第六話
「配膳台の皿をテーブルに並べてください。それから納戸からハンディカラオケをだしてください」
「カラオケだとお?」
翔に言われて納戸を開けてみると、百円ショップで売っているプラスチックのカゴにデジタルワイヤレスタイプのマイクとリモコン、テレビに接続するコードと歌本と追加曲のチップがいくつも入っていた。
「それを座敷のテレビに接続してください」
指図されてもたもたしながらコードをテレビにつないでいると、追いかけるように翔の声が飛んでくる。
「米子さん、コップを並べください。それとイカの皮をむいてください」
「イカの皮なんかむいたことないんだけど」
「簡単です、教えてあげますから」
「学生っていってたけど、栄養学かなんかの生徒なの?」
「ちがいますよ。飯屋の厨房で働いていたことがあるんです。それ、その小鉢に里芋を盛りつけてください。使い捨ての手袋があるでしょ。それを使って」
「イカの皮とイモの盛りつけを同時にやれっていうのか」
「ふざけてないで早く。あけのさんだったら、あっと言う間にやってくれるのにな。なまじ手伝ってもらおうと思ったのがまちがいっだたのかもな。足手まといになるだけだし」
「腹立つなあ、その言いぐさ」
「じゃあ、やれるところを見せてくださいよ」
「えらそうに。わたしだって、なんにもしないで大きくなったわけじゃないんだからね。ここにいた頃は、ばあちゃんの手伝いをしていたんだから」
米子は配膳台の上の梅小鉢に、煮上がった照りのいい里芋や花型のにんじん、ゴボウを巻いた昆布に若緑のいんげんなどを手際よく盛りつけていった。米子の動きは敏捷だった。意外なことに、盛りつけかたや彩りの組み合わせもあか抜けていて、またたくまに仕上げていった。翔が右足をかばいながら、重いビールケースを持ち上げて冷蔵ボックスの前に持っていこうとしたら、急いで走ってきて翔からビールケースを取り上げ、軽々と運んでしまう。冷蔵ボックスにどんどんビールを移しかえ、ついでにソフトドリンクの飲料も入れていく。
「イカの皮のむき方を教えます」
呼ばれて急いで翔の横に並んだ。
「耳を外します」
「エンペラーね」
「そう。耳を外してそのまま下に向かって剥いていくと身まで裂けるので、店ではそれはやりません。耳を取ったあとの皮をつまんでむいていくけど、滑るのでキッチンペーパーを使います。こんな感じ」
翔のほっそりした指が器用に動いて見る間にイカを裸にしていく。米子は思わず翔の顔を見上げた。
「あとは切るだけ。米子さん、切れますか?」
長いまつ毛が縁取っている黒々とした目が米子をとらえた。米子はドキッとした。
「いやあ、で、できない」
「じゃあいいです。僕がお刺身のお造りします。代わりに天ぷらを揚げて」
「あ、はい」
米子は用意されていた野菜の天ぷらを揚げ始めた。もたもたしているうちに小皿に刺身を盛り付けおわった翔が、米子が握っていた菜箸を取り上げて天ぷらを揚げ始めた。衣のくぐらせ方が違うのか、翔が揚げる天ぷらは衣が程よく散って見るからにおいしそうだった。
米子はその手際の良さと料理の腕に驚いていた。飯屋のバイトで覚えた腕ではなかった。一方、翔のほうも口には出さなかったが、米子の機敏な動きと疲れを知らない働きぶりに感心していた。米子の動きかたは足の悪い翔に少しでも負担をかけないように気を配っていた。動き回るのは米子で、翔が重いものを持ち上げたり動かしたりしているとすぐに飛んできてその手から奪っていく。いつも嫌味ばかり言って翔に突っかかってくるのに、動いているときの米子は口をきかなかった。鼻の頭に汗をにじませて独楽鼠のように店と調理場を往復している。化粧ははげ、無造作にエプロンで顔の汗を拭うので口紅だけが残っている米子の顔を、翔は何度も盗み見た。自分は彼女の別の一面を見ていると思った。素顔に汗をにじませて懸命に動いている彼女は嫌いじゃないと思った。
