最終話
盛況だったおはじき大会が無事に終わり、何事もなく日常に戻っていったが、今度はいつおはじき大会をやるのかという問い合わせが役所に来るようになったと、勇が米子にいってきた。そんなの知らないよと、米子はそっけなかったが、勇は本気でおはじき大会を恒例の行事にしようかと考えているようだった。
翔は無口になり、必要なこと以外は口をきかないので、米子は一人悶々としていた。いつ翔が東京に帰りますと言い出すか、そればかり気にしていた。しかし、翔のほうはいつもと変りなく配達や仕入れ、おでんの仕込みから料理の注文までこなしていた。まとめて取った会社の休暇もそろそろ終わろうとしていた。米子が東京に帰る日が近づいていた。
その日は十一月半ばにしては日差しが暖かい日曜日だった。進と乃絵留が自分の家とたなか屋を行ったり来たりして翔におやつをねだっては友達と遊んでいた。田舎のことだから小学生の子供たちの遊び場はもっぱら家の外なので、大きい子も小さい子も一緒になってあたりを駆け回っていた。
収穫が終わった田んぼに生米を播いておいて、集まった雀の群れを網で追いかけまわしたり、畔を掘り返して冬眠に入っているザリガニを取ったり、そのほかにも遊ぶことには事欠かない。空腹になればみんなで翔のところにやってきておやつをもらってまた遊びに行ってしまう。そんな具合で、あけのが店に子供たちを迎えに来たのが夕方の四時ちかくだった。米子が、いないというと「どこで遊んでいるんだろ。もう暗くなってくるのに」といいながら自分の家に帰っていった。
その時は翔も軽トラに乗って留守にしていて、あけのもそうだったが、米子も子供たちがまだ帰って来ていないのを気にしていなかった。どうせ遊びに夢中になっているのだろうと軽く考えていた。しかし、小学四年生ぐらいの男の子が数人、店に飛び込んできて「かける兄ちゃん!」と叫んだとき、何かあったのかとドキッとした。子供たちの息遣いは激しく血相も変わっていた。
「翔はいないよ。どうしたの」
「おばちゃん。進がため池に落ちた!」
米子はエプロンを外して右隣りを指さした。
「進のおばちゃんにすぐに教えて」
子供たちは隣に駆け込み、米子は119番に通報して店を開けっ放しにしたまま走り出した。
「ヨネ子! ヨネ子お!」
家から飛び出してきたあけのが後ろで叫んだ。
「消防には電話したから」
あけのに怒鳴ってそのまま走り続けた。西日は山の端から浮いていてまだ明るい。しかし、晩秋の夕日の逃げ足は速く、米子の足との競争だった。米子は早かった。全身で風を切ってぐんぐん走った。商店街の別れ道を左に曲がって田んぼが広がる農道に出た。稲穂が刈り取られて丸裸になった田んぼの道をため池目指して走った。舗装された農道はまっすぐに伸びていて碁盤の目のようになっている。誰もいなくて、寒風に晒されたひびだらけの田んぼが続く先にそのため池があった。ため池の周りはちょっとした森になっていて、そこも子供たちの遊び場だ。進は泳げるのだろうか。あけのに聞くのを忘れていた。泳げたとしてもこの寒さだ。水温が低くて身体はじきに動かなくなる。一刻の猶予もなかった。
米子は汗を吹き出しながら走った。胸が苦しくて息が乱れたがスピードを緩めることはしなかった。進の命がかかっているのだ。農道の先のため池の森が黒々と見えてきた。米子は自分を叱咤した。頑張れ、足! 走れ、足! 耐えろ心臓!
