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第八話

 それから瞬く間に二週間が過ぎた。


 あまりにも目まぐるしく色々な事が起きた数日。

 それが悪夢だったかのような静けさ。

 しかしそれは間違いなく『表向きは』だ。

 リオス中佐の逃亡補助、並びに衛兵殺害の犯人は未だ逮捕されていない。

 特に黒は躍起になって探しているようだが依然として犯人の足取りを掴めていなかった。

 一方でシーフギルド、並びにジュダークやシェルロットに対しての扱いも決めかねたまま時が流れている。

 というのも大臣閣僚級がこぞって議会に顔を見せないからだ。

 流石に残った者達では片や男爵の一子。

 片や獅子賢の娘をどうこうできるほどの勇気を持ち合わせていない。

 空転する議会。

 そこではどうしようもない事態がアイリンを蝕み、力ある者達はその対処に追われ続けていた。


◇ ◇ ◇


「……そうか」


 執務室でカイトスは今しがた受けたばかりの報告に渋面を作る。


「ミルヴィアネスを今討たねば大事となりませんか……?」


 各軍の代表が集まる中、一人の男が発言する。

 それにすぐに賛同する声は無かったが、否定する声もまた上がらない。

 小麦を初めとした食料品の急激な値上がり、そしてミルヴィアネス領への武器流入の噂。


「しかも肝心のミルヴィアネス男爵が姿を見せないとあっては弁解の余地もありますまい」

「いや、だが……つい先日男爵は王都まで来ていたのだからまだ領地に戻っていないのは当然だろう。

 それに確証無きまま王の信任厚く、さらには木蘭派の一角とも言える奇異な存在に手を挙げるなど……」


 ミルヴィアネス領はドイルとの国境にありアイリンの東端にある王都から一番遠い領地だ。

 徒歩でおおよそ一ヶ月の距離。

 馬車であればもう少し時間を必要とするだろう。

 だがカイトスは口に出さぬままそれを否定する。

 ミルヴィアネスには自称魔族のメイドが居るのだ。

 あれがフウザーくらいしか使い手の居ない他者を伴う転移術を使えることは承知している。


「それに武器の買い付けの記録は無いという正式な回答も来ている」

「梟の回答がどれだけ信用できる?

 それに物価の件もドイルから大量に兵糧を買い付けたとすれば説明が付く」


 説明は確かに付くが、安易過ぎる。

 これが他の者であれば頷いてもおかしくは無いが忠節に篤いミルヴィアネスの行動故に場の者の反応は薄い。


「私だって男爵の忠心は承知している。

 だがあの方は忠心故に王を諌める事もできる」


 そう言われれば考えざるを得ない。

 現にミルヴィアネス男爵がアイリーンに来ていた理由は王を諌めるためだと噂されていた。

 ────そして、王がその諌めを無視した……という話も漏れ聞こえてきている。


「ジュダーク・ミルヴィアネスの問題もある。

 いかにこれまでがそうであったとは言え、これからも彼がアイリンの忠臣であるとは言えないのではないだろうか」


 ───彼らとて二週間もこんな不毛な会話をして居るわけではない。

 各方面に目と耳を飛ばし、必死に情報整理をして居る最中の、あるいは疲れからか、ぽっと出た愚痴のようなものだ。

 表向きには平穏な二週間。

 だが裏側を見れば目を背けたくなるような激動があった。

 シーフギルドはこの混乱を尻目にアイリーン全体のまとまりを成立させ、改めて国家との協力体制について打診をしてきていた。

 それについては打診そのものを「無かった事」にしたようだが、一部の者は秘密裏にその内容を検討していることだろう。

 皮肉すぎる事実としてアイリーンの事件発生件数は目に見えて減少していた。

 無論デモンストレーションとしてシーフギルドの威を見せているとも考えられるが特に商家やアイリーンに邸宅を持つ貴族達は声を大にせずとも歓迎しているのは明らかだった。

 シーフギルドと契約しはした金を支払うだけで盗難のリスクが避けられるのだから安い物だし、シーフギルドの壊滅以降、いくつかの家は甚大な被害───悪い場合には火付け強盗まで発生したのだから強請られているようなシステムとは言え歓迎すべきだと再認識したらしい。

 一方の黒では木蘭の耳として動き回っていたイニゴの失踪が不安の種になっていた。

 シーフギルドに赴いた後の失踪とあっては疑うべき場所は1つしかないが、さりとてかなり自由に動き回っている彼が何らかの密命を受けて姿を隠している可能性もあるため手を出しあぐねいている。

 次いで飛び込んできた情報は、今の話にあった通り武具の類がミルヴィアネス領に流入しているという情報だった。

 最大の仮想敵国であったバールとの講和以降武具の値段は暴落しており、どこでも不良在庫扱いされていた。

 鉱石の産出国であるバールではすぐさま農具への打ち直しなどに着手しているらしいが、未だに軍縮の進まないアイリーンでは重い腰が中々上がらず年度頭の受注分をキャンセルできなかった財務担当の胃を破壊したと(もっぱ)らの噂である。

 商人だって必死だ。

 外に出しても売る道の無い物をキャンセルなんて認められるはずも無い。

 そんな世界的にだぶついている武具が色々なルートからミルヴィアネス領に流れ込んでいるという話が複数の筋から明らかになったのは先日の事だった。

 これに泡を食った軍部はすぐさま状況確認を開始。

 しかしミルヴィアネスからはその事実は無いというそっけない回答ひとつだった。

 とは言え、調べるにしても一日二日というわけにはいかない距離がどうしても弊害として立ちふさがっている。

 ミルヴィアネス領は策とは言えアイリンから独立し敵対した歴史を有している。

 また先にも論じたとおり男爵が王に不満を抱いているという疑念があれば回答を十全に信じるわけにも行かず、ただでさえ四方に使いきっている諜報能力を内部にまで向けざるを得なくなってしまった。

