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第九話

 煩い。

 眩暈がする。

 頭が割れそうに痛くて、それでも我慢する。

 今はただ我慢する。

 それが先生からの最後のお願いだから。


 少年の格好をした少女は『声』に苦しみながら自分とは対照的なスタイルの女性を見つめていた。


 クュリクルルという名を持つハーフエルフ。

 大胆に肌を露出させた布の少ない衣装でふらりふらりと先を歩いている。

 自分が長く苦しめられていた『声』────呪いの解法が彼女だと聞いた。

 そしてそれを苦痛を伴って確信しているところだ。

 魔術師を殺せと叫ぶ『声』は今までのが囁きだったと錯覚するほど脳内を埋め尽くしている。

 少しでも気を抜けば意識を失いそうだだった。

 心を強く持つ。

 お預けを喰らった魔銃はますます声を響かせて迫ってくる。

 殺せと。

 手足が今にも勝手に動きそうになる。


「……」


 目を閉じて動悸を鎮める。

 彼女は探そうとしても見つけられないまるで幻のような存在だったが、魔銃が煩いほどにその位置を知らせてくる。

 少しくらい離れても問題はなかった。


「……変化」


 先生の言葉を思い出す。

 いつもどおり突然現れたあの人は自分にクュリクルルという存在と、そして今日という日を告げた。

 今、彼女を撃っても意味がない。

 彼女に変化が現れた時に、撃てと。

 対魔術戦闘を叩き込まれた時に、魔術の概論も無理やり押し込まれた。

 でもそのどれとも照らし合わせても先生の言う言葉の意味はわからなかった。

 わからないけど、先生の言葉を疑う理由はボクにはないと深呼吸。

 先生はどうしようもなく優しい人だと思う。

 あの人は見捨てればいい物を見捨てられない。

 出来るならやってしまう人。

 それがどんなに自分を傷つけるとしても、あの人はなんでもないような顔をしたまま、自分が憎み怨まれると知ってやってしまう。

 だからボクは信じる。

 ボクは先生みたいに頭が良いわけでもないし、一人で何とかできるほど強くもないから。

 父を無残に殺したあんな殺人者に成らず、今もこうしてあるのは先生のおかげだから。

 今はただ声と衝動に負けない強さだけを抱いて彼女を追う。


◇ ◇ ◇


 街道を一頭の馬が走る。

 その姿は流麗。

 馬も人も疾く走るために不要な動作の一切を消し去ったフォルムは速度以上に見る者に感嘆を与えるだろう。

 馬上の人は花木蘭。

 アイリンの英雄にしてアイリン神の元代行者。

 そして常勝将軍の名を今も響かせる英傑の姿がそこにある。

 走る道は南へと伸び、その先には五カ国の一つ、セムリナがある。

 サリエルの予言の通り、事態を聞いた木蘭は「下らない」と一蹴して馬を駆っていた。

 戯れに世界征服をしてみようかと思ったこともあるが、旧友であり、また求婚されるような間柄であったアイリン王マーツと事を構える気など無い。

 国が揺れるような話にしてくれるなと呆れるばかりだ。


 ───そこには、そう懸念する者の思考を一切図らない彼女の有り様が垣間見える。


 才色兼備の彼女に欠点を挙げろと言われれば親しい者はその傍若無人さを指すだろう。

 自信に裏づけされた行為は周囲を振り切って問題を粉砕する。

 そしてその背景にある本来その役目を帯びた者達にため息を吐かせるのだ。

 この動きを指しても各地で奮戦する外交官の努力を蹴飛ばすようなものだ。

 だが結果が伴う以上、その悲嘆もため息も全ては事実の影に埋もれてただ結果を作った花木蘭の名声だけが残る。


 ─────例え代行者としての力を失っても、彼女が彼女で無くなるわけではない。


 頭で考えるより早く手綱を引くと愛馬は素早く応じて道を逸れる。

 直後、一条の光が街道を深く抉り取ったのを見て彼女は空を見上げた。


「……」


 声は出さない。

 ただ見上げる。

 宙に咲く花の一輪を。

 そして花に寄り添う死神の鎌を。

 その先に光。

 次の瞬間生み出されるのは三条の牙。


「ハッ!」


 迷う事無く馬を走らせる。

 その背に回り込む三つの牙───《竜牙》が追い迫る。


「そんなものに当たると思って居るのか……」


 あるいは違う敵であるならば、彼女は挑発的に言い放っただろう。

 しかし上空に居るそれは花木蘭を代表とした達人が誘導魔術を回避して見せることを充分に知っているはずだ。

 だから加速する。

 勘に任せて振り切るように。

 背に追いすがる牙はその一つ一つが人間くらいあっさり食いつぶす力を持っている。

 ぎりぎりまで引き付けての回避行動。

 一条目がかするように脇を通過する。

 が刹那、嫌な予感に方向転換を命じた瞬間、通り過ぎた魔術の牙が爆発を巻き起こす。

 馬もそれに怯えるような鍛え方をしていないが、爆風という物理的な要素をキャンセルできるわけではない。

 それでも速度を殺さぬように体勢を整えつつ前へ。

 ただの魔法誘導ではない。

 それに感づいても原理まではわからない。

 わからないが────

 不意に馬の速度を落として牙をやり過ごす。

 先ほどと同じならば爆発する寸前に彼女は何も無い空間を薙いだ。

 すると牙はそのまま直進し、遥か先で地面に激突すると爆音を響かせた。


「変な技ばっかり覚えるな、アイツは」


 最後の一つが回りこんで正面から来る。

 同じように対処するに見せかけて急制動。

 その瞬間牙は炸裂し、盛大な爆風を浴びせかけてきた。

 このまま突撃していればただでは済まなかった。

 そこで普通なら安堵してもおかしくない。

 だが、常勝将軍の名を誇った彼女がその程度であれば英名を誇ったまま生きては居ない。


「チッ」


 舌打ち一つ。

 未だに荒れる馬の背に立って飛ぶ。

 その瞬間、左右から伏兵のように飛び出した牙が馬の上で交差し、爆発する。

 最初の牙は一つ。

 残り二つを伏せたまま新たに魔術を放ってきたのだ。

 難なく着地し、瀕死の馬を見る。

 それから見上げればそこに空舞う花の姿は無い。

 踏み込める位置に居ない魔術師がこちらを狙っている。

 しかも相手はソーサラー級────蒐集した魔術を考慮すればウィザード級と評しても良い魔術師だ。

 普通なら絶望してもし足りない。

 そんな環境の中で木蘭はただ体が重い事に嘆息を漏らす。

 生まれながらにしてそして死ぬまで神の加護を受け続ける聖騎士と違い彼女の体はあくまで人のそれだ。

 代行者の役目を終えて以来、彼女にあってはならない力が彼女を逆に蝕んでいる。


◇ ◇ ◇


 ごっ と大気が震えた。

 生まれるのは雷気───魔の力と言われる人間の魔術師が扱えないとこの世界で信じられていた力。

 立ちふさがるように現れたイカヅチのドームから伸びる首は九つ。

「無茶苦茶だな」

 複合魔術《九頭竜》。

 イカヅチを纏った九の頭を持つ竜が木蘭を高みから睥睨していた。

 不意に走り出す。

 直後に《キュオォォン》というカン高い音が鳴り響くや、直前まで木蘭の居た場所を基点に爆風を巻き起こす。


「チィイッ!」


 戦艦の魔導砲かと誤認しかねない威力と余波にどうしても体勢が崩されるが無理にでもと姿勢を保ち、速度を維持。


 《キュオォォン、キュオォォン》


 二連射。

 正確には別の首が放った物だが、向けられた方からすれば同じ事だ。

 二発目が大気を薙ぎ削って生まれた大気の断層に体が大きく揺さぶられた。

 馬の足も存在せず、雷気のドームも彼方。

 そして遮蔽物も無く、単純な遮蔽物ではあっという間に吹き飛ばされてしまう高威力の砲撃。

 完全に魔法使いを有利とする条件が揃っていた。

 弓でもあればと毒付きつつ移動。

 しかし弓での攻撃は鏃が磁性に捕まって逸れてしまう事を彼女は知らない。

 幸いなのはこの攻撃が精密射撃で無い事だろうか。

 それでも彼女でなければとっくに余波に翻弄され命を落として居ることだろう。

 とにかく避ける。

 視認すらも不可能な速度で飛来する弾丸をとにかく避けて、衝撃を殺す。

 好き勝手に放たれるそれは次第に密度を増していく。

 気が付けば地面に開いた穴は50を越えている。

 一日に多くても10回、その制約を無視できる理由は攻撃方法その物が魔術ではないからだ。

 この攻撃の原理はレールガン。

 サンダードラゴンがブレスを吐く時、それを収束させるために静電気で収束レンズを作り出す方法を用いて見えない砲塔を構成。

 持ち込んだ鉄の弾の尻に雷撃を集中させプラズマ化することで推力を得る。

 結果弾丸の得る速度は音速を軽く超え、速度は質量を仮想的に引き上げる。

 対して魔力はこのフィールドを維持することだけに使われていた。

 《セイントフィールド》に代表される結界系の魔術を基礎理論として長時間の継続使用を実現しているのだ。

 それでもこれだけの電力を維持する以上ティアロットの魔力はどんどん吸い上げられている。

 が、それを上回る打撃回数は実現している。


 5分────


 掠めただけでも命に関わる攻撃を前にこれだけの時間を傷らしい傷も受けずに避け続けた事は神がかっているが、その顔にはびっしりと汗が浮かんでおり、張り付く髪を鬱陶しげに払う。


