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第二話
「やぁ、ライサ君」
魔術師ギルドに設けられたサロンに初老の男が入ってくる。
知性をうかがわせる端正な顔立ちに時代を感じさせる杖。
風格漂う彼はアイリンで導師を務めるライサの師である。
「話は聞いている。
その事で来たんだろう?」
「はい」
男は向かいの席に腰を降ろし、孫ほどの娘を見ると少しだけ考えるように間を置く。
「君の意思一つだと思うがね」
「……」
前置きをすっ跳ばした一言にぐっと息を呑み、それからゆるゆると吐く。
「決めてきたんだろう?」
「……はい」
「なら、迷う事は無いだろう。
君にとって悪い話では無いはずだ」
それとも、と男は頬杖をついて少しだけ身を乗り出し
「そんなに気に入ったかね。
あの男が」
「──っ!」
ばんとテーブルを叩いて立ち上がり、周囲の無言の圧力に顔を真っ赤にしておずおずと座る。
「導師……っ!」
控えめの批難に、にやにやと笑う。
「結構な事じゃないか。
脈が有るなら玉の輿だしな」
「……無いですよ。
あの人はそういうのから全部逃げちゃうんです」
「ほー」
導師はすっと目を細め、それからニヤリと笑う。
「理論展開が不十分だな。
脈があるようにしか聞こえないが」
「……」
しつこいと睨む目線を真正面から受けて、導師は代わりに言葉を返す。
「逃げるのは相手を認識しなければ出来ない。
意識無しに逃げるなんてできないのだよ」
少しだけぽかんとして、それから直ぐに首をぶんぶんと振り、
「だ、だとしても」
「身分が違うとか、私は知らないね。
まぁ、少なくともお前はウィザードになれるような才はないのだから、それこそ軍人としてやるのは良いのかもしれない」
昔から酷い人だったが、今日は輪を掛けて酷い気がする。
「しかし、あの隊長さんの話を聞く限り。
自己の献身は大好きでも他人の犠牲は大嫌いのようだが……」
心の底までを見透かすような賢者の目がライサを捕らえる。
「そのあたりの覚悟はいいのか?」
「……全てを知れば怒るかも知れませんが。
私にとって犠牲だけではないと思いますから」
決めてきたのだと、彼女は頷く。
「元々私は魔術の才能がほんの僅かあっただけの平民です。
偶然とはいえ、二度も可能性を見出していただいた事を嬉しく思います」
「……なら、何も言わんよ。
先方には伝えておこう」
「よろしくお願いします」
頭を下げるライサから視線を逸らすかのように立ち上がった導師は、のんびりとした足取りで己の研究室へと立ち去った。
少女はその場で一人、何度も何度も自分の決断を検める。
◇ ◇ ◇
「ジュダーク様ですね?」
声を掛けられ振り返ると、すっと懐に飛び込むように一人の女性が近づいた。
「え?
あ、はい」
赤みがかった髪と瞳がぐっと寄せられて思わず一歩下がりそうになるのを、絡めた腕が許さない。
「初めまして。
私はサリエルと申します」
近い。
そう思いながらも名前を引きずり出す。
そうだ、ヨルフォード伯の娘……
「……奇妙な方ですね」
「え?」
「驚き、照れながらも冷静に私を見ていますね?」
腕を放し、一歩距離を置く。
赤のドレスは装飾は少ないものの、スマートな美しさを引き立てるのに十分に過ぎる。
胸元を飾るファイアオパールが、明かりを受けて波打つような輝きを見せていた。
綺麗でもあり、可愛いとも言える。
大人と子供の間にある刹那的な美しさ。
そうありながらも笑顔の中の視線はどこか剣呑であるとさえ思わせる。
瞳だけでない。
その立ち振る舞いを見て他の女性と大きく違う点がある。
……武人、だね。
逃げようとした自分の腕を捕まえるために、本来は不必要な踏み込み幅を瞬時に割り出した。
間合いを詰める行為は武術の基本だ。
僅かに距離を違えるだけでその威力は大きく変わる。
「不躾で申し訳ありません」
ジュダークは反射的に謝りを入れる。
一歩退いて距離を取り自分との境を作り
「取引をしませんか、ジュダーク様」
先制の言葉を相手に奪われる。
用意した言葉を打ち潰されたと同時に、彼の思考は煌びやかな会場から隔離されていく。
彼女は何だ?
