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あしたの風はきっといい風  作者: 深瀬静流
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第二話

「なんでこうなるのよ。なんでわたしが追い出されなきゃならないのよ。こんな赤っ恥をかいたのは初めてだわ。あんたのせいよッ」

  店の前で米子は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

 ヨネコだとばれてしまった。まわりはみんな、男の子も女の子も、キラキラした、かわいい、かっこいい名前をつけてもらっているのに、米子だなんて、ひどい時代錯誤の名前だ。子供のころから、からかわれ、笑われてきた。こんな名前、大っ嫌いだ。だから故郷を出て、知り合いのいない東京の短大に通うようになったときに、マイ子と名のるようにしたのだ。それなのにッ。

 噛みつくように翔を睨むと、彼は路上駐車していた白の軽トラックに乗り込むところだった。

「早く乗って!」

 エンジンをかけてから助手席の窓を開けて怒鳴ってくる。米子は軽トラックに歩み寄ると思い切りドアを蹴りつけた。力が強いのでトラックがぐらりと揺れた。

「だれがこんな軽トラになんか乗るもんか。なにもかも台無しにして、あったまくる」

 きびすを返して駅に向かって歩きだした。

「ヨネ子、ヨネ、聞こえてるの? お、ヨ、ネー」

 どこかで聞いたことのある女の声がした。ヨネ子と呼ぶのは古くからの友人だけだ。

「ヨネ、ヨネ、返事をしなさいよぉ。ヨネ子!」

 声は、自分が手にしていた携帯電話からだった。店で翔が押しつけてきたのをすっかり忘れていた。ヨネを連発している携帯電話に耳を当てた。

「だれッ!」

「だれじゃないでしょ。わたしの声を忘れたの。赤ん坊の頃から高校まで一緒だった、隣の乾物屋のあけのよ」

「なにごとよ。坂田高校のジャージを着た変な男が来てるんだけど、なんなの、あれ」

「翔くんよ。シゲばあちゃんをずっと世話してくれていたのよ。あんた、何年帰ってないか、数えたことあるの? ばあちゃんがどんなに寂しがっていたか、わかってる?」

「説教なんかどうでもいいよ。きいたことに答えてよ。なんで翔というのがここにいるのよ」

「だから、シゲばあちゃんが亡くなったから、ヨネ子を迎えに行ったんじゃない。そう言わなかった? 翔くん」

「冗談はやめようよ。人の生き死にを笑いのネタにするのはよくないよ」

 あは、と米子は笑いをもらした。電話の向こうから、子供たちの騒がしい声が聞こえてくる。何かを取り合って喧嘩しているようだった。

「静かにしなさい進。乃絵留のえるもよ。ママは電話中なんだからね。進はお兄ちゃんなんだから、乃絵留にかしてやりなさい」

 あけのに叱られて進が泣き出した。

「賑やかだね。進はいくつになったっけ」

「小学二年生よ。乃絵留は一年生。うるさくていやになるわ」

「勇に子守をさせればいいじゃないの。暇な役所で時間を持て余して体がなまってるんだろうから」

「パパは、あんたの家で町内会長と老人会の人たちで葬式の下ばなしをしてるわよ。ヨネ子が帰ってきたら電話してくれって、葬儀屋の悦夫が、さっき帰っていったわ」

 米子は携帯電話を耳からはなして不思議なものでも見るように小さな機械をながめた。高橋悦夫は子供のころから同じクラスの幼なじみで、家業を継いで葬儀屋をやっていた。

「ヨネ子。とにかく帰ってきなさい。みんな、ヨネ子のことを怒ってるよ。翔くんがそばにいてくれたからよかったけど、そうでなかったら、ばあちゃんは」

 あけのが声を詰まらせた。米子は最後まで聞かずに電話を切った。困ったように夜空をあおぐ。肩までの髪が夜風に吹かれてはらりと舞い上がった。冷たい風が鳥肌たった首すじをぞわりと撫でて米子はぶるりと身震いした。