勇が所属している野球チーム「ヤングファイターズ」は、野球好きが集まった草野球チームのなれの果てのようなチームで、一番若い十九歳から、最年長は七十三歳までと幅広く、職業も多岐に及んでいた。定期的に他チームと試合をやっていて成績はさておき、試合回数だけはなかなか盛んなチームだった。そのチームの連中が、風呂上がりのさっぱりした顔で、私服に着替えてから店にやってきたのは、西日が山の端に消えかかる頃だった。
準備中の札がかかっている店の戸を開けてぞろぞろ入ってくる団体さんに、翔が元気よく「いらっしゃい」と声を張り上げると、店の中はとたんに賑やかな声で満ちた。
畳の色も柿茶色なら、壁紙も色あせてくすんでいる座敷の古さが、なぜだか居心地のよい空間に変わっていく。竹の節目もそのままの格子天井は暖かな飴色に光っている。テレビの横の床の間には、昔からの水墨山水の掛け軸がかかり、あけのが活けた若いススキとムラサキシブに赤モミジの生け花が、「天、地、人」の基本のままに水盤に飾られていた。押入から出してきた宴会用の客用座布団が並んでいる席が、つぎつぎと人で埋まっていく。それにつれて、賑やかな話し声や笑い声がもりあがっていく。
米子はカウンターの小窓から顔を出して、古びたおでん屋がセピア色の居酒屋に変貌していくのを、不思議な思いで眺めていた。
「ぼんやりしていないで、ビール、運んでください」
後ろから翔にいわれて慌てて冷蔵ボックスからビールの瓶をまとめて取り出して、盆に乗せて座敷に運んだ。
勇が大きな声を出してチームの注意を集めて米子のことを紹介し始めた。
「えー、みなさん。これは、俺の高校の同級生で、この家の跡取り娘のヨネ子といいます。ばあちゃんの孫です。歳は俺と同い年で、独身です。米子、挨拶しろや」
なんだそれ、えらそうに、と思ったが、米子はとりあえずぺこりと頭を下げてからビール瓶を配ってまわった。
「なんだ、ヨネ子、まともに挨拶もできないのか。人見知りの恥ずかしがり屋なんて、おまえには似合わないぞ。えー、次に、このたび、長いこと一緒にやってきた後藤さんが、北海道に転勤ということで、今夜は後藤さんを囲んで飲みたいと思います。では、さらなる後藤さんのご活躍に乾杯しましょう」
一斉にグラスを上げ、勇の乾杯の音頭で宴会が始まった。
偉そうな口をきく勇にむっとしながら、しばらくのあいだ、米子は店と調理場を動きまわった。ろくに返事も返さないのに、誰もが米子に声をかけてくれた。米子は知らなかったが、どの人もシゲのおでんやの一膳飯の世話になったことのある人たちばかりで、チームの中では一番年若で十九歳だという青年までがシゲのことを口にした。
「ばあちゃんのつくってくれた握り飯は、学校帰りの腹ぺこ男子にはありがたかったんですよ。金がないのを知っているから、大きくにぎってくれるんです。たいがいの生徒は、ばあちゃんの世話になっていたと思いますよ。ここがなくなったら、部活の連中、困るだろうな」
そういって笑う青年に、米子は困ったような笑みを浮かべた。高校生の男子たちが、アパートまでやってきたが、あれはもしかしたら、冗談やおもしろ半分などではなく、本気で店を存続してほしいとおもったからだったのだろうか。米子はビールの代わりに炭酸飲料を飲んでいる青年に聞いてみた。
「あのさあ、高校生の男の子たちがいっていたんだけど、都会から越してきた生徒たちのことを移民とよんで、地元の子供たちと対立しているって、ほんとなの?」
森田という青年は素直そうな明るい瞳を曇らせてうなずいた。
「対立というと大げさなんだけど、都会から来た人たちって、何となく雰囲気が違うんですよね。本人たちは意識していないのかもしれませんけど、お高く止まって、こっちを上から見下ろしている感じがするんです。田舎ものの僻みといったらそれまでですけど、なんか、彼らの態度がわざとらしくてむかつくんですよね」
