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第四話

 ジュダーク・ミルヴィアネスの暴挙。

 公的には秘匿されているとは言え、耳の早い者にはとうに知れ渡っている。

 外国の諜報にも知れて居ると見て間違いあるまい。

 その日、一人の男がアイリーンの王城を訪れていた。

 彼の名はフェルミアース・ミルヴィアネス。

 西はドイルに面する4州と守りの大要塞アスカを任された男爵だ。

 そしてこの場は王にまみえるための部屋─────謁見の間である。

 普段であれば謁見に際し、何名かの武官、文官と侍女や近衛の兵が壁際に控えるものだが、今日ばかりはその姿は無い。

 事情を知る数名がこれから執り成される会話が何かと気を揉んでいる。

 この会談はマーツ王からの召集ではない。

 それを先んじてミルヴィアネス男爵から乗り込んできたのだ。

 すでにミルヴィアネスは王の到来を待っている。

 その表情は堂々としたもので今回の騒ぎに対する引け目を全く感じさせない。

 暫くして、王の入室を告げる声があり、儀礼に倣って頭を下げる。

 御坐に着いたマーツが「よい」と一声掛けるとミルヴィアネス以外の者が姿勢を但し、息を呑む。


「ミルヴィアネス男爵。

 話を聞こう」

「では僭越ながら」


 彼は一拍の間を空け、そして力強く言い放つ。


「陛下に賜りました四州をと爵位を返上に参りました」


 王以外の誰もが目を剥いた。


◇ ◇ ◇


 そこはギルドの本部としてはあまりにもみすぼらしかった。


「これがざっくりとした勢力図ですね」


 ジュダークは薄汚れた机の上にアイリーンの簡略地図を広げる。

 盗賊ギルドが討伐されてから僅かな間にアイリーンは群雄割拠の様相を見せていた。

 元よりその全貌をつかめぬ組織だ。

 彼らは自然と寄り集まり、新たなグループを形成していた。

 商家の護衛兼トラブル解決役として経済力を得たり、ここぞとばかりにギルドでは掟で禁じられていた行為に手を染め、富をつくり挙げて居る者も居る。

 だが、そのどれもこれもが「それなり」だ。

 国に目を付けられれば軍隊を送り込まれかねない。

 実例がある以上、欲をかくにはリスクが大きすぎる。

 百万都市アイリーンという果実を少しずつ毟り取ろうと虫が蠢いている。


「ティアロットさんのおかげで他都市、他国の盗賊ギルドとの連携の準備があります。

 ただ、それはこのギルドがアイリーンで確たる力を得なければ直ぐに意味を無くすでしょう」

「ああ。

 そして俺達はどうしても縄張り意識が強い。

 今更と目くじらを立てる奴も少なくない」


 シドニは自らの業に苦笑するようにして地図を眺める。

 百万都市アイリーン。

 一日で東西の門を行き来できないほどの土地にはまだら色の光景が広がっている。


「元盗賊ギルドの者達が集まりつつはあるが、あいつらだって馬鹿じゃない。

 現状でそれなりに勢力を持っているヤツは相応の椅子を求めてきている」

「それに『掟』に対する口出しですね。

 法と一緒で制定すれば得をする人と損をする人がどうしても生まれてしまいますから」


 闇の法律とも言うべき『掟』。

 その判決は死かそれに準じるような物であるのが通例だ。

 懲役などという甘い沙汰はない。


「とりあえず『掟』については前の盗賊ギルドを踏襲する。

 ばらばらになった連中も大抵はそれに準じているからな」

「椅子についてはどうしますか?