疑問の意味は無い。
けれども思わざるを得ない戸惑いを見越すような笑みを見せられる。
「今、貴方が作ろうとした砂のお城をあっさり踏み潰そうとしていますの。
でもジュダーク様が望まないのであれば、取りやめにする事もできますが」
「……直接的ですね。
伯爵の考えですか?」
まわりくどい会話は無し。
そう悟った彼は率直な問いを作る。
「笑顔が消えましたね。
ジュダーク様」
周囲の談笑はすでに彼らの周囲にない。
ジュダークにとって、今この場には彼女の声だけが大剣の切っ先としてある。
「お父様は私のお願いを聞いてくれただけです。
ファフテンの娘のような真似は野蛮ですから」
女性の進出が目覚しいこの時代にあっても、長年続いた文化風習、思考が一瞬で切り替わるわけではない。
シェルロットやシェルフィのように、軍や国政に出てくる女性を無作法の礼儀知らずと罵る声は少なくない。
一見容認しているように見えても、男に家督を継がせる事を重視する貴族が大半なのが実情だ。
「違いがあるとは思えませんが」
「あら、女でもチェスは嗜みますのよ?」
優雅な手つきで扇を出し、ぱらりと開いて口元を隠す。
「僕の配役は何ですか?」
昼行灯でいつも笑って何を考えているか分からない男。
その評価は決して間違っていない。
間違っていないが、それは彼の側面でしかない。
「さしずめ『騎士』ではどうかしら」
交わされる言葉に戸惑い、悩みながらもどこか違うところで答えと問いが作られていく。
「では『女王』はジェニファー様、『王様』は木蘭様ですか?」
「あら、陛下を蔑ろ?」
「配役の話ですから」
くすくすと笑みを零し、サリエルは続ける。
「でも、正しい判断です。
その場合『城壁』となり得るのはカイトス様でしょうね」
『僧正』になり得るのは誰か。
その答えに至る前に彼女はぱたりと扇を閉じる。
「ジュダーク様。
東方にはチェスに良く似た遊戯があるとか」
「……将棋ですか?」
「ええ、それです。
それはチェスよりも高度な遊戯だとか」
動きの決まった駒を用いて王を追い詰める。
その点に措いては同じだが、最大の違いは
「駒の再利用ですか」
チェスの盤面は全ての動きをあわせると天を覆う星の数を遥かに越えると言われる。
将棋は相手から奪った駒を打つことができるため、手は更に増え、複雑になっていると言われていた。
「ジュダーク様。
私に取られては戴けませんか?」
かちりと一手を指す音が幻聴として響く。
「……どういう意味ですか?」
「駒の交換、と言うのでしたね。
将棋に措いて、致命的な一手を用いて防がざるを得なくし、守りに来た駒を取る」
チェスは削り合いだが、将棋は奪い合いだ。
必要に応じて駒を犠牲に差出し、代わりにより有効な駒や配置を得ていく。
「ジュダーク様。
貴方を差し出してください。
そうすれば、貴方はこの先も理想を描けます」
「交換ではないのですか?」
「交換ですよ。
私の配置した駒は取られ、貴方はこちら側に来る」
彼女の配置した駒が提示されていない。
故に問う。
「……貴方の陣容を私は知りません」
「ですね。
しかし一つは明確と思いませんか?」
その瞳の輝きを見て、彼はある人間を思い出す。
もしも出会ったことがあるのであれば、鬼姫の瞳の中の輝きも同じと見たかもしれない。
深謀遠慮と言えば耳障りも良かろうが、その域に達せぬ者にはただ一つの言葉を用いて表現されるべき輝き。
「我らが抱く『王』はマーツ陛下以外にありえません」
失言だったかとジュダークはほんの僅かに眉根を寄せる。
「将棋では『王』と『玉』と描くそうですが。
アイリンの光景にそっくりだとは思いませんか?」
自らの発言がまさにそれを象徴していた。
アイリンの民は木蘭を『王』と認識できる地盤が出来上がっている。
「駒を取り合える将棋にも取る事の出来ない駒があります。
ご存知ですか?」
「……『王』ですね」
「ええ。
『王』を討つ遊戯なのですから、当然です。
そしてかの英雄は気付いていないのです。
己が正義を振りかざし、あまりにも自由奔放に盤上を掻き乱したがために」
木蘭が為した事は他国との戦争や、魔族との戦いだけではない。
同じくして国内の政敵も『悪』と断じ、討ってきたのだ。
「ジュダーク様。
貴方の王は誰ですか?」
盤上が視界に広がる。
背後に座する『王』と敵の背にある『王』。
アイリンの中においてそれは同じか。
違うとすれば、彼女の言葉の意味は凶悪な意味を持つ。
「アイリンを潰すつもりですか」
「古来より、二王を抱く国は彼らの思いを全て飲み込み争いを生みました」
少女は微笑む。
あどけなく、無邪気に。
当然と笑う。
「兄弟?
親子?
関係ありません。
王が二人居ることが国としての歪みなのです」
悪意のない、物語を語るような楽しげな表情の中で、瞳の輝きだけが深淵の底のような色を湛える。
「……あなたはどうしたいのですか?」
「やめろとか、言わないのですね」
鋭い矢のような問いに息を呑む。
しかし同時に朗読でしかなかった彼女の声音に色が初めて灯った。
まるで今初めてジュダークに興味を持ったかのように、暗い赤の視線がしっかりとジュダークを捉える。
一呼吸置いて、彼はゆっくりとその視線に応じる。
「今貴方を殺したとしても、この流れは恐らく止まらない」
少しだけ驚いたように、それから綺麗な笑顔を浮かべ、一歩身を寄せる。
「貴方の噂も当てになりませんね。
別の意味で貴方が欲しくなりました」
熱っぽい言葉を聞き流し、彼は意識を思考の海へと落とす。
彼には知り得ぬ事だが────
ここではないどこかで、ある一発の凶弾が全世界を戦争へと叩き込み、途方も無い数の死者を生んだ事がある。
それはある国の王族を撃った為に始まった事であり、またある時にはどちらの軍が撃ったかも分からない銃声が戦いの引き金になった。
銃弾一発に数百万人もの人を殺す力は無い。
だが、それが起きてしまう事がある。
「彼女は堤防に巣を作った蟻だ」
声に出さず、ある種本能に近い部分でジュダークは彼女をそう評する。
本来抗えるはずも無い人間を、洪水で虐殺する事ができると気付いた蟻だと。
「貴方も気付いているのですね。
木蘭様の素晴らしい行いに付随するものに。
綺麗で綺麗で綺麗過ぎたために、そこに居られなくなってしまったモノ達が押し込められた堤防の向こう側に」
優雅な音楽が流れる中で、あどけない笑顔は謳う。
「見てみたいのです。
己が信じた正義の巡礼者が濁流の中に沈む様を。
それとも、かの英雄は再び現れて、それら全てを吹き飛ばしてしまうのかを」
歌劇の展開を語るかのような、軽い言葉で
「その開幕を私のような何の力も無い者が宣言できるのであれば」
彼女は柔らかく問う。
「素敵だとは思いませんか?」
────異様。
彼は人外魔境の女神亭で様々な人を見てきた。
その経験が、この存在を危険だと強く警鐘を鳴らす音を聞いた。
◇ ◇ ◇
子供達の視線はいっそ敵意と称するべき様相だった。
無理も無い。
彼らにとって裕福とは憧れでなく憎悪なのだ。
それでも彼女は毅然と、相対するべき者の目を見る。
「……正気ですか?」
男はみすぼらしい姿を粗末なベッドに置き、上半身だけを起こしこちらを見る。
やつれた顔には死の影がうっすら見て取れる。
ただ未だに遠いと思わせるのは彼が若い頃に得た物のおかげだろう。
「ええ、もちろんです」
そう、自分は正気だ。
そして正気を疑われるような事をこの男に求めていると正しく理解している。
「だが、それをやってあんたらに何の得がある」
「彼らとて、アイリンの民だと思っています」
自分が向き合う相手は正面に居る。
だから背後を振り返る真似はしない。
そして相手が『彼ら』を正しく理解している事は、視線を自分の後ろへ送っている事で十分にわかる。
「何が得かなど愚問です。
我々に科せられた使命はアイリンという国を末永く繁栄させることにあるのですから」
「嘘だ!」
声は後ろから。
「そんなの嘘だ!