「嘘、でしょ」

 呟いた声は、夜風がさらっていった。米子はぼんやりとあたりを見回した。新旧のビルが混在したネオン街の向こうに、威容を誇る高層ビルがそびえている。色褪せた夜空に星はなく、月もビルの向こうに隠れている。歩道にはみ出した飲食店の照明看板がやけに眩しく感じられて、ぎゅっと目を閉じた。

 なんだか頭がくらくらした。翔という男のいったことも、あけのの言葉も、聞いたことのない言葉のようだった。二人とも、なにを言っているのだろう。急に米子は笑いたくなった。おかしなことをいうものだ。あの、ばあちゃんが死んだ? まさか、そんなこと、あるわけがない。ばあちゃんだけは死んだりしない。ヨネ子を残して死んだりしない。ばあちゃんだけは、両親と違う。あはは、と声を上げて笑っていた。

 いったん笑いだしたら止まらなくなった。おかしくてたまらない。下手な冗談はやめてくれ。

 腹に手をあてて笑い続けた。歩道を行き来する人々が、酔っぱらいを避けるようにまわりこんで通り過ぎていく。ふらふらと駅に向かって歩きだしたら翔に腕を掴まれた。

「車に乗ってください。着替えを取りにアパートに寄りましょう」

 振り払おうとしたが、翔の力は強かった。ぐいと引かれて軽トラックにつれて行かれる。

 翔が一歩あるくたびに体がガクンと傾いだ。右膝が曲がっているのだ。手首を引かれている米子も、翔が揺れるたびに引っ張られて体が傾いだ。

「アパートはどこですか」

 米子を助手席に押し込んでから、運転席に回ってきいてくる。

「田舎者に住所を言っても、どうせわからないでしょ。ナビもついてないし」

「では、寄らずに行きます」

 翔は後ろを確認しながら車を車道に乗せた。目的地がどの方向か頭に入っているらしく、東京の道路に戸惑うこともなく右折左折をなめらかに繰り返している。やがて車は下りの東名高速自動車道に乗った。

「ちょっと、ほんとにこのまま真っ直ぐ行くつもりなの。着替えはどうするのよ。なにも持っていないのよ」

「なんとかなりますよ」

 翔は前方を見据えたまま、それっきり口を閉ざした。翔の声は怒っているようにも疲れているだけのようにも聞こえた。

 軽トラックの狭いシートで貧乏揺すりをしながら、米子はいらいらとネイルアートの爪を噛んだ。指先がしびれていた。頭髪の毛根も心なしか逆立っているようだ。

 軽トラック特有のエンジン音がシートの下からかすかに伝わってくる。そのノイズのせいで車内がよけい静かだった。東名高速道路を流れていく車列のスピードに合わせて、軽トラックも快調に飛ばした。はるか前方から続いている車の赤いテールランプが、規則正しく続いていて、きれいだけど物悲しい。いつの間にか夜はとっぷりと暮れていて、つい先ほどは東京のネオンの中にいたというのに、今は車道の両脇は真っ暗で、薄青い夜空のむこうに丹沢の山並みが絵筆で描いたようなシルエットで浮かび上がっていた。

 米子は思い出したように口の中から親指を抜いて舌打ちした。ネイルアートをしていたのをすっかり忘れていた。よほど強くかじっていたとみえて親指の爪の先はぼろぼろになっていた。大きな声でわめきそうになった。せっかくの爪がだいなしだ。窓を開けて、口の中の爪のかすとエナメルの塊を唾といっしょに吐き出してすばやく窓を閉めた。早い動作だったが冷たく強い風が車の中で暴れた。

「汚いなあ」

 翔がほんとうに嫌そうに顔をしかめた。

 米子の胸の中で、荒々しい何かが渦巻いていた。気を紛らわせるために音楽でもかけようとおもってカーステレオのスイッチをいれたら、三味線と太鼓の鳴りもののあとに落語家がにぎやかにしゃべりだしたのですぐに切った。

