第一話
退社時刻の女子更衣室は混み合っていた。
帰り支度をしている女性たちの体温で温めらた化粧品と香水の香料でむせ返るほどだ。田中米子も自分のロッカーの小さな鏡を覗き込んで入念に顔をチェックした。
つけまつ毛よし。アイシャドーよし。肩で揺れるティーブラウンのヘアースタイルも決まっている。口紅は若さを演出するために、わざと色を淡くしている。ヌードグロスでもいいのだが、さすがにそこまで色をなくしてしまうと年齢がばれてしまう。
着ているワンピースは有名プレタポルテのピンクのジョーゼットだ。透け感が女らしくて可愛くてお気に入りなのだが、じつは、いかり肩でがっしり体型の米子には似合っていない。だが、男性受けが重要なので、気合がはいった合コンのときはこのワンピースと決めていた。
隣りのロッカーを使っていた若いこが、背中で米子のロッカーの扉を押してくるのでスチールの扉を蹴飛ばしてやったら、若いこは顔をしかめて小さく頭を下げてからそっぽを向いた。
それにしても室田里亜奈はなにをしているのだろう。まさか帰り際に係長に仕事を押しつけられているのではないだろうな、と米子は肩をすくめた。
ぐずぐずしているようなら置いていくまでだ。そう思いながら、ボーナスをはたいて買ったイタリアのブランドバッグを恭しく取って薄手のコートをはおり、更衣室のドアに向かった。ドアを開けたら自分の顔の前に里亜奈の顔があったのでぶつかりそうになった。
「わッ、びっくりした。遅いじゃないの室田さん。置いて行くところだったわよッ」
横柄な米子の尖り声に里亜奈が目を吊り上げた。
「置いて行くですってェ? このあたしをですかァ?」
「置いて行かれたくなかったら、早く支度してきなさい」
「ちょっと待ってくださいよぉ。仕事が終わらないんですよぉ。帰ろうとしたら係長につかまっちゃって、急ぎだからって書類をわたされて、ン、もう!」
「あなたがぐずぐずしているからよ」
米子はドアを塞いでいる里亜奈を押しのけて廊下に出た。里亜奈がすぐあとを追ってくる。
「ちょっと待ってくださいったらァ。だって、途中で帰るわけにはいかないじゃないですか。係長ったら、自分が忘れていたくせに、あたまにくる。田中さん。手伝ってくださいよォ」
「それはだめ。あなたの仕事はあなたの仕事。学生じゃないんだから、手伝って、助けて、お願い、は通用しません。じゃ、一足先に行ってるから」
「それはないでしょッ。今夜の合コンはわたしの大学時代の友人関係の集まりなんですよ。田中さんが参加させてくれって、しつこく頼むから、しかたなしにOKしたのに、先に行くはないでしょッ」
「人聞きの悪いことをいわないで。一緒に行きませんかって誘ってきたのは室田さんのほうじゃないの。わたしは遠慮したのに」
里亜奈の目がこぼれそうに大きくなった。
「信じられない。嘘つきですよね田中さんて。ほんとうに先に行くつもりですか。あたしがいなくても平気なんですか。知らない人ばかりで、みんな田中さんよりもうんと若い人たちだから浮いちゃいますよ。話だって合わないでしょッ」
歯ぎしりしそうなほど悔しがる声を背中で聞き流して米子は平然と会社をあとにした。
十月半ばの夜風は寒さを増しはじめていた。コートもワンピースも薄物なので寒かったが、店に入ってしまえば暖かいから問題はない。今夜の集まりは里亜奈がいっていたように、彼女の大学時代の友人たちが、それぞれの伝手をたどって男性たちを集めた飲み会だった。
ハイクオリティーな男性たちが来るといって里亜奈が興奮気味に自慢していたので、強引に割り込み参加を承諾させた。場所と時間さえ聞き出せば、あとは里亜奈の名前を出してどうにでもなる。係長から押し付けられた里亜奈の仕事を手伝って、一緒に店に行くほど米子はお人好しではなかった。