「米子さん!」
後ろから呼ばれた。翔だった。軽トラの走行音も聞こえなかったぐらい米子は必死に走っていたのだ。
「乗ってください」
翔が軽トラのスピードを落としたが、ため池は目の前だった。足を止めて車に乗り込む時間のロスさえ惜しかった。米子はそのまま走り続けた。その横を軽トラが走り抜けていった。ため池の前で車を止めてエンジンを切り、翔が車から飛び降りて池に向かって走りだした。翔の体は大きく傾ぎ、本人は走っているつもりでも、その姿はとても走っているようには見えなかった。追いついた米子が翔の横を走り抜けざま翔に向かって叫んだ。
「あんたの足じゃダメだ! 進にしがみつかれて二人とも溺れ死ぬ!」
翔がぎょっとして足を止めた。呆然として動かなくなった。
誰かが開けたフェンスの穴をくぐって五、六人の子供たちがため池の際で騒いでいた。乃絵留もいて、米子に気がつくと池を指さし何か叫んだ。見ると進は岸から五十メートルほど離れたところで肩まで水に浸かり、フローターにつかまってわんわん泣いていた。フローターとは釣りに使う道具の一つで、座いすの周りに浮袋を付けたような形態で、座面にすわったままプカプカ浮きながら魚のいそうな場所に移動して釣りをする簡易ボートのようなものだ。誰かが置いて行ったのか、あるいは捨てていったものか、そのフローターはかなり古くて色が変色していた。例えば背中の浮袋と左右の浮袋の二か所が破損しても残りの一か所が大丈夫なら沈まないようにできている安全性の高いものだが、進がつかまっているフローターは、二か所破損、残りの一か所もポリ塩化ビニルの経年劣化のせいで水がしみ込んでほぼ沈みかけていた。
フェンスをくぐって、騒いでいる子供たちのところに急いだ。池から離れていろと子供たちに怒鳴って上着を脱ぎ捨てると、ためらわずに水に入っていった。
池の岸は斜めになっていて泥や苔のせいで足がずるりと滑った。そのまま思い切りよく頭から水に飛び込んだ。冷たかった。心臓がぎゅっとなる。身体を氷水で締め付けられたみたいだ。助けに来る米子の姿を見て進の泣き声が悲鳴のように甲高くなった。米子ははやる心を押さえて力強く水をかいた。抜き手を切ってクロールでぐんぐん進む。視界に捉えている進の顔がじりじり水に沈んでいく。フローターがついに沈下したのだ。進の頭も水に沈んだ。それを見て思い切り息を吸い込み水中に潜った。水の抵抗を最小限度に抑えてスピードを加速する。またたく間に近づくと進の身体を回り込んで、しがみつかれないように背後つけた。後ろから進の首に腕を巻きつけ、強く水を蹴った。ザバンと水しぶきが上がって水面に飛び上がった。進が激しく呼吸する。自分の肩に進の頭を乗せてもう片方の腕で岸に向かって水をかいた。
見ると、消防車と救急車が駆けつけたところだった。あたりはすっかり暗くなっており、鮮やかな赤色灯の回転ランプが物々しかった。救急隊員が何人も走ってくる。その後ろで、車で駆けつけたあけのが狂ったように叫んでいた。
岸について進を抱えたまま上がろうとしたが足が滑って上がれない。何人もの救急隊員が手を差しのべて引っ張り上げてくれた。あけのが進に飛びついてくる。乃絵留も泣きながらあけのにしがみついた。
進を彼らに預け、脱ぎ捨てた上着をはおって息を切らせながら翔のところに歩いて行った。全身から水を滴らせ、寒さで唇が紫色になり、なかなか息が整わなくて肩も胸もあえいでいた。髪をべったり頭に張り付かせて、濡れネズミのような有様の米子が、疲れ果てて足を引きづるように一歩一歩近づいてくるのを、地面にへたり込んだまま翔は目を見開いて見つめていた。
「翔、帰るよ」
一声をかけて軽トラに向かう。翔は動こうとしなかった。唇を噛み、項垂れたままだ。彼の肩が震えていた。自分の曲がった足に目をやると、彼はその足をこぶしで殴り始めた。
「くそっ、こんな足! こんな足!」
気づいた米子が戻ってきた。
「何やってるんだ翔」
顔を上げた翔の目は濡れていた。
「泣いてるのか?」
翔はこぶしで涙を拭うと米子を睨みつけながら立ち上がった。
「ぼくは誰も救うことができないんですか。ぼくは何の役にも立たない無用な人間なんですか!」
「はあぁ? 何言ってるんだおまえ」
「ぼくはどうしたらいいんです。溺れた子供一人救えない、ぼくという人間に救いはないんですか」