 当時の実力者の大半はアイリーンに居ませんよ」


 国を挙げての討伐騒ぎで裏の有力者は深い闇か街の外に逃げた。

 国に対して盗賊ギルドの設立を宣言した事は承知しているだろうから、これが罠ではないかと勘ぐる者も少なくない。


「その点は僕の名前が裏目に出ましたね」


 国を裏切り、他国を謀るミルヴィアネス。

 その実績は疑いを大きくするのに充分だった。


「……ともかく。

 俺とあんたが共通してまず推し進めたいのは北ブロックの秩序回復と、孤児の回収だ。

 利益が出る話じゃないからこの点については噛み付いてくるヤツは少ないだろう」

「そうですね。

 その利益については情報を活用するのが一番です。

 幸い僕には耳が多いですし、情報の統括、仕事の斡旋はそれなりにできますから」


 指輪の事は彼にも話していない。

 もしこれが漏れればジュダークは最悪アルルムに殺されるだろう。

 シドニという男が漏らさないとわかっていても自分が殺されるに至るまでに失われる命を考えれば安易に語って良いものではない。


「『蛇』や犯罪関係はどうしても刃が必要になる。

 このあたりは連合を組むような大きなチームのどれかが同調してくれると助かるんだが」

「……ではいっそ、業務委託しましょう」

「……は?」


 聞きなれない単語にシドニが怪訝そうな表情を浮かべる。


「うちの強みは『権威』があるように見える事です。

 なのでその『権威』を貸し出しましょう。

 例えば1つのチームにまるまる『狐』の統括を任せてしまう。

 それをうちは公認するんです」

「……王政のやりかたか」


 シドニは地図を見て唸る。

 王政とは実に奇妙な仕組みだ。

 王というトップが居るが、それは神でもなんでもない。

 配下には王よりも優れた人物がいくらでも居るが、それでも王を絶対として忠誠を近い、国を分割統治している。

 広範囲を統治するにはそれが効率の良い方法だからだ。

 後にそれが民主政治になるとしても、それは王と貴族の選び方が代わるに過ぎない。


「盗賊ギルドは他のどのチームよりも大きくなれる組織です。

 それを理解するのであれば進んで傘下に入る人間は必ず居ます」

「……毒をくわえ込むようなものだな」


 シドニは苦笑する。

 進んで傘下に入る理由は野心があるからだ。

 いずれ自らが王を喰らうために、機会を待ちやすいのはどのポジションか。

 言わずと知れよう。


「そうですね。

 個人でなく東西南北の各ブロックでそれぞれの役職を担うチームを求めましょう。

 その者には『掟』を決める場へ出てもらいます」

「俺達は北か?」

「いえ、あえて中央を名乗ります。

 『掟』はその五人による合議で決定します」

「脅しや殺しがありえるぞ」

「だから、力の弱いチームが立候補しにくい」


 なんでもありだからこそ、あるべき姿が構成されていく。


「僕たちが最も留意すべきは『殺されない』事です」


 ジュダークは地図に手を置き苦笑する。


「僕たちが生きている限り、一度発生した流れは自然にあるべき形になります。

 僕達はそれが揺ぎ無いものになるまで見守れれば良い。

 それで目的は達成できます。

 そうなれば北ブロックの再開発や孤児の保護と教育に専念できますよ」

「……だが、ジュダーク君」


 声のトーンを一つ落とし、シドニは苦悩するような声を漏らす。


「それは暗殺者や娼婦を自主的に生み出すことでもある。

 君はその事実を受け入れられるのかね?」


 真摯な眼差しに青年は緩まぬ決意を込めて静かに頷く。


「その境遇は決して恵まれているとは言えないでしょう。

 僕たちを恨み、憎む人も数多く出てくると思います。

 それでもそこに救いがあるのなら、僕は悔いたりはしません」

「君は……」


 シドニは自分の半分ほどの青年を見て言葉に詰まらせる。

 長年闇を見てきた彼にはこれほどまっすぐな意志を危なく思う。

 闇に容赦は無い。

 彼は『殺されない事』を留意すべきだと言った。

 だが、それは間違いだ。

 むしろ本人を狙うのは最後の手段に過ぎない。

 周囲を穢し、心を穢して折る。

 それが闇の流儀だ。

 どんなに武に優れようとも人の手は二本しかなく、人の足は馬を超えない。

 そして心は何かを拠り所にするものだ。

 それを握られればあっさりと折れてしまう。

 彼は己の犠牲に対してあまりにも覚悟を決めすぎている。

 だが反比例するかのように他者の犠牲を忌避している。

 優しすぎ、儚すぎる。

 そこに不安を抱かざるを得ない。


「シドニ」


 若い声が飛び込んでくる。

 ここの子供で一番年齢が上の少年、ルルイだ。


「どうした」

「客が二人だ。

 一人は西のヴェルナ」


 西のヴェルナとは西ブロックに根を張るそれなりに大きな集団だ。

 イルミカ商会を後ろ盾にしており、暴力に優れている。

 ヴェルナは前ギルドの幹部候補だった。

 技術でなく純粋な暴力を得意としているが、決して脳筋というわけではない。

 カリスマを持った番長のような男だ。


「取り巻きのヤクワが入れ知恵をしたんだろう。

 抜け目の無いやつだからな」


 知恵者気取りの小男を思い出したのか、シドニが少し嫌そうな顔をする。


「で、もう一人は?」

「ヨルフォードって人の使いらしいんだけど」

「ヨルフォード伯の?」


 ジュダークが驚いた声を漏らす。


「伯?」 


 伯爵を意味する敬称にシドニが訝しげに解説を求める。


「……ええ。

 先日お会いする機会があった方ですが……」


 流石に見合いとは言い辛く、ジュダークは眉根を寄せる。


「ここに来るとは、どういう事だ?」


 ジュダークがここに居るのは一応秘密だ。

 そして伯爵の使いであるならば、赤の本部経由で呼び出しを受けるのが道理だろう。


「知らないよ。

 会いたくないなら追い返すけど……」

「……ジュダーク君。

 君はそちらの対応をお願いする。

 俺はヴェルナの相手をしよう」


 その提案に数秒思考の沈黙を持ったジュダークであったが、やがてゆっくりと同意を示す。

 ほんの数日前の光景がフラッシュバックする。

 彼女────サリエルが自分に問うた言葉は、あの議場でシェルロットが問うた言葉にあまりにも似通っていた。

 そして、急な出立にも関わらず、彼女は自分が出て行くタイミングを知っていたかのように、見送りに着ていた。

 ありえないとは言わないが、どうも出来すぎている気がしてならない。

 そんな不安がじっと心の中を燻っていた彼にとって、ただ追い返すという選択肢はどこか危険にも思えた。