 翔は無言で運転していた。なにか話せばいいのにとおもったが、翔のほうは話す気がないようだった。米子のほうは訊きたいことがいろいろあった。でも、訊くのが嫌だった。なにも聞きたくない。なにも知りたくない。知らなければ、なにも無いのと同じだからだ。いつもと同じ日常。昨日と同じ今日。

 米子は必死に祖母の死を嘘だと思い込もうとしていた。その米子の嗅覚が、翔から立ち上ってくる匂いに反応した。

「あんた、臭くない?」

 さっきからかすかに異臭がしていた。外にいたときは気がつかなかったが、窓を閉めた車の中にいるせいか、翔から醤油とかつおと昆布が発酵したような匂いがする。米子は鼻をうごめかせて翔から距離をとった。

「においますか」

「臭い」

「染み着いちゃったのかな」

 ハンドルから左手を離してジャージの袖を嗅いでいる。翔からただよってくる匂いは懐かしい匂いだった。祖母の匂いと同じだったのだ。醤油と出汁がまじりあった、おでんの汁の匂いだ。

 祖母が営んでいるちっぽけなおでん屋が、祖母と米子の生活を支えてくれた。おでん屋の二階が住居になっていて、米子はそこで大きくなった。祖父が亡くなったあと、祖母は一人で孫の米子を育ててくれたのだ。

 だめだ、だめ。違うことを考えよう。思い出すな。ばあちゃんは死んだりしていない。 米子はガンガン頭を振った。そして、翔の右膝に目を止めた。

「その足、どうしたのよ」

 唐突な米子の質問に翔の眉がぴくんと跳ねた。

「生まれつき?」

 麦わら帽子が邪魔をして米子のほうからは見づらかったが、翔の眉と口元がぎゅっと縮んだ。そんなことにも気づかず米子は言葉を続けた。

「身長があるから、すごく目立つよね、その足。痛むの?」

 翔は口元を引き結んで答えなかった。

「若そうだけど、歳はいくつなのよ」

 やはり返事はない。米子はちらりと翔の横顔に視線を走らせた。初めて見たときは翔の格好に仰天して、顔などろくに見ていなかったが、ときおり高速道路の照明灯に浮かび上がる横顔は鼻筋が通っていて整っていた。肌も白くなめらかで、ハンドルを握っている指もほっそりしている。力仕事をしている手ではなかった。痩せた肩といい、薄い胸板といい、米子のほうがよほどしっかりした体つきをしている。こんな背高のっぽの痩せっぽちでは畑仕事の重労働はこなせないだろう。おまけにあの足だ。

「あ、そうか。障害者だからなんとかなるのか。会社にも雇ってもらえるし、福祉関係でも優遇されているからね」

 一人で納得して興味を失ったように前を向いた。

「最低だな。あなたって」

「え?」

 くぐもった翔の声を聞き逃したのでふりむくと、翔が一瞬だけ米子を強く睨んだ。目力のある澄んだ目だった。米子はドキッとした。彼の瞳に現れていた軽蔑に、がらにもなくうろたえてしまったのだ。米子は年下の男に一瞬でも動揺した自分の気弱さに怒りを覚えた。

「無神経で悪かったわね。障害者には腫れ物をさわるみたいに神経をつかって、親切にしなきゃいけなかったのよね。運転なんかさせて悪かったわね。片足の長さが足りなくてアクセルを踏むのも大変でしょう。次のサービスエリアで運転を交代しますよ」

 翔は前方を睨んだまま、無言をとおした。そして、中井パーキングエリアで休憩をとって車に乗り込むとき、翔はさっさと助手席に座ってシートベルトをしめた。それを見て、米子はハンドバックの中をかき回して免許証が入っているか確認した。高校を卒業した春に取得したきりで、身分証明に使うとき以外使用したことのないものだ。完全なペーパードライバーだった。

 免許を取得して以来、教習所以外の場所で運転をしたことのない自分が、安全に運転できるとは思えない。米子は、おもむろに背中を丸めて腹を抱えた。ふらつくような足取りで車の前を回り込んで、運転席のドアを開けながら、わざと苦しそうな声を絞りだした。