「言ってることがわかんないなあ。なに深刻になってるんだ? わたしが進を助けたことを怒っているのか?」
「そうじゃない。進くんを助けられなかった自分に怒っているんだ」
「とりあえず足を治しなよ。病院でちゃんとみてもらいなよ。以前からそう思ってたんだ。治るんなら、治しなよ」
翔は目を見開いた。
「足を?」
「そうだよ。こんど誰かが溺れたら翔が助ければいいよ」
「ぼくが、助ける……。ぼくにも人を助けることができる……それができたら……」
「帰ろう。寒くてダメだ。風邪ひくよ」
くしゃみをしながら車に乗り込むと翔もやってきて運転席に座った。あたりはすっかり日が暮れて、ため池のところにいる子供たちの親たちが車で駆けつけて騒がしくなっていた。翔の運転で家に帰り、熱いシャワーを浴びたが、その夜米子は熱を出した。風邪を引いたのだ。翔がかいがいしく米子の世話をしてくれて、もともと頑丈な米子は三日もすると全快した。それを待っていたように翔は荷物をまとめてたなか屋を去って行ったのだった。別れは簡単なものだった。米子は翔と携帯電話の番号の交換もしなかったなとぼんやりおもった。それほどあっけない別れだった。
不思議なもので、翔のいないたなか屋は、やけにがらんとして寒々としていた。暖簾を出していてもいなくても、客は勝手に戸を開けて店にやってきてあれこれ注文し食べていくが、それらの客をこなす手際もすっかりこなれ、子供達には米子おばちゃんと慕われるようになっていた。口が悪く、いささか乱暴だが、人柄に嘘はなく、米子はいつのまにかたなか屋に根付いていた。しかし、長期休暇も終わりになり、暖簾をしまい、店に鍵をかける日がやって来た。
「ヨネ子、こんどはいつ帰ってくるの」
車で駅まで送ってくれたあけのが無人の改札の前でいった。左右の手は進と乃絵留の手を握っている。二人はあけのの手を振りほどいて遊び出した。
「わからない。とにかく東京に帰るよ。翔なんだけどさ、あけのになにか言ってた?」
「別になにも。お世話になりましたとだけ」
「電話番号とか住所とか、聞いてるんでしょ」
「電話番号はわかるよ。ヨネ子は知らないの?」
「うん。知らなくても困らなかったし」
「へええ。最後まで仲がわるかったんだ。住まいは東京の神楽坂とかいってたなあ」
「食べ物屋でしょ? 実家」
「そうみたいね」
「知ってるのはそれだけ?」
「それだけ」
「そうか」
そろそろ電車が来る時刻だった。改札を通ってがらんとした上りのホームに立つと、あけのと進と乃絵留が線路の柵のところに移動してきた。
「おばちゃーん、またきてねー」
進と乃絵留が手を振っていた。電車がホームに入ってきて乗り込むとき米子も彼らに手を振り返した。
東京に戻って、米子の生活は平常に戻った。朝六時に起きてトーストにハムを挟んでコーヒーで流し込み、手早く化粧をして身支度を整えてアパートを出る。混み合うバスで駅まで出て電車に乗り換えて二十五分。ホームから吐き出される人々の流れに揉まれて駅を出たら会社までは徒歩だ。考えなくても足は勝手に動いて仕事場まで運んでくれる。あたり前の日常。当たり前の毎日。
自分のデスクに座って、決まりごとのように周りの同僚と挨拶を交わしパソコンを開いて仕事を始める。指は滑らかにキーボードの上を滑っていく。慣れ切った仕事。慣れ切った職場の空気。
米子は息苦しくなって大きく息を吸った。山から吹いてくる清冽な空気が肺に入ってきた。その風の冷たさに両耳を手で覆ったとき、夢から醒めたようにはっとした。あたりを見回す。広い事務所の空間を満たしているのはファックスの音、電話の音、社員の交わす会話とざわめき。ああ、わたしは束の間、田舎に帰っていたのだとおもった。
腹がへったよヨネ子、と徳三の声が聞こえた。進と乃絵留の騒がしい足音もする。あけのと勇の顔。翔の澄んだまなざし。
ため息をつきそうになって息を飲み込んだ。捨ててきた故郷だ。いらないといって出てきた家だ。それなのに、寂しくて仕方がない。翔はどうしているだろう。神楽坂に住んでいるというならもしかして会えるかもしれない。翔に会いたい。あの、たなかやに翔がいたこと、翔からおでんのだしの臭いがしていたことが夢ではなかったと確かめたい。翔に会いたかった。
「田中さん。ようやく職場復帰ですね。いない間、寂しかったですよ」
ぼんやりしていたら室田里亜奈が書類の束を抱えてデスクの横に立っていた。
「なんだ、室田さんか」
