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死のうとした日に女神が現れて私は力を手に入れた

作者: 佐伯 岡

 面の皮の厚さと引き換えに事務能力を失ったのかと思うほど仕事ができない事務員がいる。

 それがまぁ運の悪いことに直属のお局様で。

 彼女の尻拭いをしながら彼女の嫌味に頭を下げる日々。

 中途入社で彼女より年下の私が、なまじ仕事ができたのがよくなかったらしい。

 ターゲットになりたくない他の事務員は必死にパソコンの画面だけを見つめ、事なかれ主義の上司は今日も平和にコーヒーを啜る。

 どうしてあの女は自分のミスを棚上げして他人に長々と説教できるのだろうか。

 どうしてあのおっさん及び偉ぶっている全ての役員はあの女に何も言わず給料を支払っているのだろうか。


 いつからか、あの女の嫌味が夢にまで出てくるようになった。

 うまく眠れなくなり、休みの日も憂鬱で、食欲がなくなり、無理矢理食べても味がしなくなり、体重が落ち、生理が止まった。

 常にモヤがかかったような思考回路で「そうだ、死のう」と思った時、久しぶりに活力のようなものが生まれた気がした。


 早速ドアノブに荷物紐を引っ掛けて輪を作る。

 結び方はよくわからないけど、とにかく外れないように何重にも結び目を作った。

 そして、いざ、と顔を上げると、見知らぬ女性と目が合った。

「伊藤梢さん。あなたに力を与えましょう」

 穏やかで温かみのある美しい声だった。

「……だ、だれ?」

「私は、運命の女神です」

 絹のように滑らかな金髪に、宝石のような緑色の瞳。長い手足と豊かなバストをドレープの美しい白いドレスで飾っている。本当に、女神のような美しさだ。

 女神は荷物紐を握ったまま床に座り込む私と目線を合わせる。

 彼女の美しさを引き立たせるための繊細な細工が施された耳飾りがシャリンと澄んだ音を立てた。

 あまりに訳のわからない状況に混乱しながら、少し高揚もしていた。

 だって、女神様は言ったのだ『力を与えましょう』と。

 漫画やドラマみたいにチートな能力を授かってお局をギャフンと言わせたり、人智を超えた力で人知れず人間を消したりできるようになるってことだろうか。

 27年生きてきて、死ぬ間際にこんな奇跡があるなんて想像もしなかった。

 緊張と高揚で声が震える。

「……力が、欲しいです」

 私の言葉を聞いて、女神は慈愛に満ちた微笑みを見せる。それだけで、少し心が軽くなった。

「わかりました。伊藤梢さん。あなたには『任意のものを七色に光らせる力』を授けます」

「……はい?」

 聞き間違いだろうか。

「この力は、『光れ』と念じたものを七色に光らせます。無機物でも生き物でも」

「えっ? あの、光らせる、だけですか?」

 私の縋るような声を受け止めて、女神は流麗に微笑む。

「明滅させることもできます」

「……めい、めつ」

「力の使い方はあなた次第。しっかりと、使いこなしてくださいね」

 女神がふわりと浮き上がる。これは帰る気だ。荷物紐は投げ捨てて、焦って手を伸ばす。

「あ、あのっ」

「なんでしょう」

「こ、この力で人間を消したり……」

「人間を七色に光らせることはできます」

「物を浮かせたり、変形させたり……」

「物を七色に光らせることはできます」

「……承知しました」

 がくりと項垂れた私の頭に、ふわりと女神様の手が触れる。とても温かくて、優しかった。

「あなたのことを、見守っていますよ」

 そう言い残すと、女神様はふわりと浮いて空中に溶けるように消えてしまった。

 目の前に広がるのはしんと静まり返ったいつもと何も変わりない我が家。

 夢から覚めたような心地で視線と落とすと、輪っかにした荷物紐が目に入った。

(輪っか、光れ)

