蒸しやき
その夜、私はいつものように近所の銭湯に足を運んだ。そこは古びた建物で、少しばかり時代遅れの雰囲気を漂わせているが、それが逆に気に入っていた。特にサウナの熱さが他の銭湯にはないくらい強烈で、芯まで熱が浸透する感覚がたまらなかった。
更衣室で服を脱ぎ、シャワーを浴びてからサウナの扉を開けると、そこにはいつもと変わらぬ木のベンチと、じりじりと肌を焼くような熱気が待っていた。薄暗い照明に照らされた小さな空間は、普段は無口なサラリーマンや汗だくの学生で賑わっているが、その日は誰もいなかった。
「貸切か…」
そう思いながら奥のベンチに腰を下ろし、じわじわと身体が温まっていくのを感じた。時間が経つにつれ、額から汗が滴り落ち、息が少しずつ浅くなる。時計を見上げると、まだ入って五分も経っていないのに、いつもよりずっと熱く感じた。
ふと、サウナの扉が開き、誰かが入ってきた。細身の男がゆっくりとこちらを見ながら近づいてきたが、その顔には見覚えがなかった。彼はニヤリと笑い、私の隣に座った。異様なほど無表情で、その微笑みはどこか冷たいものを感じさせた。
「このサウナ、熱すぎやしませんか?」
突然、男が話しかけてきた。まるで私がここに来るのを待っていたかのようなタイミングだった。
「ええ、でもそれが気持ち良くて来てるんですよ」
そう答えると、男は再びニヤリと笑った。
「じゃあ、もっと熱くしてあげますよ」
そう言うと、男は立ち上がり、サウナの隅にある温度計のダイヤルをぐるりと回した。見る見るうちに温度が上昇し、まるで釜の中に放り込まれたような熱さに変わった。思わず立ち上がろうとしたが、体が重く、動けなかった。心臓が激しく脈打ち、息苦しさが増していく。
「…何をしているんだ!」
叫びたかったが、声が出ない。男はじっと私を見つめたまま、微笑みを崩さない。そして、ゆっくりと自分も座り直し、さらに温度を上げるボタンを押した。湿った熱気が全身を包み、皮膚が焼けるような感覚が襲ってきた。
その時、突然、男の顔が変わった。目が異常に赤く、まるで怒りと憎悪が入り混じったような表情を浮かべている。私を見据えるその視線が、次第に鋭く、冷酷なものになっていった。
「…どうして…?」
言葉にならない疑問が頭を巡るが、熱さが全てをかき消していく。視界がぼやけ、次第に意識が遠のいていく中、男の声が耳元で囁いた。
「これでやっと、お前もわかるだろう。俺がどれだけ辛かったか…」
その言葉が最後に耳に入った記憶だった。
***
翌朝、銭湯の店主がサウナ室を開けた時、そこには既に冷たくなった私の遺体が横たわっていたという。店主は警察に通報し、死因は熱中症によるものと判断されたが、監視カメラには不審な男の姿が映っていなかった。
誰も知らない。あの夜、サウナで私に何が起こったのか、そしてその男が一体誰だったのか。
そして、今でもその銭湯のサウナ室には、私の怨念が彷徨っているという噂が絶えない。扉を開けた瞬間、背後に感じる視線。それが、私か、それとも他の誰かかは、もうわからない。