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深夜の乾杯

この街には、地元の人々が「禁断の酒場」と呼ぶ場所がある。夜が更け、人々が家路を急ぐ時間にだけひっそりとその扉を開く。その酒場に入るための条件はただひとつ、「一人で来ること」。入り口には古びた木製の看板が掛かっており、「一人で来た者のみ、至福の一杯を」という言葉が書かれている。


主人公の高橋涼太もその噂を聞きつけ、好奇心に駆られて訪れた。仕事帰りの深夜、ふとしたきっかけで同僚からこの「禁断の酒場」の話を聞いたのが始まりだった。高橋は特別酒好きというわけではないが、何か引き寄せられるように、その店を訪れることにした。


酒場は人気のない小道を奥へ奥へと進んだ場所にあった。薄暗い通りを歩きながら、不安と期待が交錯する。やがて、路地の奥にたたずむ古ぼけた木造の扉が視界に入った。


---


扉を開けると、中は予想以上に小さく、薄暗いカウンターだけが並ぶシンプルな内装だった。カウンターには年老いたバーテンダーが一人立っており、黙々とグラスを磨いている。店には高橋以外に客はおらず、静寂が支配していた。


「いらっしゃい」と、バーテンダーが小声で迎えた。


高橋は頷きながらカウンターに座った。メニューもなく、注文をする前にバーテンダーが棚から一本の古いボトルを取り出した。そのボトルには何もラベルが貼られていない。透明な液体が光を反射し、何か神秘的なものを感じさせる。


「こちら、当店自慢の一杯です」とバーテンダーが微笑みながら言った。


高橋は少し戸惑ったが、差し出されたグラスに手を伸ばした。そしてその液体を一口含む。口当たりは柔らかく、深い味わいが広がる。甘さと苦味が絶妙に調和し、体の奥底まで染みわたるようだった。すぐにもう一口、また一口とグラスに手を伸ばしてしまう。


気づけば、視界がぼんやりと歪み始めていた。周りの音が遠のき、まるで別世界に迷い込んだような感覚に囚われる。そして、不意に背後から囁き声が聞こえてきた。


「乾杯しましょう、涼太さん」


驚いて振り返ると、そこには見知らぬ人影が浮かび上がっていた。影はぼんやりとした輪郭で、性別も年齢もわからない。しかし、その影が発する声には確かに懐かしさを感じた。


「…誰だ?」高橋はそう尋ねたが、影はただ微笑み、静かに彼に近づいてきた。


「私たち、以前に会ったことがあるのですよ。覚えていませんか?」


高橋の頭には不思議な記憶がよみがえり始めた。かつて彼が学生の頃、酒に溺れたある友人がいた。彼は事故で亡くなり、それ以来、高橋はそのことに後悔を抱え続けていた。その友人と同じ声色で「乾杯」と囁く影は、まるで彼を呼び戻すかのようだった。


「乾杯をしましょう、再会の祝杯を」


その影はグラスを持ち上げ、高橋に向けて笑顔を浮かべた。しかし、その笑顔は次第に不気味なものへと変わり、彼の心臓は激しく鼓動し始めた。


---


気づくと、店内の光が急に暗くなり、寒気が全身を包み込んだ。足元から冷たい風が吹きつけ、周りの空間が歪んでいく。カウンターには、いつの間にか無数のグラスが並べられ、それぞれのグラスには異なる色の液体が注がれていた。どのグラスにも不気味な顔が浮かんでいるように見える。


彼はふと、最初に飲んだグラスが手元に残っていることに気づいた。しかし、そのグラスの中身はもう透明ではなく、濁った血のような赤色に染まっていた。


「飲み干してください」とバーテンダーが冷たく囁く。


高橋は動けないまま、そのグラスを見つめた。飲むべきか、逃げるべきか、逡巡するうちに、影が再び近づいてきた。


「あなたが飲まなければ、ここを去ることはできません」


その声に抗う術もなく、高橋は震える手でグラスを持ち上げた。そして意を決して、その液体を飲み干した。その瞬間、猛烈な苦みと酸味が口中に広がり、全身に冷たい波が襲いかかる。


---


気づけば、高橋は見知らぬ路地の片隅に倒れていた。体は冷え切っており、手には何も握られていなかった。周りを見回すが、あの酒場の入り口はどこにも見当たらない。


「夢…だったのか?」


そう呟いたが、彼の体には奇妙な疲労感が残っていた。ふと、自分の口元に何かがついているのを感じ、手で拭うと、それは黒く粘つく液体だった。


帰り道を急ぎながら、彼は二度とあの酒場を探すことはないと心に誓った。しかし、それ以来、毎晩のように彼の夢には影が現れ、こう囁くのだ。


「乾杯をしましょう、涼太さん。またお会いできる日を楽しみにしてます」


---


その囁き声が彼の頭の中で鳴り続ける限り、彼は決して逃れることができないのだった。


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