「なんだはないでしょ。ねえねえ田中さん。以前、田舎のかっこいい男子が乱入してきた合コンなんですけど、リクエストがあったんですよ。驚きましたよ。田中さんがよっぽど面白かったのか、またやろうですって。行きますよね」
「何が面白いよ。わたしを笑いたいだけでしょ。行くもんか」
「ええ? 行かないんですか。どうしたんですか。あんなに合コン漁ってたのに」
「いいから仕事に戻りなさい」
腑に落ちない顔つきで口を尖らせながら里亜奈は戻っていった。里亜奈がいうように、以前は合コンに夢中だった。それなのに色褪せていた。なにがあんなに楽しかったのか思い出せない。下品なほど着飾って、バカみたいに若い子のふりをして、男性の気を引いていた。
「くそッ、それがなんだっていうのよ」
思わず口から負け惜しみの独り言が転がり出ていた。そして、自分はもう、合コンには行かないだろうとおもった。合コンより、もっと大事なものがあるとわかったのだ。
退社の時刻になっていた。仕事のキリがいいところでデスクの上を片づけて更衣室に向かった。コートとバッグを取って会社を出た。ビルの明かりとネオンと車のヘッドライトの流れ。それだけで都会の夜は光の洪水だった。夜空さえ地上の乱反射で明るい。
「マイ子、待てよ」
駅に差し掛かったころ後ろから声をかけられた。振り向かなくても声でわかる。手塚だった。
「歩くの早いなあ。追いつくのに息が切れたよ」
相変わらず陽気で快活だ。今夜の手塚はスーツにトレンチコート姿だ。髪をきちんと撫でつけて、いかにも仕事のできる切れ者です、でも、女性とお年寄りにはやさしいですよとアピールする笑顔満載だ。
「わたしに話しかけないでよ」
「なんだ、機嫌が悪いな」
「手塚の顔を見ると、途端に気分が地面に落ちるから不思議よね」
「田舎のほう、片付いたか?」
「うん。でも、店はそのまま。店の処分まで手が回らなくて」
「不動産関係の友人がいるから紹介してやろうか」
「いらない。あんたとはかかわりたくないから」
「めしでも食っていこうよ」
「行かない。帰る」
「どうせ待たせている相手もいないんだろ。行こうよ。おごるよ」
「おごられる関係じゃないし」
「じゃあ割り勘」
米子の足が止まった。人が流れる狭い歩道で手塚に向き合う。
「手塚さあ、奥さんいるのに、いいのかさ」
「なんで。いいだろ。べつに」
「どういう神経してるの。元カノ誘って奥さんにばれたらどうするのよ」
「気にするなよ。行こう居酒屋。久しぶりに飲もうよ」
「飲んだ勢いで恋人になって結婚待ちして振られたわたしを、振ったあんたが誘うわけ?」
「怒るなよ」
「黙れ!」
言い捨てて歩き出したら手塚に腕を掴まれた。
「なに、この手。放してよ」
振りほどこうとして手塚の顔を見たら真剣な目が米子を見つめていた。
「少し話さないか」
そう手塚がいった。里亜奈が以前言っていた言葉を思い出した。
「離婚の噂があるってきいたけど、ほんと?」
単刀直入な米子の物言いに手塚がぎょっとした。
「そんな噂があるのか」
「手塚のこと、独身女子が離婚待ちで狙ってるよ」
手塚が嫌な顔をした。
「相変わらず下品だな」
「いまさら上品ぶったってしかたがないわよ」
「それもそうだ。長い付き合いだしな」
「そういう言い方、やめろ」
来いよ、というように顎で先を促して歩き出した。束の間ためらったが、結局手塚のあとについて行った。付き合っていたころ、会社の帰りによく行った居酒屋だった。混み具合とうるささがちょうどよくて、会話をしても隣の席に声が届かないのがいいと手塚がいっていた店だ。
生ビールのジョッキと、注文した料理が三品運ばれてきて、とりあえずビールで乾杯した。
「おっと、うっかり乾杯しちゃったけど、しなきゃよかった。わたしも間が抜けてる」
そんなことをいいながら米子は豪快にジョッキをあおった。
「ゆっくり飲めよ。相変わらずだな」
「ビールをゆっくり飲んでたら水になちゃうよ。これだから坊ちゃんはゆるくて嫌だよ」
「がさつなやつだ」
「いいから、飲みなさいよ。でも、酔うまで飲んじゃだめよ。奥さんが待ってるんだから。もしかして、夕飯食べずに待ってるかも。あはは。今どきそれはないか」
「……」
「え? ひょっとして、まじ?」
「でき過ぎの奥さんなんだよ。行儀がよくて上品で、マイ子とは全然違うんだ」
「おいおい。それはないでしょ」