「そこらの連中なら焦れて手を変えてくるんだがな」


 荒い息に愚痴を混じらせる。

 それが有効であるならば何十時間でもやってのける事くらいわかっている。

 本当にただの愚痴だ。

 そして五分という時間は木蘭の体力を根こそぎ奪いつつある。


「……という甘いヤツならこうも追い詰められんか。

 困ったものだな」


 視線を走らせても遮蔽物一つ見当たらない。

 さて七宝聖剣を持ち出したとしてどれだけ打ち返せるか。

 失敗すれば即死、成功しても腕力を削り取られていくに違いない。

 ちらつく思考を振り払い、次の一撃をかわそうとして表情を変える。

 当たらないから闇雲に撃つというのはティアロットの流儀ではない。

 それを改めて理解した木蘭は反射的に動いた体の先でどうしようかと思案。

 抉れた地面が唯一頼るしかない足場をぼろぼろに抉り取っていた。

 足を失わないために体を転がし、すぐに立ち上がろうとする。

 常人よりも遥かに早い動きだが今までの動きには遠く及ばない。


 そして、雷の竜がそれを知っていたかのように狙い済ました一矢を解き放つ。


◇ ◇ ◇


 ───そこから時間は少し前に巻き戻る。


「シン大尉、ライサ君。

 今聞いたとおりです。

 連絡をよろしくお願いします」


 懐からぴょこんと飛び出したのはデフォルメした猫耳少女の人形。

 この場面に相応しくないコミカルな人形は「そうしんかんりょー」と気の抜ける声を挙げてジュダークの頭によじ登った。


「それ……は?」


 驚愕を打ち消せぬままサリエルが震える声で問う。


「貴女が望むのが第三の正史であるのなら、恐らく『彼女』はそれを正すために世界に投入された要素です」

 少女の顔が恐怖に引きつる。


「し、知らない。

 そんな未来は見た事が無い……!」


 瞳が鮮やかな翠色を輝かせるのを見た。

 しかし────


「ひぃいいあああああ?!」


 突然片目を押さえ、痛みにうずくまる。

 指の間からどろりと鮮血が漏れて少女の白い指を染めた。


「嫌……いやぁ……!!」


 豹変と言うにもおぞましい魂を引き裂くような悲鳴にジュダークは小さく呟きを漏らす。


「……貴女のその恐怖が、恐らくセリム・ラスフォーサの感じたという恐怖なのでしょうね」


 それはヨルフォード領に出発するにあたり、ふと以前考えた事を思い出しただけの結果だった。

 アルルムの人形があれば簡単に連絡が取れるんじゃないかと。

 そして未来を知っているはずの少女はまるでジュダークだけが聞いていると信じて全てを話してしまった。

 うずくまり震えるだけの少女を哀れむように見てジュダークは人形の首根っこを掴む。


「逆巻き角亭で北の鬼に連絡を依頼してください。

 今の内容をイニゴさんに伝えて開放してください、と」


『了解。

 って、イニゴの旦那まで捕まえていたのかよ……』


 どっから取り出したか、人形サイズのハンドスピーカーから響くのはシンの声だ。


『でも、いいのか。

 お嬢を裏切る事になるんだぞ?』


 続く言葉にジュダークは苦笑を一つ。


「責任はちゃんと取りますよ。

 ライサさんはシ────」


『嫌です』


 ジュダークの知る少女らしからぬきっぱりとした拒否に言葉を詰まらせる。


『隊長、その槍を使うつもりですね?』


 悲嘆の滲む声音。

 何故槍のことを知っているかとは問えなかった。

 原因の使い魔は気楽に手足を動かしている。 


「サリエルさんの予言はそう大きく変わっていません。

 そして今のスティアロウさんを止められるのはこの槍だけです」


『他にも手段はあるだろ。

 シルヴィアやクラウディアなら止められる』


 共に人間の姿を持っているがその力は腹心クラスの魔族だ。

 確かにこれ以上無い人選だろう。


「ダメです。

 彼女らが出てくれば静観しているミスカ様が必ず出てきます。

 僕だから、あの人には邪魔されない」


 シンがしばしの沈黙の後に忌々しげに舌打ちする。

 こと対魔法戦においてはインチキな性能を誇る操魔魔術を相手に魔術特化のシルヴィアは分が悪い。


「それにクラウディアさんは人々の前でおおっぴらに魔族の力を見せるわけにも行きません」


『そんな事を言っている───』


「そういう事態です。

 よろしくお願いします」


 言い切ってアルルム人形を懐の中に押し込む。

 むぎゅと律儀に音を立てるが通信は遮断したようである。


「死にたくない……ジュダーク様、助けて……。

 いやぁ……怖い……どうして、私は幸せな未来を夢見ただけなのに……!」


 ジュダークは背を向けて、一拍の間を空けて歩き出す。


「助けて……私が死ねば……セリム・ラスフォーサの目が完成するのよ……!?

 ジュダーク様はそんな未来を望むの……!!」

「望みません。

 ですが、このままあなたの望む未来も僕は受け入れられそうにない」

「他にどんな道があると言うの!? 

 貴方は……貴方は満足して死ねばいいのにっ!!!」


 絶対と信じていたアドバンテージを失い、崩壊していく自我に怯え、少女は縋る物を求めるように手を伸ばす。


「貴女は元となる願い以上の事を求めました」


 手には槍。

 その感触を確かめて前へ。


「僕には貴女が無垢な幸せを得られないと思えない。

 だって何もしていない人を木蘭様が害するわけがないのですから」

「嘘よっ!

 私は……私は間違っていない!

 だって幸福になれる未来が見えていたのだから!!

 私は、私は、わたしはわたしは……死にたくなかっただけなのにっ!!!」


 よろよろと立ち上がり、少女は顔半分を染める赤をまとって叫ぶ。


「英雄が死んで、魔女の母も死んで、操り人形の娘も死んでっ!!!

 そうして私が幸せになれるって、私は確かに見たのよっ!!!!!」

「貴女の片方の目は」


 顔だけ振り返り、ジュダークは悲しそうに告げる。


「その目は今を見ることができたのですよ?」


 その意味すら少女は忘れてしまったのだろう。

 あまりにも未来に固執しすぎてしまったがために。

 だから今、語りかける声も彼女にはもう届かない。


「嘘よ……こんなの……。

 助けて。

 私に未来を見せてよ……」


 一歩ゆらりと踏み出して、そのまま前のめりに倒れた少女にもう振り返ることはない。

 少女はもう二度と立ち上がることは無い。

 彼女は許された限界まで瞳を酷使して舞台を調整した。

 そしてそれ以上の行使が自分にどんな結末を与えるかも承知していた。

 それでも瞳が映さなかった未来に怯え、無明の闇に彼女は踏み出してしまった。

 セリム・ラスフォーサの悪夢。

 未来視の魔眼を得た彼女は正史に刻まれた己の未来に縋り、その先にある正史の歪みに畏れと希望を抱いた。

 単一な未来を失ったが故に完全でなくなった未来視。

 見える物が見えなくなった事に怯えた彼女が求めたのが完全なるセリム・ラスフォーサの創生。

 彼女の夢見た未来視とは『世界の完全俯瞰』と『完全予測』。

 ありとあらゆる外的要因による変化も即座に観測し、未来をシミュレートする事で完全な『未来視』を作り上げようとした。

 しかし人間の脳にそこまでの処理能力は存在していない。

 だからクュリクルルにはフェグムントという狂った精霊───常識を無視した存在を宿す必要があった。

 クュリクルルはやがてその世界の異端と融合し「この世界」に子を産む事でその処理を可能とするバケモノを生み出す。

 それがセリム・ラスフォーサの描いたシナリオだ。

 そのような無茶な能力を今までサリエルが行使できたのはその能力が半分以下の性能であったこと。

 そして己を中心にした限定的な観測だったからだ。

 それでも脳の酷使は限界に達していた。

 脳の機能が一部不全となった少女は空ろな視線をどこと知れず彷徨わせ、だらしなく涎を垂らして痙攣を繰り返す。

 彼女は死なない。

 死ねない。

 歪みを抱えた歴史がその行く末を決めるために、彼女の死は今であってはならないのだから。

 運命を崩そうとした少女は皮肉にも運命に生かされて、しかし意識なく醜態を晒される。


◇ ◇ ◇


「せぇぇあああああああああっ!」


 渾身の一撃が超音速の弾丸と交差し、弾き飛ばす。

 並大抵の剣であれば砕けてもおかしくないが、黒光りするそれは無傷で使用者の手にあった。


「馬鹿者。

 何をしに来た」

「感謝くらいされても良いと思いますよ、流石に」


 それでも腕に走る衝撃は半端なものではないだろう。

 痛みを堪えるように言葉を紡ぐフィランダーに木蘭は笑みを零して、


「そうだな、感謝する」


 とぞんざいに返す。


「で、どうして来た?」

「イニゴからここだと聞きました。

 情報ソースはシーフギルドだと苦々しく教えてくれましたよ」


 フィランダーは改めて自らが所有する竜剣を構えなおして魔術で構成される竜を見る。


「シーフギルドだと……。

 ジュダークのヤツか」

「恐らくはそうでしょうね。

 経緯は生き残ってから聞いてください」

「ふん」


 もう一人のシーフギルド関係者はまさに目の前に居る。

 ジュダーク故かと結論付けて体勢を整える。


「お前一人来てもどうにもならんだろうに」

「機嫌が悪いのはわかりますけどね木蘭。

 もう少し言い様というものが……

 ……まぁ正しいんですが」


 フィランダーも卓越した技能の持ち主ではあるが、正直その才能は事務方のそれだ。

 今の真似を相手が飽きるまで繰り返す自信など全く無い。

 むしろ先の一撃は自分でも行幸だと思っていた。


「カイトス将軍に来てもらえれば一番だったんですがね。

 そういうわけにも行かないので」


 響くのは馬軍の音。

 撃ち放たれるは数多の《マジックミサイル》。

 先制で放たれたそれが《九頭竜》へと雨のように降り注ぎ表面と頭2つを削り取る。


「青を連れてきました」


 即座に残る首のうち2つがそちらを向くがすでに散開。

 更に近づいた事で弓矢や投擲槍が叩き込まれる。

 これらの多くは届く前に退けられるように弾かれたがいくつかは表面に命中した。

 甲高い音が響き、轟音と共に地面が抉られるが最速を誇る兵馬の群れにはかすりもしない。

 電気を散らさないために竜の頭の動きは制限されている。

 距離を取る事により小さな角度変更で広い射角を得ていたが、集団で動き回られればそれも間に合わない。


「馬鹿者と言うべきか、よくやったと言うべきか」


 運が良かった。

 というのが実直な思いだ。

 もしティアロットが《九頭竜》を使っていなければ青の軍勢は《輝夜》でなぎ払われていたことだろう。

 あの降り注ぐ死の雪をかいくぐれる者など精鋭揃いの彼らでもどれだけ居るか。


「馬は?」

「私のがあります」

「貸せ」

「言うと思いましたけどね。

 木蘭、逃げるためになら渡します」


 あからさまに批難の視線を向けられるが、フィランダーは譲らないとその視線を見返す。


「貴女はセムリナに行く事が第一の目的のはず。

 それとも、あの子と本気で殺し合いたいのですか?」


 そう問われて初めて拗ねたように押し黙る。


「売られた喧嘩は買う」


 ややあっての言葉にフィランダーはため息。

 それから視線をはずし


「わかってるさ、私の目的は別だ。

 だが」


 竜のあぎとを睨みあげて英雄は降り注ぐ弾丸を打ち払う。

 名刀とは言え圧力に耐えかねて折れるのを横目にしながら、続く言葉を宙に流す。


「任せた、で済む相手でもあるまい」


 フィランダーの腰から予備の剣を抜き取ってそのまま馬に跨る。

 彼方で竜の首は三つにまで減っている。

 苦しむようにのたうつそれの下を弱体化したと蔑まれても未だ常勝無敗の騎馬隊が翻弄するように走り抜ける姿が見えた。

 そちらへ合流しようとして、


「散開しろっ!