「わかりました。

 そうしましょう」

「ルルイ、面会室に通しておけ」

「わかった」


 部屋を出て行く少年を見送り、ジュダークは己の胸に重くのしかかる様々な懸念と戦う。


◇ ◇ ◇


「……」


 視線は刃のように鋭く、そして害意を覗かせていた。

 綺麗に整えられた面会室には四人の人間が居た。

 テーブルを挟んで窓側には白の軍服を纏う2人が。

 廊下側には導師服の老人と魔術礼服に着られているような少女が居る。


「ライサ君、だったかね。

 君の活躍は一通り耳にしている」


 軍服のうち、中佐を示す襟章を付けた男がゆっくりと言葉を紡ぐ。


「魔術師としての才は平均を下回るが、運用方法には目を見張るものがある」


 褒められているのか貶されているのか。

 判断に苦しむコメントに少女は生み出す言葉も思いつかずだんまりを決め込む。


「だが、軍隊には不要な能力だ」


 隣に座る大佐の襟章を付けた男は腕を組み、目を閉じたままぴくりとも動かない。

 導師も同じで、空気のように静かだ。


「私の言う意味は理解できるかね?」

「……はい」


 赤───しかもジュダーク隊は軍という括りでは特殊な環境だ。

 本来の軍人に判断能力は不要だ。

 必要なのは的確に指示を受け、一糸乱れぬ動きで応じる事である。

 指揮官が討たれれば壊滅の憂き目を見るというリスクはあるものの、数の暴力を最大限に活用できる方法に違いない。

 一人一人の判断能力に依存し、部隊運用をするなど言語道断の行いである。


「その点から見れば、君は白よりも赤の適正が高いと見ている」

「……」


 戸惑いから視線を導師に向けるが、彼は我関せずとばかりに沈黙を守っている。

 視線の行く場にも困り、魔術師の少女ライサは表情を維持することに専念しつつ思考をめぐらせる。

 彼女がここに居る理由は言わば面接だ。

 魔術師ギルドの特別生徒である彼女にはその教育費用を支払うため、数年間の兵役義務が存在する。

 ウィザード級の才能があれば話も違うが、中佐が語ったとおり、彼女の魔術的な才能は中の下といった所だ。

 精霊術や神聖術の使い手であればそれだけでも大きな価値があるが、コモンマジックに関しては才能が全てである。

 じゃあ、何で私は呼び出されたんだろう?

 赤の軍に軍属として参加していたライサをこの場に招いたのは軍の方である。

 イレギュラーとも言える軍属任務であった彼女に、これを正規のものとして扱うために白の軍に転属し兵役を全うせよと言ってきたのが最初だ。


「従って、継続して赤で任務についてもらう方向で検討する事にした。

 良いかね?」


 ライサ自身としては願ったり適ったりであるが─────

 正直自分に白への転属命令が来た最たる理由はジュダークへの嫌がらせと考えていた。

 自分が白に請われる才能を持たない事は充分に理解している。

 それはリオス中佐の発言で確信に変わっていた。

 だからこそ、自ら動いたのだ。

 リオス中佐の案を受ければ自分は魔術師ギルドから脱退する運びになるが、その前から来ていた白へ転属する話を受ければ、それは正式な魔術師ギルドからの派遣となり、ギルドを脱退する必要がなくなる。

 ジュダークに心配を掛けない唯一の手段だった。

 そう覚悟して来たのだが、この数日で何かあったのだろうかといぶかしむ。

 もう一度導師を見やると、今度は静かに頷きを返された。


「はい」

「では、詳しい内容は魔術師ギルドへ連絡する。

 他に質問はあるかね?」


 聞きたい衝動はあるが、薮蛇に違いない。


「いえ、ありません」

「では、今日はこれにて」


 中佐が立ち上がると、大佐の方もゆっくりと立ち上がった。

 応じるように導師が立ち、一礼してから扉へ行くのをライサは追う。

 扉を潜り、軍の兵舎を歩く事数秒。


「導師」

「私は知らないよ」


 即答だった。


「ただ、王城が騒がしいという噂は聞いている。

 何かあったというに間違いは無いだろうね」

「……」


 魔術師ギルドは基本的に国家運営には不干渉だ。

 賢人として意見を求められた時に応じる事はあっても、世界に跨る組織としては中立を貫く必要がある。


「導師、立ち寄りたい所があるのですが……」

「いいよ。

 用事は全て済んだのだしね」

「申し訳ありません」


 兵舎を出て直ぐにライサは導師に頭を下げて別の道を行く。

 無論向かう先はジュダーク隊の隊舎だ。

 自分が話を聞けそうな場所はそこくらいしかない。

 それにジュダークはアイリーンに戻ってきてもおかしくない頃だ。

 人ごみの激しい大通りを避けて路地裏を迷い無く進む。

 魔法の上達はしないくせに、付近の路地や何処に誰が住んでいるか等は随分と覚えた。


『う゛にゃぁああああ!』


 近くで猫が叫んだ。


「え?」


 警戒か威嚇か。

 そんな響きに思わず立ち止まった瞬間、目の前に黒ずくめの男が居た。


「っ!?」


 運動神経は人並み以下のライサでは知覚する事もできず首筋を打たれて崩れ落ちる。

 その様子を猫だけがじっと見詰めていた。


◇ ◇ ◇


「これはこれはシドニさん。

 随分と派手なことをしてらっしゃいますねぇ」


 大仰に頭は下げ、しかし嘲っているような口調。

 身長が160cmちょっとの小男は小奇麗な衣服を纏い、部屋に入ってきたシドニを迎えた。


「久しぶりだ、ヤクワ。

 ……ヴェルナは?」

「ヴェルナさんは忙しい人ですし、交渉ごとは私の仕事ですから」


 返せば頭領であるヴェルナが来るまでもないという意味だ。


「で、話があると?」

「ええ。

 率直に言いましょう。

 西地区はヴェルナさんが治めます。

 今日はその通告に参りました」


 流石に眉根を寄せざるを得ない。

 随分と大きく出たものだ。


「それは、我々に反目するということかな?」

「いえ?

 同盟を結びに来たのですよ」


 己の発言が当然のようにヤクワは肩を竦める。


「存じておりますよ。

 そちらは力が欲しい。

 こっちは名前が欲しい。

 ギブアンドテイクです」

「一応聞くが……『掟』はどうする」

「西は西の流儀がある。

 でいいじゃないですか」


 シドニは先ほどジュダークが広げた地図を思い出す。

 西ブロックで大きな勢力は3つあった。

 その中でも一番大きいのがヴェルナの率いるチームだ。


「どうせそちらも同じ事を考えていたのでしょ?」

「……考えてはいたが、全てを任せるつもりは全く無い」

「はぁ?」


 鼻に掛けた、馬鹿にした疑問符がぽんと出た。


「ナメてんじゃねえぞコラァ!!