「息が詰まるんだ」
「もう酔ったの?」
「なあ、マイ子。ほんとに離婚するって言ったら、おまえ、どうする?」
「手塚……」
米子は目を見開いてから笑った。
「なんだ。冗談か。悪い冗談だ」
一瞬、肩に力が入ってしまった。その力を抜いてビールを飲んだ。手塚は無言で米子を見つめている。米子は眉をひそめた。
「なに手塚。うまくいってないの?」
「後悔してるんだ」
目を伏せて小声でそんなことをいう手塚を、米子はまじまじと見つめた。夢中になった男だった。相性も合っていた。楽しかったし、幸せだった。振られるまでは。
「愚痴を言うなら相手を間違えてるよ。不愉快だ」
トンとジョッキをテーブルに置く。手塚が顔を上げた。端正な顔だった。わたしはこの人が本当に好きだった。
「手塚、いつからそんな卑怯な男になったのよ。自分で振った女にそんなことを言うなんてさ」
手塚がハッとした。追い打ちをかけるように米子は言葉を続けていた。
「いつまでもお坊ちゃんなんだね。責任取りなよ。好きで結婚したんでしょ。何があったか知らないけど、いいことも悪いこともみんなひっくるめて貫きなよ。貫き通して添い遂げなさいよ」
「マイ子」
飲みな、とジョッキをすすめて米子も自分のジョッキを空にした。そして財布から五千円札を一枚抜いてテーブルに置いた。
「帰るよ。それから、わたし、会社辞めるわ」
「え?」
「いま決めた。ずっともやもやしてたけど、手塚の話を聞いてたら決心がついた」
「そんな大事なことを簡単に」
「じゃあ、帰るね。それと、わたし、知ってるだろうけど、マイ子じゃなくてヨネコなの。わたしの名前は田中米子。じいちゃんが、一生食う米に困らないようにってつけてくれた名前なんだ」
コートとバッグを取って、驚いた顔をしている手塚を残して店を出た。
わたしの名前は田中米子。いい名前じゃないか。恥じることはないんだ。
首筋に入り込む十二月の都会の風に肩をすぼめながら、そう思った。山からの風が吹く故郷へ帰ろう。ばあちゃんが残してくれた、あの厨房で生きていこう。ばあちゃんが、わたしの生きる道を残してくれたのだから。
あしたの風はきっといい風。
米子は晴れ晴れと歩き出した。
霊園を埋め尽くす桜の裸木が木枯らしに揺れていた。洋式の墓石が規則正しく並んでいる一角に翔の姿があった。黒のウールのロングコートに黒革の靴をはいた翔の手には花束があった。彼の隣には背中まである髪を寒風に吹き流したほっそりとした女性が寄り添っていた。年の瀬も間近な墓地に人の姿はなく、翔と理奈の二人だけが世界の中に佇んでいるようだった。
翔は花束を墓に供えた。理奈が、持ってきた紙袋の中から線香を取り出した。火をつけるとき、二人で身を寄せて風をさえぎり、二人の手で囲んで翔がライターを近づけた。炎が乱れる。線香を持つ理奈の手に翔の手がかぶさった。
「これが最後になります」
翔がいった。静かな声だった。
「ええ。二年ものあいだ、ありがとうございました」
理奈の声はか細く風に消えていった。しかし、翔には届いていた。
「お礼なんて言わないでください。ぼくは、一生、佐奈の十字架を背負って生きます」
「それはいけません。姉は翔さんの十字架ではありません。もう苦しまないでください。事故だったんです」
翔は何もいわなかった。理奈から、火が付いた線香の束の半分を受け取る。先に理奈が墓前に供えて手を合わせた。しゃがみこんで背中を丸めて手を合わせている佐奈の髪が風に煽られた。白くて細いうなじが現れた。翔は思わず目を閉じた。
翔が愛した女性、佐奈のうなじも真珠のように美しかった。そこに、翔はよく唇を当てた。後ろから抱きすくめ、首筋に顔をうずめた。佐奈のくすぐったそうな笑い声が脳裏によみがえる。翔は唇を噛んだ。二年たっても、あの時の恐怖は薄まっていなかった。
千葉県の内陸を佐奈を乗せてバイクで走っていた。二人ともお揃いのライディングウェアを着て、お揃いのヘルメットをかぶっていた。防寒防風に優れたライディングウェアを着ていても寒い季節だったが、佐奈は真冬の空気が好きだった。ぴったり翔の背中に身体をつけて翔のウエストに両腕を回している。車に乗るよりバイクのほうが好きで佐奈はいつも翔の後ろに乗るとご機嫌だった。寒くても、ぴったり合わさった背中と胸から暖かさが広がっていく。それが好きだったのだろう。