 なるべくアレから離れろっ!!!!」


 ようやく気付く。あまりにも首の動きが散漫で、しかもフィランダーと悠長に会話をする間があった事に。

 まるでその声に応じるかのように巨竜が突如崩壊した。


 勝利の瞬間。

 人は喜びを得るものだからその一瞬には酷く脆いところをさらけ出してしまう。

 精鋭揃いの青にそんな感情は皆無だろうがゼロではない。


 崩れた巨竜が変貌する。

 それはこの魔術の元々の形。

 即ち地を這う千の紫電───《サウザンドサンダー》

 神速を誇る青の騎馬もイカヅチの速度から見れば停止しているも同然だった。

 逃れえたのは距離を取っていた木蘭とフィランダーのみ。

 その他ほぼ全ての兵は神経を焼かれ、血液を沸騰させて馬と共に倒れ伏す。幸いにして距離を取れたものが麻痺した体を動かせぬままにうめきを漏らしていた。

 そして背筋の凍るような気配。


 竜の殻からいつの間にか抜け出し少女が謳っていた。


 それは遠い過去への憧憬で

 それは今への決別で


 小さな唇が紡ぐ言葉は届かなくても、

 細められた瞳の色は見えなくても。


 あまりにも大きすぎる力で空間を引き裂く音が代わりとして音を奏で、足元を奪われたようなどうしようもない喪失感が世界を塗り替えていく。


 少女の謳う詩。

 それは、全てに終わりを告げる調べ。


 魔力の集積方法を狂わせ、ありえぬ威力を生み出す秘術。


 物理魔法に曰く────《神滅ぼし》

 そして魔王の秘術に曰く────《ザガリッシュフレア・アンフィニティ》


 少女は言葉を閉じる。


 別れの言葉を呟くために。


「《終末の詩》」


 世界が破壊と閉塞の奏でに悲鳴を上げた。


 ──────────

  ──────────

   ──────────

    ──────────が


「……」


 少女は魔術の不発を見る。

 人の物でない爬虫類に似た瞳孔がゆっくりと動き、こちらに視線を飛ばす女傑を睥睨する。

 周囲を染め上げるような強烈な神気。


「やっとそこまで引き出せたか」


 目論見のままであれば《終末の詩》は文字通り最後の一手となるはずだった。

 しかし青により《九頭竜》が崩されたために已む無しに手を進めた。

 それは常識を超えた力によって強制的に阻害された。

 失敗したとは言え、濃密過ぎるマナが物理的な風を巻き起こし土煙を上げる中、その存在感は数百メートルの距離を経ても体に痺れを走らせる。

 アイリン神の代行者としての力を今一度取り戻したのだ。


「じゃが、それが続くのも僅かな時間。

 そしてそれは刃を飲むようなものじゃ」


 呟いて胸元に刺さる小剣を見た。

 『奇跡的に』致命傷を避けたそれは宙に浮いてる事もあり虚空に少女を磔刑にしているようにも見える。


「《神鎧》をこうも易々と破るか、代行者の力は……」


 生み出された奇跡。

 痛みを無視して剣を引き抜くと崩れた宝石が宙に散る。

 フレア・オブ・アバターの加護がほんの僅かに彼女の命を繋ぎとめたのである。

 間違いなく重傷。

 しかし幼い魔術師は痛みに呻く事も死を間際にして恐れる事もなくただ次の手を見据える。

 失われた血が僅かに思考を鈍らせるが、大した問題ではない。

 既にこの場は詰め将棋。

 考える必要すらない。

 少女は一つ呪を唱えて傷を修復し、すぐさま次の呪を身にまとう。

 その間に木蘭は動き始めていた。

 最高速で走る騎馬から身を横に乗り出し、落ちた弓を拾って姿勢を戻す。

 落馬する可能性を微塵も感じさせない曲乗りに続いて放たれる矢をティアロットは見た。


「還れ」


 右肩に吸い込まれた矢。

 それはすぐさま右肩から打ち出され英雄は忌々しげにそれを弓で打ち払う。

 《応報》───古代魔法で言う《魔理反法》が物理現象を捻じ曲げてその威を奮う者へと押し返した。

 ティアロットはすぐさま身を翻しながら《竜牙》を放つとそれは空を濁す土ぼこりをさらに捲り上げた。

 視界を奪う事は《竜眼》の優位性を奪う事に他ならない。

 しかし生き残った魔術師にディスペルマジックをかけられる事を防ぐ事が優先である。

 《応報》がある限り木蘭の攻撃にそれほど恐ろしい物はない。

 用意したプランは2つ。

 優先順位は明確で考えたと思えないほどの時間と共にマジックストーンを使用する。

 《元力探知》生命の精霊力を探って木蘭の位置を確認する。

 すでにこちらの位置を把握しているらしく近づいて来ていた。

 アレは本当にも木蘭か?

 掠める疑問を却下。

 フィランダーはあのような突撃を好むタイプではない。


「技を借りるとしよう」


 目前に生み出すのは《ウィル・オ・ウィプス》に似た光の玉。

 それが不意に解けて数多の針に変貌する。

 バールの地で見た《光蜂》だ。

 それは一旦散開すると木蘭へ向かって四方八方から攻め立て始める。


 一閃

 

 ただそれだけで前面に集った《光蜂》が消失する。

 だがほんの僅か。

 その一つ一つは構う事無く彼女の駆る馬へと殺到する。

 人馬一体とはこの事を指すのだろう。

 認識を超えるほどの光の群れを打ち払い避けながらトップスピードを落とす事すらしない。

 見る間に《光蜂》はその数を減らしていく。

 そうした中を疾走し、矢を番える。

 無駄な事をとは思わない。

 木蘭もまた《魔理反法》の事を知る一人だ。

 ならば射る意味を持っている。

 そして竜眼は見た。

 その加護を得て術よりも早く体を貫く純粋な力押しの一撃を。


「───《浮舟》」


 ならばその速度を下げれば良い。

 速度が増せば増すほど大気の壁は鉄に等しい硬度となる。


 シュボッ


 聞き慣れぬ音。

 《応報》には何の反応もなく、身を撃ち抜かれたわけでもない。

 その前に増加した摩擦で自身を焼いてしまったのだと察した。


「さて」


 本来は《応報》で打ち返した矢を再加速させるために唱えた《浮舟》をホールドして彼女は思いの他で言葉を漏らす。

 世界に相対し勝利を重ねた無双の英傑が自分を見ている。

 次の矢を手に、視線が先に射抜こうとするように。

 ミスカは遠距離攻撃の全てを防ぐ手段がなければティアロットに勝てないと評し、それが出来るのは世の理を崩す大精霊を数多従えたアーシアだけだと論じた。

 しかし今ここにある英雄にどの魔術も届く未来が見えない。


「ああ、ぬしはやはり害悪じゃ。

 何もかもをねじ伏せてしまう威の何と恐ろしい事か」


 追い詰められた者はそれがどんなに恐ろしく抗えない物だと知っても最後には刃を突き立てに行かねばならない。

 『窮鼠猫を噛む』────弱者の反撃に用いられる言葉は鼠が猫を傷つけうるから成立する。

 花木蘭を相手にして適切な言葉は『飛んで火に入る夏の虫』。

 その眩さに惹かれるのではなく、畏れて、飛び込んでしまう。


「木蘭。

 ぬしは英雄じゃ。

 故に────英雄であり続けるためにこれからも生贄を求め続けるのじゃな」


 そうして飛び込んだ虫は燃え上がり、炎をより一層彩って消えていくのだ。

 びゅんと放たれた矢は数百メートルの距離を一瞬で埋めてティアロットの髪をひと房刈り取っていく。

 《竜眼》で己に刺さる矢を見る。

 そうして位置で通過点を予想しても、

 射る前に動けば即座に応じられる。

 採れるのは体を掠めるような危なっかしい避け方だけだった。


「されど、これを最後の戦いとしようぞ。

 わしは英雄を討ち、魔として世の恐怖を得よう」


 声が届く距離ではない。

 けれども応じるように木蘭の唇は動く。


「わからんガキめ。

 素直にお仕置きされてろ」


 触れれば千切れ飛ぶ一矢を放って仕置きと嘯くか。

 竜眼が見る。

 それは三本の矢が同時に放たれる未来。

 こちらの回避速度を読みきって避けても避けなくても負傷を負わせる正確無比の攻撃。

 だがこれで慌てるならば相対する資格もないと袖を探る。

 無造作に振りぬくは刃のない短剣。

 即座に生まれた実体のない刃が鏃を掠り挙げて弾道を逸らす。

 舞うように。

 もう一矢に僅かに触れさせ《応報》の反応できる速度まで威力を削り、打ち返す。

 己の矢を鬱陶しげに弓の頭で払うが、強度を越えて弓は自壊した。

 最後の一矢が魔力の刃を砕くのを見届け


「わしの行動を未だに野心と見るか、バールよ」


 自嘲気味に呟きを漏らす。

 常人のティアロットがアイリン神の加護を受けた木蘭の攻撃に反応するなど竜眼による未来予測を得てもできるものではない。

 しかし野心の神バールの固有神聖術ラックは億に一度の奇跡を顕現させる事が可能とした。


「さて、木蘭。

 ぬしの体はあと如何程持とうかや」


 華美なドレスは所々引き裂かれ、それでも美しく気高い少女は銀の髪を供に地へと舞台を移す。

 遠くでいぶかしむ顔が見えた。

 今の木蘭では空に居る限り決定打を与えられない。

 自ら不利な地へ降りてくる事に警戒したのは当然の事だろうし、少女もその警戒により生まれる時間を求めた。

 マジックストーンで魔力を補充しつつ、武の神と化した英雄を見据える。

 様々な方法で『魔法使いの制約』を誤魔化してはいるが、それでも手数は戦士に遠く及ばない。

 《応報》が無意味とされては防御の一手にも消耗を強いられる。


 ────あとどれほど持つか。


 保持できる魔力の上限値があり、隙を突いての補給をしなければならないティアロットは手数を増やされるとあっという間に詰むというリスクを抱えながらもそれを見せない戦いを展開し続けている。

 彼女の手札は心理戦と罠。

 魔法はあくまでその補助でしかない。

 どんなに強力な魔法でも当たらなければ無意味なのだから。

 百戦錬磨の木蘭にこの駆け引きが続けられているのは彼女自身このタイプの魔法使いとやりあった事がないから、そしてティアが普通の魔法使いではないと知っているからだ。

 他の相手であれば焦れたと見て踏み込んできたかもしれない。

 木蘭の口が小さく動く。

 何か言葉を発しようとして、そのどれもしっくりいかずに飲み込んだのだろう。

 少なくとも、言葉の交わしあいで木蘭が勝ったためしがあまりない。

 チと舌打って手綱を握りなおす。

 一足で踏み込むには僅かに遠い位置。

 ティアはそう見誤った振りをして顔に掛かる髪を払う。

 野生の勘とはげに厄介じゃが。

 ティアロットという少女を知るから木蘭は容易に踏み込んでこない。

 最初に見せた《竜牙》によるトラップがさらにその判断を後押ししているのだろう。

 無論単なる心理トラップだけではない。

 今も罠は仕掛けている。

 ────仕掛けては居るが、実のところ今の木蘭ならば噛み千切って少女に迫れるような稚拙な物だ。

 彼女を英雄たらしめた嗅覚はそれを敏感に察し、そしてティアロットという少女の存在を加味して動く手を考えさせている。

 可能性を探りながら《浮舟》を再キャスト。

 脳裏の奥底で恨み言が漏れる。

 予測ではこの場にフィランダーや青が来る事は無いとしていた。

 木蘭のこの動きはいつもの独断だろうし、だからと形式上は一般人の木蘭を追いかけて国の重役であるフィランダーや混乱するアイリーンを放って青が出てくる道理がない。

 それがどうだ。

 一応は沈黙させたとしてもカードを余計に切らされ、自分は予備の札を握らされている。

 フィランダーが出てきたということは、即ち自身の襲撃が漏れ伝わった事に相違ならない。

 木蘭を討伐するとは謳ったが今このタイミングを見極められるとすれば

「神託でも下ったか……」

 ならば木蘭の暴走から止めそうなものだが。

 チリと首筋に細やかな痛みを感じてティアロットは《天翼》を制御。

 けん制のつもりか飛来するナイフに自ら当たって《応報》で返す。

 未だにこの術が効いていると知れば生半可な───ティアロットにとっては手数を奪われる細やかな攻撃をけん制できる。

 見せる手と見せない手を織り交ぜて相手の手を縛るやり方を忌々しく思っているだろうか。


「さて」


 時間が流れていく。

 本来木蘭の力のみを奪っていくはずのその流れは青の復活というリスクをティアロットにも強いている。

 《ディスペルマジック》の一手。

 たったこれ一つがティアロットに敗北を突きつけるのだ。

 できれば青は止めを指しておきたかったが、それは木蘭の、それ以上にフィランダーの逆上を誘いかねないために選択肢から外さざるを得なかった。


「先の先は譲ろうぞ。

 ぬしが無意味と謳った将棋───詰め将棋をとくと楽しむが良い」


 時間は容赦なく押し進んでいく。


◇ ◇ ◇


『隊長』


 懐からの声。

 アルルム人形がひょこり顔を出し、ハンドスピーカー風の何かを掲げた。

 瞑目し、それからぐっとかみ締めて人形のガラス玉の目を見る。

 お飾りであるはずのそれに意地悪な輝きを幻視して、漏らさずにため息。

 アルルムにはこれ以上の通信を繋げないように依頼していた。

 応じては会話が始まる。

 沈黙を決めたジュダークだが、それを読んだかのように言葉が続く。


『隊長、お願いです。

 やめてください』


 手綱を握っては耳をふさぐ事も出来ない。

 声は続く。


『おかしいですよ。

 どうして隊長がそんな命がけの事をしなければいけないのですか……?

