クローゼットの秘密
由紀は引っ越しを終え、ようやく新しい部屋の片づけを終えた。小さな1Kのこの部屋は古いが、周辺は静かで住み心地が良さそうだ。ただ一つ、部屋の隅にある古いクローゼットが、どうにも気味が悪かった。傷ついた扉や、何度も上塗りされたような白いペンキが歴史を物語っている。由紀は深呼吸し、クローゼットを開けた。薄暗い中に、服をかけるためのバーと、棚が一段あるだけで、特に異常はなかった。
それでも、何かが引っかかる。なぜだかこのクローゼットを開けるたび、背後に誰かの視線を感じるようだった。「疲れてるだけだろう」と自分に言い聞かせ、すぐに忘れることにした。
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ある夜、帰宅が遅くなった由紀は、部屋の電気をつけて靴を脱ぎ、ぼんやりとクローゼットを見た。そして息をのむ。
クローゼットの扉が少しだけ開いていたのだ。確かに朝は閉めたはずだが、鍵がかかるわけでもないし、気のせいかもしれない。ゆっくり扉を閉じ、鍵をかけるわけでもないのに妙に力を入れてしっかり押さえた。
その夜、由紀は妙な夢を見た。暗い闇の中に立っていると、どこからか声が聞こえてくる。「ここにいるよ…ずっと待っていたよ…」彼女は心臓が早鐘のように鳴るのを感じながら、必死に夢から覚めようとしたが、声はやまない。まるで深い底なしの井戸から響くように、その声は遠くから、そして確かに近くから彼女を呼んでいた。
朝、目が覚めた由紀は、汗にまみれ、荒い息をしていた。昨夜の夢があまりにも鮮明で、現実のように感じられた。身震いをして、クローゼットをちらりと見た。相変わらず、ただの古びたクローゼットに過ぎない。それでも、由紀の心の奥底に何か嫌な予感がわだかまっていた。
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数日後、友人の美咲が遊びに来た。由紀は気分を変えたくて、夜通し語り合うつもりでいた。二人でワインを開け、会話が弾む中、由紀はふとクローゼットの話を持ち出した。
「最近、このクローゼットに違和感を感じるんだよね。なんだか夜になると見られてる気がするし、夢まで…」
美咲は真顔になり、由紀の言葉に耳を傾けた。「それ、実は私も似たような話を聞いたことがあるんだ。古いアパートにはよく、何かが棲んでるってね。」
それから数時間、二人は怖い話で盛り上がったが、次第に眠気が襲ってきた。美咲が寝息を立てる中、由紀はふとクローゼットを見やった。扉は閉まっているが、やはりどこか不気味さを感じる。
寝つけないままベッドに横たわっていると、突然、小さな物音が聞こえた。ガタッ…。それはまるで、クローゼットの中で何かが動いたような音だった。由紀は全身が凍りつき、息を止めた。その瞬間、扉がほんの少しだけ開き、暗闇の中から何かがじっとこちらを見つめているように感じた。
そのまま固まっていると、再び囁き声が聞こえた。「由紀…見てるよ…」
突然、美咲が起き上がり、由紀の肩をつかんで揺さぶった。「由紀、大丈夫?どうしたの?顔が真っ青だよ」
由紀は夢中で美咲にすがりついた。「今…クローゼットから声がしたの!何か…誰かが…」
美咲はしばらく黙っていたが、ゆっくりと息を吸って言った。「ねえ、由紀。一度、このクローゼットを開けてみるべきかもね。たとえ怖くても、何があるのか確認したほうがいいかも」
二人は意を決し、立ち上がった。由紀は震える手でクローゼットの取っ手を握り、ゆっくりと扉を開けた。中は暗く、何も見えない。それでも、美咲がスマホのライトをつけて照らすと、床にある一点が異様に黒ずんでいるのが見えた。二人は顔を見合わせ、心臓が跳ね上がる。
由紀が恐る恐るその黒ずんだ部分に触れると、そこは古い畳が少しだけ浮き上がっているようだった。「ねえ、これ…床下が何かおかしいかも」
美咲が頷き、二人で畳を持ち上げると、下には小さな木の扉が現れた。何かの収納かと思ったが、その扉には錆びた錠前がかかっており、明らかに長い間開かれていないことがわかる。
「開けてみる?」美咲がささやくと、由紀は覚悟を決めて頷いた。
なんとか錠前を壊し、扉を開けると、暗闇の中に細い階段が続いていた。まるでどこか深い場所へと誘うかのように。その不気味な階段に目を凝らしていると、底の方からかすかな音が聞こえてきた。それは、かつての夢で聞いたあの囁き声だった。
「ずっと待っていたよ…」
美咲が震え声で「これ、やめたほうがいいよ」と言いかけたその瞬間、由紀の足が何かに引っ張られるように階段の方へと吸い寄せられた。「助けて!」と叫ぶ間もなく、彼女はその闇に引きずり込まれてしまった。
美咲は必死に手を伸ばしたが、由紀の姿は闇の中に消え、代わりにクローゼットの扉がゆっくりと閉まっていくのが見えた。その瞬間、美咲もまた強烈な恐怖に襲われ、逃げ出すように部屋を飛び出した。
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それ以来、誰も由紀の姿を見ていない。部屋には彼女の荷物もそのまま残され、友人たちは彼女の失踪を不審がったが、真実を知る者はいなかった。
そして今も、あのクローゼットは部屋の隅にひっそりと佇んでいる。誰も開けることなく、静かに…。しかし、時折、そのクローゼットからかすかな囁き声が聞こえるという噂が、そこに住む者の間で囁かれている。
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最後に由紀が聞いたあの囁き声が何を意味していたのか、それを知る術はもうない。ただ一つ、クローゼットは決して開けてはいけない場所であることだけが伝えられている。