あの日は薄曇りでことのほか寒かった。道路はガラ空きでバイクが独り占めしているような爽快な気分だった。両側は平地の藪続きで、ときおり小山があったりして視界をさえぎるが、あとは何もない景色だった。
いつの間にか四トントラックが後ろにつけていた。ミラーでそれに気づいた翔が車間を取るために少しスピードを上げた。するとトラックもスピードを上げてきた。隙間がないくらいぴったり後ろについてくる。佐奈は怯えた。翔も怯えた。後ろから見たら佐奈のライディングウェア姿は美しかっただろう。バランスのとれた肢体。美しくカーブを描くウエストライン。女性らしい丸みを帯びた腰。それらを翔は後ろを走るトラックの運転者に見られたくなかった。佐奈を運転者の視界から守りたかった。だからスピードをあげた。するとトラックもあげた。
トラックはぴったりついてきた。相手は四トントラックだ。軽くぶつけられただけでもバイクには大きな衝撃だ。ましてや、本気で横につけられたり後ろから押して来られたりしたらバイクには致命的だ。翔は佐奈に「しっかりつかまっていろ」と声をかけてスピードをあげた。それがトラックを刺激した。カーチェイスがはじまった。思いだしても恐ろしい時間だった。先のカーブはちゃんと見えていた。ハンドル操作も経験を積んでいた。佐奈も後ろに乗り慣れていたから、翔が身体を傾けるとき、息を合わせて身体を傾けるテクニックもマスターしていた。あの程度のカーブなら問題ないはずだった。翔に焦りはなかった。いざとなったらエンジン全開でトラックを振り切ってやる、そう思っていた。カーブに入るあたりで翔は身体を右に傾けた。極端な傾け方ではなかったはずだ。余裕はあった。佐奈もうまく翔に合わせてくれた。いよいよカーブを曲がりきるというとき、トラックが背後で大きくクラクションを鳴らした。暴力的な鳴らしかただった。佐奈が恐怖に駆られて傾けていた身体を起こして後ろを振り向いた。身体を起こすのはタンデム走行では絶対にやってはいけないことだった。アッという間だった。大きくバランスを崩して大型バイクは木の葉のように路上を舞い転がっていた。二人の体は投げ出され、翔は生きていたが右膝が折れ曲がっていた。そして佐奈は翔から十メートルほど離れた荒地の砂利の上で全身を強打してこと切れていた。
その後、翔はすっかり人が変わってしまった。口をきかなくなり、笑顔を見せず、大学に休学届を出して家を出てしまった。翔の実家は東京の神楽坂でも有名な割烹料亭だった。老舗を誇る料亭の跡取り息子は、恋人を死なせた罪の意識にさいなまれて消息を断った。妹が一人いた。妹とたまに交わすメールだけが翔の消息を家族に伝えた。二年間、翔は曲がった足で全国を流れ歩いた。
「もう大丈夫なんですよね? 気持ちの整理はついたんですね?」
線香を供えて手を合わせ、黙祷を終えて立ち上がった翔に理奈がいった。
「たぶん」
不確かな答えに理奈の眉が曇る。
「大学に戻るんでしょ?」
翔は首を横に振った。
「戻らない?」
「辞めます。いまのぼくには大学に行く意味がない」
「まあ」
「佐奈を死なせた罪の意識は消えていません。一生抱えて生きていくつもりです」
「そんな」
「生きてみようと思います。きょうは、そのことを佐奈に話しに来ました。あなたにも聞いてほしい」
「ええ。お聞きしたいわ」
二人は束の間見つめあって歩き出した。駐車場までは歩いて五分ほどかかる。翔の目は意志的に光っていた。
「ある人に言われたんです。こんど誰かが溺れたら翔が助ければいいよ、って」
「どういうことでしょう」
「子供がため池で溺れかけたんです。ぼくは子供を助けようとしました。泳げるから、助けられると思ったんです。そしたら彼女は、あんたの足じゃダメだ。進にしがみつかれて二人とも溺れ死ぬって言ったんです」
その時のことを思い出して、翔は下を向いた。あの時はナイフで胸を切り裂かれたみたいだった。
「まあ……、そんなことを」
「子供は彼女が助けました。そして、また彼女は言ったんです。足を治せって。こんど誰かが溺れたら翔が助ければいいよ、って」
ああ、と翔は長く息を吐いて続けた。
「このままじゃだめだと思いました。目が覚めました。足を治そうと。そして、ぼくを必要とするところで精一杯生きてみようと」
佐奈は許してくれるでしょうか、と翔は理奈に問いかけた。理奈は悲しそうに頷いた。