国は何もしてくれなかった!」
「そうだ!
俺達をこんな所に押し込めて……!」
子供達の声。
「こら、お前達。
今大事な話をしているんだ。
外に行ってろ」
男に付き添う最年長の青年の咎めを彼女は制する。
「だから、貴方方でなんとかしてください」
青年は息を呑み、視線を男へ転じる。
「条件は先ほど示した通りです。
そして何一つ確証も保障もできません。
完全な口約束です」
「……無茶苦茶だな」
「はい。
無茶苦茶です」
すまし顔で言い切る。
「けれども、それに乗る価値はあると思いますが?」
彼女の淀みなく良く通る声に、男の真剣な眼差しに子供達はじっと息を呑む。
「……勝算は?」
「半々ですね。
きっと花木蘭は怒り狂って殴りに来るんではないかと」
「半分もと大言できる方に驚く」
男は笑みを見せ、それから背後の青年に視線をやる。
「コイツを連れて行け。
色々仕込んである」
付き添いの青年は突然の指名に驚きを見せるが、すぐに顔を引き締め「はい」と短く応じる。
「……私は貴方の名前が欲しいのですが」
対して少女は少しだけ声のトーンを落とす。
批難を含む問いかけに男は安心しろと首肯する。
「くれてやるさ。
名前も、命もな」
「……では、」
「その点は安心しろ」
言葉を制して、男は笑みを濃くする。
まるで病など無いかのように張りの有る声が放たれた。
「俺達の流儀に反するならば死して贖うと知れ」
背後の子供達は目を丸くし、余りの気迫に声すら出ない。
だが、それに慣れ親しんだ少女は微笑を浮かべてこう、応じた。
「では、ここは貴方の流儀に従いましょう」
歴史には残らぬ脈動を二人は確かに幻聴する。
◇ ◇ ◇
イニゴの話を聞き、冷静になってみればこの男はピエロにもなりきれない哀れな男だと思える。
話の大半を聞き流し、適当に応じてみれば彼は言葉の端々を詰まらせ、怒声で片付けようとする風潮があまりにも滑稽だ。
そして正気とは思えない戦いを潜り抜けてきたシンに、たかが人間の怒声が如何程に通用するか。
飄々とされては怒り狂い、ペンを投げても指でキャッチされ、血圧を上げすぎた顔は赤を通り越して紫に近い。
このまま悶死した場合は私の責任なのかね?
くだらない疑問を浮かべつつ、しかし問題となっている二つの辞令を考える。
インジブルとライサ。
この二つが欠けた所でジュダーク隊に何か問題があるかと言われると、実はあまり無い。
どちらも捜査の効率を上げるための手段であり、その気になれば無駄に魔法使いが集まっている女神亭で人を集めればいいのである。
ライサについても本来の意図は魔術師の視点から意見を貰うために軍属となっている。
それだけであれば魔術知識に限定すれば無駄にお喋りなティアロット辺りに聞けば良いという話でもある。
「ただ、彼女が居ないと隊長の放浪を止める人間が減るからなぁ……」
「聞いているのかね!」
「いえ。
聞いていません」
中佐の手が机の上を薙ぐが、最早投げられるものは何も残っていない。
ともあれ、一旦悟ってしまえば残る問題は自分の仕事が滞ることくらいだ。
色々失った物は隊長が帰ってきてから取り返せば良い。
ただ、ライサの深刻そうな顔が少々気に掛かる。
思いつめて変な事をしなければ良いが……
「ええい!
出て行きたまえ!
君には謹慎を命じる!」
「ええ」
「ええとは何だねっ!」
「……」
シンは改めて血管の浮いたリオス・ヤルコブの顔を眺め見て
「あ、聞いてませんでした」
人間が『怒り』で倒れるのを初めて見た。
◇ ◇ ◇
「さすがシン大尉」
「傲岸不遜は伊達じゃないなぁ」
「何しろ天下の武術大会で女脱がしまくった奇跡の人だからな」
「お前ら……」
大きめの声で無駄話していた中隊長三人ばかりがびくりと背を震わせ
「こ、これはシン大尉」
「ご機嫌麗しゅう」
「いやー。
いつもカッコイイっすねー!」
目線逸らしまくりのおべっかに盛大に溜息を吐く。
「で、どうなんだ?」
「とりあえず他の大隊へのちょっかいはありませんね」
「こっちも同じ感じです。
黒の方にもちらっと話聞いたんですけど、あの中佐は基本放置プレイらしいっすよ」
まぁ、あれだけガチガチの貴族主義ならどこでも扱いも難しいだろう。
「物や金の動きは流石にわかんないですけど、今日明日で演習したりする軍も無いようです」
「そうか」
医務局へ運ばれたリオスを見送った後、シンはいくつかの中隊に調査の指示を出していた。
諜報を主とする黒とは違うため専門的な調査は出来ないが、数とは力である。
もちろん人海戦術で聞きまくるなんて派手な真似はせず、知ってそうな人間を探すという地味なものだ。
「しかし……本当に生贄とすればお粗末に過ぎるな」
そしてあの男はあまりにも哀れだ。
例えば怒り狂うついでに斬りかかって来れば、場合によってはシンも反撃せざるを得ないだろう。
無論実力差は明確だから、状況としてシンが上官を切ったという事実だけが出来上がる。
それ位するなら意味もあるのだが、大会優勝者である彼にむやみに近づく事も嫌っていた節がある。
「……考えてもわからん。
とりあえずアレはカワイソウな人間だと通達しておいてくれ。
憐れんでおけば被害は無い」