 これらの事件を呼び水に経済の深刻化が口の端に登るようになる。

 花木蘭領に端を発した未曾有の好景気によるインフレの大津波。

 そして軍事産業の大暴落。

 この二つに揺るがされた市場経済は豪雨の後の崖という有様だった。

 そこを畳み掛けるようにドイル、セムリナからの通商条約の見直し要求が舞い込んで来る。

 表向きの題目は中央大陸での戦争がひと段落した事から平和に向けて様々な点で見直すべきだというものだ。

 問題はその中に武具の関税の大幅引き上げが盛り込まれている事だ。

 そしてその情報は商人のネットワークに乗り軍需産業に留めの一撃を見舞っていた。

 他国からすれば大暴落した不良在庫を持ち込まれてはたまらないのだから当然の主張だ。

 そしてダメを押すように事実通商条約が改定されるまでは軍需関係の貿易については一時停止するとまでしてきた。

 またドイルからは食料品関係の関税見直しが主だ。

 王も代替わりし世界が平和を歩もうとしている中、過去の戦争に纏わる不平等な通商条約を正常化してもらいたいという『懇願』だが……『もし』受け入れられるのであればという疑念が唯でさえ地盤の緩んだ食料関係の相場を大きく崩した。

 折り重なった要因がまた新たな問題を誘引し、決定権を持つ者達は一秒でも早い解決のために火消しに奔走している。

 大臣クラスは各国に出ているし、軍部でも兵站の整理に大わらわという状態で、議会に顔を出す余裕など作れないというのが実情だった。


「カイトス様」


 やや焦った様子で部屋に飛び込んできた秘書官に視線が集中する。

 そんな中で差し出された手紙を開き、カイトスはぎりと奥歯を噛む。


「これは王の目に入ったのか?」

「……はい。

 宰相からカイトス様へと」


 問いかける視線を受け止め、彼は心を落ち着けるように吐息を深く漏らす。

 テーブルに投げた手紙に幾条もの視線が走る。

 そして誰もが一様に息を呑んだ。


『セムリナは正統王家の支援要請がありし時には応ずる用意あり』


「もしや……ミルヴィアネス領への武器流入は……」

「セムリナの画策だろう。

 ドイルの……小麦もな」


 一人の言葉にカイトスは重々しく頷く。


「いや、しかし……あからさま過ぎませんか?

 この手紙が無ければ……」


 言い淀む。

 この手紙が無くともいずれ物流を精査すれば事実は明らかになるだろう。


「逆だ。

 我々は手を打つ前に次の手を打たれた。

 ミルヴィアネス領付近への武器流入は事実。

 小麦を初めとした穀物の価格高騰も事実。

 セムリナから有事の際に支援を行うという親展があったのも事実だ」


 それぞれの流れは合流し堰を壊す濁流となる。


「ミルヴィアネス男爵の捜索を増員しろ。

 特に相場の高騰は絶対に押さえつけろ!」

「カイトス様、お言葉ですが……」


 黒の代表が言い難そうにしながらも言葉を作る。


「相場の操作は国庫に大きく手を着けねば不可能です」

「やる前から────」

「すでに下地が出来上がりすぎて居るのです」


 他者の言葉を彼は一蹴する。


「木蘭様の領地で起きたインフレ。

 これは波のように各地に飛び火しています。

 それにこの穀物の物価上昇が重なった結果、大規模な買占めが今日明日にでも発生するでしょう」

「先に国が買い上げればいい!

 そこから市場に流せば……」

「それではダメです! それではまさしく─────」


 男は苦々しさを噛み殺しながらも声を振り絞る。


「我が国が戦争準備をしているようではありませんか!」


 シンと、水を打ったように静まり返る。

 誰もが言うべき言葉を見出せず、助けを求めるように視線を彷徨わせていた。


「ミルヴィアネス領に偏っているとはいえかの領もアイリンです。

 その上食料の買い込みをするなど……どんな目で見られてもおかしくはありません」


 男は絞り出すような声音で「それに」と続ける。


「……聖戦が終わって数年……。

 人々は戦争の前後で起こる相場の変動を見せ付けられ続けてきました。

 今───我々が穀物相場に介入する行為は、火消しでなく助長です」


 戦争が起こる前には食料品の相場が上がる。

 当然の事だがこの僅かな期間に何度もそんな様を見てきた市民は『予兆』として確かに記憶しているだろう。


「だが……!

 このまま見ていれば解決する話ではあるまい!」

「そうだ。

 日和見を決め込めば事態が悪くなる可能性だってある」


 反論の言葉もどこか揺らいだ気配があり、彼らの視線は激しく彷徨う。


「……手をこまねいているわけには行かん。

 財務官に連絡を入れろ。

 至急対策案を纏めるんだ。」

「カイトス様っ!」


 新たな秘書官の登場に全員が殺気だった視線を向ける。

 そしてその殺気を向けるべき情報が怖気づく男の口から告げられる。


「各地で大規模な買い付けが発生していると報告が入ってきました!