「へええ。ケンカなんかするの?」
「まあ、血の気の多い奴は、陰で、こそこそっと、ね」
「まずいね、それ」
「だいじょうぶですよ。おれらやOBのオッサンたちが、行き過ぎのないように目を光らせてますから。ガス抜きですよ」
「深刻なことにならないように、気をつけなきゃ」
「はい。わかってます」
そんなことを話していると、店の戸があいて、進と乃絵留をつれたあけのが入ってきた。あけののあとに、ヤングファイターズのメンバーの家族がぞろぞろつながって入ってきて、店はさらに賑やかになった。その中に、きのう米子のアパートにやってきた三人の高校生の野球部員も混じっていた。彼らは、自分たちの父親にちらりと目をやったあと、米子にぺこりと頭を下げてから、森田のところでひとかたまりになった。
「なんだ、あれは。家族同伴の飲み会かい」
調理場から、その様子を眺めていた米子がつぶやくと、翔がおかしそうにクスクス笑っていた。なんだか、いいように翔にあしらわれている気分だった。
「ヨネ子。けっこう働くじゃないの」
調理場にやってきたあけのが、エプロンをつけながら声をかけてきた。
「いつもこんな感じなの? 奥さんや子供たちまで来てるじゃない」
「なにいってるのよ。むかしから、こうだったじゃない」
米子はパイプ椅子を引き寄せてあけのにすすめてから自分も腰を下ろした。翔が冷えた生ビールのコップをあけのと米子にさしだしてきた。
「一息入れましょう」
そういう自分は、空になったビール瓶のケースを持ち上げて外の軒下に置きに行こうとする。米子は急いでビールケースを取り上げた。
「だいじょうぶですよ。持てますから」
翔はそう言ったが、米子は無言だった。それをあけのが見ていた。軒下にケースを置いて戻ってきたら店のほうで翔を呼ぶ声がした。翔が店のほうに行ってしまうと、ビールを飲んでいたあけのが、こそっと米子に囁いた。
「あの足、バイク事故でやちゃったんだってさ」
翔が戻ってきたので、その話はそこまでだった。米子はビールを飲みながら、見るともなしに翔を目で追っていた。
大学生だといっていたが、休学でもしているのだろうか。就職はどうするつもりなのだろう。いつまで、こんな田舎でぐずぐずしているつもりなのか。自分がいるべき場所に帰らなくていいのだろうか。家族だって心配しているだろうし、こんなところで働いていたって先はないというのに。
米子が眉をひそめて眺めているのを気にもとめずに、翔は立ちっぱなしで動いていた。
店のほうから、ひときわ高い笑い声がおこった。カラオケがはじまったのだ。進と乃絵留が元気いっぱいにアンパンマンを歌いだした。あけのが、コップのビールを飲み干して立ち上がった。
「徳じいのようすを見てくるわ。熱はお薬が効いて下がっているから、このまま一晩寝かせて、明日病院につれていかどうするか決めるわ」
そういいながら出ていく後ろ姿を見送ったあと、翔に振り向いた。
「いつも、あけのが徳じいの世話をしてるの?」
「そうですね。娘さんが時々きますけど、すぐ帰っちゃいますからね」
「ふぅーん」
あけのがいなくなったので、米子も腰をあげた。ジーンズのポケットの携帯電話が鳴った。手塚からだった。
「マイコ、俺、手塚だけど」
「うん」
「実家からリンゴを送ってきたんだけど、これから持っていくよ」
「これから? だって、もう七時だよ」
腕時計をみながら、もう七時かと思った。帰る時間だ。こんなに長居をするつもりはなっかったので、すこし焦った。
「車で行くから。リンゴをおいたらすぐ帰るよ」
「いいよ、いらない。だいいちわたし、いま実家だし」
「実家って、じゃあ、あした会社を休むのか」
「休まないよ。これから東京に帰るんだもん」
「遅くなるだろ」
「まあね。とにかく、そういうわけだから。でも、わざわざ電話をくれてありがとね」