「……むしろ、その通達の方がひでーっすね」
「さすが残酷大将軍」
「そんな通り名、初めて聞いたが」
柔軟な連中であることは喜ばしいが、ノリが軽すぎる。
隊長に威厳が無いことも原因の一環ではあるだろうが。
「まぁ、ともかく適当に流しておけばいい。
間違っても手を出すな」
「はい。
シン大尉、もう上がりですか?」
「ああ、あとは任せる」
「了解」
略式敬礼を送ってきたので軽く返す。
それにしても、不気味だ。
まさかアレで終わりではないだろうが、だからとあの粗末過ぎる一手に続く何かも思いつかない。
警告か、牽制的な何かだったのだろうか。
こうなってしまってはやたら消化不良の感がある。
いつものやりすぎるほどやり過ぎて大義名分を与えてしまうパターンとは明らかに違う。
気持ちの悪さを抱えつつ、いつもの道を行き、女神亭のある水晶通りに出る。
主要の通りなので人通りは多い。
仕事が終わって家路を急ぐ人や、これから飲みに行く店を話し合う言葉がそこらしらから届く。
「おや」
人の波に乗るように歩き始めたところで彼はライサの姿を見た。
纏うのは少し大きめの赤の制服でなく、魔術師ギルドの礼服だ。
その顔に張り付いた表情は重苦しい。
放って置くわけにも行かないだろうと進路を変えたところで、彼女の向こう側に今日散々見た顔があることに気付く。
それはどこか危なっかしい歩き方で町を行き、人にぶつかっては迷惑そうにされている。
淀んだ瞳がゆっくり彷徨い、やがてライサを捕らえる。
『まずい』と頭の中で警鐘が鳴り響き、シンは夕刻で人通りの多い道を駆け出す。
悲鳴が上がった。
それは連鎖し、人の流れが大きく歪む。
邪魔だと毒吐きながらその合間から夕日を反射してぎらりと光る剣が見えた。
間に合わない。
目と鼻の先であっても人の足で届くにはあまりにも絶望的な距離だ。
────だが、彼にはそれを越える力がある。
腰に下げた剣に触れる。
竜剣────竜がその身を剣と変え、人に力を授けた物とされる一振り。
シンの持つその剣の力は使用者に爆発的な速度を付与する。
世界の時間を緩めているのか、彼の速度だけを早めているのかは分からない。
だが、数倍の速度を得た戦士は稲光の速度で人ごみを駆け抜け、血走った目の男と、振り下ろされる赤に染まる剣を睨む。
腰を屈めて二人の間に割り込む。
ブーツが石畳にじっと音を立てる。
急制動をかけた足首がやや痛むがいつもの事だ。
構う事は無い。
音が、速度が戻った時。
「……シン……大尉」
ぽたり、赤い物が石畳にこぼれる。
軍刀を下から突き上げるように留め、掴んだ手に朱が纏わりついている。
「ぎぎぎぃさあぁああまあぁあああ!!」
泡を吹くきながら血走った目が己の『制裁』を邪魔した男を認め、ぎりりと押し込んでくる。
「……っ!」
手首をねじり、力の方向をそらす。
それだけでリオスはあっさりと体勢を崩し無様に転がった。
「何を考えているんだ、アンタは……」
「黙れ……黙れ黙れ黙れぇぇぇ!
汚らしい異族がっ!
栄えあるアイリンの軍服を汚すなぁっ!」
埃まみれになることさえ気付かぬようにもがく様に立ち上がると、ぎらぎらした視線をシンに突きつける。
「おい!」
誰にとなく言葉を紡ぐ。
「おい!
誰か!!
このバケモノを捕まえろ!!
貴族様の命令だぁ!!」
誰もがきょとんとするしかない。
アイリンの大通りで刃物を振り回した狂人を誰もが理解できず、遠巻きに見る。
「聞こえないのか、愚民どもっ!
貴様らは我々に従えば良いんだ!
その命、その全ては我々が与えた物だ。
俺が捨てろと言えば喜んで捨てるべきだろうが!!
言葉も分からん畜生か貴様らは!!」
絶叫。
壮絶とも言うべき暴論を誰もが理解すら拒む。
時間が受け入れがたい暴言を理解という言葉に染み渡らせてくると、単なる野次馬だった者達の眼差しは明確な敵意へと変貌する。
「アンタ、いい加減にしとけ」
「黙れバケモノ!
人間様の言葉を喋るな!
貴様らもだ!
俺の言葉が聞こえないのか!
跪き、涙を流して拝聴しろ!」
異常だ。
異常すぎる。
あまりの気持ち悪さに吐き気すら覚える。
「……ふざけるな……!」
ようやく駆けつけてきた赤の一団がリオスを取り囲む。
市民を的確に誘導し、捕縛杖と名付けられた取り押さえるための棒を構える。
「シン大尉っ!」
「捕縛しろ……」
いくら何でもここで見逃すわけにも行かない。
これだけの事を天下の往来でやったのだ。
例えここで殺してしまっても誰も批難できないだろう。
「……シン大尉────中佐の腰っ!」
背後からライサの声。
視線を転じるとそこには一本の短剣が下げられている。
鞘は特に目立つ物ではないが、柄を見ればかなり流麗な装飾が為されていることが見て取れる。
「マジックアイテムか……?」
「恐らく」
判断すれば行動は早い。
周囲を睨みつけているリオスへ刹那の間に詰め、腰の剣帯を断ち切る。
「き、キサマァ!」
からんと涼しげな音を立ててそれが落ちたと知るや。
リオスは目を剥いてそれに手を伸ばそうとする。
「おい、確保だ」
凶刃に武器を渡すわけには行かないと、剣を足で蹴飛ばす。
「き、き、きぃいいさまあぁあ!
それを足蹴になど……死刑だ!
