吉崎精肉店
吉崎精肉店
雨がしとしとと降り続ける夜。古びた街外れの肉屋「吉崎精肉店」の明かりがぽつんと灯っている。時計の針は夜の10時を指していたが、主人の吉崎は今日もせっせと作業を続けていた。人の良さそうな顔に似合わず、吉崎にはとある奇妙な趣味があった。それは、一晩中豚肉を捌きながら、その肉に話しかけることだった。
「今日はよく肥えたやつが入ったんだよ。お前たちもこれで喜ぶだろう?」
作業台の上には切り分けられたばかりの鮮やかな豚肉が並んでいる。吉崎は包丁を握り直し、肉片を愛でるように眺めながら話し続けた。その様子を見れば、誰でも気味悪さを覚えるだろうが、この店に出入りする客は少なく、その噂が外に漏れることはなかった。
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吉崎がこの「趣味」を始めたのは数年前のことだ。ある晩、彼が仕入れた豚肉を丁寧にさばいていたとき、奇妙な体験をした。
「…ありがとう。」
確かに、声がした。それはどこからともなく聞こえたかのようだった。店内には吉崎一人しかいなかったため、空耳だと思った。しかし、それ以降、豚肉に向かって語りかけると、肉は時折返事をするようになったのだ。
「もっと脂身を残してくれ。」
「今日の包丁捌きは悪くないぞ。」
そんな声が吉崎の耳に届くたび、彼の胸には得も言えぬ満足感が広がった。仕事に打ち込むモチベーションが増し、彼の技術はますます洗練されていった。
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その日も、吉崎はいつも通り肉を捌きながら話しかけていた。包丁が滑らかに肉を切り分ける音だけが店内に響く。
「今日のやつはいい質だぞ。どうだい、満足か?」
「…ええ、まあまあだ。」
突然、低く濁った声が応えた。吉崎は手を止めた。これまでの声とは違う。今までの声はどこか軽やかで、楽しげですらあった。しかし、今回は違う。声の主が怒っているような気がした。
「どうした?不満でもあるのか?」
吉崎は肉片を見つめながら問いかけるが、返事はなかった。気のせいだと自分に言い聞かせ、作業を再開した。そのとき、ふと背後に視線を感じた。
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振り返ると、そこには肉の塊が無造作に積まれているだけだった。冷蔵室の奥から漏れ出した冷気が、薄い霧のように立ち込めている。だが、それ以上に異様だったのは、その冷蔵室の中で微かに動いている影だった。
「…誰だ?」
吉崎は冷蔵室に歩み寄り、扉を開けた。中はいつも通り、保存された肉や骨が並んでいるだけだった。しかし、その中の一つ、大きな豚の頭部がこちらをじっと見ているように思えた。
「おいおい、何を馬鹿な…」
そう呟いた瞬間、頭部が僅かに動いた。そして、明確に口を開いた。
「お前は、俺たちを解放すべきだ。」
吉崎は後ずさりした。足が滑り、冷蔵室の床に尻もちをつく。豚の頭部はそのまま動かず、再び口を開く。
「何年も俺たちの肉を捌き続けてきたな。その代償を払うときが来た。」
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それからのことは、吉崎にとって悪夢そのものだった。冷蔵室の肉が一斉に蠢き出し、彼に向かって迫ってきたのだ。腕、脚、さらには内臓までもが独自に動き出し、彼を包囲するように集まる。
「待ってくれ!俺はただ…仕事をしていただけだ!」
吉崎は叫んだが、肉の塊は容赦なく彼を押し倒した。冷たい脂身と筋肉の感触が彼の身体を覆い、息ができなくなる。視界が真っ暗になる中、耳元で囁くような声が聞こえた。
「お前も、肉になるんだ。」
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翌朝、吉崎精肉店を訪れた常連客の一人が、店の中で奇妙な光景を目にした。作業台の上には、見たこともないほど新鮮で美しい豚肉が山積みにされていた。しかし、吉崎の姿はどこにもなかった。
噂では、その日から吉崎精肉店の豚肉の味が格段に向上したという。しかし、それを口にするたび、常連客たちは決まってこう口にするのだ。
「この肉、なんだか話しかけてくるみたいだ…。」