「おい、まてよ」
電話を切ろうとしたら、呼び止める大きな声がした。
「なに」
「実家、どこだ」
「なんで」
「迎えに行ってやるよ」
「いいよ、遠いし」
「住所を教えろよ」
「電車で帰るから、ほんと、ありがと」
「言えって」
強い声がかえってきた。米子が最寄りの駅名を告げると、「東名高速に乗ればすぐじゃないか」と手塚が言った。
「米子さん。今夜は泊まっていってください」
いきなり翔が電話での会話に割り込んできた。米子はうるさそうに翔を睨みつけた。
「マイ子、そばに誰かいるのか」
「あ、うん」
「だれ」
「あ、まあ、その」
「とにかく、迎えに行くよ。あした、会社なんだろ」
「そう、会社」
「住所を言って。ナビ使うから」
「ちょっと待ってよ。手塚さあ、あんた女房持ちじゃない。やめなよ。まずいよ。奥さんになんて言って出てくるつもりよ」
「彼女は今夜は帰ってこないよ」
「なんで? 喧嘩でもしたの?」
「いいから、住所を言えよ」
「ああ、ええとね……」
里亜奈が言っていたっけ、手塚さんて離婚の噂があるのだと。翔が顔をしかめていたが、住所を伝えて電話をきった。手塚の強引さは付き合っていたころと少しも変わっていなかった。つけつけ言いたいことを言う割には豆でやさしいところのある男だった。手塚の夫婦仲がどうなっているのかは知らないが、元カレにやさしくされていい気分だった。
こちらを睨みつけている翔にわざとらしくにっこり笑顔を向けてやった。
「あのさ、いくら手伝いが必要だからって、わたしを当てにするのはやめなさいよね。最初からこの店は閉めるっていってるんだから、あんたもさっさと家に帰りなさい。学生なんでしょ、大学に戻りなさい。今夜の売り上げはあんたの退職金にしてあげるから」
翔はフンと横を向いた。子供っぽい仕草に、米子は失笑しそうになったが、翔のほうは本気で気分を害しているようだった。
九時を回ったころだった。おでん屋の店の前に手塚がメタルブルーの車体を横付けして、疲れも見せずに車から降りて店の戸を開けたとき、米子は不覚にも胸がときめいてしまった。別れて以来、会社でのスーツ姿しか見たことがなかったので、私服姿の手塚を見ると新鮮だった。いつもマットな整髪料で整えている見慣れた髪型が、その夜は前髪が額に無造作に流れていて若々しかった。表情も豊かで、手塚はこんなに魅力的だったのだと、あらためて驚いた。
空のビール瓶を乗せた盆を持って、ポカンと手塚を見ていたら、気さくな笑顔で片手をあげて座敷に上がってきた。
「マイ子、迎えにきたぞ」
見慣れない男が店に入ってきたものだから、それだけで手塚は注目を浴びた。手塚は洗練されていた。
翔がめざとく手塚に気がついて、調理場から出てきた。とがった声で米子に「帰るんですか」といった。不機嫌をかくそうともしない翔に米子は頷いた。
「あした、会社だからね」
「言ったでしょ。銀行とか役所とか、手続きがいっぱいあるって」
「だから、それは」
言葉に詰まったら、手塚が米子に肩を並べた。
「どうしたの。帰れないのか」
「いえ、そうじゃなくて」
口ごもる米子に、翔がジャージのポケットから紙切れをだして、米子に突きつけてきた。
「なによ、それ」
「ばあちゃんが亡くなってからの店の仕入れにかかった領収書です。立て替えてたんで、ぼくに払ってください」
「なに勝手なことをしてるのよ。店は閉めるっていってるのに、なんで仕入れなんかするの。だいいち、なんであんたがいつまでもここに居座って、店をやってるの。誰の許可を得て店を開けてるの。ていうか、なんでわたしまで手伝わされてるわけ。そんなお金、払わないからね」
「ばあちゃんの口座は封鎖されてます。米子さんが手続きしてください。店を閉めるなら閉めるで、あなたが全部やってください。あなたが、ばあちゃんの最後の家族でたった一人の遺産相続人なんですから」