 木蘭様もティアロットさんも勝手に戦ってるだけです。

 どうして隊長が関わらなければいけないのですか!』


 理由────。


 突きつけられた問いにジュダークは軽い眩暈を覚えた。

 喉からいくつもの言葉が漏れ出そうとし、その全てを無理やり飲み下す。

 そうしてこびりついた言葉は喉に残る。

 自分はどうして命を捨ててまで彼女らを止めようとしているのか。


『隊長』


 真面目で不器用な女の子の声が響く。


『隊長は何を求めているのですか?』


 記憶が巡る。

 『いつも通り』に賑わう街。

 その影は明確に濃くなっていた。

 続く戦争、混乱に足場を失った人々は容易にその中へと引きずり込まれ、さらにシーフギルドという枷を失ったために麻薬の横行や誘拐、人身売買などのこれまでのアイリーンでは殆ど聞かない事件がそれらを飲み込んでいった。

 一番許せなかったのはそんな背景を他所に『犯罪の総数が減った』とだけ報告が上がり、市民に伝えられた事だった。

 あまりにも都合の良い部分だけを抜粋した事実。

 だがそれをただ暴露してもそれは市民を不安に陥れるだけの愚かな行為でしかないと理解できる自分が忌々しかった。

 部下の仕事をなるべく肩代わりしながら、手伝ってくれる猫達や個人的に知り合った者達の話を聞いてアイリーン中を歩き回る。

 できる限りの手は尽くしてもまだ救うという結果に届かない。

 なまじ本来は持ち得ない情報網を持ってしまったがために救えなかった事への後悔が飽きる事無く降り積もっていった。

 花の街アイリーン。

 その言葉を聞く度に心臓を刺されるような痛みを堪えた。

 部下達が気楽に笑いながらもその裏で何よりも心に疲れを抱いている事に悲しみを覚えた。

 専横と言われても、彼らの負担を少しでも軽くするために統括本部からは決して回してもらえない魔法使いを集め、魔術師ギルドと実験という名目で協力体制を構築し、できる限りの工夫をして日々の活動が少しでも楽になるようにと動き回った。

 頭を下げて専門家に意見を聞き、規律違反だとしても出来る限りの事を強引に押し通した。

 巡回箇所の人と話せと言ったのも彼らの笑顔を見て欲しいからだ。

 それだけで自分のやってる事が正しいと感じられるし、異変にも気付きやすくなるから。

 その全てを否定されたと知って、リオスが手にした事実上の否定の告知に────


『隊長』


 声が割り込んでくる。


『隊長はどうしたら……』


 潤んだ声に息を呑む。


『笑ってくれるのですか?』


 それは苦心しても日々の職務をこなしてくれている部下達に望んだ事で


 ───それは、貴族として生まれ、大隊長としての責務を受けた自分が望むべき物ではなく、


『私は、隊長が笑ってるところを見た事がありません。

 いつも困ったように苦笑ばかりで……。

 どうしたら貴方は心の底から喜んでくれるのですか?』


 それは僕の望むべき事ではないとすぐに否定の言葉が脳裏を掠める。


『私達一人一人の事を気遣ってくれてる事は皆知ってます。

 でも私達は貴方がどうしたら喜んでくれるのか、わからなくて困っているんです。

 貴方が、自分のようになるなと言っているようで、だから私達は……』


 馬が地を蹴る音が平原にただ響く。

 この先に運命を分ける戦いがある。

 預言者が木蘭の死を告げ、そして己の命でそれを為した者を討てと囁いた場所が。

 止まれない。


『隊長っ……』


 苦しげな、涙混じりの声音を振り切ろうとする。


『貴方は、どこを目指そうとしているのですか……!?』


 欠落に心が凍る。


 この世界の虚飾、その源である花木蘭を討つ事を自分も望んだ。

 どんなに求めても木蘭の顔色を伺うような世界から抜け出さなければならないと感じたから。

 だがその後にティアロットを討つ意味はサリエルが倒れた今どこにあるのか。

 いや、魔王を僭称するならば討つべき意味はある。

 彼女との協力はあくまでアイリーンの治安維持に関する事だけだ。

 そもそも自分の手の届かない相手を討つ為に、この槍を僕は手にした。

 チリと脳が焼け付く。

 僕は何を求めていたのか?

 人々の安寧、笑顔……。

 その為に……違う、繋がらない。

 スティアロウ・メリル・ファルスアレンを止める。

 殺す?

 その意味は?

 彼女が安易な言葉で止まるとは思っていない。

 だから槍を使ってでも……


『隊長……私達だってお手伝いできます。

 だから』


「ライサ君、教えてください」


『……?』


 不意の声に疑問の気配だけが返る。


「リオス中佐が持っていたという剣。

 あれの効果は剣を所持した者だけなのですか?」


『……隊長っ!

 私は────!』


「大切な事なんです。

 お願いします。

 教えて下さい!」


 沈黙。

 微かに漏れ聞こえるのは嗚咽か。

 罪悪感に苛まれながらもただ黙して答えを待つ。


『……詳しい事は殆どわかっていません。

 しかし私が襲われた時は周囲にもそれが感染していたように見えました』


 やや掠れた声を必死に取り繕うようにしてそれでも答えてくれる少女に内心で礼を呟き質問を続ける。


「……それは、呪いのような物なのでしょうか。

 剣を手放しても続くような……」


 その問いでジュダークの問いの意味を掴んだのだろう。

 ややあって少しだけ落ち着いた声音が戻る。


『……可能性はあります。

 リオス中佐は捕縛後、例の剣を失っても態度は変わらなかったそうです。

 隊長が聞きたいのは元々の持ち主であるサリエル伯爵令嬢からその呪いが感染した可能性があるか、ですね?』


「……ええ」


『隊長の疑念が答えだと思います。

 あれを作成した『狂気蒐集者』は周囲を巻き込んで甚大な被害を出す事を好んでいたそうです。

 サリエル様が未だにその影響下にあり、そして隊長に感染したという可能性は多いにありえます』


 言葉にはそうであって欲しいという願いが入り混じっていて────。

 しかし肝心な場所の空白がそれを事実だと自身に納得させる。


「……とすれば、彼女もまた」


 その道具を利用していると過信し、知らぬうちに野望を増大させられていたのだろうか。

 実例はある。使者として訪れたあの男のあまりの狂信も納得がいった。

 そして────生きたいと懇願する姿を思い出し、胸の痛みをかみ殺す。


『隊長は巻き込まれただけです。

 いろんな要因に左右されて、意志まで弄られて』


「……」


 自分で選んだ道。

 その言葉は逡巡に飲み込まれた。

 カースアイテムによる呪い、そしてサリエルやセリム・ラスフォーサの設計した運命の本流がそうさせたのではないかとの疑問に眩暈すら覚える。


『お願いです。

 隊長……帰ってきてください。

 私は……』 


「僕は」


 それでも止まると言う選択肢は自身に為されない。

 その理由を探り、掴んでそして嗚呼と思う。


「僕は僕が嫌いだったんですね」


 得た答えは嫉妬と恐怖だった。

 ただの小隊長として真面目だけが取り柄だった頃を思い出す。

 思っても言えず自分だけはとただ頑張っていた頃には無かった思い。

 自身の知らぬ間に環境が激変し、身に合わぬ服を着せられてもただ愚直に誠実であろうとした。

 それは真面目だからではない。

 それ以外に自分を保てなかっただけだ。

 英雄に才を認められ大本営で働く事になった上にルーンで勲章まで得てしまった妹が居て、四州を任される異例の男爵位を得てそれを持て余す事無く手腕を奮う父の後継と見られ。

 一方で何一つ誇る事の無い自分への目を恐れ、ただただ誰よりも愚直に誠実に貫こうとしただけだ。

 信念は外面の美徳に。

 いつしかその根っこがすり替わっても気付かない振りしていた。

 槍を、己の命を賭けるという行為そのものに満足を覚え、そして今は────英雄となり死ぬ事を求めている。

 父に聞かされた民の上に立つ貴族としての行為でなく、ただどうしようもなく矮小な自分を虚飾で飾って終わらせるために。

 せめてどうしようもなく非才で大嫌いな自分が人から敬われて消えられるように。

 そんな腐りきった根っこの部分を呪いはほんの少しだけ強調しただけだと悟る。

 遠くで大きな音が響いた。

 そのための舞台は目と鼻の先で、そして自分のような端役が舞台に上がる権利を手にしている。


『貴方は……貴方は満足して死ねばいいのにっ!!!』


 サリエルの言葉が遠雷のように脳裏に響く。

 それは正しかったのかもしれないと考えてしまう自分が本当に嫌でたまらなかった。


「ライサ君。

 いずれ赤に戻ってシン大尉のサポートをしてください」


 これは単なる遺言で、見限られても仕方ない願い。

 ただ彼女がシン大尉をサポートしてくれれば赤はより効率よく運用できると夢想し、押し付けているだけの言葉。

 そして、この少女は最後にはきっと応じてくれるだろうという勝手な思い。

 全てに自己嫌悪しながらも弱い心は表舞台へと歩を進めたがる。


 そんな願望の一切を、


「お断りしますっ!!」


 拒絶する声。

 人形越しの声ではなく、しかし初めて聞く彼女らしからぬ大きな声。

 伴って迫ってくるのは風切り音。


「……っ……貴女はどこまで……」


 気がつけばアルルム人形は居なくなっている。

 再び視線を転じれば、風切り音はよろけるようにジュダークの進路を斬るように土ぼこりを揚げて落ちた。

 彼は慌てて馬を降り、もうもうと立ち上る土煙の中で倒れる少女を抱き起こす。


「どうして君は……」


 ローブは派手な墜落のせいで酷く汚れ、頬に噴出した汗で髪がべっとりとついていた。

 ここからアイリーンまでは100km近い。

 魔術が苦手で、ギルドでもおちこぼれと言われた彼女が数時間に渡り魔術制御し続けるのはどれだけの苦行だったか。


「ライサ君、僕は……」

「帰り……ましょう」


 痛みのせいか掠れた声が荒野に流れる。


「めずらしく、隊長がずっと居ないから……書るいが……みんな……」


 ああ、そうかもしれない。

 何だかんだ事務方の仕事は一通り持っていってたから。

 いざ僕が居ないとこういう事態になると、シン大尉に、その前はカノン君に何度も言われた。


「……インジブルも……なんとか……しましょうよ……。

 みんな……待ってくれて……ます


 リオス中佐が亡くなったとは言え命令書自体は本物だ。

 対策を打たないまま自分はここに居る。

 廃止となればシン大尉は苦労するだろうなと思考は走る。


「ライサ君。

 僕は……」


 けほと漏れた咳に言葉が止められる。

 何かに縋るように、小さな手がジュダークの胸元を掴んでぎゅっと顔を押し付ける。


「ライサ君……」

「隊長は、隊長でいて下さい」


 声は強く、痛みを抑えて訴える。


「放り出すなんて、隊長らしくありません」


 体勢を変えたことで右肩の擦過傷が嫌でも目に入る。

 広い範囲に土にまみれて赤黒くなった傷は相当に酷い。


「ライサ君、傷を────」

「聞いてくださいっ」


 掴む手をぎゅっと強くすると赤の色がより鮮明に白い肌を彩る。

 激痛が表情を歪めても絶対に離さないと力が篭る。


「……お願いです。

 ……居なくならないでください」


 どこか空ろで、それ故の純粋過ぎる思いを込めて、音の一つ一つを口にする。

 少しだけ顔を放して見上げた顔には涙が溢れ、疲労とそれ以上に喪失の恐怖が浮かんでいた。


「私は隊長が好きです」


 少女の───万感の思いを込めた言葉を聞く。


「隊長が自身の事をどう思っていても……私は、隊長が好きです」

「ライサ……君」


 続く言葉が喉に詰まる。

 その想いに気付いていなかったわけではない。

 しかし心の奥底で槍と、その価値に依存していた彼はずっとそれに気付かない振りをしていた。

 だからいざその言葉を告げられても断るだろうとまるで他人事のように自分の行動を予想していたのだが。

 彼は告げるべき言葉も作れぬままに真っ白な頭で少女を見ている。

 それは自身が自身を嫌った言葉に対する物で


「だから……居なくならないでください」


 無価値の自分を価値ある物にしようとした行動への───思い違いへの否定でもあった。

 次の瞬間、ふっとまぶたが閉じられ少女の体がくたりと力を失う。


「っ!

 ライサ君!?」


 呼吸は浅く、顔色はより蒼白でまるで死人のようだ。


「ライサ君……っ」


 傷の手当をと焦りつつももう一つの予感に喉の渇きを覚える。

 出血は酷いが擦過傷ではこうはならない。

 故に予感が確信に変わっていく。

 魔力欠損。

 自分の許容量を越えて魔術を行使した場合、それは命に関わると聞く。


「あ、アルルムさんっ、まだ居るんですよね!?」

「にゃ?