「急に胃が痛くなってきちゃった」

 助手席にいる翔の顔を見ないようにしてシートに座り、ハンドルに突っ伏して、わざと呻き声をあげた。

「うう、わたしって、すぐ胃に来るのよね。ほら、性格が繊細でしょ。どこの馬の骨だかわからない男と車に乗っちゃったりしてさ、これって、やばいよね。あたた、胃が、痛たた」」

 哀れっぽい声で身をよじった。大げさに指先をふるわせてエンジンをかける。ハンドルにおおいかぶさるようにして前方を睨み、ぐんとアクセルを踏んだ。びゅんと車体が飛び出し、慌ててブレーキを踏む。がくんと前のめりになって車の後部が跳ね上がりストップした。

「うう、でも、大丈夫。あんたはそこに座っていなさい。わたしのほうが免許取得歴は長いんだから、ベテランよ。それに、わたしのほうがお姉さんだし」

 もう一度アクセルを踏んだ。さっきよりももっと素早くブレーキを踏む。車は元いた場所から二メートルしか離れていなかった。

 そんなことを二、三回繰り返しているうちに、後ろに大型トラックが車線に乗るために近づいてきた。ヘッドライトが、ぎくしゃく運転している米子を後ろから強烈に照らしてくる。

 舌打ちして、後ろのトラックを先に通すために路肩に寄せた。トラックはなめらかに下り車線に乗って走り去っていった。

「代わりますよ、運転」

 翔が呆れたといわんばかりに首を振り振り車を降りて前をまわってきた。

「隣に移ってください」

「胃が痛くなければ運転するんだけど、しかたがないわね」

 もったいぶって翔と交代した。ほんのわずか車を動かしただけなのに、冷や汗をかいてぐったり疲れていた。それからは余計なことはいわなかった。

 軽トラックは、馴染みのあるインターチェンジで東名高速を降り、市街地に入っていった。

 米子の郷里は坂田川流域の扇状地に発展した山間の町にあった。何年振りかで帰ってみたら、高校のときまで住んでいた頃より格段に夜景が華やかになっていたので驚いた。

 大企業が何社か移転してきた関係で人口が増え、灯りが密集しているところは、宅地開発が進んで住宅団地になっているところだ。整然と区画された宅地に戸建ての住宅が並んでいて一つの団地を形成していた。そのような団地が、坂田川を中心に川下に向かって広がっていた。

 それに反して、米子が向かおうとしている川上のほうは、昔ながらの民家が点在する田園地帯で、いまだに旧型の丸型ポストが雑貨屋の前にどんと立っているようなところだった。

 翔が運転する軽トラックは、坂田川に架かる坂田大橋を渡りおえてすぐの信号を右折し、住宅が並ぶ道を走って製紙工場の前を通り過ぎ、古い商店街に入っていった。

 都会のようなマンションやビルが無いので、あたりはまばらに明かりが点在するだけで真っ暗だ。商店や民家の向こうには昔のままに田んぼが広がっている。田んぼの遙か先には、山際を縫うように東名高速自動車道が走っている。切れ目なく流れる車のライトの光景は夜を一層物悲しくしている。東名高速自動車道のそばにはカントリークラブもあるし、山の斜面にはみかん畑、なだらかな斜面は茶畑、そして平地には田んぼが広がっているのだが、それらの景色は今は夜の中に埋もれ、かすかに山の稜線だけが向こうに浮かび上がっていた。

 米子は視線を前方に戻した。道沿いに並んでいる家々は雨戸を閉め、商店はシャッターを下ろしているので、道はとっぷりと暗く、ヘッドライトの灯がよけいに眩しい。米子の感覚では、都会の夜の十時頃なら駅前の盛り場は人であふれている時刻だし、住宅地にしたってマンションの明かりやコンビニが夜の暗さを一蹴している。しかし、ここでは今さっき通り過ぎたコンビニがポツンと照明を灯しているだけで商店街は闇の中だった。

 ため息をつきそうになったころ、煌々と明かりを灯した家が見えてきた。米子の実家とその両隣の家が、寒いにも関わらずカーテンを開けて、玄関を開けっ放しにしていた。家の明かりが道路に広がっているだけで物々しい雰囲気がする。米子の毛穴がキュッと締まった。

