最後の花
それは静かな夜のことだった。古びた村の外れに住む一人の老女が、家の前にある小さな花壇で花の世話をしていた。彼女の名は綾乃といい、誰にも言えない孤独と向き合いながら、ただ一つの楽しみとしてこの花壇を育てていた。しかし、その花壇には奇妙な特徴があった。毎年、新たな種類の花が自然と生えてくるのだ。種を植えたわけでもないのに、どこからかやって来たように、見たこともない色と形の花が現れるのだった。
村の人々は綾乃の花壇を「呪われた花壇」と呼び、近寄ることを避けていた。なぜなら、その花を摘んだ人は必ず不運に見舞われ、最悪の場合は命を落とすことさえあったからだ。
しかし、綾乃はその話を聞いても気にする素振りは見せなかった。むしろ、彼女はその花壇に一層の愛情を注ぎ込んでいた。彼女にとって花壇は、村の人々から遠ざけられた自分を受け入れてくれる唯一の場所だったのだ。
ある日、綾乃が花壇の世話をしていると、どこからともなく低い声が聞こえた。
「綾乃…助けてくれ…」
その声に驚いた綾乃は、周囲を見渡したが、誰もいない。風の音かと思ったが、明らかに人の声だった。だがその声は、彼女が覚えている声に似ていた。それは、数十年前に亡くなった彼女の娘、麗子の声だったのだ。
麗子はまだ若くして村を離れ、そのまま消息を絶った。母として失った悲しみは大きかったが、それ以上に、どうして自分を残していったのかという疑問が綾乃の胸に深く刺さっていた。だが、その疑問を誰にぶつけることもなく、彼女は花壇だけに話しかけるようになったのだ。
翌日、綾乃が花壇を見に行くと、今まで見たこともない花が咲いていた。黒い花弁に深い紫の筋が入った、不気味ながらもどこか惹かれるような花だった。触れれば冷たいが、その中心からは温かさを感じる奇妙な感触があった。
「この花は…一体…」
その花にそっと触れた瞬間、綾乃の脳裏に、麗子が最後に立っていた場所が浮かび上がった。夜の闇の中、荒れ果てた道を歩く彼女の姿が、綾乃の目の前に広がった。麗子は苦しそうに歩き続け、やがてどこかの森の中に消えていく。その映像が脳裏に焼き付くと、綾乃は体が動かなくなり、花壇に倒れ込んだ。
それから数日間、綾乃は寝込み、夢の中で麗子の姿を何度も見た。麗子は何かを訴えかけるように手を伸ばし、「母さん、助けて」と囁き続ける。やがて綾乃はその夢が自分への呼びかけであり、花壇が何かの「入り口」なのだと気づいた。
夜中、綾乃は夢の導きに従い、再び花壇へと足を運んだ。闇の中に浮かぶ花は、まるで口を開けて彼女を誘うように見えた。恐れと不安に駆られながらも、綾乃はその黒い花に手を伸ばした。
瞬間、彼女の視界がぼやけ、次の瞬間にはまったく見知らぬ場所に立っていた。そこは暗く湿った森の中で、冷たい風が吹き荒れていた。そして、その暗闇の奥に麗子の姿がぼんやりと浮かんでいた。
「麗子…なの?」
麗子の姿は何も言わず、ただ母親をじっと見つめた。その眼には深い悲しみと、訴えかけるような哀れみが込められていた。
「母さん、私はこの場所から離れられないの。村の人々の呪いに囚われて…」麗子が囁くように言った。「だけど、母さんが花壇を大事にしてくれたおかげで、こうしてあなたに会えたの。」
綾乃は麗子の言葉を理解し、涙が頬を伝った。「麗子、ごめんなさいね。何もしてあげられなくて…」
「母さん、最後に一つだけお願い。あの花壇の花を一つ摘み取って、私のために持って帰って。」
そう言い残して麗子は消え去った。
綾乃は夢から覚めると、すぐに外に出て、麗子が言った通りに花を摘み取った。その花は不思議なほど軽く、手の中でかすかに温かさを感じた。そしてその花を胸に抱いて、綾乃は家の中に戻り、そっと麗子の写真の前に置いた。
その瞬間、花は光を放ち、まるで何かの束縛が解けるように消えてしまった。写真の中の麗子はどこか安らかに微笑んでいるように見えた。綾乃の心には静かな安堵が広がり、彼女はそっと目を閉じ、最後の一言を呟いた。
「麗子、ようやく安らげるね…」
翌朝、綾乃の家を訪れた村人は、彼女が穏やかな表情で眠るように亡くなっているのを発見した。そして家の前の花壇には、あの黒い花は一つも咲いておらず、ただ清らかな白い花が静かに風に揺れていた。