 呼んだ?」


 しゃがんだ足の上に肘をついて顎を支えて覗き込む猫娘が何でもないように問い返す。

 人形じゃない。

 愛嬌のあるいたずらっ子の輝きを常に湛えた若草色の瞳と比較的小柄なライサよりも小さいボディの猫耳少女が二股の尻尾をゆらゆらとさせてジュダークを見ている。

 計ったような───実際に『謀った』のだろう。

 そんな登場への非難をジュダークは一切振り切って、


「彼女を助けてください!」


 と懇願する。


「んー。

 魔力欠乏で生命力にまで突っ込んでるねぇ。

 魔力の譲渡でもして大人しく寝てれば治るけど」


 予想通りの言葉に奥歯を強く噛む。

 そんな技術がありそうなのはこの場ではアルルムしか居ない。

 しかしそれを自ら言い出さないのは


「代償、ですか?」

「にふふ。

 お高いにゃよ?」

「構いません。

 僕に払える物であれば」

「いいの?」


 すっと笑みを消し、笑みを含みつつも底で冷たい音がジュダークを射竦める。


「だって、君の全てを今から費やすために走ってたんでしょ?」


 いいの?と再び問われる。

 その度にえも知れぬ不快感が臓腑を揺らす。

 それは彼女に対してではない、自分自身への物だ。


「君は一般人だ凡人だと嘯きながらずーーーっと英雄にコンプレックスを抱いてたんにゃよね?

 アイシアちゃんやおとーさんに。

 女神亭に集まる皆に」


 回想を盗み見したような言葉が重なっていく。


「木蘭ちゃんを否定した今、君の思う英雄らしい英雄になれるのは今だけかもしれないのに」

「それでも……!」


 不快感が不意に消え、思考はすとんと一つの場所に収まる。

 身の丈に合わない服を着せられ、踏み込むべきでない世界に触れ、たまりに溜まったゴミを払い除ければ、そこには彼の本質が残る。


「彼女を助ける方が先です」

「……ほーんと、いろんな意味で奇特にゃよね。

 君は」


 どう見てももう少し葛藤してる様を見てニヤニヤしたがってた猫娘は苦笑一つ浮かべてパチンと指を鳴らす。


「命がけの行動にもう少し未練とか無いわけ?」

「あります。

 でも彼女を見捨てていい話じゃない」


 うわーという顔をしつつおざなりの拍手。


「あちし的には一番の異常者は君だと確信したにゃよ。

 ホント」

「それよりも早く!」

「もうやったって」


 呆れ顔で指差す先、確かにライサの顔色は格段に良くなっていた。

 疲労の色は流石に消えないが無残な擦過傷も綺麗に消え去っている。

 少なくとも死の気配は見受けられない。


「良かった……。

 ありがとうございます」

「いえいえ~」


 やっぱりおざなりな応対でアルルムはよっこらせーと立ち上がる。


「どんな気持ち?」


 んーと背伸びをしながらのおざなりな、しかし痛いところを突く問いに非難めいた視線を向ける。


「羞恥で死にたい気持ちというのがわかった気がします」

「哲学的にゃねぇ」


 猫娘は笑う。


「多分ジュダークちんは本当の英雄にはなれると思うにゃよ」

「皮肉ですか?」

「ううん。

 多分本当の意味での英雄になれるタイプにゃよ。

 君は」


 小学生でも通るナリでアルルムはニィと猫の笑みを浮かべる。


「サリエルが言ってたっしょ?