「姉は翔さんを責めてはいませんよ。許すも何も、翔さんは生きていいんです。自分の人生を大切にするべきです」
翔の瞳が、滲んできた涙で揺れた。唇にかすかな笑みが浮かんだ。
「ありがとう」
「その言葉は、翔さんの心を動かした方に言ってください。いい方と巡り合ったんですね」
翔は何も言わなかった。そして米子の顔を思い浮かべた。懐かしかった。あの人は、どうしているだろうと思った。シゲを荼毘にふすとき、棺に身を投げ出して泣き叫んだ人。ぼくにはわかる。もどかしく、苦しいほどの悲しみが。あの人は、天涯孤独になってしまった。その恐怖にも似た寂寥感を、あの人は目を見張るほどのバイタリティーで乗り越えた。なんとうらやましく、眩しい姿だろう。強くなりたい。翔はそう思った。
駐車場には翔が乗ってきた車のほかにも何台か車が止まっていた。
「わたしの車は向こうです」
理奈が駐車場の左のほうを指さした。
「理奈さん。きょうはありがとうございました」
翔は深々と一礼した。
「もう、お会いすることはないでしょう。どうぞお元気で」
そういって理奈も同じように頭を下げた。翔に背を向けて自分の車のところに歩き出す。佐奈とよく似たその後姿を翔は見つめた。おはじき大会の日に妹とやってきて、翔の曲がった足に手を当てて、二年たちました、帰ってきてくださいと泣いた人が車に乗り込み去っていった。翔の苦しみを理解し、姉の死を悲しんだやさしい人。あの人も、ぼくを支えてくれた人の一人だったとおもった。
翔は理奈の車が見えなくなってから自分の車に乗り込んだ。やるべきことがたくさんあった。翔は顎を引くと滑らかに車を走らせた。
「お兄ちゃん。荷物はこれだけ?」
和音が入院の荷物を車の後部座席に置いて振り向いた。数寄屋造りの母屋の玄関に立って両親が心配そうに見ている。敷石を並べた玄関の脇には箭竹が一叢茂っていて、風に葉が涼やかに鳴っていた。母親は和服姿で、父親は和料理人が着る白の調理服に前掛け姿だ。二人とも仕事から抜け出して来ていた。
「翔、本当に送っていかなくていいの?」
母親が心配そうに声をかけてきた。
「わたしが送っていくから大丈夫よ。二人とも仕事に戻って」
あっけらかんとした和音に翔は苦笑をもらした。
「ぼくは一人で行けるんだけど、和音が送っていくってうるさいからね」
「また、ふらりとどこかに行かれたら大変だもの」
「心配かけたからな」
翔はそういって両親に軽く手を上げて助手席に乗り込んだ。和音が運転席に乗り、すぐにスタートさせる。狭い車道を何度か曲がってメインストリートに出た。神楽坂は階段や路地が多く、美しい石畳の小道や黒板塀の町家や料亭なとが散見する情緒的な町だ。そこを抜けてメインストリートに出れば飲食店や商業施設が並び、人で賑わっている。その交差点を曲がって和音は車で混みあう道路を文京区の方向に向けた。
大学病院の駐車場に車を止めて、翔は後部座席から小型のキャリーケースを取り出した。運転席から和音が慌てて降りてきて翔が持ち上げたキャリーケースを横取りする。
「重いものは持っちゃだめよ」
「だいじょうぶだよ。それにキャリーだから持たなくていいし」
そういって笑ったが、米子さんも、ぼくには重いものを持たせなかったとおもった。口が悪く乱暴な人だったが、さりげなくぼくをかばっていた。ひどい性格なんだけど、人柄は悪くない。ぼくは、あの人の、どんなことでも跳ね返していくバイタリティーに憧れたんだ。
「ここでいいよ。一人で大丈夫だ。帰っていいよ。あ、そうだ和音」
「なに?」
「家業は和音が継いでくれ。四代目の女将はおまえだ」
和音はじっと兄を見つめた。そして、こくんと頷いた。
「足の手術、頑張って。退院の時は迎えに来るから」
「うん。メールするよ」
和音は、病院の正面玄関に歩いていく兄を見送った。曲がった足のせいで、兄は歩くたびに大きく傾く。痛々しい姿だ。あの姿で、兄は二年間もさ迷い歩いた。辛く苦しい二年だったと思う。佐奈さんを死なせてしまった罰を自分に課して痛み続けた。でも、やっとそこから抜け出せる。
和音は携帯電話を出して理奈に電話した。
「和音です。いま、兄が病院に入りました」
「そうですか。よかった」
「理奈さんが坂田スポーツ公園で説得してくれたおかげです。ありがとうございました」
「いいえ。わたしの力ではありません。翔さんの心を動かした方がいたようです」