「おい、マイ子。ちょっと待てよ。相変わらず歩くの早いな」
会社を出ていくらも歩かないうちに後ろから声をかけられて振り向いたら、手塚雅弘が小走りで追いついてきた。
「なんだ。手塚か」
「やけにめかし込んでるじゃないか。秋の夜風が身に染みるっていうのに、ひらひらのスカートなんかはいちゃってさ」
「相変わらずオヤジくさいな。今夜もきれいだね、くらい言いなさいよ。ムカつくやつだな」
元カレの気安さで言い返した。手塚とは同期入社で、米子は短大卒だったが手塚は大学卒なので、年齢は手塚のほうが二歳上の三十三歳だ。
研修のときに同じグループになった関係で交際をはじめたのだが、五年ほど付き合って、そろそろゴールインだよね、早くプロポーズしてよねと、心待ちにしていたころ、米子はあっさり振られてしまった。手塚は米子より若くて美人で教養のある女と結婚してしまったのだ。子供はまだない。当時は怒り狂ったが、今では手塚にまったく未練はない。だが、手塚のほうは、米子の姿を見かけると必ず声をかけてきた。
「まさか、合コンじゃないよな」
笑いながらそんなことをいう。
「その合コンよ。悪かったわね」
肩をそびやかして言い返したらため息をつかれた。
「有名だぞ。マイ子の合コン中毒」
憐れむように手塚が言葉を続けた。
「ほんと評判悪いぞ。どこにでも顔を突っ込んで荒らしまわるって。なんでそんなに合コンが好きなだよ」
「わたしを振って、若いこに乗り換えて結婚しちゃった手塚になんか言われたくないんですけど」
「まだ根に持っているのかよ。しつこいな」
「しつこくて悪かったわね。結婚しそびれたら手塚のせいだからね。付き合った五年を返せ」
「謝ったじゃないか。何度も言うなよ」
「だったら話しかけないでよ」
「いや、心配だからさ。おまえの噂とか、評判とか」
「なにが心配よ。だったら振るなよ。わたしさ、三十一なのよね」
「知ってるよ。俺より二歳下なんだから」
「職場での雰囲気が変わってきたのよ。男と違って女は大変なの。本気で社員を続けるか、あるいは結婚退社して若くて体力があって有能な新人に場所を明け渡すか、岐路を迫られる年齢になっちゃたわけよ」
軽い調子でいったものの、実際に職場の空気が甘えを許さぬものに変化していた。就業時間内に仕事を終えられなくて残業すれば注意を受けるし、うっかりミスも厳しく叱責される。頻繁にトイレに立っただけで査定が下がって給料に影響する。休暇を取りたくても職場の雰囲気が許さない。働くことが苦しくなってきたのは、三十を過ぎたあたりからだった。
「合コンなんかやめておけよ。まわりを見回せば、案外いい男がいるかもしれないぞ」
「そんな人がいたら、この年まで独身でいないわよ」
「マイ子にも原因があるのかもしれないぞ。そうやって、見せびらかしている金のかかった服やバッグ。派手な化粧。男からすると引けるんだよな。マイ子にもいいところはあるんだから、イメージチェンジしてみたら」
「わたしのいいところって、どこよッ」
「使い減りしない立派な体格とか」
あはは、と手塚が笑った。
「ムカつく。二度と話しかけないで」
せっかく気分よく弾んでいたのに、手塚の遠慮のない口のせいでケチがついてしまった。手塚は昔からそうだった。長身で容姿が整っているから黙っていても人受けがいいのだが、ほかの人には礼儀正しいくせに、米子にだけは言いたいことをつけつけいう。だから米子も負けずに言い返してやる。腹が立つし、悔しい思いをさせられる相手だったが、手塚が米子のことを“マイ子”と呼ぶのだけは満足だった。
米子は自分の名前が嫌いだった。二十年前に亡くなった祖父が、一生食う米に困らないようにとつけたという。よくもこんな古くさい名前を両親が許したものだと腹が立つが、その両親も、米子が幼い頃に、親戚の法事に車で出かけた帰りに交通事故に巻き込まれて他界した。