 おでん屋と乾物屋の間の細い私道に車を入れて翔はおでん屋の裏庭に車を止めた。音を聞きつけて、おでん屋の裏口からあけのが飛び出してきた。

「ヨネ子! あんたってコは」

 あけのが大きな声で叫んだ。あけのはパンパンに太っていた。体のラインがはっきりわかる薄物のセーターにエプロンをつけて、ピチピチのジーパンをはいていた。

「あけの、太ったねえ。すっかりおばさんになっちゃって」

 車から降りて笑っていたら、家の中から豆粒のような子供たちが転がりでてきた。男の子と女の子だった。

「太って悪かったわね。おばさんで悪うございましたね。大きなお世話だ。それより、あんたのその格好はなんなのよ。パーティーから抜け出してきたみたいにチャラチャラしちゃって、喪服はどうしたの、喪服は!」

 小学二年生の男の子と、一年生の女の子が、あけののたくましい右足と左足に抱きついて米子を食い入るように見上げていた。

「進と乃絵留だね。大きくなったね。お姉ちゃんがあんまりきれいで驚いたか?」

 あっはは、と笑いながら米子が子供たちに声をかけたら、進と乃絵留は恥ずかしそうにあけののエプロンの中に隠れてしまった。

 家の中から徳三と勇も出てきた。徳三は痩せて一回り縮んでいた。勇が、足元のおぼつかない徳三の肘に手を添えている。

「勇。久しぶり。ばあちゃんがお世話になったね」

 米子が声をかけると、勇は嫌な顔をした。

「おまえは昔とちっともかわってないな。ばあちゃんに謝ってこい」

 すると徳三が骨の目立つ肩をいからせた。

「手遅れだ。いまさら死んだものに謝ったってしかたがねえ。シゲちゃんがかわいそうだ。こんな、どうしようもない孫なんか、いっそのこと親が死んだときに一緒にあの世にいっちまえばよかったんだ。一人残っちまった孫を、シゲちゃんは、どんだけ苦労して……」

 米子はぐいと胸を反らした。

「徳じいこそ、すっかり耄碌して、まだ生きていたとは驚いたね。お互い、死にぞこなって上等じゃないか」

「なんだと。もういっぺん言ってみろ」

 徳三が、老人とも思えないような野太い声をだした。

「ヨネ子!」

 あけのと勇が同時に大きな声を出した。米子は、わざと勇と徳三の間を突っ切って家の中に入っていった。後ろで徳三がバランスを崩してよろけたので、勇とあけのが徳三を支えて騒いでいた。

 調理場を改築するとき、シゲは昔ながらの土間を残すことにこだわったが、土間では保健所の許可がおりないので、しかたなく土間にコンクリートを流して排水溝を作り、調理場をステンレスで囲んだ。中央に大きな配膳台を置き、田舎のおでん屋にしては立派すぎる業務用の大型冷蔵庫や、やはり業務用のオーブン、電子レンジなど、どんなごたいそうな料理を出すのかと首をひねりたくなるような充実した調理場に変えていた。それを見て、米子は自分の長い不在を実感した。

 調理場を改装することはシゲから聞いていたが、どうせ年寄りが一人で切り盛りする、しがないおでん屋なのだから、ちょこっといじるだけだとおもっていたのだ。

 調理場のすみにビールケースが積み上げられているのを見て、年老いたシゲには持て余す重さだろうにとおもった。ガス台に乗っている業務用のおでん鍋から、煮汁のにおいが立ち上っている。翔の服のにおいと同じにおいだった。

 調理場と店はドア付きの仕切り壁で仕切られていたが、カウンターのような窓口が仕切り壁に開いていて、そのカウンターに客が注文した品を置いて、直接店側から皿を取ることができるようになっていた。店のほうはテーブル式ではなく、十八畳の和室になっていて、通りに面した店の玄関で履物をぬいで上がるようになっていた。会議用の長テーブルを等間隔に並べて、品書きや割り箸を置いていた。