「マイ子、こちらのかたは?」
手塚が眉間に薄くしわをうかべて米子にたずねた。いつの間にかカラオケがなりやんでいた。にぎやかだった座敷は、かすかに皿小鉢に箸がふれあう音がするだけで、気がつくと全員の視線が手塚と米子と翔の三人に集中していた。
「ぼくは三浦翔です。この店の従業員です。店主の田中シゲさんが亡くなってからは、給料ももらってないし、銀行は凍結されているので金はおろせないし、仕方がないので自分の貯金で店の仕入れをしたんですけど、その金も払わないというんですから、信じられない無責任さですよね。米子さん、金、払ってくださいよ」
領収書をひらつかせながら、翔が米子に詰め寄った。翔の遠慮のない声は座敷にいる全員の耳に届いた。
「金、払わないんだってよ」
誰かが驚いたようにささやいた。
「給料ももらってないのか」
「ただ働きじゃないか」
「ただどころか、翔くんの持ち出しだろ」
こそこそ、ひそひそ、会話が聞こえてくる。米子の頭に血が上った。やおら翔の胸ぐらに飛びつくと、ジャージの襟を掴んで思い切り揺さぶっていた。
「生意気なんだよ。ばあちゃんを看取ったからって恩にきせて、ねちねち嫌みばかり言ってさ。だれが金なんか払うもんか。ぜんぶ自分が勝手にしたことじゃないか。腹に据えかねてたんだ。この家から出てってよ。知らない他人がいたんじゃ、ばあちゃんが死んだっていうのに、泣きたくても泣けないじゃないか。ばあちゃんと二人だけにしてよ。出てけ、おまえなんか、出てけ」
「出ていけっていうなら金を払え。給料よこせ。わがまま勝手のごうつくばりめ」
翔が力任せに米子を突き飛ばした。よろけて倒れそうになって、とっさに手を伸ばして翔の腕につかまった。その時、翔の右足の膝がおかしな角度でねじれたようで、がくんと膝が崩れて米子にのしかかってきた。そのまま二人重なって座敷のテーブルの上に倒れた。テーブルの足が折れて、のっていた食器が次々と畳の上に滑り落ちていく。騒々しい食器の音と飛び散る料理に客も慌てて中腰になった。ジュースやビールがみるみる古畳に広がっていく。店の中は騒然となった。
「ヨネ子! なにやってるの」
あけのが怒鳴り、急いで調理場にぞうきんを取りに走っていく。勇も腰を浮かせて汚れてしまったズボンの前を手で払っている。進と乃絵留の黄色いわめき声に混じって、男子高校生たちの興奮したばか笑いがはじけた。奥さん連中の慌てた叫び声がいっそうけたたましくなる。
折り重なってもがいている米子と翔をひきはがそうと、周りの男たちが手をさしだした。それをかき分けるようにして、手塚が米子の腕を掴んで起きあがらせた。
「マイ子、大丈夫か」
米子が返事をするより早く、立ち上がった翔が、いつもの冷静さを忘れたように目を剥きだして手塚に突っかかっていった。
「なにがマイ子だ。あんた、こいつの名前が米子だって知らないのか。こいつは、自分の名前をマイ子だなんて、カッコつけているけど、本当はコメ子と書いてヨネ子っていうんだぞ。なにがマイコだ。ふざけるな。おかげで、なんど会社に電話をしても田中米子という社員はおりませんていわれたんだぞ。たかが名前で、こいつは、ばあちゃんの死に目に間に合わなかった、大バカ野郎だ!」
「きみ、こいつ呼ばわりはないだろう。いくらマイ子がだめなやつでも、きみにそこまでいわれたんじゃ、俺だって黙っちゃいられないぞ」
「手塚、それ、かばってないし!」
目を三角につり上げた米子が、手塚をじゃまそうに押し退けると、再び猛然と翔に組み付いていった。
「翔! おまえの魂胆を言ってみろ。こんな軒の傾いたおでん屋に執着して、いったいなにが目的なんだ。この家の土地権利書を狙ってとんずらする気なんだろ」
「ヨネ、いいかげんにやめなさいって、いってるでしょ」
ぞうきんを持って戻ってきたあけのが、手にした雑巾を振り回して、スナップをきかせて思い切り米子の顔面を叩いた。
