**忘れられた通行証**
#### 1. 古びた引き出し
佐藤由美子は、亡き祖母の家を片付けていた。郊外の一軒家は、使われなくなった家具や古い写真が埃をかぶったまま眠っている。幼い頃から遊びに来ていた家だが、大人になってからは足が遠のいていた。祖母の死後、家を売却する話が進み、家財整理を任されたのだ。
2階の寝室の奥、鍵がかかっていた引き出しを開けた瞬間、由美子は目を引く小さな黒いケースを見つけた。それは、古いパスポートだった。昭和の年号が記され、写真にはまだ若かった頃の祖母の顔が写っている。ただ、奇妙なことに、そのパスポートには見覚えのない国名が記載されていた。**「アナザラン」**。聞いたことのない国だった。
#### 2. 消えた記録
その夜、由美子はスマートフォンで「アナザラン」という国について調べた。しかし、どこを探しても情報は出てこない。世界地図にさえ存在しないようだった。どうにも腑に落ちず、翌日、市役所の戸籍課に足を運んだ。
「おばあ様の記録を確認しますね……あれ?」
係員の顔色が変わった。
「このパスポートの国、記録にありません。そもそも、おばあ様が海外に渡航した形跡がないようですが……」
由美子は背筋に冷たいものを感じた。祖母は旅行好きだったが、確かに海外に行った話は聞いたことがない。ただ、祖母が「一生忘れられない旅をした」と話していたことだけが、頭の片隅に引っかかる。
#### 3. 境界の町
その夜、由美子は悪夢を見た。黒い霧が立ち込める中、古いパスポートを握りしめている自分がいた。周囲には古びた町並みが広がり、人影はない。どこからともなく「帰るな」という囁き声が聞こえた瞬間、由美子は目を覚ました。
翌日、どうしても気になった彼女は再び祖母の家に戻り、引き出しの奥を探った。すると、パスポートと共に手書きの地図が出てきた。それは、日本地図の片隅に小さな赤い丸が記されたものだった。好奇心に駆られた由美子は、その場所を訪れることを決意する。
#### 4. 扉の向こう
地図に記された場所は、山奥にある寂れた神社だった。鳥居の向こうには苔むした階段が続き、境内には誰もいない。由美子が周囲を歩き回っていると、不意に風が吹き、足元に黒い霧が立ち込めた。
気づけば、彼女は異なる場所に立っていた。夢で見た町並みだ。通りには人影がなく、遠くで鐘の音が響く。恐怖を感じながらも足を進めると、ぼろぼろになった掲示板に目を留めた。そこには、見覚えのあるパスポートが貼られており、「許されざる訪問者」という文字が記されていた。
#### 5. 逃れられない旅
突如、背後から足音が近づいてきた。振り返ると、顔のない人々が由美子を取り囲んでいた。声を発することもできず、ただ逃げるしかなかった。気づけば、黒い霧が再び彼女を包み込み、意識が薄れていった。
目を覚ますと、彼女は祖母の家に戻っていた。ただ、引き出しを探しても、あのパスポートはどこにも見当たらなかった。それ以来、由美子は誰かの視線を常に感じるようになった。夢の中では、例の町が繰り返し現れる。そして、目が覚めるたび、手元には消えたはずのパスポートが握られているのだった。
#### 6. 祖母の秘密
由美子はパスポートを手に入れた翌日、ふと祖母の日記の存在を思い出した。以前、家の奥にしまっていた古い箱の中に、祖母が手帳を何冊も保管していたのを見たことがあった。彼女は急いで再び祖母の家へ向かい、押し入れの奥から埃をかぶった箱を引っ張り出した。
その中に、**「昭和38年」**と書かれた日記帳があった。開くと、そこには謎めいた旅についての記述があった。
> **「1963年8月15日――今日、あの山の神社に導かれ、不思議な町に足を踏み入れた。」**
> **「そこはまるで時が止まったような場所。人々は笑顔だったが、心の奥に奇妙な不安を感じた。」**
> **「彼らに言われた。『二度と戻ってきてはいけない』と。」**
ページをめくる手が震えた。祖母も自分と同じ経験をしていたのだ。そして日記の最後には、こう記されていた。
> **「もしパスポートを見つけた者よ、決してそれを持ち歩くな。それは通行証ではなく呪いだから。」**
由美子は自分の手元にあるパスポートを見つめた。手放すべきだと頭では分かっていたが、不思議と手が離れない。まるでそれが生きているかのように、彼女を支配している感覚に襲われた。
#### 7. 繰り返される夢
その晩、由美子はまたあの夢を見た。異界の町で彼女を待ち受ける顔のない人々。だが、今回は違った。彼女の前に祖母が現れたのだ。
「由美子……ここから逃げなさい」
祖母は悲しげな表情でそう告げたが、すぐに顔が曇り、何かに引きずられるように霧の中へ消えた。
目を覚ました由美子は全身に冷や汗をかいていた。そして、枕元にはまたしてもパスポートが置かれている。それはまるで彼女を嘲笑うように、黒い光沢を放っていた。
#### 8. 縛られた運命
翌朝、由美子は覚悟を決め、パスポートを焼却することにした。庭先で火を起こし、その中に黒いケースを放り込んだ。炎がパスポートを包み込むはずだった。しかし、奇妙なことに、パスポートは全く燃えなかった。それどころか、煙の中から浮かび上がるようにして、再び彼女の手元に戻ってきた。