 トイレと洗面所は店の入り口の奥にあって、家のものが使うトイレは二階にあった。二階へは、店から調理場を抜けても行けるが、家の者は調理場のほうの出入り口を使っていた。

 階段の二階の踊り場の左側にトイレや風呂、洗面所がまとまってあり、廊下の並びにダイニングキッチン、その隣がシゲの部屋、さらにその隣の角部屋が米子の部屋だった。

 シゲは自分の部屋で顔に白い布をかぶせられて布団の中で眠っていた。布団の盛り上がりがやけに薄くて、中に人が入っているようには見えなかった。米子はヒュッと喉鳴らした。目を見開き、シゲに歩み寄ろうとしたら足がもつれた。とっさに柱に掴まっていた。息が苦しかった。空気を吸おうとするのに肺の中に酸素が入ってこない。柱を掴んだまま、ゆっくり後退って廊下に戻り、自分の部屋に飛び込んだ。

 米子の部屋は、十一年前に出ていった時のままだった。窓にかかったカーテンは色あせてしまって、鮮やかだった深紅のバラの模様は薄茶色に変色していた。ピンク色のカーペットもほとんど白っぽくなっている。自分でペイントした真っ赤な洋服ダンスや、カラーボックスが学習机と並んでいて、壁側にはベッドがあった。

 米子はベッドに飛び込むと、頭から布団をかぶった。布団で自分の体を丸め込んでこれ以上小さくなれないというくらい身を縮めて目を閉じた。体が小刻みにふるえていた。嘘だ、嘘だ、嘘だ。ばあちゃんは死んでなんかいない、寝ているだけだ、と念仏のように頭の中で繰り返した。布団の中が暖まってきて息苦しくなったが、布団から顔を出したら、なにか怖いものと顔を合わせそうで布団から出られなかった。

「いつまでそうしているつもりですか。下に皆さんが集まっていますよ」

 この声はかけるとかいう男の声だなとはおもったが、知らないふりを決め込んだ。

「往生際の悪いひとだ。あなたは喪主なんですよ。ばあちゃんのたった一人の家族なんです。あなたがしっかりしないでどうするんですか。誰が葬式をだすんですか」

「うるさい。そんなこと、わかってるわよ」

 叫び終わらないうちに布団を毟り取られていた。

「うわあ、なにすんのよ。わたしの布団」

「これ、ぼくの布団です。ここはぼくが使っていた部屋です」

「わたしの部屋よ。わたしが十八歳まで住んでいた部屋よ」

 飛び起きて、翔の胸ぐらを掴んでいた。

「ここはわたしの家。ここはわたしの部屋。ばあちゃんは、わたしだけのばあちゃんよ」

 米子の目つきは尋常ではなかった。翔は胸ぐらを取られたまま、じっと米子の瞳をのぞきこんだ。

「しっかりするんだ、米子」

 翔の声は低く静かだった。腹の底に力をためた落ち着いた男の声は、米子を正気付かせた。はっとして翔の服を放した。

「だいじょうぶよ。わたし、だいじょうぶだから」

 おろおろと髪の乱れを直し、服装を整えた。まだ落ち着きのない視線で部屋の中を見回して頷く。

「ほんと、わたしの部屋だけど、あんたが使っているみたいね。汚い部屋だわ。お布団も、そういえば、鼻が曲がりどうなくらい男臭かったっけ。いつから下宿しているの。家賃は払っているんでしょうね」

