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あしたの風はきっといい風  作者: 深瀬静流
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第三話

「あのかけるってコ、何者よ」

 進を抱いて帰って行こうとしていた勇が、米子の囁きに振り向いた。

「一ヶ月ぐらい前からいるんだよ」

 乃絵留を抱いたあけのも振り向く。

「バックパッカーってやつ? リュックサックを背負ってあちこち旅行してるんだってさ」

 二人ともよく知らないようだった。

「ヨネ子ちゃん、今夜は仏さまのそばにいてやってね。ヨネ子ちゃんのつとめだからね」

 あけのの母親の福子がサンダルを突っかけながらいえば、父親の光男も「それくらいはできるよな、ヨネ子」と、バカにしたようにいうので、米子は塩でもまいてやろうかと思った。

 あけのたちが帰っていったのと入れ替わりに袈裟懸けの坊さんがホンダの軽自動車で到着した。悦夫に言われるまま挨拶をして、経を上げてもらった。そのころには、米子の疲れはピークに達していてなにも考えられなくなっていた。神経がビリビリして吐き気もしていた。読経の途中だったが、我慢ができなくて自分の部屋へ行ってしまった。呆れられようが、悪くいわれようが、どうでもよかった。翔が使っていた布団にもぐり込んで目を閉じた。

 つい数時間前までは、いい気分で合コンしていたというのに、まるで悪夢を見ているようだった。奈落の底につき落とされるとはこういうことをいうのだろうか。感情が現実を拒否していた。布団の中で、意味のない言葉をぶつぶつ呟いては時々不気味なうめき声をあげるのを繰り返した。眠っているのか起きているのかわからない夜をすごして朝を迎えた。

 下におりてみると、徳三が長テーブルの隙間で布団をかぶっていびきをかいていた。一升瓶がほとんど空になっていて、コップに飲み残しの酒が残っていた。翔は壁に背を預けてうたた寝していた。右足を投げ出して、立てた左足の膝に左腕を乗せていた。米子は不思議なものでも見たように翔の寝姿に眉をひそめた。左隣の家の徳三や、右隣の家のあけの一家は、赤ん坊の頃からの馴染みだが、翔とは昨夜会ったばかりだ。初対面の他人が、当然のように自分の家で過ごしていることに強い違和感を覚えた。苛立たしくて、今すぐ翔を追い出したいと思った。シゲの近くにいてもらいたくなかった。

 調理場のステンレスの配膳台の上には、近所の主婦たちがつくっていってくれた煮物や握り飯が、ラップにくるまれてたくさん置いてあった。漬け物や味噌汁もあった。静かな家の中に徳三の規則正しいいびきだけがあった。

 二階に戻ると、シゲの前には枕飾りを乗せた小机が置かれていて、一晩中燃えているという蚊取り線香の親玉みたいなお線香が尽きかけていた。

 米子はシゲの枕元に正座して線香を箱から一本摘んでロウソクで火をつけ、香炉に手向けた。そっと顔にかけられた白布を取る。シゲの寝顔は安らかだった。することを全部やり終えた人のような静かな表情だった。それを米子は悲しいと思った。孫の自分に未練も残さずに逝ってしまったのかと思うと、悔しくて切なかった。それなのに、八十七歳のシゲの命の期限を思いやらなかった自分の身勝手さに胸を刻まれる思いだった。ごめん、ばあちゃん。米子が悪かった。米子は悪い子だと心の中で呟きながらシゲの枕元の畳に頭を打ちつけた。一度、二度、三度と、強く頭を叩きつけた。何度打ちつけても足りなかった。それほど自分はひどい孫だと思った。

「十日ほど前から食欲がなくなって、気力が尽きたみたいにみるみる体から力が抜けていって、それからは早かったです」

 米子はぎょっとして身を起こした。いつからいたのか、翔が米子の後ろに立っていた。

「老衰でした。苦しむこともなく、眠ったまま逝ったので、先生は大往生だと言っていました。生きているうちに、会いに来てもらいたかったのに、悔しいです」

 米子は無言だった。翔に対して、一言の挨拶をするでもなく翔の顔を見上げた。体の中から何かがこぼれ落ちていくような喪失感だった。この人が、ばあちゃんを看取ったのかと思った。この人が、ばあちゃんを看取ってくれたのか。この人が……。