 ポンと出て(いき)り立つってんじゃねえ!!!」


 頭脳担当とは言え、武闘派に属するだけはある。

 大した肺活量だ。

 だが、彼の勘違いは甚だしいと言わざるを得ない。


「……オィ、ヤクワ」


 静かに響く。

 決して大きな音ではない。

 むしろちょっとした騒音にかき消されそうなほどの声音だ。


「誰にでかい口利いてやがる……?」

「なっ」


 一瞬で攻守は逆転した。

 背筋をぞくりと走る怖気にヤクワの口は完全に硬直する。

 格の差は歴然だ。


「穏便に行きたいと思っているがよ。

 あんまりナメてっと、こっちも笑ってられねえんだぜ」


 『烏』───盗賊の技能を生かす冒険者を統括していた元幹部の視線は剣呑という言葉が柔らかく感じるほどに冷たく、鋭い。

 部屋の空気が軽く5度は下がったような感覚。

 湧き上がった殺気は『殺される』と確信するには充分過ぎた。


「ひっ……」


 情けなくぺたんと椅子に座り込み、顔を真っ青にしたヤクワはその目に呪縛されたかのようだ。


「テメェがヴェルナに適当言って、乗り込んできたのはこっちと承知だがよ。

 その大言、命賭けて吐いてんだろうな……?」


 武闘派だと言っても所詮人間相手だ。

 魔獣や魔法生物を相手に戦いを繰り広げて来た彼にとってたかだか人間の威嚇に怯える理由は無い。


「ヤクワ、身の程を弁えろ。

 テメェをここで引っ捌いてもヴェルナに文句は言わせねえ」

「なっ」


 完全に小男の喉は引きつっていた。

 だらだらと脂汗を流し、粗末なソファーに阻まれて逃げられない小動物にも見える。


「ヴェルナに伝えろ。

 テメェには西の『虎』を任せる。

 その後に成り上がりてぇなら好きにしろとな」


 『虎』とは暴力で揉め事を解決する連中の事だ。

 ヴェルナの盗賊ギルドにおけるもともとのポジションもそこだった。


「あと、おまけだ。

 西を全部欲しいならもっとマシな子分つけときなと、伝えておけ。

 てめぇの補佐じゃ安心して任せられやしねぇ」

「なっ」


 反駁(はんばく)しようとして、その意志はあっさりと折られる。


「テメェが来なければもっと良い条件で終わったんだろうがよ。

 そこはテメェなんかをアテにしたヴェルナの落ち度だ。

 わかったらとっとと帰りやがれっ!!!」

「───っ!!」


 よろけるようにして小男が部屋から出て行く。

 それを見送る事無く、扉が閉じられる音を聞いてシドニは全身の緊張を解いた。

 途端に胃の奥からこみ上げてきた物を堪えようとするが、無理が利かない。

 げふりと口からもれ出たのは黒々とした血の塊だった。

 それを暫し眺め、それから思い出したかのように拭う。

 そうして天井を見上げ、思う。

 この命は果たして三年も持つのだろうかと。

 自分の人生最後の仕事は全ての罪を背負って死ぬ事だ。

 そうする事で得られる物があると信じて生き抜くことだ。


「……はっ……辛いねぇ」


 鉄さびの匂いが口内に充満し、臓腑が痛みを発するのをじっと堪える。

 だが、その表情は病にただ臥せっていた十数ヶ月を省みて、間違いなく生命に満ち溢れている。


「出だしは順調だ。

 こんなチンケな命でもアイリーンの一つくらい変えて見せるか」


 闇の盟主たる男は瞳に強い意志を湛え、次の仕事のために席を立った。


◇ ◇ ◇


「四州を返還すると言うか」

「は」


 王の言葉に短く応じる。


「……」


 理由は言わずと知れる。

 だが、


「先の戦、私の独断による策のため、四州の政治を乱してしまいました。

 これを改めて平定しましたので、策であれ裏切りの罰としてこの四州を返上したく参りました」


 予想とは違うことを彼はさも当然としかし神妙に口にした。


「その件は許したはずだが」

「私の気が治まりません」


 表向きはそうしたいという意図は汲める。

 だが、その後にはドイルの突然の侵攻を食い止めたという勲功がある。

 それで領地を取り上げるのは他の貴族に多少なりと影響があるだろう。


「これは必要な事なのです。

 全ての罪はミルヴィアネスにあればいい。

 そうしなければ、花木蘭を妄信する者が暴虐の刃を掲げかねません」

「だが、四州の民はどうする」

「陛下ならば、良き統治者を任じてくださると思えばこそ。

 それに、もう一つ私は陛下に隠しだてしていた事があります」


 それは?と場の全ての視線が集まる。


「私の妻、アリシア・ミルヴィアネスは小領を有するとある子爵の末娘としていましたが、これは嘘です」


 流れが理解できず、先を促すような雰囲気に応じて


「結果的にはそうとなりましたが、アレは元々盗賊の娘でして」


 厳格を保っていた男の顔がやや苦笑に歪む。


「今もあのあたりの頭目を務めています」


 これは誰もが呆然とした。

 マーツもしばし言葉を失い、しかしなんとか気を取り直して問いを作る。


「……この場の戯言でなく、か?」

「はい。

 それが私が短期間で四州を纏め上げ、なおかつ虚実の反乱を仕掛けられたカラクリです」


 アイリンと言う国は、民が誇りとできる国に相違ない。

 それがいきなり別の国になるとあっては誰もが困惑し、政情が不安になるのは自然な流れだ。

 従って、突如アイリンから離反し新たな国を建てるという暴挙は、各地を任されている代官が汚名を嫌ってミルヴィアネスに反目するくらいあって当然だった。

 その全てを纏め上げたのはミルヴィアネスの人徳でもなければ統治能力でもない。

 アリシアが噂の流布と情報の統制を計った結果である。

 この離反が虚偽であることは国事を司る者ならば直ぐにわかる事だ。