 そのため各地でパニックが発生しかけています!」

「早すぎる!」


 それは最早悲鳴だった。

 だが悲鳴を上げて許されるほどの異常な速さである。

 いかに耳聡く強力なネットワークを持つ商人と言えど、まるで計ったかのタイミングでこうも買い付けを開始できる物か。


「セムリナの手によるものか!?」

「わかりません。

 ですが投入金額は莫大で値上がりが止められません!」

「馬鹿な!

 他国の介入だろうとそれほどの資金を有する商家などすぐに絞れるだろうが!」


 無能さに憤慨するが、冷静になってみれば天下のアイリン。

 その諜報能力がその程度なはずが無い。


「まさかっ」


 突然、一人の男が立ち上がる。


「君、至急フローレンス商会を調べろ!」


 共に聞き覚えのあまり無い名だ。

 何故そんな名前がとの疑問の視線に叫んだ男はわなわなと震える手に力を入れ、顔を伏せて告げる。


「木蘭様の領地で起きた史上稀に見る大豊作、そしてそれに伴うインフレ。

 それを最小限の被害に抑える要因となったのがその商家なのだ。

 それらがぜいたく品を初めとした供給を行ったがために深刻な『金余り』を防ぐ事ができたのだが……」


 その結果得た莫大な金が、今ここに投入されているとすれば─────


「その経済規模は軽くアイリンの国費の数倍に登る……抑えられるはずが無い……!」


 絶望に充ちた言葉を理解していく者から順に力を失ったように呆然自失の態を晒す。


「方法は無いのか……?」

「……王命で業務を停止させろ!

 抱え込んだ物を回収すれば……!」


 いや─────。

 カイトスは澄み切っていく脳裏で一つの予想を生む。

 自分が未だバールに居て、アイリンのこの状況を見ればどういう行動をするか。

 そんなのは一つしかない。

 僅かに身じろぎし、ポケットの中の硬貨がほんの小さな音を鳴らす。

 エオスの統一硬貨。

 それは奈落へと落ちるに当たっては命綱───返せば他国を巻き込む綱だった。


◇ ◇ ◇


 翌日。

 ドイルとバールを皮切りに4カ国はアイリンに対し経済封鎖を宣言。

 一切の貿易を「アイリンの経済が正常化するまで」停止する事を決めた。

 同時に各国で国家貨幣の鋳造を決定。

 統一貨幣は撤廃しアイリンの被害を最小限に食い止めるべく迅速な行動に打って出たのである。

 そのため統一硬貨の貨幣価値は瞬く間に低下。

 鋳潰して金属としての価値を残すばかりとなり、取引は物々交換、或いは早くも流入し始めた他国の硬貨に頼るほか無くなった。

 金に価値が無くなったことにより、急速な売り控えが発生。

 商家は農村に走って青田買いを行い、各方面に人員を裂かれていた国政は全てに措いて一手を仕損じる事となる。

 無論アイリンとて指を咥えて見ていた訳でない。

 尾ひれ背びれが付いていく噂の歯止めに苦心し、商家と交渉を行って相場の操作に勤めた。

 しかし主要因であるセムリナとの交渉ははぐらかされるばかりで、時間だけが過ぎる事となる。

 もう一つの要因であると目されるフローレンス商会だが、調べてみれば眉をひそめるしかないほどの異様な商家であることが判明した。

 というのもこの商会は縦も横もつながりが細く、フローレンス家の血縁だからその商会名を名乗っているだけだと言う。

 細い繋がりを辿ってみれば最初に戻ってしまう有様で、先の件で莫大な利益を挙げたのがどこの誰かわからないのである。

 また別の繋がりで巡れば国外で王室に関わる大商家にぶつかったりしてやはり日を食うだけとなってしまった。

 その捜査の最中、フローレンス商会以外の関与も浮上。

 しかしその物流、資金がどこから流入しているかは要としてしれず、あるいはようやく掴んだと踏み込んだ先はすでにもぬけの殻だったりとまるで捜査状況を知ってあざけるような動きに内部監査まで迫られる羽目になっていた。

 日を増すごとにアイリン各地での不満の声は増大。

 ついには農業地帯を有する領主が関所を閉じるなどの行為に発展。

 もちろん反逆行為だとすぐさま批難したが、王から預かった民を守るためという大義名分と、いち早くこの国難を治めるべき中央の体たらくが無ければこのような行為に及ばずに済んだと逆に批難されては返す言葉も無い。

 アイリンは間違いなく空中崩壊の態を見せ始めている。

 その中で平静を保つ領地も確かにあった。

 1つは木蘭領。

 震源地であるが故にその収束後もたいした問題も発生せずにある。

 1つは国境線に近い領地。

 才覚ある領主は早々に他国の新通貨の導入を宣言。

 経済基盤を新たな基準で建て直し、貨幣価値暴落という腐敗の波から身を守りに走った。

 反対に波を避けることすらできず直撃せざるを得なかったのが王都アイリーンだ。

 貨幣の信用失墜に金余りという最悪の状態に商人達は一斉に資材を逃がし始めた。

 その結果、犯罪者でもなんでもない市民の手による強盗や焼き討ちまで発生し、アイリン全軍は治安維持行動に全力を注ぐ事態に発展する。

 ついには外出禁止令を発令。

 にぎやかで美しい花の都は、寒々しい沈黙に包まれる事となった。


◇ ◇ ◇


「ごきげんよう、ジュダーク様」


 激震がアイリンという王国を襲う最中、ジュダークは微笑を浮かべる女性の前に居た。


「私に会いに来てくれたのですね」


 サリエル・ヨルフォードは感激を表現しながらジュダークの前に立つ。

 それから微笑を童女の浮かべるような疑問に変え、


「あら、随分と怖い顔をなさっていますのね。

 精悍で素敵だと思います」


 と、囁いて柔らかい笑みに戻す。 


「サリエルさん。

 貴女に聞きたいことがあります」


 それらの表情の変化、黄色い声に構わぬ言葉。

 少女は純粋な笑みを壊し、そしてうっすらとした淡く冷淡な微笑へと変貌させた。


「お答えしかねます」

「……っ、それも、予知ですか?」

「お答えしかねると申したばかりですが?