 ポロリと涙がこぼれた。一粒涙がこぼれたら、あとは決壊したダムのように涙があふれた。目を見開いて、滂沱の涙を流しながら米子は翔を見つめ続けた。声は出さなかった。喉が締め付けられたように痛くて泣き声さえ出なかった。じっと静かに見つめ返してくる翔の静かな瞳だけがあった。何を考えているのか、米子を軽蔑しているのか、あるいは憐れんでいるのか、定かではない静かさだった。無言で見つめてくる翔の瞳は黒く深く、悲しみと後悔と苦しさで荒れ果てている米子の胸の中にしみていった。

「お茶でもいれましょう。なにか食べたほうがいい。夕べはなにも食べていないでしょう」

 小さな声で翔がいった。下に誘うのでのろのろとついて行った。

 翔が、配膳台に並べてある大皿から煮染めと握り飯を適当にとって座敷にもどってきた。徳三が目を覚まして、コップに酒をつごうとしたので翔が一升瓶を取り上げた。

「徳さん、酒はあとにしましょう。これを食べて」

「腹は減ってねえよ」

「食べればお腹が空いていたのを思い出しますよ」

 米子の前にも熱いお茶を置いてくれたが、米子はぼんやりしたままだった。

 調理場のほうからあけのが入ってきた。手には高校のときのエンジ色のジャージの上下を持っていた。あの、県立坂田高校とネームの入った体操着だ。

「米子、とりあえずこれを着ていなさい」

 うつろな表情でジャージを一瞥し、差し出してくるのを押し返した。あけのが翔に目をやると、翔がジャージを受け取った。

 しばらくして悦夫が貸し衣装の喪服を持ってきた。誰でも簡単に着られるようになっている着物だ。葬式は、悦夫と勇とあけのの三人が主だって進めていった。市の斎場で通夜をすませ、翌日の告別式では喪主の挨拶を言われるままに行い、いよいよ火葬場で荼毘に付すというとき、目を醒ましたように米子の表情が一変した。

 火葬炉に送られようとしていたシゲの棺にいきなりしがみついて棺の上に身を投げ出し、両手両足手で棺を抱え込むと、喉が破れるような大声で叫んだのだ。

「ばあちゃん。米子は一人はいやだよ! ばあちゃん、米子を一人にしないで!」

 見送りに参列していた人々が仰天して手を伸ばし、米子を棺から引き離そうとしたが、米子の力は異常で、棺を抱え込んだままびくともしなかった。進と乃絵留が怯えてあけのにしがみついた。

 たった一人しかいなかった身内のシゲに先立たれた米子は、これから先、たった一人で生きて行かなくてはならない。降りかかる苦難も、耐え難い苦しみも、何もかも自分一人で受けとめるしかないのだ。

 なりふり構わず、泣きながらシゲの棺に取りすがっている米子を引きずり降ろそうとして勇や徳三が米子の肩に手をかけたが、半狂乱のようになっている米子はその手をことごとく跳ね返した。あけのも、あけのの母親の福子もあけのの父親の光男も葬儀屋の悦男までが、こぞって米子に掴みかかった。進と乃絵留が怯えて甲高く泣き出した。米子の泣き声は一層ひどくなり、斎場に響き渡った。

 それを見ていた翔が震えた。痛ましそうに表情が歪む。米子は何人もの人に押さえられて床に放り投げられた。髪を乱し、着物の襟ははだけ、尻もちをついて大口を開けて泣いている。その隙に、棺は火葬炉に送られていった。順番に焼香をはじめた人たちは米子のことなど放っておいた。翔が米子に近づき、着物の乱れた裾を直し、襟もとを整え、顔に降りかかっている髪をかきあげてから、そっと肩に両手をかけて抱き寄せた。