 ドイルの侵攻を様々な言い訳で遮った事で確信も持てる。

 だが、テレビもラジオもないこの世界でその複雑な情報が人々に行き渡るのは随分と時間を必要とする。

 一方で悪い噂の伝達速度は疾風のように早い。

 仮にも同盟がファルスアレンを攻撃すれば、その情報は同盟国の兵士にあっという間に広がっていただろう。

 元より薄氷の信頼関係だ。

 味方に攻撃されるかもしれないという不安は大きく士気を損なう。

 同盟を結んだ諸国が、アイリンに対する圧力になれば十分とと思っているバールにとってはファルスアレンは放置した方がマシな存在となったのだ。

 一方でミルヴィアネスはこれが虚偽の離反である事、アイリンを救うための策であることを流布した。

 地方を管理する代官は元より、噂として平民の口に上るように情報網を駆使したのだ。

 そのため成り上がりのミルヴィアネス自体に反感を持つ代官や貴族は少なからず居たが、『反逆者を討つ』という大義は掲げられなくなってしまい、なし崩しに一つにまとまることになったのである。

 結果、ファルスアレンという巨石はドイルを遮る事に成功し、アイリン軍も西への後詰を他に回す余裕を得たのだ。


「娘が嫁いだとあっては妻を継ぐ者は居ないと安堵していたのですが、まさか息子が妻と道を同じくするとは想像だにしておりませんでした」


 彼が娘───アイシアをドイルの神殿に預けたのはどちらかというと盗賊の技を仕込みたがる妻を諦めさせるためだ。

 余談だがアイシアの動きに盗賊特有の足捌きが見られる事が彼の悩みの種であった。


「無理と子爵の養女になったものの、後付とあっては詐称も良いところでしょう。

 この罪は許されるものではないと思っています」


 言葉を交す者は居ないが、誰もが視線を交し、困惑を覗わせている。


「陛下、ミルヴィアネス男爵には処罰が必要と思われます」


 王の視線に対し、まず文官の長───宰相を務める男が口を開く。


「男爵の策が見事外圧の一つを制したのは事実ですが、無断で国を割るという行為は本来、一族郎党処刑せざるを得ない事。

 後の世にこれを前例として悪用する者も現れるやもしれません」

「悪しき前例か」

「はい。

 それに貴族を詐称することも同じく死罪です。

 この二つを無条件に許しては法が成りません」

「しかしながら陛下。

 ミルヴィアネス男爵の功績もまた事実。

 続くドイルの侵攻に対し、的確な対処でこれを討つ事に成功しております。

 また、戦後処理でもドイルから色好い条件を引き出し、戦後の食料供給に大きく貢献している。

 これを鑑みずに処罰を下せば人々の感情はアイリンを悪しき前例となるでしょう」


 武官の長として参列したカイトスが対の意見を述べた。

 共に正しく、無視するわけには行かない。


「反逆の罪が、対アイリン同盟時の功績、並びに続くドイル侵攻の防衛で帳消しにしても、偽称の罪は問わねばなりますまい。

 明文化するとして、反逆の罪で領地没収。

 続く功績にて領地を再度与える。

 といったところか」


 宰相の言葉はその次を濁している。

 では、偽称の罪を如何に問うか。

 実際聞かなかったことにすれば良いだけの話でもある。

 真実はどうであれ事実上アリシア・ミルヴィアネスは貴族の娘となっているのだから。

 だが、この罪を問う本質はジュダーク・ミルヴィアネスを如何に扱うかである。

 宰相の問いは同じだ。

 事実上存在しない組織。

 それに属するとなった彼を罪に問うか否か。

 そしてこれはフェルミアース・ミルヴィアネスからの問いでもある。

 犯罪者と認め、罪と問うか。

 その側面を黙認し、平時を装うか。

 そのどちらとしてもそれは『王の判断』という意味を持つ。

 この沙汰に不満を持つという事は王の判断を否定する事となる。

 どちらにせよ、それは一つの終結となるのである。


「……ミルヴィアネス」

「は」

「沙汰は追って下す」


 それ故に決断の意義は重い。

 思わず泰然としたミルヴィアネスに恨み言の一つも吐きたくなろう物だが────

 これは、この国の病だ。

 木蘭の操り人形という暗愚の王であれば悩みなどしない。

 聡明な王であるからこそこの決断は重いと、そして先延ばしにできぬ問題だと悟っていた。

 そしてこの男は自らの命を賭して、この国の未来のための問いを課してきている。

 罪と断じて処罰したとしても、王としてはその忠心に感謝せねばなるまい。

 良き王だからこその苦しみ。

 そして良き王だからこその喜びがある。

 故に即断は出来ない。


「話は終わりか」

「は」


 マーツは立ち上がり部屋を後にする。

 横目で頭を垂れるミルヴィアネスを見て、改めてこの国が、この世界が一つの岐路にあることを強く悟った。


◇ ◇ ◇


「どうぞ」


 柔らかい物腰で差し出されたのは良い香りを漂わせる紅茶だ。

 美しい白磁のカップは見る者が見れば扱うだけでも手が震える一品で、注がれた紅茶も店に並ぶような物ではない。

 なによりも、給仕の真似事をしている男を見て目を丸くするに違いない。


「悪いの」

「いや、自分でも良く淹れるからね」


 自分の分を置き、少女の対面に腰掛ける。

 アシュル────バールの皇帝候補であり、今は皇帝の右腕として辣腕を振るう男は、漂う紅茶の香りに頬を緩ませる。


「たまに違う作業をやるのは息抜きに丁度良い。

 多分どこの執政官も似たような事をしてるんじゃないかな」

「かもしれぬな。

 そしてどこの副官も憤るわけじゃ」


 少女───ティアロットの返しに笑みを濃くする。


「それで?