 ……構わないですけどね。

 その通りです。

 私はジュダーク様の問おうとしている事、応じた後の事。

 その全てが見えています」


 虚言と言うのは易い。

 だが、彼女のその顔を見ればつい信じそうになってしまう。


「ああ、良い顔です。

 ジュダーク様。

 貴方は憤り、悩む程に素晴らしく精悍なお顔をされるのです」


 微笑に、じわりじわりと笑みを足していく。

 その変貌を見据えながらジュダークは腰の剣を強く意識する。


「私は貴方ほどに覚悟のできる方を存じません。

 貴族の本分を果たせるのならば如何なる汚名も、命さえも惜しくは無いと割り切れる」

「ならば、僕の覚悟もわかるはずです」

「でも、私には届かない」


 踏み込んで指も入らぬほどに顔を近づける。

 まるでキスを迫るかのように見上げた少女は揺らがぬ瞳を宝石のように魅入った。


「ジュダーク様。

 貴方の怒りはまだ私に達していない。

 そうですよね?

 だって私は悪い事は何もしていないのだから」

「貴女の目的を教えてください」

「あら、悲しいですね。

 もう、お伝えしたと思っていましたが」


 互いの吐息が触れ合う距離で、しかしその僅かな溝はギヌンガガプの如くに深い。


「僕が貴女に下れば、この全ての策謀を止めてくれますか?」

「ジュダーク様。

 私は死にたくないのです」


 全く答えになっていない言葉。

 使者の言を信じるならば預言者である少女は目線を揺るがさぬままに続ける。


「私は間もなく殺されます」

「……誰にですか」

「運命に」


 間を挟まぬ応じ。


「誰というならばそれを定めた『銀嶺の魔女』セリム・ラスフォーサにです」


 ジュダークの視線に力が篭る。

 リオス中佐を何故クュリクルルが討つ羽目に陥ったのか。


「肯定です」


 思いを先読みした答え合わせ。


「ですがやはりこの一手は今代の魔女を討つ事ができなかった」

「リオス中佐にあの魔剣を渡したのも、あの魔眼を持ち出したのも貴女ですね」

「その通りです、ジュダーク様」


 応じて、


「応えないと言った筈ですのに。

 ジュダーク様は聞き上手ですね」


 と妖しい笑みを零す。


「ならばついでに教えてください。

 どうして僕なのですか?」


 沈黙。

 静止した時間の中で二人は身じろぎ一つせずに相対する。

 数秒か数分か。

 時間間隔すらも狂うような静謐の緊張。

 やがて、少女は目を伏せ口元の笑みを濃くする。


「お話しましょう。

 この世界の裏側のお話を」


◇ ◇ ◇


 この世界には『正史』が存在していた。

 それは人々が信じて疑わない『自由意思』を嘲り笑うような、固められた未来。

 いつどこで誰が生まれ、いつどこで誰が死ぬ。

 どこで微笑み、どこで泣き、どこで失い、どこで得る。

 その全ては一本のシナリオとして存在し、成立していた。

 未来を読むというのは不確定な未来に対し容易くできる事ではない。

 未来信望者は未来が不確定だから未来を知覚すれば未来の変更が可能だと謳うが、未来を見る事が決まっていれば自ずと変化する先も決まっている。

 絶対普遍の一本道。

 しかしそこに変化が生まれた。

 それはシナリオの外からの干渉。

 『正史』に存在する全ての者はあらゆる行動を『正史』によって規定されているが、小石一つでも『正史』の外からの流入物があれば全ては瓦解する。

 つまり未来という時間の先に枝分かれが発生した。

 これにいち早く気付いたのが『銀嶺の魔女』セリム・ラスフォーサだった。

 彼女は『未来視』という本来は無意味にして、しかしこの異常に最も大きな力を有した者だった。

 彼女は揺らぎを観測し、自分好みの未来を作るための設計図を作り上げる。

 これを因果律法図と言う。

 彼女は揺らぎの果てに完全な預言者を作ろうとした。

 それは第二の『正史』を作る行為だった。

 外部からの干渉すらも含めた新たな未来。

 そしてそれを可能にする彼女にとって最高の未来視を夢見たのである。

 