引き取って育ててくれた祖母に、名前のことでだいぶ八つ当たりしたものだったが、祖母のシゲは米子のことをかわいがってくれた。
東京の短大に受かって、杉並にアパートを借りて、憧れの一人暮らしを始めたときに、名前を「コメ子と書いてマイ子と読みます」と人にいうようになった。戸籍の読みかたはヨネコだが、そんなことかまうことはなかった。手塚からマイ子と呼ばれるたびに、米子の自尊心は満たされた。
ブランドもので着飾った今夜の自分を、郷里の友人や近所の人に見せびらかしてやりたかった。都会の水で洗われて、すっかりあか抜けてきれいになった自分を見せつけてやりたい。米子はぴんと背筋を伸ばして胸を張った。そして、手塚にひらひらと手を振って別れると地下鉄の駅に急いだ。
目的のビルにある洒落たレストランバーは、食事も酒も楽しめるので若い女性に人気があった。カップルの客も勿論いるが、女性同士も多くて、テーブルは早い時間にもかかわらず、ほぼ満席状態だった。
ウエイターに里亜奈の名前を告げると、バーカウンターから離れた窓際のテーブル席に案内された。合計九人の男女が向かい合わせに座っていて、彼らの前のビアグラスはほとんど空になっていた。料理がいく皿も並んでおり、場はほどよくほぐれて会話も弾んでいるようだった。
近づいて、テーブルの男性たち五人に笑顔をふりまいたら、一列に並んだ四人の女性たちが胡散臭そうに米子を見上げた。
「わたしィ、室田里亜奈ちゃんの同僚のォ、田中マイ子ですけどォ、里亜奈ちゃんに誘われたのでェ、来ちゃったんですけどォ、ご迷惑だったでしょうかァ」
遠慮がちに、体格のいい体をすぼめて、舌足らずなしゃべりかたで里亜奈の名前をだしたら、米子より若い彼女たちは顔を寄せてひそひそ話しだした。
「きいてる? あたし、里亜奈からそんなこと聞いてないけど」
「あたしだって聞いてないわよ。メールあった?」
「ないない。それより、里亜奈はどうしたのよ」
米子は、里亜奈が座るはずだったイスにそろりと腰を下ろして彼女たちに擦り寄った。
「里亜奈ちゃんはァ、帰り際にィ、係長から仕事を押しつけられちゃってェ、まだお仕事してるんですゥ。お手伝いするから一緒に行きましょうって言ったんですけどォ、先に行ってといわれたのでェ、一人で来ちゃいましたァ。その係長ってェ、いつもそうなんですよォ。自分でやらなきゃいけない仕事なのにィ、なんでも女子社員に押しつけてくるんですゥ。ひどいですよねェ」
と、米子は首をわざとらしく傾けてまつ毛をパチパチさせた。
「いるのよね、そういう上司。うちの課の主任がそうなの」
「あたしのところの課長なんか、歯槽膿漏で痛くて歯が磨けないから、ドラッグストアに行って口をすすぐ薬用の洗浄液を買ってこいっていうのよ。なんであたしが買いに行かなきゃいけないのよ。奥さんに行かせればいいのよ」
「信じられない。それで行ったの?」
「行ったわよ。逆らえないもの。そのかわり、スースーするメントールタイプのを買ってきちゃった」
「わー、意地悪なんだ」
米子の存在から職場の上司の話題に移って女性同士で盛り上がりだした。ときどき米子も話を合わせながら、ちゃっかりビールとラムのジンジャーソテーを頼み、今夜の目的である五人の男性たちにせっせと愛想を振りまいた。
里亜奈と同じ年頃の男性もいたが、ほかの男性たちは米子と同じくらいの年齢に見えた。さりげなく身につけている小物や服の値段やセンスを観察する。身長、体重、顔、性格にはこだわらないので、まんべんなく愛想を振りまいた。恥ずかしそうに片手を口元に添えることも忘れない。声はオクターブ高くして、甘えるように語尾を伸ばした。