 本を返しに来ただけではないんだろ?」

「うむ。

 先日話した一件でちと頼みがあっての」


 先を促す。

 ティアロットは紅茶をひと含みしてから言葉を継ぐ。


「黒糸を貸して欲しい」

「……また随分と奇妙なお願いだね」


 予想の外だったのか、青年宰相はその意図を探るように目を細める。


「思うよりもジュダーク────ミルヴィアネスの息子が危うくての。

 あのままであれば周囲が壊される」

「護衛ということかな」

「うむ。

 種の明かされた手品師なれば借りられるかと思うてな」

「だそうだけど?」

「……」


 三人目が壁際に現れる。

 その眉根には深いしわが刻まれ、こめかみが震えている。


「どうせバールに入った時からおると知っておったが、飼い主に許可を得た方がよいじゃろうと思うてな」

「一応飼い主はネヴィーラになるんだけどね」

「人を犬か何かみたいに言うな!」


 我慢の限界を超えたか、黒糸───『黒糸使い』の名で呼ばれる男が吼えた。


「そもそも小娘っ!

 少し口が悪過ぎないかっ」

「少しくらい挑発せんと、隠れて見とるつもりじゃったろ?」


 く、と呻いて視線を逸らす。


「……だが、アシュル様が許可したとて、俺がアイリンで活動するのはいくらなんでも拙いだろうに」

「放逐されたことにでもすれば良いでないか。

 いちいちわしの監視兼護衛に回されておるんじゃ。

 暇じゃろ?」

「暇じゃねえっ!