 それにはこたえず翔が手を握ってきた。

「えっ、な、なに」

 ぎゅっと握られて慌てた。翔は無言で米子を引っ張ると部屋を出て階段を下りはじめた。足の悪い翔が階段を一段下りるたびにガクンと揺れた。だから米子も一緒に揺れた。

「放してよ。引っ張ったら危ないでしょ。それでなくても、あんたの体は大きく傾くんだから」

 ナイフで切りつけられたように翔の手が放れた。米子に顔を背けて、最後の二段を飛び降りると、そのまま調理場に降りて外に出ていってしまった。

 あけのが気遣わしげにこちらを見ていた。

「ヨネ子、相変わらず意地が悪いよね。かわいそうじゃないの、翔くん」

「だって、ほんとのことだもの。転がり落ちて怪我をしたらどうするのよ」

「ほかに言いかたがあるでしょ」

「どんな言いかたがあるっていうのよ」

 あけのは疲れた足取りで店の座敷に戻ると、勇のあぐらの中で眠ってしまった子供たちのところへ行った。座敷には、徳三のほかにも人が増えていた。あけのの両親と、町内会の役員たちと、葬儀屋の悦夫と悦夫の父親、さらに葬式の手伝いの近所の主婦たちが、店の座敷に座り込んで、部屋に入ってきた米子にいっせいに視線を向けてきた。米子が二階に行っていたわずかなあいだに、いきなり沸いて出たみたいな人数だった。

 悦夫がだるそうに座りなおして、正した両膝の前に手を置いた。

「このたびは、ご愁傷さまでございます」

 礼儀正しく挨拶をしてくる。中学生の頃は家業を嫌っていた悦夫だったが、いまではすっかり仕事が板についた落ち着きかたをしていた。

「生前、山田シゲ様から、葬式は悦夫ちゃんにお願いするね、といわれておりましたので、喪主の米子様がご不在ではありましたが、かってに枕飾りをご用意させていただきました。もし、ほかの葬儀社に依頼なさるのであれば、こちらは一向にかまいませんが、どういたしますか」

 ぼそぼそとしたしゃべりかたはちっとも変わっていなかった。同い年だというのに、職業のせいか老けてみえた。悦夫は左の薬指に指輪をしていた。

「悦夫、結婚したんだ。なんで知らせなかったのよ」

「おまえの電話番号なんか、知らねえよ」

「いつ結婚したの」

「去年だよ」

「相手は」

「おまえの知らない女だよ。もうすぐ子供が産まれるんだ」

「へえ、できちゃった婚か」

「ちがうよ。計算は合ってる。で、どうするんだよ。うちでやるんだろ?」

「安くしてよ。三十パーセント割り引きしてよ」

「十パーセントだ。それしかまけないよ」

「けちだな」

「子供が産まれるしな。それに、親父やお袋もいるし、扶養家族が多いんだよ」

「葬式のことなんか、なんにもわかんないんだけど」

「任せておけ、全部やってやるよ。ばあちゃんにはかわいがってもらったしな」

「じゃ、お願いするね」

 米子は悦夫の隣にいる高橋葬儀社の社長で、悦夫の父親でもある晋平に挨拶した。晋平はすっかり頭が禿げてしまっていたが、座敷にいる人々の中で唯一米子を暖かいまなざしで見ていた。

「おじさん、ご無沙汰しています」

「ヨネ子ちゃん、一人で無理することないよ。みんないるからさ、助けてもらえばいいよ」

「はい。そうさせてもらいます」

 神妙に頭を下げてから、町内会の役員や手伝いの主婦たちにも挨拶をした。悦夫は玄関で携帯電話をかけていた。米子が高橋葬儀社に葬儀を正式に依頼したので、早速手配をしているようだった。電話をおえた悦夫が、座敷に戻ってきた。

「三十分後にお寺さんがきて枕経をあげてもらうから。それから米子、葬式だけど、葬儀の規模はどうする」

「お金がかからないほうがいい」

「じゃあ、家族葬でいいな。どうせ親戚もすくないんだろ」

「少ないんじゃなくて、いないんだよ」

「ヨネ子」

 あけのが手招きした。眠ってしまった進を勇が抱いて、あけのは乃絵留を抱いていた。

「子供たちを寝かしてくるけど、あんた、荷物はどうしたのよ」

「ないよ。まっすぐここにきたんだもの」

「じゃ、喪服もないの」

「うん」

「じゃあ、悦夫に頼みなさい」

「そうだね」

 あけのと話しているうちに、手伝いにきてくれた主婦たちが調理場に下りて煮炊きを始めた。その中に翔も混じっていた。


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