「だいじょうぶだよ。だいじょうぶだから」

 耳元で翔に囁かれて米子は静かに振り向いた。

「だいじょうぶ?」

 米子が翔の瞳の中を覗き込んだ。

「うん。だいじょうぶ。だいじょうぶだから」

 翔の声はやさしかった。米子の全身からみるみる力が抜けていった。

「ほら、周りを見てごらん。みんないるよ。徳さんも勇さんもあけのさんも悦男さんも、おじさんやおばさんたちも、みんな、いるよ。一人じゃないよ」

「一人じゃない……」

 あけのが子供たちを勇に預けて進み出た。

「ヨネ子。おいで。ばあちゃんを送ってあげよう。ね」

 あけのに促されて米子は立ち上がった。そのあとのことはぼんやりとした記憶しか残っていなかった。静かな斎場の静かなざわめき。ひそめられた人々の話し声。どこかからかすかに聞こえるすすり泣き。それらが米子の耳を風のようにかすめていった。どれくらいの時間が流れたのか、気が付くと外は暗くなっていた。

 夜の六時頃に帰ってきて、遺骨と白木の位牌をシゲの部屋の仏壇の前に置き、改めて線香をあげて鐘を鳴らした。米子はしばらく仏壇の前で放心していたが、階下で音がするので下りて行った。

 翔が調理場で、ガスに火をつけて、おでんの出汁を温めていた。冷蔵庫から大根を数本とって輪切りにしておでん用に厚めに皮をむく。むいた皮は千切りにして人参とごぼうとジャコをまぜてごま油で炒めて突き出しにした。ほかの食材も慣れた包丁使いで手際よく刻んでいく。一通り調理し終えると、店の座敷に長テーブルと座布団を広げだした。割り箸を詰めた箸立てを要所要所に置いていく。店の玄関は閉めていて暖簾も中に入れてあるが、翔が店を開ける準備をしているのだと気がついて米子は尖った声をかけた。

「あんた、なにしてるの」

「いつお客さんが来るかわからないから、その準備を」

「なにいってるのよ。喪中なのに客が来るわけないでしょ」

 翔は肩をすくめただけだった。冷蔵庫に瓶ビールを補充し、ヤカンで煮だした麦茶もヤカンごと冷蔵庫にしまった。

 翔のしていることは、祖母がしていたことと同じだった。翔がここに居着いたのはひと月前からと勇はいっていたが、そのあいだ、翔は祖母の見よう見まねでこうして店を手伝っていたのだろうか。手慣れた様子からするとそうなのだろう。祖母は翔のなにを信用して家に入れたのだろう。祖母の不用心さに米子は呆れる思いだった。

「こんばんは」

 声とともに店の玄関が開く音がした。中年のサラリーマンふうの男性が、緊張気味に店に入ってきた。翔が店先に出た。

「いらっしゃい。どうぞ上がってください」

「いや、客に来たんじゃないんだ。シゲばあちゃんが亡くなったってきいたものだから、お線香を上げさせてもらいたいと思って」

「どうぞ。ばあちゃんも喜びますよ」

 翔が米子のことを、シゲの孫だと教えると、男性は丁寧に悔やみを述べた。男性を店のほうから二階のシゲの部屋に案内した。米子も一緒に上に行くように翔にいわれて上に上がった。客は遺骨が置かれた仏壇の前の経机に香典を置いて線香をあげ手を合わせたあと、米子に軽く会釈して下に降りていった。米子もあとに続いた。