「いっっっってえな、あけの。雑巾でたたくとはなにごとだ」
米子は、今度はあけのに飛びかかっていった。勇がすぐさまあけのをかばって飛びついてくる。
「卑怯だぞ、勇。おまえの女房は関取なみのデブだから、おまえの助けなんかいらないよ」
「わあああん。おばちゃんがママをデブっていったあああ」
乃絵留が大声で泣き出した。それを見て進がゲラゲラ笑い出す。
「ヨネ子、てめえ。あけのが太ってるって、子供の頃から、あけのをからかって泣かしていたよな。うちのあけのは太っているけど、デブじゃねえぞ」
勇が米子を突き飛ばしたものだから、手塚がむっとした。
「ちょっと、きみ。男が女性を突き飛ばすって、それはいけないでしょ」
いきり立った手塚に、勇とあけのが、同じような表情でうすら笑った。
「ヨネ子が女性? ヨネ子が女のうちに入るのかね」
夫婦のクスクス笑いが手塚の神経を逆なでした。勇の首めがけて手塚が掴みかかろうとするところを、周りの大人たちが一斉に止めに入った。それでなかったら収集のつかないことになるところだった。
翔が膝を痛めたらしく、しゃがみ込んでさかんに膝をさすっていた。米子は二階から荷物を取ってくると、手塚の腕を掴んで店を出た。
あけのが宴会の終了を宣言して、めちゃくちゃになっているテーブルや食器を片づけ始めたら、奥さん連中も一緒になって後片づけを始めた。
手塚の車の中でその様子を見ていた米子は、顔を真っ赤にして歯ぎしりした。
「手伝わなくていいのか?」
手塚が、赤くなってしまった米子の頬をちらりと見ていった。
「いいのよ。帰ろう!」
手塚は逆らわずに車を出した。
夜の田舎町の道を照らすヘッドライトの明かりの先をみつめながら、手塚にとっては体験したこともない騒動の中心人物である米子に、驚きと興奮を覚えていた。やっぱりマイ子は刺激的だ、と思った。
神奈川県の西北にある手塚の実家は、ちょっとした土地を持っていた。温厚な祖父と中学校の教頭をしている父と数学の塾の先生をしている母、そしてシンガポールに転勤になっている兄の五人家族で暮らしてきた手塚にとって、米子そのものが、ちょっとしたサバイバルのように思えた。米子を形成している性格や行動は、手塚には予測もつかないように思えた。しかし、髪はもつれにもつれ、化粧が剥げて素顔同然になっている米子の意外に幼い顔は、ひどく手塚をどきどきさせた。ブランドもので完全武装して、合コンに出かけていく米子とはえらい違いだと思った。化けの皮がはがれたわけだが、虚飾をかなぐり捨てた米子のとんでもない気の強さには笑ってしまった。これでこそマイ子だと思った。
機嫌のいい手塚と違って、米子はしょんぼりうなだれていた。手塚が、説教めいたことを言ったりしたら、いつもなら打てば響くように言い返してくるのに、その夜の米子は手塚がなにをいっても口ごたえをしてこなかった。
こんなみっともないところを手塚に見られてしまって、いまさら格好つけてもバカにされておしまいだと観念してしまったのだろうか。しかし、手塚は、今夜のことを会社で言い触らすようなことはしないだろうと思った。そういう人間ではないとおもった。多少口は悪いが、真面目な人柄だ。だから米子は、今までどおり、会社ではデカい顔をしていようと思った。
アパートまで送ってもらってリンゴをもらい、別れ際に手塚が、こんどまとまった休みを取って、実家の整理をしにいったほうがいいだろうといった。翔に払わなきゃならないお金のこともあるし、人任せにはできないことばかりだし、米子もそうするしかないと思った。
翔の本気で怒った顔が目にちらつく。足、大丈夫かな、ひどいことになっていないといいけど。のしかかったとき、翔のやつ、痩せているからつぶれていたし。体重、少し減らそうかな。そんなことを考えながら、ようやく重い腰をあげる気になったのだった。