死刑だぁああ!!」
「黙れっ。
誰か本隊に連絡。
上の判断を仰げ」
一人が慌てて駆け出し、増援が人々を整理し始める。
「往来じゃかなわんな。
とりあえず近くの詰め所に引っ込むぞ。
錯乱状態だ。
多少手荒でも仕方ないが、用心しろ」
「了解。
あの……お怪我を」
隊員が慌ててシンに駆け寄る。
掌の傷は最悪指が動かなくなる可能性がある怖いものだ。
差し出された止血帯を撒き、視線を転じればライサがリオスの持っていた剣を抜き、検分していた。
「……ライサ。
それは?」
「……詳しくはギルドに持っていかないと断言できませんけど……
意匠に見覚えがあります」
忌避するかのようにしかめられた顔。
ライサは心を落ち着けるかのように深呼吸を一つして、己の知識を述べる。
「『狂気蒐集者』などと言われるアルラトギアスという魔術師が作った作品
……銘を確か……『悲劇の幕開け』。
効果は感情の増幅です」
疑念が実を結ぶのを感じる。
いくらなんでもあの男は極端でなかったか。
彼だけでない。
自分も一度覚えた怒りをどこまでも増大させ、殺意さえ抱かなかったか。
「彼の作品はどれも世界塔でも禁忌書庫行きです。
どうしてそんなものが……」
「追う価値はありそうだが……周囲に影響を及ぼすとなると」
はっとして周囲を見渡す。
人々の囁きが聞こえる。
その全てはリオスが吐いた暴言に端を発する物。
「何が貴族だ。
偉そうに」
「あんな事を思ってるだなんて」
「女の子に剣を突きつけるだなんて最低」
「あんなカス殺してしまえば良いのに」
ざわめきがざわめきを生む。
嫌悪が肥大し、互いの言葉が同調となり、声がどんどんと大きくなっていく。
「早く連行しろ!
それからライサ。
これを封印できるところはないか!」
「え、あ……アイリンの大神殿です。
そこなら……!」
二度目の竜剣発動。
焦りが胃をぎちりぎちりと締め上げる感覚に吐き気を覚える。
感情の増幅自体は大したことないのだろうが。
人間は僅かでもそのラインを超えると体に変調を来たす。
更に加速状態となり、僅かな変調が体を蝕む状況でシンは無心を自分に課した。
疾風となる。
シンは全ての考えをただ己の体への制御に向けてアイリン神殿へ疾走した。
◇ ◇ ◇
この世界は間違いつつある。
王は貴い物だ。
蒙昧なる民を率いる偉大なる人だ。
この大地に人が増え、王の声が届き難くなった為、王は賢き者に統治の手助けを命じた。
それが貴族だ。
貴族は王の代理であり、同じく貴いものである。
人々は王と貴族に従っていれば幸せなのだ。
だというのに、なんだ今の世は。
神聖なる王と、王の土地を守る騎士に愚鈍な平民が居並ぶ等あってはならない。
彼らには貴い血もなければ人々を導くだけの権威もない。
なのに何だ。
どうして貴様らのような平民が、兵でなく士官などと驕っている。
平民ならまだしもバケモノと等しい亜人が何故人間様の土地を我が物顔で歩いている。
世界はおかしくなっていく。
ルーンでは貴き王家にバケモノの血を混ぜるなどという暴挙を高らかに宣言した。
あの国はもう終わりだ。
世界を裏切る前に潰してしまわなければならない。
なのにどいつもこいつも何故そんなに無関心で居られる。
何が平和になっただ。
勘違い甚だしく、身を弁えぬ愚民をどうして打ち据えない。
「貴方の話、面白いですね」
声が、何度も繰り返した声が聞こえる。
「これを。
貴方の崇高な願いへの手向けとして」
太陽のような笑顔と、共に、何度も何度も思い出す。
「おい、聞いているのか」
無粋な声が彼を現実に引き戻す。
濁り切った顔を上げると、鋭い眼光を向ける男が居た。
自分の上司で襟章には大佐を示す意匠がある。
気に入らない事に、こいつは平民上がりだ。
「あの剣をどこで入手したと聞いているんだ」
「黙れ。
貴様如きに利く口は持ち合わせてない」
ばきりと手の中のペンが折れる。
「平民上がりがでかい顔をするな。
死んで詫びろ」
「詫びるのは貴様だ……!
民にどれだけの不信を与えたと思っている!」
机を破壊せんとばかりに叩き、魂の底からのほとばしりを容赦なく叩きつける。
「はっ……民など平伏してればいいのだ」
「……」
男は折れたペンを机の上に投げ捨て無理にと気を落ち着ける。
この男は昔からそうだ。
選民思想が強すぎて使い物にならない。
だが曲がりなりにも貴族の息子。
下手に扱っていらない災いを被るよりは適度な窓際に放っておけばいいと思っていた。
どんな仕事を与えても軋轢を生むのだから、使い道などあるはずもない。
───────突如こちらに舞い込んできた人手を求める声に、甘い事を考えたのが失敗だった。
まさかこんな類を見ない不祥事を発生させるなど誰が予想できようか。
天下の往来での刃傷沙汰。
数多くの市民の前で高らかに貴族主義を謳い、剣を振るったのだ。
お咎めなしとは行くまい。
良くて懲戒処分。
最悪は斬首すらもありえる。
むしろ彼の父は己まで累が及ばないように、死刑を求めるかもしれない。
手元の報告書を捲ると、彼の暴走には身に着けていた魔法剣が影響しているとある。
彼がそれを身につけていたのは何時からだろうか。
気にも留めないのが当たり前になっていたため思い出せないし、他の者に聞いても自分と似たようなものだろうと思う。
だがこちらにも面子がある。
このまま何も聞けませんでしたで司法局に引き渡せば良い笑いものだろう。
「リオス中佐」
「……」
彼はゆっくりと立ち上がり、外で待機している者を呼ぶ。
部下ではない。
『専門』の人間だ。
「慈悲だ。
もう一度聞く。
あの剣を何処で手に入れた?」
同じ黒の人間だ。
彼らが何者であるかくらいわかるだろう。
明らかな動揺が見て取れる。
「流石にお前がしでかした事は、男爵の力でもどうにもならん。
言わぬなら、言わせることになる」
「……き……貴様っ、この、この俺に、この俺に手を上げるだとっ!!!!」
それでも批難は免れまい。
借金塗れの彼の父ははっきり言ってどうでも良い。
だがこの男ほどではないとは言え、貴族の権利を主張する者は少なくなく、また無視するには難しい。
マヨロンのような短絡的な旧世代の遺物、小物とは違うバケモノどもが居る。
「連れて行け」
「はっ」
怒声がどんどんと遠くなる。
やがて静かになった部屋で男は深く、深く息を吐いた。
◇ ◇ ◇
会議室は重苦しい空気に包まれていた。