 翔は「木元さん」と声をかけて、テーブルに用意した料理とおでんと酒を示した。

「どうぞ、食べていってください」

「いや、きょうはお参りだけ」

 木元という男が遠慮していると、また玄関に人が来た。

「このたびはご愁傷様でした」

 公務員といった雰囲気の実直そうな五十代の男性だった。翔はその人も仏壇のある二階に案内した。そして、戻ってくると、木元の隣に、その人の料理と酒も用意した。二人の客は昔からの友人のように静かに酒を飲みだした。さらにもう一人、また二人と弔問客が増え、制服を着た高校生や中学生も友達と連れ立ってやってきた。小学生の子供たちもいた。子供たちは親に手を引かれてた。いつの間にか十八畳の和室はいっぱいになっていった。翔は忙しそうに厨房とテーブルを行ったり来たりして弔問客をさばいていた。米子の知らない弔問客ばかりで、彼らは入ってくると線香をあげ、香典をおいて、居酒屋にいるときのように和やかに酒を飲んでおでんや煮物を食べていく。こんな寂れた商店街の古ぼけたおでん屋に、こんなにおおぜいの人がやってくるのが不思議でならなかった。彼らは帰るとき、翔から典返しを受け取って帰っていった。

 夜も更けて、調理場の洗い物をおえてステンレスをピカピカに磨きあげたあと、翔は二階に上がって仏壇の前に座り手を合わせた。それから押入をあけて客布団を引っ張りだすと仏壇の前に布団を敷いた。

「ぼく、ここで寝ますからベッド使ってください」

 遺骨の前で一人で酒を飲んでいた米子にそう声をかけ、風呂場に行って風呂の支度を始めた。風呂の湯がいっぱいになるまでビールでも飲もうというのか、翔は台所の冷蔵庫から瓶ビールを一本出してきた。

「あんたがここで客布団で寝るの? ベッドの布団はあんたが使っていた布団なんでしょうに」

「貸しますよ。ベッドごと」

「じゃなくて、ベッドの布団をここにもってきて、客布団をベッドに持っていきなさいよ。当然でしょ。わたしがこの家の主で、あんたは居候なんだから」

「いや、あなたがお客さんで、ぼくがこの家の人間みたいなものですよ」

「どういう理屈でそうなるのよ」

 米子は自分のコップの日本酒を疲れたように飲み干した。一口ビールを口に含んだ翔が静かにコップをテーブルに置いた。目を伏せて、ため息をつく。

「ぼくがここの店に飯を食いに立ち寄ったのが四十日前です。その間、あなたからの電話や帰郷は一度もなかったですよね。だいたい、いつから来ていないんですか。ばあちゃんはいつもあなたのことを言っていましたよ。『米子はばあちゃんのことなんか、忘れてしまったのかね』って。実際、忘れていたんでしょう。遊ぶのに忙しくて」

 言葉を切って、なにかつまみでも取ってくるつもりなのか、翔は階下におりて食べ物をみつくろって戻ってきた。右膝の曲がり具合がひどくなっているのに米子は気づいた。畳に座って投げ出した右膝を揉むようにしながらさすっている。米子は翔の足から視線をはずした。口には出さなくても自責の念にさいまれていた米子には蒸し返されたくない話だった。だから反抗的だった。

「四十日足らずがなによ。ばあちゃんの手伝いをしていたぐらいで大きな態度だこと。すっかりこの家の人間みたいじゃないの。ばあちゃんのへそくりでもあてにしているならおあいにくさま。お金なんかないからね、うちのばあちゃん」

「知ってますよ。ぼくが仕入れから銀行関係まで全部やってましたから」

 割り箸を歯で噛んでパチンと割りながら、何でもないことのように翔はいった。

「何だって? じゃ、この家の銀行口座の金額も知ってるってわけ」

「はい。残金と香典の合計金額で、なんとか下の調理場のリフォーム代の借金が返せるかな、というところです。米子さんの貯金はいくらありますか。葬式代のほかにも店の仕入れや、ぼくの給料とか、いろいろありますけど」

「そのお金を、わたしに出せって言うの。このわたしに」

「あなたしか、いないじゃないですか、ばあちゃんの身内は。会社を辞めてこのおでん屋を継ぐんでしょう?」

「ぜったいイヤだ」

「このおでん屋の稼ぎで、あなたは大きくなって短大までだしてもらったんでしょ」

「なにを、どこまで、知ってるの。他人のくせに」

「お年寄の一人暮らしは寂しいんですよ。シゲばあちゃんの話は常に過去の話でしたよ。未来の話といったら、米子はいつ顔を見せに来るのかね、という話だけでした」

 なにか言い返してやろうと思ったが、言葉がでてこなかった。仕事や恋愛やおしゃれや飲み会に夢中になって過ごしていた都会での暮らしが、翔の言葉で急にしぼんだ風船のように意味のないものに思えてきた。しかし、翔に痛いところを突かれたからといってしゅんとするような米子ではなかった。米子の強情がむくむくと頭をもたげてきた。