「本来の正史においても第二の正史においても、花木蘭は主役でした。

 聖戦では役者が多少異なりましたがおおよそ正史に違う内容では無かった……。

 しかしセリム・ラスフォーサが描いた『第二の正史』はそこから大きく軌道修正を迫ったのです」


 正史を歪めるにイレギュラーは主役の下に集まる事になる。

 ────女神亭。

 花木蘭が開いたその店に集まる冒険者達。

 彼らは正史にない働きを見せ、少しずつ正史を歪めて行った。

 そして、彼女が現れる。


「スティアロウ・メリル・ファルスアレン。

 初代セリム・ラスフォーサが邂逅し、その運命を導いてこの時代に送り込んだ存在。

 彼女は揺らいだ正史を粉砕しました」


 正史ではオリフィック・フウザーがルーン国王になることも、アイリンの一部が独立するような事も無かった。

 ファルスアレンという小国を起源とするミルヴィアネスはアイリンの西の要として現れ、バールは今も敵対国のはずだった。


「それらの矯正力。

 そして歪みはいくつかのポイントに収束しました。

 両方の『正史』、その重要人物である『花木蘭』。

 第二の『正史』を作る存在。

 『スティアロウ・メリル・ファルスアレン』と『セリム・ラスフォーサ』

 そして第二の『正史』を正そうとする矯正力────」

「それが、貴女ですか」


 サリエルは微笑んで言葉を続ける。


「セリム・ラスフォーサが夢見た完全なる未来視。

 その欠片が私にあります」


 それがこの異常の連鎖を生み出すことを可能とした。


「でもおかしいではないですか。

 貴女が第一の正史に戻そうという力であれば、貴女はアイリンの崩壊を画策してはならない」

「いえ、何もおかしくありません。

 確かにこの身には正しい歴史に戻すための力が宿っています」


 少女は己の胸に手を当て、力を込めて言葉を発する。


「ですが、私には意志があります」


 そしてその手をゆるり反してジュダークの胸を緩く押す。


「私は限りなく第一の正史に戻す事もできるでしょう。

 ですが、その過程で私は殺されます」


 改めて気付く。

 その両の目で色合いが全く違う事に。

 違う。

 今、変貌したのだ。


「だって私のような存在は本来存在せず、そして修正後に存在しては再び揺らぐ可能性になるから。

 私は花木蘭の指示の元、世を惑わす者としてその配下に討たれ死にます」


 胸に触れる手が緩く衣服を掴む。


「第二の正史は私を殺し、この欠片を奪います。

 そうする事により今代のセリム・ラスフォーサは次代において完成された未来視を得る事になります」

「貴方は……」

「生きたいのです」


 熱い吐息と共に少女は訴える。


「私は私が幸せに生きる事を望みます」


 生み出される言葉が形作るのはあまりにも純粋な生への渇望。


「この思いは罪でしょうか?

 ただ生きたいと願い、行動する事は罪ですか?」


 その為に他人を虐げる事は許されるのか?