 この世界はこんがらがってるって。

 いろんな存在が本来あるべき定義を失ってるにゃよ」


 英雄は死なず、王は沈黙し、魔王は滅び、聖騎士は大地に残る。

 それぞれがそれぞれの役目を忘れてこの世界は進み続けている。

 ぎしぎしと歪みの音が鳴り響くから、ジュダークは決断をしたのかもしれない。


「君に槍を持たせてみたのはあちしの趣味でもあるにゃよ。

 ただ真っ直ぐなノーマル。

 そんな英雄たるべき存在がこの世界でどうなるか。

 まぁ、結果としてはアリなんじゃないかなぁ」

「リタイア、と言うべきじゃないですか?」

「その方が幸せじゃない?」


 したり顔で言われて、否定できずに苦笑を漏らす。


「英雄って言うのはね、他の人にできない事をただ愚直に行うマゾの事を指すの。

 君以上にそんな事を……」


 と、言いかけてふと遥か彼方を見る。

 それは戦場となっている土地の方向であり、


「ほんと、変な世界にゃよねぇ」


 と言葉を濁す。

 そこには思うがままに世界を往く者と、思いの全てを叶えられぬままに足掻く者が居て、あまりにも似通いながらも真逆の道が巡り巡って交錯している。


「アルルムさん。

 貴女が僕に槍を与えたのはサリエルさんの言う『第一の正史』に戻すためではないのですか?」

「結果的にそうなりかけただけにゃよ。

 にふ。

 あちしはあくまでジュダークちんの願いに、対価を貰ってその槍を造ってあげただけにゃ」


 もっとも、と言葉を接いでぶんと『槍』を旋回させる。


「『代償』としてこれは貰って行くけどね」


 いつの間にとはこの非常識な猫娘に言ってもムダだが、それを持っていくという意味に流石に訝しげな顔をする。


「ジュダークちんにはもう不要でしょ?」

「……どうするつもりですか?」

「ま、色々事情も変わったしね。

 これを使ってお役目を果たそうかなぁと」


 遠足にでも行くような口調で、アルルムは槍を小さくするとくるりと背を向ける。


「つまり君との契約の解除。

 それが代償にゃよ。

 ソロモンの指輪の方は違約金代わりに置いていくにゃよ」


 その言い回しと、そして槍の能力を思ってジュダークはその背中を見る。


「……アルルムさん?」

「にふ、ほんと変な子にゃね。

 ……あの子達も君には懐いてるし、君に消えて欲しくないってのは結構居るものにゃよ?」


 不自然な風が吹き、その言葉を最後に荒野は静寂に包まれる。

 ジュダークは起きた事を整理するように目を閉じ、大舞台の裏側から彼は遥か先の戦いをただ見据えた。


◇ ◇ ◇


「見つけたわ」


 ばんと開かれた扉に視線が注がれる。

 それを受けたシェルロットは部屋の状況を確認し、僅かに眉根を寄せて


「まぁ、趣味のことは後にしておくけど」

「意外と面白い子ですね。

 獅子賢の娘さんも」

「全くだ」


 メイドと主人がやや困ったように言葉を交わす。

 確かに主人であるはずの男が椅子で縛られ、その傍らに笑顔でメイドが立っているという光景は倒錯的ではあるが。


「どうしてここが?」

「シーフギルドの面目躍如と言っておくわ。

 ミスカ・クォレル。

 手を貸して」


 てっきり自分の方に話が来ると思っていたフェルミアースは興味深そうに獅子賢の子を見る。


「あら、私にですか?」

「そうよ。

 セムリナとドイルに行きたいの。

 貴女にお願いするのが最速だわ」

「それは木蘭様と同じやり方ですよ?」


 挑発の言葉に「違うわ」と少女は応じる。


「外務省と国庫省からの委任状は得ているし、話し合う内容も省内で検討した結果だわ」

「移動に私を使う事は許容内と?」

「魔道バイクを運転できるならそうしたかったですけど」


 道具扱いですかと魔族を称するメイドが微笑む。


「んー、お断りします」

「どうして」

「貴女のお願いを聞く理由は私にはありませんもの」


 その笑みを見て、シェルロットは少しだけ思案する。

 それから漸く視線を男に戻し、


「ミルヴィアネス男爵。

 ご協力をお願いします」


 と、頭を下げる。


「……だそうだ。

 ミスカ様、彼女に協力してあげてはもらえないか」

「んー、そうですね」


 奇妙な上下関係を把握しながらも、ミスカの視線がずっと自分を値踏みしている事を改めて悟る。


「貴女のお願いを聞くと、私は大切な時間を逃してしまうんです。

 貴女にそれを償えますか?」

「私にできる事であれば」


 迷い無い応じは獅子賢の子、シェルロット・ファフテンが有するたった一つの武器。

 そしてそれはジュダークに通じる物があり、ミスカの瞳が興味に輝く。


「良いですね。

 本当はお嬢様に付いて行こうとしか考えて居なかったのですが……。

 興味がわきました。

 貴女も、ジュダーク君も今回の件でとても面白く成長しているみたいですし」


 視線をファムへ。

 彼は吟遊詩人の笑みを浮かべてフェルミアースを束縛する縄を切り落とした。


「この世界にも随分としがらみができましたしね。

 貴女のお願いと、その対価を見届けるくらいはしてみましょうか」

「ご協力感謝します。

 ミルヴィアネス男爵につきましては召集命令が出ているので王城に出向く事を具申させていただきます」

「そうさせてもらうよ」


 長く縛られていた手首の感触を確かめてフェルミアースは恭しく差し出された装具を苦笑交じりに受け取る。

 そして「しかし……」と女給を見る。


「良いのですかミスカ様」

「良いんです。

 お嬢様が百年やそこらで死ぬとも思えませんしね」


 にこにこと常識はずれな事を言いながら人の身でない女性は優雅に手を差し出す。


「では参りましょうか。

 あなたの魂の色を見せてくださいね、獅子の子のお嬢さん」


◇ ◇ ◇


「ねー、ゲンじーちゃん」


 不意に掛けられた声に振り向く事無く、名工ガン・コイッテツはハンマーを振るう。

 揺るぎなく、一つ一つに己の魂を込めて作り上げる武具。

 世の武人が何を差し出しても欲しいと願う一振りをまた一つ創生しながら「なんだ」とだけ言葉を発した。


「あちしの技術、要る?」


 時刻は間もなく夕暮れを迎えようとしている。

 やや赤らんできた光が焼けて煤けた窓からじんわりと染み込んできていた。

 弟子の姿は他に無い。

 世情不安ということもあり、家がある者は一旦家に帰らせていた。


「要らん」


 言葉は率直に。

 けれども少女は「だよねー」とわかっていた風に笑みを生む。

 この世界には未だに錬金術として発展途上の科学知識が彼女の頭にはある。

 それを用いればより強い金属の創造も可能だろう。

 だが、それを受け取り作った作品はもう彼の作品ではないのかもしれない。


「そっか」

「ただ」


 珍しく老人は自分から口を開く。

 そもそも彼が鍛冶打ちをして居るときに話し掛けるなど論外の出来事だ。

 弟子が、そして依頼人がそんな事をしようものなら半殺しの目に遭って放り出されるだろう。


「メシの作り方なら貰おう」


 その言葉に少女はちょっとだけ目を大きく開き、そして優しげな笑みを零す。


「ういうい」


 軽い調子。

 いつもフワフワして実体が無いような少女は最後の最後まで調子を崩さずに応じ、そして彼女の存在を示していた影は赤の光の中に解けて消えた。

 手を止めて、老人は造りかけの剣を放るように水の中へ。

 じうと水の焼ける音を聞きながら炉の火を落とした。

 失敗作となった剣を眺め、そしてぽつんと置かれた人形へ視線を転じる。

 騒乱の終幕。

 それは遠い地において始まっている。


◇ ◇ ◇


 神威の加護を受けた体にとって50mという距離が一足に縮まる。

 術の完成前に叩き斬れる距離。

 安全な空を捨てた行動が判断ミスや過信であるならばどんなに容易いか。

 ゆるゆると流れる風は少女を無視して通り過ぎ、その身が未だに飛行魔術の元にあると知れた。

 交わす言葉の一つも見当たらず、思考を巡らせる。

 これが武人同士であれば気配とミリ単位の挙動による牽制を端に勝負はとうに付いていたかもしれない。

 だが相手は身体的にただの子供。

 齧った程度の武術で武神となった英雄の挙動を読み取るなど望んでもムダだ。

 大きく構える。

 切りかかるという意図を伝え、そして行動を引き出すために。

 だが少女は気にする事もなく英雄を見つめるのみだ。

 改めてやりづらいと感じる。

 どんな攻撃も通らない姿が思い浮かばなかった。

 適当にやっても首を跳ね飛ばす事は造作も無い。

 勘と経験が全会一致で出す完全勝利を、しかしどうしても鵜呑みにできない。

 ならば試し、そして終わらせようと意識が動く。

 自然に、力を込める事すら無く、剣は少女の首筋へ正確なラインを辿る。

 未だに少女は動かず、視線も元居た場所だけを見つめていて


 チッ


 聴覚を僅かに震わせる擦過音に全身が反応する。

 横合いから殴りつけるかのような光の一撃。


「ぐ!」


 切り払おうとして視界の隅に新たな動きを認める。

 それは英雄から見ればあまりにも稚拙であまりにも鈍重な動き。

 気にする事ではないと判断して光の迎撃を決行しようとして、


 ───体が離脱を選択する。


 瞬間、腕の動きが恐ろしいまでの速度に加速する。

 予備動作も無いありえない加速に目を剥きながら大きく距離を取り直す。

 二つの攻撃は目標を失うが、気にする風も無く少女は英雄を眺める。


「また妙な真似を……」


 無詠唱の魔術には見覚えがあるが、それ以外はどういう原理なのか。

 一切を無視して速度を防御力として切り伏せる。

 脳裏に上がった選択肢を実行に移そうとした瞬間、少女の魔術が完成する。

 二人の間に現れ広がるのは


「《ホーリーフィールド》だと……?」


 魔族やアンデッドの力を著しく削る結界魔術の展開に出鼻を挫かれる。

 攻撃魔術であれば構わず斬りかかったかもしれないが、突飛過ぎる状況の推移につい逡巡してしまった。

 なにしろ神の加護を受けている今、このフィールドでは木蘭の力は逆に増す結果しか生まない。

 選択ミスでしかないはずの行為だが、忌々しいと思いながらも次の展開を危惧させてしまう。

 相手のペースに乗るのは性分ではないと一瞬で頭を切り替える。

 更に増した速度で肉薄するも振り抜く動きが急激な重さに見舞われる。

 反射だけで軌道を変え、少女の髪を切り払う剣は《応報》に捕らわれ自らの髪を斬り飛ばす。

 が、《浮舟》による防御は連続して行えない。

 返す刃の軌道に技術でなく速度と予測の障害が介入する。

 杖の石突が柄をに触れて加速する前の刃を躍らせたのだ。

 厄介な事に少女の腕にも肩にも腰にもそれを生み出す動きは無く、ありえぬ挙動が人間として洗練された英雄の動きに追いついてくる。

 一歩。

 何気なく踏み出したような動きに髪が浚われる。

 妙な軌道を描いて杖が踊り、そして別の生き物のように唇は次の詠唱を歌う。

 武人としての経験と勘が理解不能と悲鳴を上げる中で伴う風の動きを知る。


「《ウィングス》か」


 声に出さぬ唇の動きに少女のまぶたが僅かに跳ねる。

 もう気付いたか、と。

 少女の使うところの《天翼》、コモンマジックの《ウィングス》は身体に掛ける飛行魔術だ。

 しかし別にそれを体全体に掛ける必要は無い。

 時速300kmを誇る彼女のそれを杖を含む腕にだけ纏わせているのだ。

 急激な制動は当然のように肩を強引に引き回し激痛を走らせるはずだが、顔色一つ変えずに英雄の速度に追いついてくる。

 《竜眼》による先読みと《天翼》による速度と人の可動を無視した動き。

 そして無詠唱魔術を含む魔術攻撃。

 その三つで万夫不当の英傑の前に魔術師を立たせている。


 ────否、もう一つ。


 この少女がバケモノの領域に踏み込んで居るのはその精神。

 狂ったかと意識の端が苦言を呈する。

 まるで死を恐れぬなど人にあるまじきだと。

 だが僅かにでも死を恐れていてはこんな無謀な行為が果たして可能だろうか。

 生まれる三つの牙が更に行動を制限しようと複雑な軌道を描く。

 達人に成ればなるほど磨かれる勘と経験、それに伴う反射の全てが定義から外れた動きに逆に枷となっていく。

 舌打ちして距離を取る。

 表情を変えぬままただこちらを見る少女が居て、牙のうち二つは遠くを、一つは少女の周りを飛翔している。

 その一方で、だらりと下げられた右腕のすそはみるみる赤に染まっていた。

 あってはならない動きを強いたせいで筋肉や皮膚が断裂したのだろう。

 関節などとうに砕けているのかもしれない。

 知らずのうちに歯噛みする。

 単なる悪人なら斬り捨てればいい。

 知り合いとて狂人と化したなら止むを得まい。

 しかしそこに居るのはそのどちらでもない。

 ただ道を別っただけの信念がある。

 喉を出るのは呼気と僅かなうめきのみ。

 迷いの一端も見せぬ少女に英雄は剣を握りなおす。

 《竜眼》の弱点など当に知れている。

 あれは視界に無い物の未来を見ることはできないから常道の通り死角からの攻撃で全てが終わる。

 それをさせないための魔術だろうが今の自分なら速度で上回れると確信する。

 甘い考えが未だに脳裏にある。

 だからこそそれを早々に捨てた少女に怒りと、そして同じになるまいという妙なプライドが働いていると改めて悟って────

 構えを取る。

 迷いを抱かず、ただ一撃。

 生かすも殺すも考えず、敵と見做して斬り捨てる。

 戦人にとって当たり前の、そして最も難しい場所へと精神を持っていく。

 何を今更。

 自分は大魔術を撃とうとした少女を一度殺そうとしているじゃないかと廃除されていく感情の中で思う。

 静寂。

 自身と斬るべき敵だけの世界。

 慣れきった命の取り合いの世界で英雄は踏み出す。


 瞬歩。

 強化された筋肉と、それを数倍にも数十倍にもする足運びの技が距離を無にする。

 駆け抜ける動きに少女の体も、眼も、動かずに置き去りにした。

 体感速度を現実の何十倍にも引き伸ばして音も色も欠如していく世界を逝く。

 ひりと、皮膚に焼け付くような痛み。

 9つの牙が残像を描いて喰らいついてくる。

 呆れるくらいに的確な迎撃軌道。

 その一つでも相手をすれば他の牙が容赦なく体を抉り取ると確信し


 ───更に加速する。


 ぎちと、加護を受けなお無理を強いる足が唸りをあげる。

 飛び込むような動きに牙の一つが肩を削り、わき腹を引き裂き、それでも直撃を避けて前へ。

 一閃。

 それは攻撃のためでなく、背に回りこんだ自身を振り返らせるための物で、同時に3つの牙に剣をくれてやる。

 代わりはここにある。

 応じて現れるのは神器「七宝聖剣」。

 全ての神に祝福された比類なき神剣を手にして英雄は大地が空になる感覚を覚えた。


 疑問の声を作る間も無い。

 軸としたはずの右の足が宙を踊るのを感じた。

 足を踏み外す────そんな初歩的なミスがかの英雄にありえるはずもない。


 《浮舟》かっ!


 摩擦を操作する物理魔術《浮舟》。

 それを加護された英雄でなく、ただ大地に仕掛けただけ。

 しかし絶技を越えた速度と力を結集した動きにとってそれは致命的な罠と化す。

 立て直す。

 無理に無理を重ねた筋肉が、骨が恨み言をわめき散らすのを無視し、全霊を以て姿勢を制御。

 そこで漸く少女の腕が魔術の加速を得て急加速を開始。

 その軌道はまるで英雄の剣に腕を差し出すもので、《応報》の加護下にあるその腕を中途半端な威力で斬る事は万象を覆し自らへ返る。

 英雄に求められるのは剣を手放すか、腕を切られるかという選択。

 ぎちぎちと全身の筋肉が断裂をも含む悲鳴を上げる中で牙の包囲を視界の端に見る。

 武の戦いが知に塗り替えられていく。

 判断、判断、判断。

 自分の出来る事を消費し、攻めるのではなく凌ぐ立場に立たされている。

 しかしその中に


 貴様に届く手があるぞ─────


 全ての迎撃を捨て、ただ渾身の力を込めて振り抜けばこの神剣は《応報》───《魔理反法》を引き裂いて少女の命を絶つ。

 追尾でなく全ての牙を模した魔術が彼女の操作ならば、それで全ては決する。


 手はある。

 数多の戦場を駆け、速度で敵も罠も打ち砕いてきた英雄は当然のようにそこに罠を嗅いだ。

 そして罠が最も脆い部分であると踏み込む。

 依然体勢は万全ではない。

 ベクトルを変えられなかった勢いが上体を流し、それでも耐えようとする全身が激しく軋んでいる。

 コマ送りの世界の中で死が四方八方から迫るのを改めて識る。

 急速に動いた腕の反動で少女の体が壊れた玩具のように踊り、剣の軌道から逸れる。

 腕の一本を飛ばして制御を失うような可愛らしさなど求めても仕方ない。

 だからつま先で掠るように地面を掻き、数ミリの距離を埋める。

 最早想いは一つ。

 感情は一つ。

 届かせ、断ち切る。

 体は測るのも不可能な刻の中で少しずつ自壊していく。

 それでも加護は彼女に充分な威力を約束している。

 幻視する。

 刃が腕を砕き、脇口から心臓を潰して空へと向かう軌道を走る事を。

 空気が粘つく。

 宝剣の加護が断ち切る。

 それでもなお、《応報》の因果を斬れると確信した。


 終わりだと、

 刹那を更に細分した時間の中で英雄は囁く。


 刃は少女の細い腕へ喰らいつく。


 確信は─────

  ──────多重に張り巡らされたロジックにより、阻まれる。


 すでに感覚の無い腕に痛みなど無い。

 肩と脇の皮が滅茶苦茶に引っ張られて千切れそうになるのをソレが必死に支えていた。

 英雄の表情に走りかけた驚愕。

 それを微かに見て旋回。

 勢いのままに吹き飛ばされ、接いで爆風に宙を舞う。

 それでも焦り一つ浮かべぬままくたりと力を失いかけた手に回復魔術を掛けて機能を戻すと「ようやったの」と笑みを零して《天翼》を制御、無様ながらも着地する。

 千切れ飛んだ袖の下には縄のように伸びた緑色の粘液が纏わりつき補強をしていた。

 少女がペット兼使い魔にしているグリーンスライム。

 それが英雄の剣を止めた最後の防衛線だった。

 多少特別ではあるが初心者冒険者でも難なく倒せるであろうそれが英雄の振るう神剣を止められたのは少女もこの戦いで一度受けた加護。

 所持者の命を一度だけ守る『フレア・オブ・アバター』によるものだ。

 《浮舟》、《応報》の二つの防護を切り裂いた一閃は少女を斬るのに充分な威力を有していた。

 無論たかがスライム一匹潰しても有り余るが内に仕込んだマジックアイテムの加護の前についにその切っ先を止められたのだ。

 そうなれば、残るのは今に食いつこうとした数多の牙のみ。

 多重操作した《竜牙》の集中砲撃は英雄の姿を喰らって弾け飛んだ。

 目前での爆発は少女の体も容赦なく打ち、ばらばらになりそうな衝撃を堪えながら《天翼》を制御。

 足を地面につけてそのまま後ろに大きく転がった。

 すぐさまマジックストーンを食い潰し、魔術詠唱に入る。

 避けられるタイミングでなく、喰らえば殺せるはずだ。

 それでも胸中に疼くのは不安。

 フィランダーの位置を確認したいが視界は立ち込める土煙で閉ざされていた。

 過ぎる可能性に術式をキャンセル。

 無理な術式の解除、再構築にずきりと頭が痛むが無視。

 次いで自身の血を幻視し、無詠唱魔術《掌打》の光を放つ。

 背後の土煙から飛び出すのは英雄の姿。

 無事とは言い難く、至る所を赤く染めているが恐るべき事にその斬り込みの速度は常人を超えていた。

 竜剣の力か……!