「ばあちゃんの通帳と印鑑を握ってるってことは、この家の権利書のありかも知っているということなんじゃないの? リフォームの借金とかいっていたけど、この家目当てに年寄りの一人暮らしにつけこんだんでしょ。いったいいくらほしいのよ。ばあちゃんが世話になったのは事実みたいだから、お礼ぐらいしてやるわよ」

「金の話ばかりだな。人の気持ちってものを理解できないのかな」

「きれいごとを言っちゃって。あんたの魂胆なんて見えすいているんだから」

「疑り深いときている」

「あんたねえ」

「あ、風呂をみてきてください。そろそろいい頃だ」

「自分がいけばいいでしょ」

「躾もなってない。ばあちゃんが甘やかしたんだろうな」

 翔は右膝を手で持ち上げてから畳に手をついて立ち上がった。重い足取りで風呂場に歩いていく。やがて、湯を使う音が聞こえてきた。米子は瓶ビールに残ったビールをコップについで飲み干した。苦さだけが舌に残って胸のあたりがキリキリ痛んだ。携帯電話は一週間前あたりから盛んに鳴っていたのだ。どうせ祖母の繰り言だとおもって電話には出なかった。言われることは決まっていたからだ。たまには顔を見せろという催促だ。ぜんぜん帰っていないので、そのうち行かなければとおもいながら、忘れてしまう日常が続いていた。翔が祖母の急変を知らせるために電話してきていたのなら、翔にも祖母にもすまないことをしたとおもった。メールアドレスを祖母に教えていなかったのは、祖母が携帯電話を持っていなかったからだが、たとえ持っていたとしても、面倒な操作が八十七歳の老人にできるとは思えなかった。しかし、翔だったらメールを送ってきただろう。そうすれば、いくら無精な自分でも、祖母の元に駆けつけただろう。何という取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。徳三が、いまさら謝っても遅いといっていたが、そのとおりだ。両親がいなくても自分には家族がいるとおもってこれたのは、ここに祖母がいたからだ。離れていても、祖母が元気でいてくれるとおもうから、米子はなにも考えずに自分のことにかまけていられたのだ。経机に置いてある祖母の遺骨ににじり寄って、手を合わせて目を閉じた。

「ごめん。ばあちゃん、ごめんね」

 何度こぼしたかわからない言葉を繰り返した。涙がこぼれてきた。着たままだった喪服の帯をほどいて着物を脱ぎ、あけのが置いていってくれた高校のときのジャージに着替えた。着物は袖だたみにして帯や小物と一緒に部屋の隅に置いた。涙と鼻水が垂れてくる。ジャージの袖でぬぐったとき、風呂場のドアが開く音がした。泣き顔を見られたくなかったので階下に降りようとしたら翔がちょうどバスタオルで頭を拭きながら脱衣所からでてきたところだった。顔を見られないように下を向いて、急いで翔とすれ違うとき、勢い余って翔を肩で跳ね飛ばしてしまった。廊下の壁に翔の肩がぶつかる音がした。

「危ないだろ。気をつけろよ」

 怒鳴り声に耳をふさいで階段をかけ降りた。翔から風呂上がりのいいにおいがしていた。ぶつかったときに翔の胸の広さを感じた。この家に、若い男がいることを初めて意識した。その夜は、翔がベッドに敷きなおしてくれた客布団の中で、風呂にも入らず米子は泣き寝入りしたのだった。


 窓のカーテンから朝日がさしこんでいるのは、布団に潜り込んでいてもわかっていた。金曜の夜に翔に連れてこられて、翌日の土曜日が通夜で日曜日に告別式をすませ、混乱状態のまま昨夜は泣き寝入りしてしまった。