 すぐに思い浮かんだ問いをジュダークは発せずにいた。

 彼女を追い詰める物が運命というどうしようもない現象だから、変革に必要な行動は他者を巻き込むほどの物になる。

 それでも生きたいという。

 誰もが願う事を彼女だから願ってはいけないのだろうか。


「ジュダーク様。

 私が未来視を有していてもこの距離で貴方から逃げる事は適いません。

 私の願いを認められぬと言うならば、ここで私を殺してください」

「……一つ、腑に落ちません」

「彼女は貴方の結婚相手です」


 また質問を先読みした。

 しかしあまりにも予想外の回答に何か行き違えたのかと息を詰まらせる。

 けれどもサリエルは表情一つ濁さぬままに言葉を紡ぐ。

「『正史』に措いて貴方が結婚する相手が彼女です」

「……そんなはずは無い。

 彼女は貴族でもなんでもない……」


 自分の事だ。

 例えどんな状況だろうと身分を捨てた駆け落ちなどするはずも無いという確信がある。


「もうその時間はありませんが……調べればわかる事でしょう。

 以前の婚約者はすでに存在していないのです。

 婚約者────オスワルド家は病死した娘の代わりにとある家から一人の少女を引き取ります。

 そして自分の娘と謀って貴方に嫁がせるのです」

 オスワルド───確かにジュダークの元もとの婚約者はオスワルド家の者だった。


「しかし第二の正史に措いて、ミルヴィアネス家はとんでもない地位を手に入れてしまった。

 故にオスワルド家は嘘を吐く事にリスクを覚え、身分が合わないという理由で辞退したのです」


 嘘だと言うことは簡単だ。

 しかし一度たりとも婚約者に会ったことの無いジュダークにはどんな言葉も力強さを持たない。


「第一の正史に措いてはそれほど魔術師ギルドの奨学制度も大規模ではなく、彼女が魔術師としてアイリンに出る事は無かったのです。

 しかし歪みの矯正力として彼女は魔術の才を認められ、貴方の傍へと近づく事になりました」


 奨学生でありながら彼女は落ちこぼれ扱いをされていた。

 魔術の才があるというだけで希少な存在だからと思っていたのだが……


「第一の正史への回帰をするのであればジュダーク・ミルヴィアネス。

 貴方はライサ……第一の正史で言うウルネイシア・オスワルドと婚姻し、子を成さねばなりません。

 だから貴方の力がどうしても必要な私は彼女を貴方から離したかったのです。

 そして正義感の強い貴方は、そして彼女は離れる道を選びました」

「選ばされた、ですね。

 彼女を殺さず捕らえるだけにしたのは僕を敵に回さないためですか」

「そうした場合、貴方は間違いなく私の事を報告し、一人でここに来る事はなかったでしょう」


 ジュダークは目を伏せ言葉を反芻する。

 そうして得られた感情はどうしようもない空白だった。


「僕に、何を求めるのですか?」

「『槍』を」


 そうか、と呟く。

 自分ごときに固執する理由がようやくわかった。


「その槍でスティアロウ・メリル・ファルスアレンを討って下さい。

 そうすれば私は世界が許す限りの平穏をお約束します」

「……木蘭様でなく?」


 今の話の流れから言えば、彼女にとって倒すべきは花木蘭だろう。

 しかし彼女は厳かに未来を告げる。


「花木蘭はアイリンが負う経済損失に対処するためにセムリナに赴きます」


 それはジュダークの知りえぬことだが、セムリナからの『正統王家に対する支援』という言葉を利用せんが為の動き。

 対立を噂される木蘭自らがいち早く乗り込み、自分はマーツ王の臣下だと宣言し、改めて軍役から退いたと明言して援助を求める。

 そもそも『援助』は必要ない。

 流通の回復を依頼するだけで一連の負の連鎖は断ち切れるのだ。

 これがセラフィル・サージが大惨事にしか見えぬ様相を指して『いたずら』と嘯いた所以である。

 セムリナの目的は花木蘭を外国の地で中央権力からの離脱を宣言させること。

 アイリン国内ではすでに言って憚らないが、他国で宣言するのであればその意味はまた違ってくる。

 少なくとも戦場に出しゃばらなくなるだけでも各国の軍関係者は歓喜することだろう。


「そう、いつも通りそれが最も早い手段と信じて1人で」

「────っ!」


 力を失ったとて彼女の馬術に引けを取らぬ者はそう何人も居るものではない。

 そしてその面々はアイリンでの問題で手が離せない。


「ジュダーク様。

 貴方が一人でここに訪れた事には意味があるのです。

 貴方はこれより馬を駆ってその地へ赴きます。

 そして────」


 その先の言葉は聞く必要すらなかった。

 自分はその流れを止めるための時間をすでに失っているのだから。


「貴方はスティアロウ・メリル・ファルスアレンが花木蘭を殺害した現場にたどり着くのです」


 そこで────彼女はジュダークに『槍』を振るえと望む。

 アルルムが作った三度相手を確実に消し去る槍。

 そしてすでに二度振るっているその槍はその対価であった命を握り締めている。 

 三度目は己の命と共に相手を消し去る。

 それが槍が抱いた呪いだ。


「……クルルさんはどうするのですか?」

「スティアロウ・メリル・ファルスアレンがこの地より去れば、魔女の中にある力が自身を殺します。

 そしてフェグムント───虚数の無限精霊と対を成す狂気の銃が、その本懐を遂げ、第二の正史を強制する力───完全なる未来視の誕生は潰えるのです」


 理解はできないが、彼女の脳裏に確かな道筋が出来ていることを彼は知る。

 クルルの噂を流し追い詰めようとしたのは結局自分をこの地へ導くための布石だったのだ。


「正史の花木蘭も、第二の正史のセリム・ラスフォーサも居なくなった世界で私はようやく生きる事を許されるのです」


 ジュダークは考える。

 生きたい。

 そう願う事は果たして狂気たりえるのだろうか。

 彼女の望みは不老不死や人の度を超えた長寿ではない。

 ただ人としての生を欲しているだけなのだ。

 それは、間違いなのだろうか?


