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あしたの風はきっといい風  作者: 深瀬静流
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第四話

 アパートに帰ったら、着替えてすぐに出社するつもりだったが、ちらけた部屋に力が抜けた。たった三日間、実家に帰っていただけなのに、シゲの家の洗い晒したような暮らしぶりにふれたからなのか、自分の部屋の乱雑さに嫌気がさした。

 出窓がついた1LDKの小洒落た室内には、脱ぎっぱなしの下着や衣服が床に散乱していて、敷きっぱなしの布団の上には読みかけの女性週刊誌やファッション雑誌が開いたままで放り投げられている。出窓に飾られた鉢植えのゼラニウムは枯れているし、シンクの中の汚れた食器は乾燥してカピカピになっていた。

 わたしはこんな生活をしていたのだと思った。シゲの暮らしぶりにくらべて、自分はなんと自堕落な暮らしかたをしていたのだろうと思った。ゴミと食品とおしゃれ着がごちゃ混ぜになった部屋で、うわべだけ美しく着飾って、誰にも知られないのをいいことに平然としていたのだ。ゴミ箱のふちにひっかかっている破れたストッキングをゴミ箱の中に入れて、米子はため息をついた。重い体をぐったりと布団に横たえると、もう動けなかった。掛け布団を引き寄せて丸くなった。目を閉じると、すっと意識が遠のいた。その夜、米子は熱をだした。自分が思っている以上に疲労と心労が激しかったのだ。

 翌朝、喉の渇きを覚えて目が覚めた。微熱は残っていたが、シャワーを浴びて、念入りに化粧をして、米子にしては落ち着いたかんじの服に着替えて出社した。

 更衣室のロッカーに私物をしまっていると室田里亜奈がめざとく気がついて寄ってきた。

「田中さん、もう出社してきたんですかぁ」

「親が死んだわけじゃないからね。祖母だから」

 軽く笑って見せると里亜奈も笑みを見せた。

「でも、たいへんだったでしょ。お葬式」

「まあね」

 米子は自分の家族とか家庭の話しはしないので、会社の人間は、米子がたった一人しかいない家族を亡くして、天涯孤独の身になってしまったことなど知らない。だから里亜奈もいつもと同じ調子で米子に笑いかけた。

「で、迎えに来ていた男の人、親戚かなにかですかぁ?」

「翔のこと?」

「田舎の彼氏とかじゃないですよねぇ」

「まさか」

「格好はダサかったけど、けっこうイケてましたよねぇ」

「あれが?」

 米子は鼻で笑った。そのまま更衣室を出る。里亜奈もくっついてきた。

「ヨネコ、とか呼ばれてるんですかあ? いいなあ」

 ぴくんと米子の肩が跳ねた。

「室田さん。わたしの名前はマイコですから、まちがわないでね」

 振り向いて睨みつけても、里亜奈のニヤニヤ笑いは消えなかった。

「彼、若かったですよねぇ。二十五、六歳ぐらいに見えましたけどぉ、ヨネコさんよりずっと年下ですよね。可愛いでしょ年下って。やっぱり、甘え上手なんですかぁ?」

「室田さん、マイコだって言ったのが聞こえたのかしら」

「こだわるのは名前だけなんですねぇ、田中さんて」

 笑いをかみ殺している里亜奈に舌打ちして、米子は自分の課に急いだ。途中、廊下で手塚とすれ違った。

「あ、マイ子。おばあさんが亡くなったんだって?」

 呼び止められたが、足を止めずに手塚に振り向く。

「うん。もう耳に入ったんだ」

「たいへんだったな」

「だいじょうぶ、ありがとう」

 手塚はもっと話したそうにしていたが、米子は軽く手を上げて足を速めた。

「田中さん、待ってくださいよぉ。田中さんは手塚さんと同期だったんですよね」

 追いついてきた里亜奈が袖をひっぱて囁いてきた。

「手塚くんを狙ってるの?」

「いえいえ。引き合わせていただけたらうれしいな、とか。えへへ」

「わたしをヨネコだなんて呼ぶオンナに、だれが口利きなんてしてやるもんか。それに手塚は所帯持ちだよ」

 里亜奈が顔を寄せてきた。

「知らないんですかぁ? 手塚さんて、奥さんとうまくいってないんですってよ。離婚も時間の問題だってぇ」

 米子の足が止まった。

「そんな噂、誰がしてたの。名前を言いなさい。とっちめてやる」

「えええ? なんでムキになるんですか? だって元カレでしょ? もう関係ない人でしょうに」

「そんなことまで知ってるの」

「知らない人はいませんよ。棚からぼた餅盗まれたって。あはは」

 米子は噛みつきそうな顔で足を早めた。広いフロアに各部署が入っていて、整然とデスクが並んでいる一角に米子のデスクもあった。

 ビルの窓から朝日が差し込んできているが、フロアの奥のほうまでは陽光は入らない。しかし、米子のデスクは窓の近くだったので、まぶしいほどだった。

 始業時間にはまだ五分ほどあったが、フロアの席はほとんどうまっていた。自分のデスクでのんびりお茶をすすっている直属の上司である係長に挨拶すると、短いねぎらいののち、仕事のことについて二三話をしてから自分の席に着いた。