 頭は重いし、体は鉛のようにだるかった。とても起きられるような状態ではない。ぬくぬくと暖まった布団の中で猫のようにまるまっていたら、階段をかけ上がってくる騒々しい足音がした。カスタネットを打ち鳴らすようなにぎやかな足音が部屋に乱入してきたと思ったら、布団の上から重いものを落とされたような衝撃を受けた。

「おばちゃん、朝だよ」

 あけのの息子の進だった。

「おばちゃん、ママが起きなさいって」

 今度は乃絵留が黄色い声で飛び乗ってくる。いくら小さいといっても、小学二年生の男の子と一年生の女の子に、二人して上に乗ってドシンドシンやられては、体格のいい米子でもたまらない。布団ごと子供たちを畳に放り投げていた。

「誰がおばちゃんだって。おばちゃんはおまえたちのママだろうが。わたしのことは、お姉ちゃんとお呼び」

「ママはおばちゃんだけど、おばちゃんだっておばちゃんじゃないか。ひっどい顔してら」

 ベッドから放り投げられたとき頭をぶつけたのか、進はさかんに額をこすりながら生意気そうに口をとがらせた。そんな顔つきは、父親の勇の子供の頃にそっくりだった。

「やっぱり親子だよね。サルにそっくりだ」

「あ、サルっていった。そんなこと言っちゃいけないんだよ。いーけないんだ、いけないんだ」

 おかしな節をつけて乃絵留が踊りだした。

「ママのところにお行き。学校はどうしたの」

 子供たちは、畳に投げられた掛け布団をおもちゃにして遊びだした。

「がっこはお休みだもーん」

「創立記念日がきのうの日曜と重なったから、きょうは代休なんだよ。代休って、どういう意味だかおしえてやろうか」

 と、乃絵留と進。

 布団をぐしゃぐしゃにしてその上で飛び跳ねている子供たちにうんざりしながら両手で顔をこすった。化粧を落とさずに寝てしまったので油でべとついていた。ベッドからおりて風呂場脇の洗面所に向かったら、代わりに子供たちがベッドに飛び乗ってトランポリン代わりにして遊びだした。

 鏡をのぞくと確かにひどいことになっていた。肩まである髪はもつれにもつれて絡まっているし、つけまつげはどこかにいってしまってアイラインが隈取りのように目の周りを汚している。泣き寝入りした瞼はむくんで目をふさいでいた。

 洗面所に置いてある手洗い用の石鹸で顔を洗って、コップに立てかけてある水色の歯ブラシを手にとった。ちょっと考えてから、諦めたように肩をすくめて、たっぷりと歯磨きペーストを絞り出して歯を磨き始めた。コップに水をくんでガラガラ口をすすいでいたら、翔が洗面所に入ってきた。

「あ、ぼくの歯ブラシ!」

 翔はさも嫌そうに顔をしかめた。口をすすぎ終わった米子が、翔を無視して洗面所から出ていくと、翔はすぐさま歯ブラシとコップを神経質なくらい洗い始めた。

 下に降りて、米子は座敷の壁に掛けてあるカレンダーの前で足を止めた。系列会社や下請けの書類の締めが三日後にせまっていた。各社の数字が出そろうころで集計を始めないと二十五日の締めに間に合わないな、と仕事の段取りを思い出して顔をしかめた。事情が事情なのだから、係長に直接電話して室田里亜奈に仕事を代わってもらってもいいのだが、自分の仕事は人には任せたくない。締め切りのある仕事はなんとしても自分で間に合わせたかった。

「帰らなきゃ」

 そうと決まれば早いほうがいい。時刻はまだ九時だから、これから急いで帰れば、十二時ごろにはアパートに着く。シャワーを浴びて身支度して、会社に着くのは三時ごろかと頭の中で計算した。いったん仕事のことが気になりだしたら、あれもこれもとそのほかのことも気になりだした。