男性たちは一様に米子に笑顔を向けて声をかけてきた。横に並んでいる二十代半ばの女性たちより米子のほうが初々しく可憐に見えた。長年の努力で身につけた過剰演技が、すっかり染みついていた。里亜奈がいたら、呆れて言葉を失っていただろう。男性たちの反応に手応えを得て、さて誰に的を絞ろうかと本腰を入れ始めたときだった。
「田中さん」
肩を指でつんつんされて振り向くと、浮かない表情の里亜奈が立っていた。
「あらァ、里亜奈ちゃん。やっと来たのねェ。待ってたのよォ。さあ座って、座ってェ」
満面の笑顔で迎えるが、もちろん里亜奈が座るイスはない。米子が座っているからだ。
「まあ、イスがないわァ。すぐに用意してもらいましょうねェ」
米子の口調は優しいが、ウエイターを呼ぶ気はさらさらない。イスにどっしり腰を据えたまま里亜奈を見上げると、里亜奈の様子がおかしかった。
「どうしたのよ。室田さん」
うっかり会社にいるときのように無愛想な低い声でいっていた。里亜奈が困ったように後ろを気にした。
「三浦さんていう人、田中さんの知り合いですか?」
「いいえ。知らないけど」
「その人が田中さんを探しているみたいなんですよ。田中さんはマイ子ですよね。ヨネコじゃないですよね」
「コメ子と書いてマイ子と読むのよ。知ってるでしょ、そんなこと。同じ職場なんだから」
「そうなんですけど、困ったなァ。ついて来ちゃったんですよ、その人」
「その人って?」
里亜奈が自分の真後ろを指さした。そこには、ひょろりと背の高い二十代半ばぐらいの青年が、里亜奈の頭越しに米子を見下ろしていた。
「どうも。ぼく、三浦翔といいます」
米子はぎょっとして反射的に立ち上がっていた。三浦翔と名乗った青年は、色褪せて茶色に変色した麦わら帽子をかぶり、エンジ色のジャージの体操着の上下を着て、黒のゴム長靴をはいていた。ジャージの胸には、ご丁寧に白文字で県立坂田高校と書いてある。
「な、なに、その格好。なに、そのジャージ」
翔のジャージの胸を指さして声を震わせた。
「これ、高校のジャージです。まだ着られるからって、お隣りの勇さんがくれたんです」
説明されなくても高校のジャージなのはわかっている。米子だって三年間着た体操着だ。勇のことだって知っている。同じクラスで机を並べた仲で、やはり同じクラスだった仲良しの“あけの”と結婚した男だ。今は町役場で働いている。しかし、どう記憶の糸をたぐっても、三浦翔という名前は出てこなかった。勇のジャージは翔には小さくて、まるで案山子が子供の服を着せられたみたいに手足が服から突き出してみっともない。米子の顔色が、しだいに湯だったように赤くなっていった。
里亜奈が、役目は終わったというように、米子が座っていたイスに腰を下ろした。
「もう、いやになちゃう。係長ったら帰り際に仕事をいいつけるんだもの」
「聞いた聞いた。とにかく何か頼みなさいよ」
さっそくおしゃべりを始める。
「田中さんたらさっさと行っちゃうし、会社を出たらおかしな男につかまるし、なにがなんだかわかんないわよ」
「誰なの、あの人。どこの田舎から出てきたのよ」
「知らないわよ。会社の受付が終了していたから、社員が出てくるたびに会社の前で出てくる人をつかまえて、田中さんを捜していたのよ」
「ケータイを使えばいいのにね、いまどき、そんなことも思いつかないのかしら」
「疲れたわ。とにかくビールでも頼もう。ごめんね、ごたごたしちゃって」
「シゲばあちゃんが、今日の明け方に息をひきとりました」
里亜奈たちのおしゃべりに気を取られていた米子は、一瞬、翔の声を聞き逃すところだった。
「はあ? いまなんて言ったの」
米子は聞き返した。
「だから、シゲばあちゃんが、亡くなったんです」
「なんだって?」
「耳が遠いのかよ。ばあちゃんが死んだって言ったんですよ。何度もあなたの会社に電話したんですよ。だけど、なんど交換台に田中米子という名前を言っても、そういう社員はいませんて言われました。どうなっているんですか」