「この願いはアイリン神の加護という力で欲望のままに生きた花木蘭にも。

 銀嶺の魔女の運命操作と魔王に翻弄されただけの人形、スティアロウ・メリル・ファルスアレンにも。

 非難される物ではありません」


 少女は問う。


「ジュダーク様。

 お選び下さい。

 花木蘭の神話を作るためだけに戦乱の続く時代か。

 歪んだ思想の果てに作られる管理された時代か。

 それとも。

 そんな大きな意志の失せた緩やかな時代かを」


 その答えも彼女は知って居るのだろう。

 何も聞かずとも、数多の問いを投げつけようとも、ジュダークの行動は今ここに一人で居ることで確定してしまったのだろう。


 ならば─────


  ここに居るのが自分だけでなければ、どうなるのだろうか。


◇ ◇ ◇


「リリー様、予定通りの買い付け終了いたしました」

「ご苦労様です。

 進行に遅れはありませんか?」


 50がらみの男が礼を尽くすのは十五かそこらの少女。

 お世辞ではなくまるで作られたような美しさを持つ少女は理想的な仕草、微笑を称えた。


「はい。

 白の家からの警告が再三届いているだけです」

「捨てておきましょう」

「ですが、すぐにでも黒の家も動きましょう」

「それは無いわ」


 男が不思議そうな顔をする。

 彼はフローレンス家でもそこそこの地位にあり、『本』にまつわる事もある程度知っている。


「安心しなさい。

 すでに『本』は無意味な物となりました」


 『本』───フローレンス家の全てを支配してきた未来預言書。

 その指示に従えば富を得、外れた者は等しくむごたらしい死を与えられる。

 セリム・ラスフォーサの残した物だ。


「『本』に頼りきりだった老人は思考停止しています。

 よって今のうちに推し進めます。

 計画通りにお願いしますね」


 男はしばし瞑目し、それから「畏まりました」と一礼して去っていく。


「いいのーん?」


 そうして誰も居なくなったはずの部屋で声が響く。


「……チッ」


 応ずるは舌打ち。

 先ほどまで完全な令嬢だった少女は忌々しげに顔を歪める。


「何しに来やがった」

「リリーちんをからかいに~」


 声は部屋の隅から。

 いつの間にかそこには真っ赤な毛並みの猫が鎮座していた。

「……ハ。

 俺ももううんざりなんだよ」


 無作法にも頬杖を付いてリリー・フローレンスは言い放つ。


「本だ運命だに振り回されるのはよ」

「まぁ、タイミング的にはべりーぐっどなんだろーけどねぇ」


 ととっと走り軽い足取りで執務机の上に飛び乗った赤猫は二又に分かれた尻尾をくゆらせる。


「いいじゃねえか、誰も知らない未来。

 クソ下らねえ密偵ゴッコもしなくてもいい。

 のんびり気ままに生きれるんだぜ?」

「そう上手くいけばいいけど。

 世界は結構わがままにゃよ?」

「もう一度聞くぞクソ猫。

 何しに来やがった」


 猫は「にふ」と独特の笑みを零して「まぁ、お別れの挨拶かにゃ」と軽い調子で言う。

 訝しげな表情を作ったリリーを見上げて「にあー」とあくび一つ。


「あちしもね運命うんたらはうんざりなほーなの。

 猫にゃしね。

 すでに門は閉じられたのにあちしがここに居るのはセリム・ラスフォーサに対する対抗としてなんだけど。

 魔眼持ちちゃんが上手く組みなおしたみたいだから逃げられそうなんだよね」

「サリエル・ヨルフォードか」

「そ。

 おかげでリリーちんも幼女も殺す必要は無くなったし、まーついでに無責任な親にでも悪戯にいこーかなぁと思う次第ですよ。

 にふ」


 運命の外の存在はぺろりと前足を舐める。


「なぁ」

「にゃ?」

「この世界はどうなる?」


 リリーの問いに猫はすっと目を細める。


「どうにでもしたら良いんじゃない?」

「どうにでも、ねぇ」


 それだけの力は手に入れたつもりだ。

 『本』もリリー・フローレンスを道具としか見なかった連中もぶち壊す段取りも付いた。


「本をあれほど鬱陶しがってたのに、無くなると不安って感じ?」

「知ったような事を言いやがって」

「知ってるにゃよ。

 そんなもんにゃ」


 チと舌打ちして視線を窓の外に逃がす。


「人はね。

 束縛を厭いながら束縛に安堵するにゃ。

 だって本当の自由は怖いもん」


 再び視線を戻した時、そこに猫の姿は無かった。

 代わりに紙が一枚。

 それは座標を示すもの。

 リリー・フローレンスは握りつぶそうと手を伸ばし、しかし十数秒の沈黙を経てそれをしまいこんだのだった。


◇ ◇ ◇


「良い感じですね~」


 窓の外、道往く人のかげりを見せるアイリーンの町並みを眺めていたメイドはくるりと振り返り憮然とした顔付きで椅子に腰掛ける男を見る。


「ミスカ様。

 そろそろ事情の一つもお聞かせ願いたいものですが?」


 男───フェルミアース・ミルヴィアネス男爵は傍らの吟遊詩人をため息混じりに見上げる。

 その手にはリュートではなくナイフが一本。

 さしも武術にはいささかの自信がある彼も一流の暗殺者を相手にしかも座った状態では分が悪すぎる。


「木蘭様にいつもの暴走をしていただくお手伝いをしたまでですよぉ?」

「……あの方なら確かに、お一人でセムリナに向かわれるだろうが……。

 ミスカ様。

 貴女の目的はどこにあるのですか?」


 体面上の主人が侍女に敬語を使うさまは滑稽だが、事実をひっくり返せば彼女はフェルミアースの祖先に当たる。

 人の目の無いところでは礼節を重んじる彼にとって当然の振る舞いだ。


「フェルミアース君は知ってるでしょ?」

「……スティアロウ殿ですか」


 そのミスカが敬意らしき物を払う唯一の存在がスティアロウ・メリル・ファルスアレンだ。

 ただその敬意はどう見ても歪みを抱えている。


「漸くお嬢様が踏み出した一歩。

 無粋な横槍を入れさせるわけにはいきませんもの」


 心の底から楽しそうに、彼女は満面の笑みを浮かべる。


「……ミスカ様。

 私はずっと疑問に思っていたのです。

 どうしてそれだけの力を持つ貴女があの少女一人に固執するのですか?」

「端的に言えば魅力的だからですよ」


 さも当然と彼女は応じる。


「人間が外見容姿に魅力を感じるように、私達は精神に魅力を感じるのです」

「精神……魂の在り様ということですか?」

「はい。

 私は元々肉体を持たない概念存在です。

 『ただそうである』という定義に過ぎず、貴方たちのような意識に認識される事で鏡のように精神構造を得、魔術で肉体を形成しています」