 可能性を探っていた思考が答えを導く。

 フィランダーの持つ竜剣には遠距離砲撃をする能力が備わっていた。

 それによる《竜牙》への攻撃で致死圏内に入る前に迎撃したのだろうと推測。

 ありえない。

 それを為すには常識外れの速度と威を交錯させていたあの一瞬。

 その間隙を縫うように竜剣を振るわなければならない。

 それはフィランダーの能力を遥かに超える、しかし100%不可能ではない行動。


 また、引き寄せたかと吐き捨てる。

 在るべき結果を捻じ曲げ、望みの未来を作り続ける。

 無自覚に他人の努力を踏みにじり、ただ自身は無敗の英雄となる。

 またか、と思う。

 それが世界を歪ませることなど知った事ではない。

 何故なら歪みの不都合もまた偶然がなんとかしてしまう。


 英雄は眼前に生まれた光を切り払い、そのままぴたりと少女の首筋に刃を当てる。


「終わりだ」


 風が強く流れ、血のにおいを濃く鼻腔に響かせる。

 一挙動でも見せれば首は飛ぶ。

 最早少女には如何なる手段を使っても相打ちすら望めない。


「終わりじゃな」


 故に応じる。

 本当に、終わったと……。

 そう、確信して。


 そして英雄は、倒れる。


◇ ◇ ◇ 


 英雄花木蘭は『元』代行者だ。

 彼女はアイリン神の加護を受けた存在であり、受ける神気により身体を強化する事で聖騎士に並ぶ力を有していた。

 しかし魔王と相対するために『聖騎士』として生まれるのではない。

 後天的な加護は彼女の体に強い負荷を強いていた。

 そして代行者でなくなったとき、彼女はその負荷を鍛えているが普通の体に強いる事となった。

 割れた器に滝のように注がれる神気。

 すぐに死んでもおかしくない体で再び代行者としての力を振るえばどうなるか。

 しかも滝の勢いは《セイントフィールド》により更に加速されて彼女の体に注ぎ込まれていた。


 結果など考える必要もない。


 糸の切れた人形のように崩れ落ちる音を背後に聞いて少女はこちらへ走り寄る男を見る。

 治癒したとは言え、少女はとっくに限界を越えていた。

 華奢な体は小刻みに震え、視界は目まぐるしく揺れている。

 もう二、三度魔術を行使すれば、もしかすると一度でも使えば少女はそのままサリエルと同じ未来を辿るのかもしれない。

 故に駆け寄る男に何の抵抗もできないだろうとただただ苦笑いを零す。

 万全に保険を賭け、更に命を賭しても相打ち。

 奇跡に奇跡を重ねられて、神の加護と自らに得た身体の全てが山ほど用意した手の全てを呆れるほどに砕いてしまった。

 違う。

 本来ならば青が動く可能性はほぼ皆無だった。

 動いてもこのタイミングに間に合う程に早く到着するものではない。

 ただ悠々と逃げれば良い。

 それだけの準備をしていたはずだった。


「ティアロット、貴女は……!」


 はっと意識を戻すとフィランダーが英雄を抱き上げ、こちらを見上げていた。

 そこには気弱で誠実な男の風は無く、ただただ怒りと敵意がある。

 視界が揺らいで仕方ない。

 倒れこみたいと体が真っ当な要求をするが、許される事ではなかった。

 英雄は倒さねばならない。

 しかしここで少女が倒れて殺されるなり捕らわれるなりすれば───人々は都合のいい方向に事実を受け止める。


「悪いのぅ。

 まだ死んでやれん」

「っ!!」


 お人よしがと呟く。

 その顔を見ればこちらを殺すつもりが毛頭無い事が充分に知れた。


「どうせフウザーが飛んでくる。

 治療すらば命までは失わんじゃろ」


 とは言え、許されざる力を限界まで行使したのだ。

 どこまで復調するかは望める物ではない。

 望まれては元の木阿弥なのだが。


「……」


 ざっと、地面を蹴る音が並ぶ。

 嘆息。

 本当に手の全てを使わされたと言うのに、と視線を上げた先に満身創痍ながらも武器を構える青の生き残りが居た。

 《竜眼》を使おうとしてちりちりと痛む頭に柳眉を寄せる。

 フィランダーだけであれば、木蘭を気にして、そしてその甘さから自分を逃がしただろう。


「投降してください」


 フィランダーが少女をというより、殺気立つ青の暴発を抑えるように背に声を投げかける。

 次いで転移反応を察知した頭が鋭い痛みを訴える。

 青が予想を遥かに上回って生き残ったがために彼からその選択肢は失われ、一人の将としての厳しい面が表に引きずり出されていた。

 更に────

 オリフィック・フウザーが大地から湧き出すように現れ、周囲を見渡す。

 早すぎる。

 薄れそうな意識を繋ぎとめつつ、無理に回す思考は投了の結論を出し続けていた。

 周囲の魔力を固定し、魔術の発動を抑制する《サジクラー》を使われた瞬間、少女に次の手は無くなってしまう。


「随分な状況だね」


 ハーフエルフの大魔道師はなんとも言えぬ顔で少女を見、それからフィランダーの元へと歩く。


「……ティアちゃん。

 満足かい?」

「ぬしらが居らんかったらの」


 よく口が動いた物だと呆れ気味に感心し、酷くなる一方の眩暈と頭痛を何とか押し隠す。

 魔術の行使をする気にはならなかった。

 失敗する、ではなく成功できない。

 そうでなくてはならないのだろうと意識を失った英雄を瞼のうちに見る。

 捕らえられた後で逃げるかとも思うが、フウザーがここに居る以上それもありえない。

 魔術を完全に封じられてしまえばやはり頭の回る子供でしかない。


「満足かの?」


 問う言葉にフウザーは怪訝な顔をし、フィランダーは咎めるような視線を向ける。

 立つのも辛くなり、崩れるように座り込んで回る空を見上げる。

 失敗しても良い。

 魔術を行使してみようかと思う。

 魔術制御には自信を持っている。

 持てるだけの事をしてきた。

 死に掛けても成功させる自信が無ければここまでやってこれなかったと自負できる。

 使うならば破れかぶれの事などしない。

 自分は相打ちになるためにこうした訳でない。

 諦めるために今まで歩んでいたわけではない。

 頭痛が酷くなる。

 それを無視して構成を思い浮かべる。

 踏みにじられるためにここにあるわけではない。

 偶然と言う悪意に押し潰されるために信念を貫いたわけではない。

 ここはゴールでなく、始まり。


「のぅフウザー」

「なんだい……?」

「見逃さぬか?」


 周囲の殺気が増大する中で大魔道師はふうと息を吐き「らしくないね」と応じる。


「僕はもうルーンの王配でもあるんだよ?」


 そう言いながら視線は今にも暴発しそうな青へと注がれていた。


「ダメだよティアちゃん。

 君の負けだ」

「ままならぬな」


 あれほどの手を重ねてなお足りぬかとかつてを思い起こす。

 策を重ね追い詰めてなお一手で返される。

 それは相手の手が上回ったわけではない。

 偶然とも言うべき何かがどうしようもない場所から訪れて全てを打ち崩してしまう。


「ティアちゃんと木蘭がやりあったと知られるのも面白くないだろ?

 この子は僕のところで預かりたいけど、どうだろう?」

「……」


 フィランダーは少女の向こうで殺気立つ青を眺める。

 秘密取引にはあまりにも人員が多く、そしてアイリン神信者の多い彼らがそれを是とするか。

 既に自分の意志とは関係なくなった場所での話し合い。

 そうして今度は自分はどこへと行くのだろうか。

 もう全身の感覚が無い。

 杖は握っているというより手が硬直して離れないだけだ。

 ふと、頬に違和感が走る。

 確かめようにもやはり腕は動かない。

 それは絶え間なく、そして顎を伝い落ちて初めて何かと知れた。


 涙か。


 悲しいとも悔しいとも思っていない。

 なのに溢れる涙は何のためだろうかとぼんやりと思う。

 何千何万回もの自分の死を見てきた自分に死の畏れも当に消え果てている。

 表情は変わらない。

 苦笑のままか。

 それとも無表情に戻ったか。

 それすらも確かめられぬままに落ちた涙が薄汚れたフリルに染みを広げた。

 皮膚感覚はどんどんと薄れ、世界は色を失っていく。

 その中で声にならぬ思いがぽつりとこぼれる。


 ああ、虚無感か。


 残酷な英雄が相手に与える物。

 ありとあらゆる手を尽くしてもそれを当然の様に踏み砕いてくる猛威。

 全ての行為に天意と幸運を従えて、絶対を打ち砕く者。

 少女の胸に去来したのはどうしようもない喪失感だ。

 高揚も悲しみも無く、小さな勝利を嘲る推移に心の向かう先を見失う。


「そうして物語は潰されていく。

 たった一つの英雄譚の礎となって」


 きっと声にならなかった声。

 それはどこへと行くのだろうか。


「その交渉に混ぜていただけませんか?」


 柔らかな声音が全員の虚を突いた。

 無論油断とは無縁の者ばかりだ。

 すぐさま臨戦態勢を取った彼らは荒野に佇み完璧な笑顔を浮かべる美少女の姿を見止める。


「皆様始めまして。

 私、拙い商いをさせて頂いているリリー・フローレンスと申します」


 完璧な発声。

 鈴の音が転がるようなという比喩を真っ先に連想するような美声が全員の困惑を酷くする。


「フローレンス……?」


 唯一フィランダーはその名前を含む情報を耳にしていたために警戒を保ったままに睨みつける。


「ええ、フローレンス商会筆頭で目下アイリンの経済破綻に尽力している者です」


 可愛らしく微笑みながら、語られる言葉をすぐに正しく理解できた者は居ただろうか。


「で?