 むしろ迷惑なんだ。

 来るな!」


 強がりではない。

 実戦部隊からは身を引いているものの、上役としての職務はあるのだ。


「アシュルの蔵書は興味深いのがまだまだあるからそこは断るとして」


 にべも無い言葉に男の奥歯がぎりぎりと悲鳴を挙げた。


「真面目な話。

 他に適任がおらんでな」

「ミルヴィアネスには『雑音』とか言う暗殺者が居たはずだが?」

「そっちは妹の方を護衛しておるよ。

 小さい子がおるからの」


 ノイズ ───ファムという名の吟遊詩人はミルヴィアネスの密命を受けてアイシアの邸宅の警護に当たっている。

 今でこそあまり聞かない名だが、数年前まではとある結社の一員としてかなりの数の殺しをこなして来たと黒糸使いは知っている。


「わしの手駒という方向で情報を流布する準備は整えておる。

 ぬし位の名があれば有象無象も手を出しあぐねるじゃろうしな」

「……正直、アイリーンの盗賊ギルド成立は大失敗に終わって欲しいんだけどね」


 アシュルの言葉にティアロットは苦笑をもらす。

 アイリンが情報的な孤立をすれば、周辺諸外国の利益は計り知れない。

 都合の悪い事を知られてしまえばアイリンに反目する盗賊ギルドを偽装して潰すという強引な手段も取れる。

 表向きは和平を結んでいても国と国は永遠に味方にはならない。

 むしろ和平を結んだからこそ情報の価値は計り知れないものになるのだ。


「そうだね……じゃあ。

 こうしようか。

 ルーン王女との交渉のテーブルを設けてくれないかな?」

「エカチェリーナと?」


 バールとアイリンの確執と同様、ルーンとの確執も根が深い。

 現在大河を国境としているが、本来は大河を渡ったいくらかの領土はルーンの土地だった。

 そのためルーンには長くその地を奪還する事を願う者が耐えない。


「このままうちの魔術師ギルドが孤立するのはうまくないし、平和路線を行く以上、確執にも目途を付けたい」

「……ふむ。

 しかし領地を返還するわけではなかろ?」


 大河を背にするが故にその土地はバールでも重要な穀倉地帯だ。

 おいそれ返却することはありえない。


「ずるいやり方だけどね。

 交渉のテーブルさえあれば進展がなくても融和を図っている雰囲気にはなるだろ?」


 交渉には様々な話が入り混じる。

 主題は土地の返還を押し出してくるとしても、それをはぐらかして別の話題を引っ張り出す事で様々な特典を得る事が可能だ。

 没交渉だった国家間の取引がいくつか決まるだけでも得られる益は計り知れない。


「まぁ、今は無理でもやがてルーンにはアイリンから親離れして欲しいということもある」

「……なんともまぁ」


 中央大陸では一番の小国とは言え、五大王国に数えられるだけのルーンが事実上アイリンの属国のように振舞う様は他国にとって面白くない話だ。

 現国王エカチェリーナが木蘭を慕い、親アイリンを色濃く表明する以上、この関係が直ぐに霧散することはないだろう。

 もし時代が進みアイリンに統一の野心が生まれたときに関係が変わらないままであれば、他の国にとっては脅威である。

 また、国際会議の場においても常にアイリンが2票を有する現状を変えたいと思うのは当然だ。


「正式に通達してもルーンはテーブルには着くだろう。

 けど君の呼びかけで着くのとでは心証が違うからね」

「……エカチェリーナはそんなに甘い女でないよ?」


 苦笑する。

 それでもティアロットが間に立てばその意味をどう捕らえるか。


「なに、ルーンに強くなってもらうための交渉さ。

 最後には飲むよ」

「飲ませて越え太らせた結果、踏み潰されぬようにの」


 皮肉には笑みを返すのみ。

 ともあれこの場の取引は成立した。

 宰相たるアシュルはともかく、こんなちんちくりんが語る話じゃねえなと黒糸使いは深いため息をつくばかりだ。


◇ ◇ ◇


 もう一つの面会室。

 こちらも同様に廃屋当然の場所で、気持ち程度に整えられた薄汚い部屋にテーブルとソファーがしつらえられていた。

 そこにはヨルフォードからの遣いを名乗る男が待っていた。


「お待たせしました」

「いえいえ。

 急にお伺いして申し訳ない」


 印象としてはどこか官吏のように思える。

 その佇まいや仕草は王城に赴いても通じるだろう。


「ヨルフォード・サリエル様の遣いで参りました」

「……サリエルさんの?」


 てっきりヨルフォード伯の遣いと思っていたジュダークは嫌な予感を感じつつもソファーに腰を落とす。


「はい。

 内容はサリエル様からの婚姻の申し込みです」

「……」


 呆気にとられるのは無理からぬ事だ。

 彼が赤やミルヴィアネス家に出向いてそれを述べたのならまだ納得は行く。

 だが、ここに来た以上、少なくともこの男は今のジュダークがどういう状況か察しているはずである。

 なのにその言葉を告げるとは。


「サリエルさんは……」

「存じております。

 サリエル様からはジュダーク殿がこちらにいらっしゃる事まで私に指示されましたので」


 嫌な感じがする。

 背筋に冷たいものが流れた。

 ヨルフォードの治める地からここまで早馬を飛ばしても2日か3日は優に掛かる。

 つまりは今の状況が伝わり、この使者が現れるまで6日程度は必要になる計算だ。

 だが、あの会議からまだ3日と経過していない。


「驚かれるのも無理は無いと思います。

 サリエル様は予言の力をお持ちですので」

「予言……ですか?」


 古今東西の伝承口伝にその異能の話は多い。

 その大半は科学的見地から推測した結果を伝えただけと見做されているが、中にはどうしても知りえない事を知った例も有る。

 もちろん神託という現象もあるが、神はあまり未来を語らないというのは有名な話だ。

 神の言霊は未来を固めてしまうからと述べる神学者も居る。


「サリエル様の予言でヨルフォード伯爵領は健やかなる地となりました。

 戦争や飢饉を察知し、資材や資金をを運用し、食料を効率よく売り買いすることで莫大な利益を生み出しています」


 戦争については機運を察すれば予測は不可能ではない。

 だが、何よりもそれに聡い商人がまず値を操作するためなかなか大きな利益は得られないものだ。


「昨年花木蘭男爵の領地にて前代未聞の利益を上げたがために貨幣価値の暴落が起きる事を予言し、贅沢品や嗜好品を多く流す事でこちらは利益を得、インフレの発生を辛くも食い止められました」