集まっているのは赤、白、黒、青、緑……つまりは金と銀を覗くアイリン全実働部隊の幹部である。
「市民への影響は大変大きいと言わざるを得ません。
夕刻の人通りが多い時間帯であり、なおかつ水晶通りという要所のため、目撃者は多く、なおかつ対応したのがまだ記憶に新しいシン大尉であったことが影響しています」
「それではシン大尉が悪いような言い方だな。
彼の判断は正しく、最低限の被害で済んだと認識しているが?」
黒の報告に赤が口を挟む。
黒の報告者は「失礼」と形だけ頭を下げる。
「しかし、わからない事が多いですなぁ。
ジュダーク大佐の休暇申請に対し、何故黒の人員が派遣されたのですかな?」
緑の問いに赤は一拍の間を置く。
「理由は2点あります。
1つは彼の副官が共に尉官で、しかも片方は軍属の臨時待遇であった事です。
このため普段であれば副官が代理を務めますが、指揮権の問題からそれを任じるのは不適切と判断しました」
周囲を見渡すが、これには異論が無いと確認して続ける。
「もう一つは人事部より、異動査定の依頼が来ていた事に由来します」
視線を黒に転じる。
黒の男は少しバツの悪そうな顔で手元の資料を指で弄る。
「リオス中佐の赤への異動要請……
しかし情報が少なく、しかも中佐であるため、こちらも付けるべき役職に窮していました。
何しろ渡された人事考査には曖昧な言葉だけが並んでいましたもので」
「期間限定で都合が良かったと」
「黒も快諾していただけましたから」
暗に情報をもっと出してくれていればと批難する。
「厄介払い、ですか」
青からの言葉に反論の言葉も出ない。
どんな言葉を重ねてもやぶ蛇だ。
「それで?
あの魔法剣の出所は掴めたのですか?
問題の一端を担っているとのことですが」
「明日までには判明させる」
白の問いに黒の男は進退窮まったような顔をして応じる。
「悠長ですな……。
一歩間違えれば暴動すらおきかねないというのに。
彼の行為はテロと断じてもおかしくないのですよ?」
白からの言葉は厳しい。
だが、無差別に周囲の感情を増幅するという凶悪な魔道具を所持した上で周囲の敵意を煽った事実は消えない。
「ヤルコブ男爵からは何か?」
「いえ、恐らく連絡が届いた頃かと」
黒の責が明確になった事で場を仕切りなおす。
「で、彼はどうしますか。
男爵がなんと懇願してこようとも、懲戒だけでは済みませんよ」
青が視線を赤に送る。
「解釈次第では大掛かりな粛清すら提案できます。
王の治世を揺るがす行為……国家反逆罪としても」
死刑より重い罪に皆黙り込む。
「だが、文官どもはそれを当然としてくるだろうな」
「今回ばかりは下手な減刑をするわけにもいかない。
極刑も辞さないつもりで応じるべきだろう」
緑の容赦ない発言に視線が集まる。
「ヤルコブ男爵は先の無い男だ。
未だに貴族である事を誇り、湯水のように金を使い続け、そして大量の借金を抱えている」
「……救えん話だな」
白の言葉に異論は無い。
「貴族連中も案外ヤルコブ男爵が貴族位を返上する事を認めるかもしれないと思っている。
やつらもヤルコブ男爵を保護してやるほど甘くはないだろ」
緑の言葉に思案の時間が挟まれる。
「リオス中佐の処置については文官どもの好きにさせる。
我々がやる事は貴族連中を不快にさせない程度の反論だ。
構わないかな?」
白の提案は直ぐに可決された。
「で、ジュダーク大佐はどうする?」
青からの問いかけに赤は訝しげに眉根を寄せる。
「どうかする必要はあるのかね?
彼の休暇は急ではあったが、なんの問題も無いと思うが」
「もちろん休まねば良かった。
などという言いがかりをつけるつもりはない。
だが、彼の部隊人事に漬け込まれた気がしてならないのだが」
漬け込まれたという外部からの悪意を指す言葉にみなの視線が集まる。
「考えても見たまえ。
都合が良すぎないか?
ジュダーク大佐が急遽休暇を取り、彼の部隊には代行に相応しい人間がおらず、そして黒からの人事や彼の思想……
その全てがこうも見事に合致するものかね?」
「……確かに彼の手にしていたマジックアイテムはこの状況を引き起こすために与えられたとも考えられるが。
それで何故ジュダーク大佐に罪を問わねばならぬ?」
確かに批難すべき点はあるが、明確な主犯が居る状況で言い掛かりにも等しい。
「これも偶然と言うなら、私も何も言わないのだが……
ジュダーク大佐はヨルフォード伯爵に招かれているらしい。
娘と引き合わせるためにね」
『ほう』と洩らす声は誰のものか。
ミルヴィアネスの跡取りが婚約者を定めず、その上その勧めから逃げているという話はそこはかとなく聞いている。
「繋がりが見えないんだが」
赤の困惑に青は頷き
「ヨルフォード伯は私の知る限りヤルコブ男爵の借金をかなりの額引き受けている」
視線が素早く交差し、全ては青に戻る。
「もちろん関係を疑う証拠は一切ありません。
剣の出所が判明すれば別でしょうが……
ですが、もし関係がある場合、ジュダーク大佐は狙われたという事になりますな」
「それで?」
「なに、弱い所を突くのは兵法の基本でしょうに」
これで終わりではない。
弱いと分かっていながらそのままにしておけば次は何時狙われるか分からない。
「……いや、今日はその話は止して起きましょう。
赤の人事に口出しするのも越権でしょうし」
自らに矛先を下げ、場の空気は固まる。
「……ともかく、早急に剣の出所を探りましょう。
会合は明日です。
あちらは意気揚々と出てきますよ」
武官と文官合わせた緊急会議が通知されたのはつい数時間前だ。
各部隊の事務長官達はそれぞれの優位性を誇示するための矛を下げ、難敵に相対するための策を練り始める。
◇ ◇ ◇
深夜────
丑三つ時を回り、静寂の訪れたアイリンの一角。
人目に付き難い場所に建設された施設で、彼は目覚める。
世界が回っている。
体の自由が利かず、動かせばじゃらりと重い音が響いた。
何があったかを思い出すことさえ億劫で、意識は再び深淵の奥へまどろませようとして─────
「俺は……」
頭が一気に覚醒し、仕事を思い出した痛覚が彼の体を打ち据える。
「ガっ、ハ……」
痛い。
一秒ごとに精神を抉るような痛みが体を突き抜けていく。
そしてその度に思い出す。
自分がどんな状況に追い込まれているかを。
体の奥底から絶え間なく湧き上がるどす黒い怒りが体を突き上げるが、腕も足も縛り付けられて動かない。
「クソがっ!