その瞬間、背後から囁き声が聞こえた。
「手放せない、逃げられない。それは、お前の罪。」
振り向くと、そこには何もいなかった。
由美子は恐怖に震えながらも、町の図書館へ向かった。「アナザラン」についての手がかりを探すためだ。しかし、何冊もの本を読んでも情報は出てこない。だが、ふと古地図の棚で一枚の地図を見つけた。それには薄く、「アナザラン」の文字が記されていた。奇妙なことに、それは由美子が現実で訪れた神社の近くを指していた。
#### 9. 旅の終わり
由美子は意を決し、再びあの神社を訪れた。今回はパスポートを持ったままだ。神社に着いた途端、霧が立ち込め、異界への道が開かれた。彼女は恐る恐る足を踏み入れる。再び異界の町が姿を現し、鐘の音が響く。
だが、今回は祖母の姿がはっきりと彼女の前に現れた。
「由美子……これは私が背負うべき呪いだったのに、あなたを巻き込んでしまった。ごめんなさい。でも、ここで終わらせましょう。」
祖母はそう言うと、由美子の手からパスポートを取り上げ、町の中央にある石碑の上に置いた。すると、町全体が揺れ、霧がどんどん濃くなる。
「由美子、帰りなさい!」
祖母の叫び声を最後に、由美子は目の前が真っ暗になった。
#### 10. 忘れられた記憶
目を覚ますと、由美子は自宅のベッドにいた。あの神社も異界も、まるで夢だったかのようだ。ただし、手元には何も残っていない。パスポートは消えていた。
安心したのも束の間、鏡を見た彼女の背中には、**「アナザラン」**という文字が刻まれていた。それはまるで、呪いが彼女の一部となったことを示しているかのようだった。
#### 11. 消せない印
由美子の背中に現れた「アナザラン」の刻印。それを隠しながらも、彼女の生活は一見平穏に戻ったように見えた。しかし、夜になると背中の文字が疼き、彼女は奇妙な幻覚を見るようになった。暗い路地、鐘の音、顔のない人々……彼らは次第に由美子の夢だけでなく、現実の中にも現れるようになった。
ある夜、由美子は夢の中で再び祖母の声を聞いた。
「由美子……それは、ただの刻印ではない。それは『鍵』なのよ……」
目が覚めた彼女は、祖母の日記を読み返した。何か手がかりがあるはずだと信じてページをめくると、最後のページにこう書かれていた。
> **「アナザランの呪いを解く唯一の方法は、刻印を正しい扉に戻すこと。」**
> **「扉は霧の向こう、町の中心にある。しかし、犠牲なしには解けない。」**
「犠牲……?」
由美子は恐怖に震えたが、これ以上幻覚に悩まされる生活には耐えられなかった。彼女は意を決し、最後の旅に出る準備を始めた。
#### 12. 最後の訪問
再びあの山奥の神社に向かった由美子。夜の静寂に包まれた神社は異様な雰囲気を醸し出していた。鳥居をくぐると、黒い霧が立ち込め、彼女を再び異界へと引き込んだ。
今回は以前とは異なり、町は完全に崩れかけていた。建物は朽ち果て、鐘の音も不気味に響いている。町の住人である顔のない人々が道端に集まり、彼女をじっと見つめている。彼らは何も言わないが、彼女に道を示すように手を差し伸べた。
由美子は導かれるまま、町の中心にある巨大な扉の前に立った。その扉には、彼女の背中に刻まれた文字と同じ「アナザラン」の紋章が刻まれていた。
#### 13. 真実の扉
扉の前で、由美子の背中が激しく疼いた。彼女は痛みに耐えながら扉に触れると、不意にその先から声が聞こえた。
「ようこそ、選ばれし者よ……お前は代償を支払う覚悟があるのか?」
その声は耳元で囁くようでいて、町全体に響くような不気味さを持っていた。祖母の日記にあった「犠牲」の言葉が頭をよぎる。由美子は問いかけた。
「代償とは何?私はこの呪いから解放されたいだけ……」
声は冷たく答えた。
「お前がここに入った瞬間から、お前自身が犠牲なのだ。」
由美子は背中の痛みが和らぎ、代わりに全身が冷たくなるのを感じた。周囲の霧が濃くなり、顔のない住人たちが扉の周りに集まった。彼女の身体は徐々に霧に溶け込んでいくようだった。
#### 14. 新たな通行証
最後に目を閉じたとき、由美子は祖母の顔を思い浮かべた。そして、不意に全ての音が消えた。
目を覚ましたとき、由美子は再び自宅のベッドにいた。背中の刻印もなくなり、すべてが夢だったかのように静かな朝を迎えた。しかし、何かが違っている。部屋の隅にある鏡を見て、彼女は凍りついた。
鏡に映る彼女の顔には目も口もなく、かつて町で見た「顔のない住人」と同じ姿になっていた。
#### 15. 新しいパスポート
震える手で枕元を見ると、そこには新しいパスポートが置かれていた。開くと中には「アナザラン」の名前と、彼女自身の顔が写っている――目も口もない、その顔が。
扉は閉じられたが、呪いは終わらなかった。それどころか、彼女は新たな「通行証」として、次の訪問者を待つ存在となってしまったのだ。
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### **エピローグ**
由美子の行方を知る者は誰もいなかった。ただ、あの神社に再び黒い霧が現れたという噂が残るだけだった。そして、次にその霧に迷い込むのは、誰なのか――。