「そうなんですか。兄にとっても、わたしたち家族にとっても、苦しい二年でした。佐奈さんのことを思うと悲しいですが、わたしたち家族は、これからも佐奈さんのご冥福をお祈りしていきます」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
電話が切れたあとも和音は携帯電話を耳に当てたままだった。木枯らしが吹いた。冷たく乾いた風だった。しかし、都会の風には砂もほこりも混じっていなかった。ただ透明で乾いていた。
「あけのさんですか?」
あけのが携帯電話を耳に当てたらビロードのような低い男性の声がした。
「え、あ、ああ? 翔くんか! 久しぶりねえ。元気にしてた?」
翔が答えようとしたら、そばにいるらしい進が乃絵留を叩いたらしくて乃絵留の泣き声がわんわん聞こえてきた。
「進! なんで乃絵留を叩くの! 乃絵留にドーナツを返しなさい。なんにも食わせてないみたいにがっついて。食べてばかりいるとヨネ子みたいにでかくなっちゃうからね!」
「誰がでかいって? でかいのはあけのだろうが。それ以上太ったら相撲部屋に入門させるぞ!」
米子の大きな声も聞こえてくる。
「おばちゃんがママのこと太ったっていったあ。うわあーん」
乃絵留がさらに泣き出し、進が大笑いしている。相変わらずだなと翔は電話機を耳に当てて微笑んだ。
あけのが電話中だったのを思い出して携帯電話を耳に戻したが電話は切れていた。
「あれ? 翔くんからだったよね」
あけのの呟きは子供たちの煩さにかき消されて米子には聞こえなかった。
桜が満開だった。眠っていた桜の木々が一斉に目覚め、重たいほどの花を咲かせていた。坂田スポーツ公園は桜の花の香りに包まれ、空気まで桜色に染まっていた。
グランドからは野球の快音が響いている。サッカー場からも歓声が上がっている。ピクニック広場にはフリーマーケットやバザーなどの店が広げられ人で賑わっていた。
「ヨネ子、準備ができたぞ」
おはじき大会の腕章をつけた勇が、軽トラの荷台から大きな紙袋を三つほど下ろそうとしている米子に声をかけた。グリーンのジャージを着て、勇と同じように役員の腕章をつけた米子が頷く。
「時間になったら大会開始の放送の案内を流してもらって」
そういうヨネ子へ勇が頷く。
「うん。管理棟に頼んであるけど確認に行ってくるよ。その袋、寄こせ。体育館に持って行けばいいんだろ?」
「あけのに渡して」
「おう」
紙袋を三つ持って体育館に歩いていく勇の後ろ姿から目を移して、あたりを見回した。ほんとうにいい天気だった。空は絵の具のような鮮やかな水色で薄く白雲が流れている。川風は冷たいものの、桜の華やぎが心を浮きたたせる。地面の草も芽吹きだし、若草色が広がりだしている。米子は目を細めて美しい春に笑みをうかべた。
勇はおはじき大会を恒例行事にすることに成功した。たくさんの参加者が今回も詰め掛けている。バザーやフリーマーケットも盛況だ。主催者は勇なので米子は気が楽だった。
「翔、またおはじき大会だよ。あんたもいたらいいのにね」
思わず心の中の言葉が声になっていた。元気でいるといいな、そんなことを思いながら体育館のほうに歩きだそうとした。
桜並木の遊歩道をゆっくり歩いてくる人がいた。長身の男性でスプリングコートを着ていた。遠いので顔はわからなかったがスポーツをする服装ではなかったのでおはじき大会に用のある人かなと思った。
「そこの人、おはじき大会がもうすぐ始まりますよー」
口を両手で囲んで大声を出した。でも、その男性は急ぐ様子もなく、ゆっくりとした足取りを保ち続けた。風が吹いた。強風ではないが、桜並木の枝を騒がせるには十分な強さだった。満開の桜が雨のようにその人に降りかかり姿を隠した。花びらの中から現れた青年は米子を見つめて微笑んでいた。米子は眉をひそめた。近づいて来るごとに彼の顔がはっきりしてくる。米子の心臓が騒ぎ出した。
「翔……」
米子は食い入るように翔を見つめた。美しかった。強いまなざし。まっすぐに伸びた背筋。足は……。
「足が!」
米子は息をのんだ。あれほど曲がっていた足が、まっすぐになっていた。あの、痛々しかった姿が、滑らかに歩いて来る。胸が一杯になった。うれしくて涙がこみあげた。
「翔!」
大きく笑いながら、米子は夢中で手を振った。
米子さんが笑っている。
翔は笑みを大きくした。そして、急ぐことなくゆっくり米子に向かって歩いて行った。
おわり