俺をこんな目にあわせやがって……!」
絶対に殺してやる。
主を忘れた犬に生きている価値など無い。
荒れ狂う怒りに気を遠くしながらも、湧き上がる記憶が脳裏を駆け巡る。
───と、記憶の末の辺りに至り、彼は顔を青くした。
腰にはもちろんあの感触は無い。
奪われた……そう、あのバケモノが汚らわしい手で俺の……
怒りが沸点を越え、声にして叫ぼうとした瞬間
「お静かに。
お助けに参りました」
目の前に一人の黒ずくめが居た。
余りに突然の出来事でリオスが目を白黒させるが、やがてそれが当然であると頷いた。
「さっさと俺を解放しろ」
「もちろんです」
ぎらりと光る剣に一瞬息を呑んだが、それが自分を拘束する縄を断ち切った事で笑みを濃くする。
「北ブロックに人を用意しています。
アイリンからお逃げください」
「……どうしてあんな汚らわしい所に……!」
「それ故です」
男の声で冷静に返されてはリオスも黙りこくる。
「さ、お早く」
「……わかった」
男に案内され牢を出る途中で血臭が鼻を突いた。
ふと視線をやると
「ヒッ!?」
死体が三つ転がっていた。
どれも床との間に血溜りを抱えており、すでにぴくりとも動かない。
一つの死体を見れば肋骨の下辺りに傷が見えた。
どれも心臓を一突きにされているとすればとんでもない手腕だ。
「……父上の手の者か」
「……貴方の思想を支持する者、としておいていただきたい」
確かにそうかと納得する。
事実はどうであれ、そういうことにしておいた方が都合は良い。
ここで理想高き自分が死ぬわけには行かないのだ。
詰め所を出ると人通りは全く無い。
「通りをまっすぐ行き。
赤の看板があるところで曲がって暫くすれば人が居ます」
「……貴様は来ないのか」
「後始末がありますので。
この時間であれば人と会う事もないかと」
「……そうだな。
ご苦労だった」
リオスは痛む体を引きずるようにしてアイリンの町を行く。
衛兵から身を隠すようにし、どれだけ歩いたか分からなくなってくるといつしか周囲の光景は汚らしく、損壊したまま取り残された家屋が目立つようになってきた。
「……赤い看板だったな……」
暫く行くと赤の看板が見えた。
が、言われた通りの曲がり角は無い。
違う看板なのだろうか。
だが、暫く歩いてみても赤の看板にめぐり合えない。
おかしいと思い始めた頃になって、自分が誰かの視線を受けていることに気付く。
首を巡らせると小柄な影がこちらを覗い見ている。
「スラムのガキか……」
税金すら払わない屑どもだ。
こんな区画さっさと焼き払い、新規の区画として作り直せば良いのに。
忌々しく思いながら、ふと視線を上げると赤の看板があった。
曲がり角もある。
ようやく見つけたと曲がると、距離を取るように子供達が奥に逃げていく。
ふと────
一人の少年が腰に剣を下げているのが目に入る。
剣だとはわかる。
暗闇で走る少年の腰にあるものなどその仔細がはっきりと分るものではない。
だが剣だとはわかった。
そしてそれは自分に今無いものだ。
失ってはならない物だ。
「あの剣は……!」
そんなはずは無いという思考は最早彼の頭にはない。
あまりにも大きな喪失。
取り戻さねばならないものがそこに有ると確信した。
「きさまぁあああ!
それを返せぇぇええええ!」
痛みを全て忘れて走り出す。
ぎょっとした子供達がなおも逃げようとし、小さな女の子が転んだ。
だが、彼の視線は『奪われた』剣にしかない。
目の前に転がる子供など視界の端にも入っていない。
「……だメ」
気付いたのは目の前にそれが迫った一瞬だけだった。
ガスっ
姿勢を崩した体は右によれて、派手に壁に頭をぶつけ、削った。
それで動かなくなる。
胸の辺りが不自然に浮いていた。
引っくり返せばそこにナイフの姿を認めることができるだろう。
リオスは心臓にナイフ一本を生やし、頭を壁に打ち付けて絶命していた。
それと気付かぬ子供達はなおも逃げ惑う。
後姿を追うように、彼女もまたふらりふらりと闇の中に消えていく。
今起きたことなど何一つ覚えていないかのように。
後には物言わぬ死体がひとつだけスラムの道に転がるばかり。
◇ ◇ ◇
翌朝。
軍内は大混乱に見舞われた。
黒の詰め所での惨殺事件。
詰めていた3人の獄卒が心臓を一突きにされ死亡。
同じ室内で急所を穿っていることから、暗殺者かそれに類する腕を持つ人間の仕業であることは間違いないと見られた。
一方で逃げたリオス中佐は巡回していた赤に発見された。
路地に身包みの一切を剥がされて転がされていた。
スラムの死体などそんなものだ。
巡回の兵も見慣れた光景に嘆息したのだが、その体に刻まれた拷問らしき痕やそれなりに鍛えているような体躯。
そして死因の一つであろう心臓への傷や前頭部から右側頭部へと壁に削るようにして損壊した無残な顔などあまりにも不可解な状況に確認を取ってみたのが幸いした。
もし確認を取らなければ単なる『哀れな被害者』として共同墓地にでも捨てられていた事だろう。
ともあれそれがリオス中佐だと判明し、騒ぎは一気に拡大した。
彼の死については場所柄から物取りの犯行だとの意見が大勢を占めたのは無理もない。
おおかた胸にナイフを差し込まれた後、壁にでも叩きつけられたのだろうと。
ともあれ。
これから緊急会議に臨む軍部の面々は苦虫を噛み潰すのも忘れる程の混乱を背負って残り少ない時間に奔走している。