 翔が座敷に戻ってきて長テーブルを広げだした。

「葬式が終わったばかりだというのに、さっそく開店準備とか?」

 米子が冗談半分で声をかけたら、翔はまじめくさって頷いた。

「米子さんも手伝ってください」

「わたしは帰るから。仕事が詰まってるの」

「なに言ってるんですか。せめて初七日まではばあちゃんに線香をあげていってくださいよ」

「そうしたいんだけど、仕事だから」

 大人ぶって二階に行こうとしたところへ徳三がやってきた。

「線香をあげさせてもらうよ」

 よっこらしょ、と上がり框に手をついてあがってくる。

「徳じい、ちょうどよかった」

 二階に向かう徳三に、米子は声をかけた。

「わたし、東京に帰るからさ、店の処分を頼まれてくれないかな。売れるものは全部売って現金にかえたいの」

「なんだと」

「この家に帰ってくるつもりはないし、生活の拠点は東京だからね」

「簡単に言うんじゃない。この家はヨネ子一人のものじゃないんだぞ。ヨネ子の父さんやじいさんが暮らした家なんだぞ。それを、家具でも処分するみたいに軽く扱っていいと思っているのか」

「これだから年寄りは嫌なんだよね。最後に残ったわたしが、いらないといっているんだから、いいじゃないの」

「この家がなくなったら、ヨネ子の帰ってくるところは、本当になくなってしまうんだぞ」

「だから、帰ってこないって言ってるじゃない。だいいち、帰ってきたって誰もいないし」

「なにをもめているのよ、朝っぱらから」

 エプロン姿のあけのが裏から入ってきた。あけのの家の庭で生っている柿の実をザルにたくさん入れて抱えている。翔にザルを渡して座敷の中を見渡してから、二階に向かって「進、乃絵留、ご飯を食べてから遊びなさい」と怒鳴った。二階で子供たちが笑い声をあげた。

「あけの。ヨネ子がこの家を処分するっていってるぞ」

 あけのにまで怖い顔を向ける徳三に、あけのは軽くため息をついた。

「そんな大事な話しは今でなくてもいいでしょ。落ち着いてからゆっくり考えなさいよ。それよりヨネ子、翔くんを手伝ったら」

 土間の調理場で、翔が忙しくたち働いていた。

「わたし、帰るから。仕事が詰まってるのよ」

「ヨネ子が休んだって会社はつぶれないわよ。今週は休みをもらって、銀行や役所関係を片づけてしまいなさい」

「店をたたんで、この家も処分するから、こんどゆっくり時間をとるよ。とりあえず今日は帰るね」

 翔にも聞こえるように大きな声をだした。翔は聞こえないふりをして、ザル一つゆでた卵のカラを丁寧にむいていた。勇のおさがりの高校の時のジャージは翔には小さくて、手首と足首が丸見えだった。色の白い、細い手首や足首が寒そうだった。豆絞りの手ぬぐいで頭を包んでいる翔の横顔は無表情だったが、口角はぐいとねじ曲がっていた。卵の肌を傷付けないように、丁寧に殻を向いていく指先の美しさに束の間見とれた。なんと清潔で優しい指先なのだろうと思った。

「ヨネ子、きいているのか」

 徳三がいらいらしていた。

「なに、徳じい」

「本気で店と家を処分するつもりなら、金をおいていけっていったんだよ」

「お金なら、土地が売れたらそれで払うわよ」

 徳三が何かいいかけたが、二階から進と乃絵留がかけおりてきて裸足でコンクリートの土間に飛び降り、卵を剥いている翔の腰に二人してしがみついた。

「おにいちゃん、乃絵留、おなかがすいたよ」

「ボクもおなかすいた」

 あけのが子供たちの手を掴んだ。

「家でご飯を食べなさい。ごめんね翔くん」

「いえ」

 あけのに返事をして翔は白い歯を見せた。あのこでも笑うんだ、と米子は思った。笑った翔はひどく若くて初々しかった。米子は急いで翔から視線をそらせた。翔の若さと自分の年齢を意識してうろたえている自分がいた。