 半信半疑で念じると、なんの変哲もない荷物紐がピカッと七色の輪となった。あまりの光量に1Kの部屋が七色に染まる。

 カラフルに染まった部屋をぼんやりと眺め、女神様に触れられた頭にそっと手を乗せる。

「女神様って、手がちゃんとあったかいんだな……」

 ポツリと呟いたら、なぜだか眠気が襲ってきた。

 規格外のことが起きて脳みそが疲れたのだろう。

「とりあえず、寝るか」

 煌々と輝く荷物紐は『消えろ』と念じればスイッチが切れたように元の姿に戻った。

 結び目だらけのその紐をゴミ箱に投げ入れて、ベッドに潜り込んだ。




 朝、目が覚めるとそのまま機械的にいつものルーティンで支度を終え、職場に向かう。

 憂鬱で、消え入りたくても、デスクについてしまえば手は勝手にパソコンの電源を入れ、仕事を始める。

 今日もあの女は上司にだけコーヒーを淹れ、私だけ飛ばして取引先からもらったお菓子を配る。

 無視される分には別にいい。こちらだって仲良くしたい訳じゃない。

 私の存在に気がついてくれるなと、願いのような気持ちを込めてパソコンだけを一心に見つめる。

「ちょっと、伊藤さん?」

 きた。

 胃のあたりが重くなるのを感じながら、仕方がなく顔を上げる。

 社会人として職場の人間を無視なんてできない。

「会議の資料の準備ができてないって彼が困っているようだけど。あなたに印刷しておくように指示したわよね」

 腰に手を当てて、やれやれ、と言い出しそうなわざとらしい表情で指差した先では、入社2年目の若い男の子が申し訳なさそうな顔をして立っている。

「会議は14時ですよね。あとは印刷とホッチキス留めだけなので昼休み明けにやるつもりですが」

「何言ってるの? 会議は10時からよ。ねぇ?」

 周囲に知らしめるような大声で、男の子の方を向く。

 彼は爽やかなルックスと朗らかな人柄で社内外から評判が良く、この女も彼を気に入っていたはずだ。

 彼は本当に申し訳なさそうに、小さな声で「……はい」と返事をする。

 昨日の指示では間違いなく14時だった。嫌な予感を覚えて会議室の予約管理システムを立ち上げる。

「……会議室の予約も14時からになってますが」

「えっ!」

 驚いた声を上げたのは彼の方だ。

 慌てて私のパソコンを覗き込んでくる。

「本当だ。10時は……他の予定で埋まってる!? 取引先の方がくるのに……先輩、どうしましょう!」

 にわかに慌ただしくなる社内。

 会議室の予約管理をしているはずのあの女をチラリと見れば、眉間に皺を寄せて首を振っている。

「私は確かに言われた通りの時間を予約しました。伝言が間違えていたんじゃないんですか?」

 チラリと上司を見れば、パソコンでニュースサイトを見ながらコーヒーを飲んでいた。

「だいたい伊藤さんも指示を受けた時にきちんと会議の時間を確認したの? 私任せにしていたんじゃない? いつまでも新人気分じゃ困ります」

 甲高い声が耳につく。

 それどころじゃないだろう。

 うるさい。考えがまとまらない。疲れた。


(光れ)

 

 途端に、オフィス全体がパッと明るくなる。

 知らぬ存ぜぬを決め込んでいた他の社員たちも何事かと次々に顔を上げた。

「な、何よこれぇ!」

 ピカピカと激しく七色に光りだした自分の体を見下ろして、彼女が情けなく慌てふためく。人間もなかなかいい具合に発光するものだ。さすが女神の力。

 オフィスが七色に輝く人間に気を取られている隙にキーボードを叩く。

 2年目くんに印刷した紙を1枚突き出した。

「会議室、社内の会議みたいだからこっちの会議室に場所変えてもらえるよう交渉してきてください」

「は、はいっ」

 七色に光る社員はとりあえず置いて駆け出す彼は中々優秀だ。

 続いて資料をどんどん印刷にかける。

 突然発光する人間を見てオロオロしている先輩にホッチキスを突き出した。

「お客様が来る前に会議室を完成させたいので資料のホチキス留めを手伝ってください」

「あ、うん、わかった」

 七色に光る仲間より取引先への礼を優先させるのはさすが先輩だ。

 椅子から立ち上がってポカンと口を開けていた同じ事務職のパートさんに声をかける。

「会議室のお茶の準備お願いします」

「ま、任せてっ」

 人生で初めて見たであろう七色に光る女を置いてすぐに自分の職務に戻れるパートさんは素晴らしい。

(ついでに明滅させとこう)