 魔術師でもない彼には理解できない言葉。

 ミスカは「幽霊みたいな物だから精神のほーが魅力的に感じるって思ってくれればいいです」と笑う。


「お嬢様が嘆き、悲しみ、決意して突き進むというその全ての感情はお化粧みたいな物です。

 私はお嬢様がより魅力的になるために、努力をしているのです。

 そう、400年も昔から」


 料理の味を思い出すかのように、うっとりとした表情で語る。


「お嬢様が時喰らいの薔薇で眠りに付いた後、私は色々と準備をしながら人間を観察してきました。

 人間に近い肉体を作って子供を作ってみたりとか」


 その末裔である男は口を噤んで言葉を聞く。


「おかげで別の意味での愛情という物もわかるようになりました。

 フェルミアース君もアイシアちゃんもジュダーク君も大好きですよ?」

「であれば、せめてこの縄くらいは解いていただきたいのですが?」


 皮肉げな、ムダとわかっている言葉にミスカは「仕方ない子ですね」という笑みを見せる。


「それとこれとは話が別です。

 今フェルミアース君が出てしまえば色々と台無しですもの」


 今もアイリンの重鎮達が彼の姿を追い、探している事だろう。


「全部片付いたら事態の沈静化には協力しますから、もう少しだけ大人しくしてくれませんか?」

「……アイリンはどうなるのですか?」

「何も変わりませんよ。

 花木蘭という英雄が一人居なくなるだけです」

「ですがすでに経済が破綻した今、何も変わらない事もないでしょう……!」

「破綻なんて大げさな」


 ひらひらと手を振ってこの異常を気楽に笑い飛ばす。


「まー確かに破綻ですか。

 これまでの貨幣経済が崩壊するんですから。

 でも各国の経済は逆に強固になります。

 これまで戦争までやってる外国と同じ通貨を使っているという状況が異常だったんですよ」


 長い間それが当たり前だった彼にすぐに理解は及ばない。


「むしろ誰もやらなかった事に驚きです。

 ドイルなんて貨幣鋳造量を馬鹿みたいに増やすだけで世界中に大打撃与えられるんですよ?」


 貨幣鋳造量を上げれば金の価値が下がる。

 そうなればモノを持ってる方が当たり前のように強くなる。

 バールだって鉱物の精製量はダントツに高いのだ。

 ルーンやアイリンは当然の事ながら海洋貿易を一手に背負うセムリナの被害は計り知れない。


「そして問題を助長した商人も完全に貨幣経済が破綻しては商売ができません。

 全ての目的が達成されたならばすぐにでも経済の正常化に資財を投入するでしょう」

「知って居るのですか。

 買い付けを助長した者を」

「ちゃんとファム君が調べてますよ。

 まぁ、フローレンス家はセリム・ラスフォーサに纏わる家ですから昔から知っていますけど」


 何食わぬ顔で立つ密偵に改めてため息を漏らし、男爵は姿勢を正す。


「ミスカ様。

 アイリンはどうなるのですか?」

「どうなると思いますか?」


 朗らかに問い返されて、どうせやる事もないと思考を巡らせる。


「……混乱が収まれば正常化はするでしょう」

「当然ですね。

 いくら貨幣経済が混乱したとしてもまだこの世界は物の価値が高く貨幣に値段がついていません。

 流通品の殆どに賞味期限がある以上買い抑えた物の放出は必然として起こります。

 それで混乱は収束に向かうでしょう」

「だが、アイリンの受ける経済打撃は相当なものになるはずです」

「そうですね。

 でも問題無いと思いますよ?」


 そんなはずは無いと考えるが、ミスカが気休めを言うとは思えない。

 とすれば─────


「いや、違う。

 すでにアイリンは損失分の利益を得て居るのか」

「よくできました。

 アイリンの国庫には木蘭様の領地で発生した莫大な税金が眠っています。

 貨幣で追いつかない分は貴金属で納められているはずですから国としての補填は充分可能です」


 偉い偉いと眉尻を下げてメイドは指をぴんと立てる。


「唯一にして取り戻す事のできない損失はたった一つ。

 花木蘭という英雄ただ一人です」


 さらりと続けた言葉にフェルミアースは押し黙り、そして深々と息を吐く。


「スティアロウ殿の力は聞いています。

 ですがあの木蘭様に勝てるものなのですか?」


 ありとあらゆる苦境を跳ね返し勝利を導いてきた故の常勝将軍の名。

 それは伝説にふさわしい神通力を兼ね備えている。


「単純戦力比較をすればお嬢様が圧倒します」


 ミスカは断言する。


「お嬢様は必ず木蘭様を遠距離から攻撃するでしょう。

 そうなればお嬢様に対抗できる人間はアーシア・ウルドくらいしかいないでしょうね。

 レーヴァティンと《竜眼》、《魔理反法》。

 《サウザンドサンダー》に加えて雷竜の知識を有し、魔王種の秘術まで手に入れています。

 今のお嬢様に勝とうとするならば遠距離攻撃を完全に防ぐほかありません」

「そんな事が可能なのですか……?」

「大精霊の中には世の理を歪める力があります。

 もっとも……一番恐れるべき火の大精霊はお嬢様にも付いていますが」


 バケモノ。

 その言葉だけが男の頭を埋め尽くす。


「正直今のお嬢様はザッガリアよりも恐れるべき力を持っています。

 かの魔王は元々の神性により行動の制限が成されていました。

 しかしお嬢様にはそれがありません。

 例え五カ国の兵力を集めたとしても、その九割は即死し、対抗できる戦力のうち判断能力に欠ける者から削られる事でしょうね」


 あっさりとたった一人で世界を相手にできると論じられては言葉も無い。

「それでも────」


 彼女は言葉を区切り天を見上げる。


「あなたはそれを認めないのでしょうね。

 役者に追加の配役を与え、お嬢様を否定するのでしょう」


 それは誰に向けての言葉か。

 だが悲嘆するような言葉に対してその表情はいつも以上の笑みで彩られている。


「だからお嬢様の魂は、より美しく磨き上げられるのですけど」


 その言葉を理解できぬまま、ミルヴィアネス男爵は解放の時を待つ。


◇ ◇ ◇


 ────そして、彼は問う。

 質問の解ではない言葉を放つ。


「サリエルさん」


 だから、彼女の目は驚きに見開かれた。

 既にそれが答えだが、彼は続ける。


「貴女はもうその目を満足に使えませんね?」


 困惑。

 そして焦り。

 ころころと変わる────

 仮面のような、そして役者のような表情が割れて、初めて生の表情がそこに浮かんだのを確かに見た。

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