 昨年、花木蘭領での税収は金貨8億枚(単純換算8兆円程度)と言われる。

 マーツの統治となって二度も減税した上でその金額が税として納められたのである。

 物価の高いアイリーンでも一般家庭の年収が金100枚(百万円程度)を基準にすれば、領民が一年で得てしまった金は世界を壊す爆弾であった。

 主要な輸送手段が荷馬車であり、インターネットどころか電話も安定した郵便も無い時代だ。

 情報と物流の足は重い。

 売れない物を持ち込むというのは商人の死を意味する。

 従って品物の流入量は誤差はあれども毎年そう変わる物ではない。

 だが思わぬ大金を得てしまった領民には購買意欲が発生する。

 銀行という概念もなく、貯蓄はもしもの飢えに対策するものだ。

 人々はこぞって買い物を行う。

 しかし品物の量は変わらない。

 そうするとインフレーションという現象が起きる。

 品薄となった商品を求めて買い手が殺到すると、売り手は値を吊り上げる。

 そうするとまだ余裕のある商品まで値を上げても売れるのではないかと思うのが人情だ。

 また人々は一部の品薄を見て、全体的に物がなくなるのではないかという不信感を得る。

 それは「幸い金は有るのだから、今のうちに買わなければならない」という飢餓感に代わっていく。

 続いて始まるのは買い溜めだ。

 商品があるうちを逃してしまえば買えないかもしれない。

 そうするとさらに物の値段は跳ね上がり、最後には貨幣の存在価値そのものが意味を失ってくる。

 商人はここぞと周辺から物資を集めて送り込む。

 何十倍もの値段で売れるのだがら、強引にでも物を買い集める。

 周辺の領民は高い金額で物を売る事ができるが、代わりに自分達が消費するものを失ってしまう。

 情報媒体も移動手段も限られた世界ではイナゴの群れが新たな農地を求めるように広がっていくのである。

 もちろん輪が広がるごとにその混乱は小さなものになるのだが、その頃には中心部では新たな問題が発生する。

 物価が跳ね上がりすぎれば人は買い控えをする。

 すると商人達の目は物価の高騰が広がる周囲に向かうのが道理だ。

 当初の物不足とは趣の違う、しかし深刻な物不足が加速し、金はあるが金では買えないという状況が発生する。

 つまり貨幣が意味を無くすのだ。

 電車や航空機のある世界ではこうはならないだろう。

 人生で一度も旅する事無く死ぬ事も当たり前の世界だからこそ、木蘭領という箱庭は大崩壊を起こし、それは周囲に伝播していく。

 電話やラジオ、テレビがある世界ではこうはならないだろう。

 噂や目に見て減った軒先の品物が人々の不安を煽り、貨幣への信用を削り取って行くのである。

 更に恐ろしいのは中央大陸で統一貨幣を用いている事だ。

 最悪この現象は他国をも蹂躙していたかもしれない。

 今の貨幣は鋳潰され、各国それぞれは自国の経済観念を守るために独自の貨幣の発行に踏み切っていただろう。

 大げさと思うなかれ。

 現在日本の物価に換算すれば大体30兆円規模の税収、仮に税率が総収入の3~4割とすれば、100兆円規模の利益が突発的かつ局所的に沸いたのだ。

 日本の国家予算を軽く超えている。

 銀行制度も無く、商人の中で為替の初期的な物が成立し始めた世界でこの異常事態を乗り切れと言う方が無茶である。

 しかし、破滅は防がれた。

 幸いにもその物欲を満たす嗜好品や高級品が考えられないほど数多く木蘭領に流入していたのである。

 まっとうな商人からすればどぶに全財産を捨てに行くような行為だ。

 だが、今回に限ってはそれが正解だった。

 結果、生活品の値上がりはそこそこに押さえられ、周辺への影響もちょっとした物価の混乱程度で済んだが、それでもその波に乗り切れずに破滅を迎えた商家の2、3はあっただろう。


「花の商会も共に動いておりましたが、それについてもサリエル様の予言の通りです」


 その博打的な物流を当然だと男は語る。

 その顔に嘘や偽りの影は無い。

 どちらかといえば神の威光を語る神官のものだった。


「……では、ご存知のはずです。

 僕の今の立場を」


 予言の力を信じたわけではないが、彼が目の前に居る以上そう考えるのが妥当だ。


「はい。

 サリエル様はご存知でしょう。

 そしてヨルフォード伯はサリエル様のお言葉に従います」


 正直気味が悪い。

 国が最終的にどうと動くかわからないが、少なくとも犯罪者の側面を得た自分に伯爵家が娘を押し付ける意味がわからない。


「返答は三日後に伺いに参ります。

 あと、これはサリエル様からの伝言です」


 男は一つ咳払いをする。

 彼にとっては聖句に等しいのだろう。

 若干の緊張がうかがえた。


「貴方は己の痛みに強く他者の痛みに弱い。

 故に貴方は悲しむでしょう。

 信頼を寄せた者の死に」


 頭が真っ白になる。

 ぐるぐると胃の奥にわだかまる不快感が競り上がってきそうで思わず口元を押さえた。


「……どういう、意味ですか……?」


 『予言』は少なくとも伯爵や、この男を心酔させるだけの意味を持つとすれば、『死』の一文字が重くのしかかってくる。


「この身にわかるのは、それがサリエル様が貴方に与えた予言であるということだけです。

 そしてこの運命は今なら変えられると」

「……それは」


 脳裏にはめまぐるしく人の顔が浮かんでは消える。

 誰だという問いに答える声は無い。


「脅迫ですか……?」


 彼にしては珍しい怒りの籠る声。

 しかし使者は平然とゆっくり被りを振った。


「予言です。

 そしてサリエル様の慈悲です」


 この男にとってはそうなのだろう。

 しかし、そこまで明確な予言が出来ながら、人の名前を挙げないことそれが脅迫だ。


「他に、何を聞いていますか」

「ジュダーク様の返答の早い事を望みます、と」


 はじけるように前に出て襟首を掴み上げる。


「誰が、どうなると聞いていないのか!」


 ジュダークの人となりを知っていれば驚嘆するに違いない。

 そうでなくとも突然の行動に少しくらいは驚くものだ。

 しかし男は代わらぬ笑顔でその怒りを受け止めている。


「はい。

 私は聞かされていません」


 鬼気迫る顔で迫られれば誰しも恐怖におののく。

 仮にもジュダークは武人だ。

 その気迫は常人よりも強く、激しい。


「私が戴いたお言葉は以上です。

 あとは三日間貴方の返答を待ち、そして岐路に着くだけです」


 狂信者────この男は彼女の言葉を信じきっている。

 『岐路に着く』という言葉に『無事に岐路に着ける』と確信している。

 どんと突き飛ばし荒い息を整える。


「帰ってくれ」

「はい。

 では連絡先を置いておきます。

 それでは」


 あくまで使者は悠然と先ほどの事も幻想か何かだったかのように、自然な足取りで立ち去ってしまう。


「くっ」


 力の限り壁をぶん殴る。


『貴方は己の痛みに強く他者の痛みに弱い』


 その言葉が脳裏をぐるぐると巡る。

 そうだ、この世界はそういう世界だ。

 自分だけではない。

 親類友人がいつとばっちりを受けてもおかしくない。

 自分はそれをあまりにも簡単に考えていた。

 今更……今更に過ぎる。

 胃の奥にどす黒いものが蓄積し、吐き気に涙が溢れる。


「違う……」


 今やるべきことは悔恨ではない。

 これは交換条件だ。

 恐らく、彼女に応じれば救うと言っている。

 そして己の『予言』を得ろとも。


「……」


 三日。

 それが何を示すかわからない。

 その猶予が何を意味するのかがわからない。

 だが、今は動く他無い。

 ジュダークは飛び出すようにアジトを出ると猫の溜まり場へ向けて全力で駆け出した。

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