祝福してもらえないなんて、残念だわ」

「この地を北方の侵略者に渡すわけにはいかないの。新生ヴァルディス王国の平和が、私からの祝福よ」

 言って、ミーシャはきびすを返した。臣下としての礼などしない。神聖ヴェルサリヤ帝国の聖騎士でありながら、救国の聖女ミーシャ率いる反乱軍に荷担したアリシアは、亡国の王子セレスタンと恋仲にあったミーシャについて、かつてこう言った──どこの馬の骨かも分からない田舎者、聖女と呼ばれているけれどヴェルサリヤの民にとっては反逆者。そのような女が新王朝の王妃になるなど、ヴェルサリヤの民は納得しない。私は帝国騎士として、帝国の正義の生き残りとして、民意に反するこの婚姻に賛成することはできない。私は名門シュアフェルド家の娘。反乱によって国を奪われた民衆の心を考えると、このような田舎娘ではなく、帝国の正義の代表たる私が新たな王妃として身を捧げるべきなのよ──二言目には正義、民衆。力なき者を盾にして、アリシアは我を押し通した。彼女はただ、勝ち馬に乗りたかっただけなのだ。そのことに気付いてはいたものの、ミーシャにはどうすることもできなかった。ミーシャは力なき民衆のため、人々のより良い未来のために帝国と戦った。民意を盾に取られては引き下がるしかなかった。背後でアリシアが不満げに鼻を鳴らす気配がしたが、ミーシャは気付かないフリをした。王妃に相応しくない田舎者だから、礼儀などわきまえておりません。婚約者を奪われ、敵情視察を口実に国を追放される者の、せめてもの意趣返しだった。

「ミーシャ、無事に帰ってきてくれ。いつまでも待っている」

 背後でセレスタンの声がした。行きたくない。その場で泣き崩れて取り乱し、セレスタンにすがりたかった。しかしそれはできなかった。救国の聖女と呼ばれた記憶、自分を愛し、或いは憎んだ者たちが柱となって自分自身を支えているのを実感する。涙は一滴も流れない。すがりつける相手はいない。両親も故郷も失った。すべてはヴェルサリヤ帝国に滅ぼされ、そしてヴェルサリヤ帝国は滅んだ。残ったのは救国の聖女、形のない名前だけ。

 その夜、ミーシャは人知れず北方に旅立った。

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