赤は非番の者も全招集して捜査に当たり、黒も諜報と情報の整理に奔走している。
青や白を投入する案まで出されたが、逆に邪魔になるとして保留となった。
もちろん大規模な不祥事に他の干渉を招きたくないのが本音だろう。
「アリス」
その光景を眺め見ながらシェルロットはゆっくりと傍らのハーフエルフを呼ぶ。
「はい」
「状況は?」
「リオス中佐を逃がした人間については不明です。
実行できそうな人間は女神亭あたりにはごろごろしていますが」
「あそこの連中は政治関係は嫌いだし、潔癖症だから手を出さないわよ」
「同意見です」
混乱を眺めながらシェルロットは会話を続ける。
「誰が雇ったかもわからないの?」
「彼を助けて得をする人間がおらず、また逃がした後に殺されていますから」
「……そうすると、普通はあそこで殺すつもりで逃がした、って思うわよね?」
その声には忌々しさがある。
「こちらの動きに気付いたって事は?」
「恐らくですが無いと思います。
あればもっと泰然としていることでしょう」
「……それもそうね」
重ねられていく失態に軍部は本気で泣きを見ている。
「不気味だわ」
「……」
一石を投じた者が居る。
あの魔剣がそれを証明している事はシェルロットも聞き及んで入る。
だが、どれもこれも噛み合わない。
目的が何一つ見えてこない。だからこその軍部の混乱でもあるのだろう。
「……お嬢様。
いかが為されますか?」
「流れ次第かしら。
でも、一歩間違えれば私が犯人扱いだわ」
携えた案を自分は五分五分だと謳った。
だが、今はどうだろう。
二分もあるか怪しい。
「……今回は見送るのが最善かと」
「……それじゃ遅い可能性があるのよ」
ままならない。
そんな事は政治家になる前から充分に承知していた。
けれども土壇場でこうも揺り動かされると機嫌も悪くなる。
「昨日、女神亭に木蘭が現れたらしいわ」
「……なるほど。
確かに面倒ですね」
あれは強力すぎる偶像だ。
居るだけで誰も彼もが錯覚してしまう。
「私たちはアレを打ち砕くためにここに居るの……。
だから、やるなら今しかない」
アリスは言葉を留めて主人の小さな体を眺める。
「シェルロットさんや。
向こうから会議の延期要請がきてるぜー?」
きっと下で駈けずり回ってる者が聞いたら激怒しそうな気楽な声。
補佐官エクメールは授業が自習になった程度の言い様で肩を竦める。
「突っ撥ねなさい。
こっちは説明を聞きに来てやってるんだから、追い返すなんて無礼でしょ?」
「強気だねぇ。
まぁ、そう答えておいたよ」
補佐官の青年は締まらない笑顔を浮かべる。
「そんな事を伝えたら獅子に頭から齧られますので勘弁してくださいって」
「余計な事を言うなっ!」
はっはっはと笑い、
「で、マジでどーすんだ?
俺もアリスさんと同じ意見だぜ?
いっくら花木蘭が出てきたからってまだ自由に動けるわけじゃない。
急いては事を仕損じるだぜ」
真顔になって問う。
そういう顔をしていれば彼は間違いなく美形なのだ。
「強引に行くほど愚かではないわ。
まずはあちらがどんな言い訳を並べ立ててくるか……まずはそれからよ」
それから、と視線をアリスに戻す。
「彼女たちは?」
「……お嬢様の指示通りに。
もっともどちらも言う事を聞くタイプではありませんが」
「……まぁ、違う意味で悪い動きはしないと思うけど」
「この知らせは既にジュダーク・ミルヴィアネスに届いている事でしょう。
彼女なら一番に接触する事が可能ですから」
そうねと呟き席を立つ。
時間だ。
この結果次第でアイリンは大きく進路を変えるかもしれない。
だが、これは必要な儀式だと確信している。
例え今のアイリンがこれで良いとしても、花木蘭はいずれ確実に死ぬのだ。
それが10年後か30年後かは分からない。
だが、長ければ長いほど、これは手の施しようのない病になる。
「アイリン史上最悪の悪人に成りに行く気分はどうですか?」
茶化す言葉に不敵な笑みで応じる。
「むしろ清々しいとでも言いましょうか。
偶像を打ち倒しに行くわよ」
まだ年若い少女が己の戦場たる言葉の世界へと歩みだす。
◇ ◇ ◇
「ミスカ様、ありがとう御座います」
「いえいえ」
アイリーンの一角に二人の姿は突如現れる。
フェルミアース・ミルヴィアネスに届けられた一報はすぐさまジュダークへ伝えられた。
彼はすぐさま場を辞退し、ミスカにアイリンまでの転移を依頼したという運びである。
「私もジュダーク君を連れてくるようにお願いされましたから」
「え?」
こつりと杖が床を叩く音に疑問は解消される。
人気の無い場所に出たのは転移を見られたくないからだけではないと理解する。
「……いろいろ、ややこしい話ですか?」
「まぁ、そうとも言えるじゃろうが……ある意味簡単な話でもあるよ」
銀の髪をかきあげ、ティアロットは青年を見上げる。
「悪人になる覚悟はあるかえ、ジュダーク」
思い出す。
彼女の目はこの少女に酷く似ているのだ。
「話を聞かせてください。
まずは、それからです」
別れ際に、自分が急ぎ場を辞することを知っていたかのように見送りに着たサリエルの笑顔を思い出し、ここから始まるのが難局である事を強く感じる。
「よかろう」
年端もいかぬ少女の態で、ティアロットは鷹揚に頷く。
どこかの世界の歴史のように────
『一発の銃弾』が、アイリンという国を大きく揺り動かし始める。