 その商人さんが僕たちに何の用だい?」


 比較的こういう事態に慣れているフウザーの問いかけに「もちろん商談です」と崩れぬ微笑を向ける。


「私どもの買い上げた穀物とその子を交換させていただきたい」


 流石にこれにどんな言葉も返すわけには行かず、フウザーはフィランダーに視線を転じる。


「急な話だ。

 私にその権限があるとは思えないが?」 


 異常続きの展開であっても将位を持つ者。

 落ち着きを取り戻して言葉を返すとリリーはころころと笑いだす。


「ジョーカーを手にその答えは戴けません。

 花木蘭の名の元に権限という言葉がどれほどの意味を持つというのですか?」


 腕の中の女性に僅かに視線を落とし、思考を巡らせる。


「私も女神亭に顔を出させていただいた身。

 この方にもう権限が無いだとか、つまらない事は仰らないでくださいね?」


 先んじられて言葉を呑み、「君を拘束することもできる」とらしくない言葉を吐く。


「ええ。

 ですが私を捕らえても私達は止まりません。

 見事この国を朽ちさせて見せましょう」

「……ヨルフォード伯の査察は早急に行われる。

 それだけでも市場は好転するのに、大した自信だな」

「もちろんです。

 だって早馬は火に包まれるヨルフォード伯爵家を呆然と見上げるのでしょうから」


 虫も殺さない顔で放たれる毒。

 動揺は青に始まりフィランダーは真偽のわからぬ言葉だと思考を切り替える。


「どうしてその子を必要とする」

「個人的な理由です。

 強いて言えば」


 リリー・フローレンスはそこで言葉を切り、視線を転じてフィランダーの背後を見る。


「自分の存在をリセットしたいのです。

 クソくだらねえ運命に良い様に掻き回された俺様のな」


 あまりにも似合わなすぎる粗野な言葉への変調。それに怪訝な顔をする暇もなく


「ま、その為にちょい契約したんにゃよ」


 言葉を継ぐ幼い声にフィランダーはぎょっとして振り返った。


「あちしとね?」

「アルルム嬢……!」


 体に全くそぐわない槍を担いだ猫娘にフウザーも流石に警戒の色を見せる。


「君なら彼女を力づくで連れ去る事も出来るはずだけど?」

「出来るけど出来ないにゃよ。

 だから彼女と契約したにゃ。

 彼女が幼女の代償を払い、その行為にあちしは彼女の願いを受ける」


 理解を越える話に次の句が躊躇われる。


「……アルルム嬢がティアロットを欲しているという事か?」

「んー。

 どっちかってと世界が、かにゃ。

 歳末決算って感じにゃね。

 幼女を手に入れられるなら願ったり叶ったりだけど、幼女との契約じゃないからそれはしょぼーんって感じだけど」


 恐らくわざとだろうが、核心を逸らす言い回しに判断を鈍らせる。


「ってか、良いの?」


 そこを後押しするようにアルルムは問う。


「さっすがにそのまま考え込んでると木蘭ちゃん死んじゃうよ?」


 はっとして腕の中の英雄を見る。

 未だに神気を纏っていながら本人はピクリとも動かない。

 生きて居るのか死んで居るのかさえ疑わしい状態だ。


「なぁ、猫。

 アレ言っていいか?」

「んー。

 まぁ、OKかな」


 乱暴な言葉遣いのまま問うリリーにアルルムは肩を竦めて応じる。


「そいつはもうこの世界の魔王になんか成れやしない。

 そいつはこの世界の矯正力ってのに押し負けちまったんだ。

 だから俺たちに寄越したってお前らが損するこたぁねえよ」


「……厄介な言い回しだね。

 君たちはどこに行こうとしているんだい?」


 流石は魔術の長。アルルムが手にしている槍とそしてその言葉に答えを見出して問う。


「此処で無い何処か、にゃよ」


 フウザーは「そうか」とだけ呟いて少しだけ寂しげに、座り込んで動かない少女の背を見た。


「僕が口にすれば内政干渉になりかねないけどね。

 乗ってあげても良いと思うよ」


 フィランダーはその言葉を受けて数秒黙り込むと、困惑と拒絶の表情を浮かべる青の面々を見て「わかった」と頷く。


「御成約ありがとうございます」


 声音を戻したリリーが、しかしぞんざいに丸めた羊皮紙を投げる。

 片手で受け止めたフィランダーはそれが契約書である事を見た。


「そいつで花の商会も終わりだ。

 せいせいするよ」


 言いながらティアロットに近付き、その肩を軽く叩く。


「人形みてーな面しやがって。

 人間らしく泣けねえのかよ」


 何気ない悪態。

 しかしそれを正面で見ていた青の幾人かは怒りを凍らせて胸の痛みを思う。

 それはこの場の全ての者がある一線を越えた力を持つからだろうか。

 どうしてそんな顔で涙を零さなければならないのか。

 それを察してしまったからだろうか。


「いいぜ」


 何気なく振り返り、その先のアルルムは「おっけ」と槍を振るった。


 大地震が天地を襲った。


 天地より同時に現れたのは巨大な手だった。

 老婆のそれのように痩せこけ皮と骨だけになった手が伸び、二人の少女と一人の猫娘を握り締め消えていく。

 常識離れした光景に誰もが息を呑み、それから何事も無かったように静謐に戻る中で脱力する。


「フウザー殿。

 彼女らは……」

「この世界には扉がある。

 そういう事だよ」


 フィランダーとて女神亭によく顔を出す一人だ。

 『扉』の意味は良く知っている。


「元々あの猫の子は異世界の存在らしいしね。

 行ったと言うべきか帰ったと言うべきか……

 それよりも急いで手当てをしようか」


 最後の姿を心の奥に仕舞って。

 フウザーは治療のために何をすべきかの思考に移った。


◇ ◇ ◇


 身を貫くような衝動にクュリクルルは崩れ落ちる。


「ぎ、ゲ……面白いじゃねえか」


 痙攣する体から発せられるのは得も知れぬ他人の声。

 生まれながらにして彼女の中に巣食う歪んだ精霊フェグムント。

 それが表層に出て愉快そうに表情をゆがめる。


「『無限の陥穽』が消えやがった……ははは。

 銀嶺の魔女め、失敗しやがったな!!」


 白く滑らかな肌に突如赤い線が走る。

 一拍の間を置いて鮮血が噴出し、通路を赤に染めた。

 一つだけではない。

 まるで熟れたトマトがはちきれるように、次々に赤の線が走り鮮血が弾けていく。


「は、早速壊れるか」


 人間の体に大精霊が宿れるはずはない。

 存在としての格が違いすぎるのだから当然だろう。

 それを可能にしていたのは先ほどフェグムントが彼女の口から発した言葉───無限の陥穽という魔術的な仕掛けが彼の存在の殆どを飲み込み続けていたからだ。


「あはははは。

 いいぜ、存分に暴れてやらぁあ」


 びくんびくんと危険な痙攣をしつつ口だけがはじけるように動く。

 立ち上がろうとしてか、突いた手が指先から弾け、げふりと喉の奥から吐血を零す。


「げば……いいから壊れちまべ。

 俺をがいほうしろよ」


 にごった音で喋る事を止めぬ精霊が顔に掛かった影を怪訝に思い、無理やり視線を動かす。

 そこには眠そうにも見える表情の少年───少女ジニーが銃を構えていた。


「何だ、テメエは……」


 眼光鋭く睨み上げ、嘲る。

 早く体を壊してくれるならば願ってもない、と。

 しかし───彼はすぐに気付く。

 彼女の持つ銃とそこに宿る己との運命に。


「……ハ、そういう流れかよ」


 途端に冷めたように、歪んだ大精霊は悪態を吐く。


「ちきしょう……」


 言葉とは裏腹に攻撃的な視線を向け、


『ヤット喰ラエル 無限ノチカラヨ!!』


 狂気に狂気が喰らい付いた。


◇ ◇ ◇


 そして────

 アイリーン、ドイル、ルーンの三国境界。

 そこに広がる異質な森の中で一人の女性が月を見上げた。


『ホーウ』


 梟の声が響く。


『いかが為されたか、我が主人、今代の銀嶺の魔女』

「その名は無為となりました」

『ホーウ』


 くるりと首を傾げる使い魔の梟。

 女性は月を見上げたまま壊れていくそれを見る。

 眼には見えぬ運命を綴った毛織物。

 名を因果律法図。

 初代セリム・ラスフォーサが作り上げた運命の設計図が姿も無く、音も無く崩れている。


『ホーウ。

 して我が主。

 貴女は何者となるのだ?』


 使い魔の問いに最後の銀嶺の魔女は柔らかな笑みを浮かべる。


「わかりません。

 ただ、あの子の親でありたいとは思います」


『ホーウ』


 ばさばさと二度羽ばたき、使い魔は沈黙する。

 セリム・ラスフォーサの夢を継ぐために生まれ、セリム・ラスフォーサとして生き、セリム・ラスフォーサとして子を成し、何者でもなくなる女。

 連綿と続く因果に寄り添い、ただただ一枚の絵を綴るために魔女であり続けた一族。

 銀嶺の魔女は、名の通りに。

 白銀の月光を受けながら四百年にも渡る長い長い夢を見送り、遠い地に居る娘を思った。


◇ ◇ ◇


 エオスには扉がある。

 この世界は二度扉を開く。

 内より旅立った者を迎えるために。

 外より至った者が帰るために。

 此処ではない何処か。

 そこへ至る道に平然と佇みながら猫耳娘はくるりと振り返る。


「リリーちんは何かご希望ある?」

「……いや、別に。

 極端な場所じゃなきゃどうとでもなるさ。

 俺様にはありがたくも授けられた才能があるからな」


 やや自嘲気味に、そして崩れ去った運命を皮肉るようにリリー・フローレンスはニィと笑った。

 彼女もまたセリム・ラスフォーサの残滓だ。

 金融の面で世界を調整するために育てられ、その最後の者として完全な美貌を与えられた。


「それよりも、こいつはどうするんだよ?」


 泣きはらした眼を閉じたままピクリとも動かない少女を半眼で見下ろすと「あれれ、リリーちゃんやっさしー」と猫娘が茶化した。


「ま、どうにもならないにゃよ」


 ニヤニヤ顔をすっと戻し、泥と砂埃に汚れた頬を優しく拭う。


「この子は生まれながらに呪いをかけられただけにゃ。

 世界に、運命に、境遇に、そして周囲に。

 善悪も良くわからないままにあまりにも大きな世界に投げ込まれて、それでも足掻いて足掻いて……」

「なにも得られなかったってか?」


 何も得られなかったのだろうか?

 アルルムは彼女の道を思い、そうでありそうでないと呟く。


「求めた物がそもそも間違いだったかもしれないけどね。

 この子にはまだ明確な『自分自身』が無いにゃよ。

 誰かから聞いた理想、本で読んだ理想。

 そのすべてを組み合わせて完全を作ろうとしちゃったんだから」

「子供ゆえの純粋ってか?」


 まだ十とそこら。

 成人年齢の低いこの世界でも充分に子供の部類だ。

 だが彼女を子供だと認識していた者がどれほど居たか。

 400歳を超える魔女。

 それが彼女が作った彼女自身だった。


「……で、どうするんだ?」

「なので適当な世界にほっぽり出そうかと」


 さらっと酷い事を言う猫娘。


「だいじょーぶだいじょーぶ、リリーちんと同じでこの子も生きる術はちゃんとあるからね。

 それにこの子は別に心を壊したわけじゃない。

 今は脳がオーバーヒートして強制的に落ちただけにゃよ」


 ぽんぽんと頭を撫でて、アルルムは笑う。


「また会う時にどーなってるのか、楽しみにしておけば良いにゃよ」


 また、という言葉を適当に使ったわけではあるまい。

 リリーは肩を竦めて異様な空間に視線を逸らす。


「楽しみじゃない。

 だってこの子が二度の失敗に落ち込んで隠遁する、なんて想像できる?」


 リリーは答えなかったが、嘆息だけはこれ見よがしに漏らした。


◇ ◇ ◇


「小麦の在庫を抱えて困るのはそちらだと思いますが?」


 シェルロットの鋭い声にセムリナの通商担当は涼しい顔を崩さない。


「随分と強気ですな。

 流石はアイリン」


 返しと放たれた言葉には圧倒的優位を背景にした余裕が見て取れる。


 しかし───


 突如現れた男が通商担当官に耳打ちすると押し殺してもその表情に驚愕を見て取る事ができた。


「タイムアウトのようですね」


 不意に────今までの切羽詰ったような雰囲気を一掃し、席を立ったシェルロットは記録官のところへすたすたと行くとその記述に視線を這わす。


「随分と色々な条件を呑まされた物です。

 仕方ありませんね。

 こちらは『弱い立場』でしたから」


 笑みを浮かべて見遣れば男の顔が見る見る真っ青になっていくところだ。

 今の一報はアイリンに措いて相場の高騰が突如沈静へ向かいつつあるというものだろう。

 そして彼の頭の中ではアイリン側に呑ませたと錯覚していた案件が次々と浮かんでいるのだろうと。


「仕方ありません、ここまで重い制約をかけられるのであればセムリナとの取引を最大限減らすしかありませんね」

「っ!

 貴様、これを知って……!」

「当たり前じゃないですか。

 既にバールとドイルとは通商の回復交渉は部分締結しています。

 セムリナから入り込んで溜め込まれている穀物は我がアイリンでは買い取れませんので残念ながらお引取り願わないと」


 良い笑顔を作り放つ言葉に青ざめた顔がより一層青くなっていく。


「ラスフォーレ商会、でしたか。

 貴方の息のかかっているらしいですね。

 もう不要ですので頑張ってお持ち帰り下さい」


 周囲のセムリナ側の文官が一斉に男を見た。


「アイリンには幸い充分な貯蔵量と、ドイルからの輸入を確立させましたので。

 ああ、バール方面についてはルーン経由のルートが今度の外交会議で締結されるそうですよ?」


 数ヶ月前ならば信じられない話だが、実際外交筋でその会談の情報は入手している。

 大半の見方が領土問題についての交渉が行われ、喧嘩別れになると言われていたが


「無駄に争いを生む時代は終わりにしましょう。

 話し合って全てが解決するなんて甘い考えはもちろん持ち合わせていませんが、極力そうするために私達が居ます。

 さぁ、改めて交渉しましょう」


 そこまで言って、不意に言葉を切った少女は少しだけ肩を竦めてセムリナ側を見渡す。


「セムリナは代打を立てますか?」


 失態に自身の損益を暴露された男は誰が見ても役に立ちそうにない。


「それでは、私が」


 声は開いた扉から。

 ゆっくりと一同の前に姿を現した女性にセムリナ側の一同が慌てて敬礼をする。


「『結果』を見ずに飛び込んで来た獅子が来ていると伺いましたからね」


 一同がその意味を探る中、若い政治家は緊張を飲み込んで笑みを作ると、


「誰が待ってやる物ですか」


 と明朗な声で言い放つ。

 漏れるのは笑い声。

 どうして笑っているのか。

 全く掴めない面々が唖然とする中、セラフィルは交渉のテーブルに着く。


「陛下に後で会って行って頂戴。

 きっと気が合うか大喧嘩するでしょうから」

「楽しみにしておきます。

 言質を取られぬようにと、先に進言なさってください」


 豪胆な物言いにますます機嫌を良くしたらしい女性の前に座りなおし、シェルロットは気を引き締めるのだった。


◇ ◇ ◇


 この通商会談より世界は新たな枠組み作りへと舵を切っていく。

 互いに多くの確執を持ちつつも武による戦を忌避する時代へ。

 そして新たな情報と経済の戦争時代へと進んでいく。

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