 徳三がまだぶつぶつ言っていたが、米子は二階に行って手早く帰る支度をした。階下に戻ってみると悦夫が来ていた。

「あ、悦夫。お世話になったね。おかげでいいお葬式ができたよ」

 米子が声をかけたら、悦夫は脇に置いてある黒皮の書類鞄から請求書を取り出した。

「ご葬儀が終わりまして、さぞお疲れのことと存じます。つきましては、こちらが請求書となっておりますので、ご確認の上、ご都合のよろしいときに銀行振込をお願いいたします」

「なによ、改まっちゃって。どれどれ」

 恭しく畳の上に置かれた請求書を手にとって複雑な表情を浮かべた。

「高いんだか安いんだか、わかんない金額だね」

「安いんだよ。特売値段だ。それに葬式代を値切ったのはお前ぐらいだぞ。ひどい奴だ。ところでヨネ子。徳じいから聞いたんだが、この家を処分するんだって?」

「うん。ここで暮らすつもりはないからね」

「そうか。それならそれでいいけども、身内を亡くしたばかりというのは、誰でも気持ちが混乱して感情の整理がつかないものなんだよ。ヨネ子はなおさらだろ。ばあちゃんは最後の家族だっんだから」

「あは、やだな。わたしなら平気だって。そりゃあ寂しいし悲しいよ。正直、不安、かな。でもぜんぜん平気。心配しないで。というわけで、これから東京へ帰るけど、お金はむこうで振り込むね。じゃ、おじさんによろしくね」

 悦夫の言葉を途中で遮って、請求書をバッグにしまいながら、早口でまくしたてた。湿っぽいことを言われるのは嫌だった。悲しみに直面したくなかった。飲み込まれそうになる悲しさと寂しさを押さえ込むのに必死だった。八歳のころから親にかわって育ててくれた祖母の苦労と愛情を思うと、恩知らずな自分の髪をかき毟りたくなる。そんな葛藤を悟られたくなくて、米子は大げさなくらい軽薄な態度をとった。

「じゃ、またね」

 軽く片手をあげて、皆に一声かけて、米子は家を後にした。徳三と悦夫が顔を見合わせていた。あけのは子供たちの手を引いて頭をふりふり裏から自分の家に帰っていった。翔は眉間にしわを刻んで口を引き結び、黙々と卵の殻をむいていた。

 廃業した商店が目立ち、ポツポツと櫛の歯が抜け落ちたような商店街を、米子はうなだれながら駅に向かった。家を出たとき、隣のあけのの家が、だいぶみすぼらしくなっているのに気がついた。あけのの家は乾物屋を営んでいた。乾物の売れ行きは芳しくないと見えてシゲのおでん屋とどっこいどっこいの古ぼけかただった。あけのの店ばかりでなく、旧道に並んだ商店街そのものが、新興住宅街の大型店舗に押されて活気をなくしていた。それでも、商店街には郵便局もあれば、規模は小さいなりにスーパーマーケットもあった。商店街の中程には保育園もあるし、その先には小学校だって中学校だって高校だってある。

 人通りがほとんどない商店街をとぼとぼ歩いて、ようやく駅に着いた。歩いて一時間の道のりが、思いのほか遠かった。ここに住んでいた頃は、一時間歩くくらい、なんでもなかったのに、都会暮らしが染み着いたやわな足には堪える距離になっていた。

 カードで無人の改札を通り、上りのホームで電車を待った。ホームからでも山が見えた。吹く風は十月の下旬だというのに、冬のはじめのような冷たさだった。誰もいない小さなホームで、米子は寒そうに腕をさすった。しわくちゃになってしまったブランド物のコートや薄もののスカートが、場違いな華やかさでおちつかなかった。今の自分は、みっともないと思った。せめて服がしわくちゃでなかったら、もう少し背中を伸ばしていられただろうと思った。きっと情けない顔をしているだろうと思った。青みを帯びた冷たそうな山の稜線をぼんやり眺めながら、米子は途方に暮れたように風に吹かれて放心していた。


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