周りの視線がこちらに集中していた。翔の声はそんなに大きくなかったが、農作業の帰りに立ち寄ったといわんばかりの格好は嫌でも人目を引いたし、死んだ、というただならぬ言葉は人々をぎょっとさせた。
「あなた、タナカ、ヨネコ、ですよね。シゲばあちゃんのお孫さんの米子さんですよね」
翔が確認するように訊いてきた。
「聞いたッ? ヨネコだって。ヨネコッ」
ぷっと里亜奈が吹きだした。
「田中さんて、ヨネコだったんですかァ! マイ子だって、言ってたの、嘘だったんですかぁ」
鬼の首でも取ったように里亜奈が腹を抱えて笑いだした。
「田中さんの口癖は、『コメ子と書いてマイ子と読みます』でしたよねェ。ヨネ子さんだったんですねェ。いい名前じゃないですかァ。ヨネ子。ヨネ子。ヨネ子」
米子は、大笑いしている里亜奈を睨みつけた。これで週明けの月曜の午前中には職場中に知れ渡っているだろう。ぎりりと奥歯をかんで翔に向き直り、傲然と胸を反らした。
「人違いです。わたしは田中マイ子です。ヨネ子ではありません」
それを聞いた翔が噛み付きそうな勢いで米子に身を乗り出してきた。
「シゲばあちゃんが亡くなったんですよ。子供の頃に両親に死に別れたあなたを引き取って、育ててくれたばあちゃんが、しッ、死んだんです。なんなんだ。その態度はッ」
「死んだ死んだって、うるさいんだよ。あのばあちゃんが死ぬわけないでしょ。百までだって生きるわよ」
つい怒鳴り返していた。翔もムキになる。
「なんでケータイに出なかったんですか。何度もかけたのに。電源を切っていたこともありましたよね。ひどすぎる」
翔の目元に涙が滲んだのを見て米子はぎょっとした。
「い、忙しかったのよ。仕事も、そのほかにもいろいろと……、そ、それに、年寄りの電話なんて、愚痴ばっかりじゃないの。ききたくないわよ。楽しくないもの」
あんぐりと翔の口があいた。翔の涙目に一瞬たじろいだものの、米子はすぐに脅すような声で続けた。
「見ず知らずのあんたのいうことなんか信じない。そんなジャージでだまそうとしても無駄よ。どんな魂胆か知らないけど、今すぐ消えな」
「ぼくが信用できないなら、勇さんにでも、あけのさんにでも、電話で聞いてみればいいでしょ。なんなら徳さんでもいいですよ。電話で話せよ」
ジャージのポケットから携帯電話を取り出して操作すると米子に押しつけてきた。受け取りたくない米子と押しつけてくる翔とで揉み合いになったところへ、店長とスッタフが駆けつけてきた。
「お客様、おそれいりますが、あちらのほうでお話し願えませんか」
翔の背中に手をあてて店のドアのほうに誘導しようとする。店長は軽く押しただけだったが、翔の右膝がカクンと折れてたたらを踏んだ。よろめいて転びそうになったが、なんとか踏みとどまる。米子も一緒に押し出されそうになった。
「ちょっと、わたしは客なのよ。この人と一緒にしないでよ。まだ合コンの途中なんだから。ビールも飲んでいないし、料理も食べていないのよ」
肩を押してくる店のスタッフの手を押し返したら、「田中さん、こっちはかまいませんから、どうぞ行ってください」と里亜奈がハンドバッグとコートを押し付けてきた。
店長に背中を押されている翔が、首をねじって里亜奈に話しかけた。
「室田さんでしたよね」
「はい、室田ですけど、まだなにか」
「米子さんの忌引き休暇届けを出しておいてください」
「わかりました。係長には、あたしから言っておきますから」
米子も里亜奈に首を捩じる。
「二人で人の休暇届けの相談なんかしてんじゃないわよ。だれが会社を休むっていったのよ」
どちらに怒鳴っていいのかわからなくてきょろきょろしているうちに店を追い出されていた。