 デスクに小さな山を作っている連絡と指示待ちのメモに目をとおし、急ぎのものから処理していったら、それだけで三十分かかってしまった。電話をしなければならない外注や社内の部署へ電話を入れ終わってからパソコンを立ち上げる。しばらく細かい数字をパソコンに入力する仕事に没頭した。朝の挨拶をしたきりで、わき目もふらずにキーボードを打ち込んでいる米子に、まわりの同僚は気を使って話しかけることもなかった。

 細かい数字の入力をしながら、電話で間違いの確認の問い合わせをしたり、ミーティングで使う書類の催促を受けたりと、休んでいるあいだにたまってしまった仕事を黙々とこなして、締め切りに何とか間に合うように仕事を片づけたころには肩と目が疲れてパンパンになっていた。

 トイレや給湯室に行ったとき、女子社員が立ち話をしながらクスクス笑っているので何かと思ったら、ヨネコという名前を笑っているのだった。米子に気がついて口を閉ざし、わざとらしく会釈していく女子社員に、米子はなにもいわなかったが、内心では、そんなに人の名前がおもしろいのかと腹が立ってならなかった。だから退社後、疲れた足を引きずって駅に向かっているとき、手塚が追いついてきて「マイ子、おまえ、名前をごまかしていたんだって?」と、声をかけてきたときにはプチンとどこかの糸が切れる音がした。

「ごまかしていたって、なに。なんで手塚までそんなことを言うの」

 米子の顔つきがみるみる変わっていったが、ビルやネオンの照明が邪魔をして手塚は気がつかなかった。

「おまえはよく噂されるよな。こんどは名前でもちきりだぞ」

 悪気などこれっぽちもない手塚が愉快そうに笑った。

「どんな噂か想像できるわ。で、手塚もおもしろがって笑ってたんだ。ヨネコって名前が古くさくて、ババアみたいだって、笑ってたんだ」

 悔しくて、じんわり涙が滲んできた。しかし、米子の悔し涙はやはり手塚からは見づらかった。

「え、ほんとにヨネコっていうのか? マイコじゃなくて? あ、コメ子と書いてマイ子って、そうか、コメ子と書いてヨネ子だったのか」

 これは傑作だ、といって手塚は豪快に笑った。

「手塚にはわかんないんだよ。子供の頃から苛められてきたんだもの、自分の名前が嫌いになってもしかたがないでしょう」

 手塚はハッとした。気まずそうに口元を押さえて米子を窺う。

「苛められたなんて、思い過ごしじゃないのか。マイコみたいに気の強いのを苛めるやつなんかいないだろ。からかわれてたんだよ」

「手塚だって笑ったじゃない。なんで笑ったのよ」

「いや、それは、マイ子のイメージとあわないというか、今ふうじゃないとうか」

「ほら、変なんじゃない。もういい」

「いや、待てよ。マイ子ったら」

 歩きだした米子の肘を手塚がつかんできたが、米子は邪険に振り払って駅に急いだ。手塚が何か言いたそうな顔をしていた。


 土曜日になって、珍しく朝から掃除をした。たまった洗濯物を洗濯機に放り込んで、雑誌を束ねて古紙回収にだした。敷きっぱなしだった布団も窓に干したし掃除機もかけた。ついでに冷蔵庫の中も整理して賞味期限切れの調味料やカビのはえた残り物も捨てた。

 ちょっとした大掃除になってしまったが、きれいになった室内を見渡して、これならばあちゃんに見られても恥ずかしくないかな、と思ったりした。

 押入から古ぼけたアルバムを引っ張りだして、シゲの写真を抜き出した。写真は、シゲが米子の高校の卒業式に来てくれたときのもので、式の終了後、校門で二人並んで撮ったものだった。

 うぐいす色の着物に羽織を着たシゲは、米子以上にうれしそうにほほえんでいた。まだ背中も曲がっていなくて、立ち姿に若さがあった。米子は写真のシゲの頬に指を這わせた。これが二人で撮った最後の写真だった。

「もっといっぱい写真を撮っておけばよかったな」

 もっといっぱい会いに帰っていればよかった。もっといっぱいおしゃべりをすればよかった。生きているうちに、なんで旅行に連れて行ってやらなかったんだろう。田舎とはいえ、時代遅れのモンペしか着ないシゲに、動きやすいズボンぐらい、どうして買ってやらなかったのだろう。ボーナスやお正月くらい、お小遣いをあげればよかった。両親の墓参りに行こうと何度も誘われたのに、面倒がって行かなかった。ばあちゃんはきっと一人で息子夫婦と米子の祖父が眠る田中家の墓に行っていたのだろう。もっと、もっとと、米子は後悔にかられた。スチールラックの上に飾ってあった写真立てをとって、男性アイドルの写真とシゲの写真を取り替えた。

 シゲの暮らしていた家の佇まいには及ばないながらも、掃除をしてきれいになった部屋の真ん中で、米子は涙をぽたぽたこぼした。シゲがこの世にいないことが悲しかった。寂しいというよりも、まっさらな悲しさだった。

 布団を干した窓の向こうには、明るい青空が広がっていた。住宅が密集している地域に建っているアパートにしては日当たりがよくて、玄関のある北側は寒々しいが、南側に面している六畳間は気持ちがよかった。バス通りから五十メートルほど引っ込んだだけで車の音も気にならない。遅い昼食をとったあと、布団を取り込んでから近くのスーパーに買い物に行った。食料品と日用品のストックを買ってアパートにもどったら、部屋の前に男子高校生が三人、手持無沙汰で立っていた。


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