「キャー! ななな何!?」

 七色に光るだけに飽き足らず悪趣味なネオンかというぐらいチッカチカと点滅し始めたお局に、本人だけでなく周囲もパニックだ。

「会議室押さえられましたっ!」

 2年目くんが戻ってきた瞬間ギョッとした顔を見せる。

「お茶の準備できてます」

 パートさんが戻ってきた途端目を丸くして両手を口元に当てた。

「な、何が起きてるのぉ……」

 視線をお局に向けながら先輩が留めた最後の一部の資料をまとめて、立ち上がる。

「もうすぐ10時です。会議の担当者はお客様をお迎えにお願いします」

 お客様に見咎められてもまずい。お局の光量を少し絞って、私はさっさと会議室へと向かった。

 ピカピカ光る七色の光のせいだろうか。少しだけ気分が高揚していた。




 それから私は、日々色々なものを七色に光らせた。

 ことなかれ上司の禿頭、自宅の鏡、弊社のビル、お隣のビル、通勤電車、コンビニの看板。

 街中で突然ものが七色に光り出す様はやがてニュースにも取り上げられ、SNS上でもあらゆる検証と憶測が飛び交った。

 流石に光らせすぎたかと反省して少し自重したこともあったが、ストレスが溜まったので少し遠出して遊園地全体を思い切り七色に明滅させたりした。


 電気を消した部屋を淡い七色に染め、ゆっくりと明滅させながらソファでくつろぐ時間は私を癒してくれた。

 お局は「自分が最初に光り出したのだ」と自慢に夢中で最近は絡まれる割合が減った。

 力を手に入れて、私の生活は確かに変わったのだ。


 久しぶりにご飯の味がした。

 食べる量が増えて体重が戻ってきた。

 夜眠れるようになった。

 周囲を見る余裕ができて、たまに雑談にも加われるようになった。


 心身ともに少しずつ活力を取り戻し、ゆっくりと、生きていくための力を貯める。




力を手に入れてから1年。

 資格を取り、部署を異動し、職場環境は格段に良くなった。ガラリと変わった仕事を覚えるのは大変だけれど、やりがいがある。

 会社を変えなくても一緒に働く人間が違うだけでこんなにも変わるのか。

 私は運が良かった。

 目につくものを手当たり次第七色に光らせなくても日々を乗り越えられるようになってきた。

 だからこれは、必然なのだろう。


 この力は、きっともうすぐ無くなる。




 8月の、蒸し暑い夜だった。

 昼間ほどではないけれど、決して快適とは言えない湿った空気を掻き分ける。

 家のベランダに出て夜空を見上げると、丸い月が思っていたよりずっと明るく光っている。意外にも、夜空は明るい。

 今日、会社の後輩に告白をされた。

 その彼は部署こそ違うものの、爽やかなルックスと朗らかな人柄で社内外から評判が良く、ずっとずっと真面目に仕事に向き合ってきたことを知っている。

 彼に話しかけられるようになってから雑談にも抵抗がなくなってきた。いつも周囲の空気を明るくする、尊敬できる人だった。

 戸惑った。けれど嬉しかった。

「好きです。伊藤さんの、真摯に仕事に取り組む姿をずっと尊敬してました。きちんと目標があって、それを実現する行動力があって、しっかりしてるのに、その姿がどこか放っておけなくて。そばにいたい」

 一生懸命私を見つめて、丁寧に伝えられる気持ちに、心が震えた。

 私のことを、見てくれる人がいる。

 それはとても力を与えてくれることだと私は知っていたから。


(光れ)


 遠い遠い場所で、太陽の光を反射して、夜空を静かに照らしてくれる月。

 どこか控えめな印象をもたらす月が、派手な虹色に輝いた。

 夏の夜空を覆い尽くす七色。

 建物も、木も、車も、月の光が鮮やかな七色に染める。

 手を伸ばせば、湿度を含んだ空気と共に虹色を掬い取ることができた。

 そのあまりに異様で美しい光量に、色々な場所で人の声がする。窓を開ける音がする。立ち止まって空を見上げる人の姿がある。

「ママー! お月様がへんー!」

「何これ? 異常気象?」

「やば、派手」

「何これ怖い」

「ご機嫌な月ですねー」

 色々な人が夜空を見上げる。

 たくさんの人が上を向く。

 多くの人が、この異常事態を誰かと共有しようとする。

 楽しむ人もいれば、怖がる人だっているだろう。

 怖がっている人には申し訳ない。けれど、私は願う。

 この光に釣られて、今夜命を投げ出すことをうっかり後回しにする人がいればいい。

 この七色に釣られて、涙が引っ込む人がいればいい。

 多くの人が夜空を見上げて、少しでも、自分は1人ではないと感じてくれればいい。


 輪っかにした紐をドアノブに引っ掛けた日。

 あの日私が得たのは、この『任意のものを七色に光らせる力』だけじゃない。

 美しい女神様の微笑みと、頭に乗せられた手のあたたかさと、「見守っている」という言葉。

 あの全てが、今まで私を生かしてくれた。

 1人じゃない。

 それだけで、少しだけ生きやすくなったから。

 

 願いを込めて、私は世界を七色に光らせる。

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