05
ひとしきりわんわん泣いて涙がかれたころ、リンは顔を上げた。どれぐらい泣いていたのかわからない。もしかしたら少しだけ。もしかしたら一時間ぐらい。時間の感覚がはっきりしない。喉と、目と鼻がいたくて、耳鳴りもしてくる。空虚に口元だけが笑っていた。
エドがいない。
この長い廊下にリンしかいない。泣き喚いて自分の不安までエドにぶつけたのだ、呆れられて当然だった。都合よくだれかが手を差し伸べてくれるなんて、ありえない。リンはひとりぼっちなのだから。
どうしてこんなところまで来てしまったのかな。みんなと離れてまで、どうしてぼくはいるのかな……。
自嘲しながら、リンがのろのろと起き上がったときだ。
「落ち着いた?」
リンが息を詰めて大きく目を見開く。穏やかなエドが、すぐ後ろに立っていた。手にカップを二つ持って、一つを壁にもたれて飲んでいる。リンが驚きに言葉なくエドを見つめると、彼は顔をしかめた。
「……行儀悪いとか、言う?」
カップを持ち上げてエドが首を傾ける。気分を害した風でもなく、普通に話しかけてくれる。
ぼくのことは嫌いになったんじゃないの? どうしてここにいてくれるの?
尋ねたくて、尋ねられなくて、リンはただエドを見つめるばかりだった。何か言おうと口を開くけれどしゃがれた声しか出なかった。すると、わかっているよとエドが微笑んで、ゆっくりうなずいてくれた。枯れたと思った涙はまた、溢れそうだ。
「飲みなよ。これ、キミが泣いている間にもらってきたんだ」
うんうんと頭を縦に振りながら、リンはカップを受け取った。カップの中身はミルクだ。冷たいミルクが喉を通ると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。
――エドが、いてくれた。
たったそれだけのことだけなのに。たったそれだけのことなのに……心の中がじんわりあたたかくなっていく。
「顔洗って、そうしたら食事、付き合ってね? キミはおなかすいてなくても、お風呂のと大泣きしてくれた罰だから」
エドがすましてそう言った。気遣いが嬉しくて、リンは何度も何度もうなずいた。ぐちゃぐちゃな顔のまま笑顔を作ったら、エドがおかしそうに「ひどい顔だね」とハンカチを差し出してくれた。
赤をベースにした食堂車はそれまで通り過ぎたどの列車よりも豪華だった。
(な、何するとこだろ、ここ……)
うろたえたリンの目が四方八方へと向けられた。大きなシャンデリアはもちろんのこと、並べられたテーブルや椅子は年代を感じさせる凝った造りのものだ。どっしりした木と革張りである。テーブルを飾るクロスも繊細なレースがふんだんに使われていた。いかにも「それ」といった雰囲気だ。ここに来ているヒトたちだってドレスアップをしている。とくに女性は列車の内装に負けないほど、きれいだ。派手に思えたエドの服装が、地味に感じてしまう。
きらきら輝くばかりの世界にきょろきょろとリンは視線を飛ばしながら、居心地が悪そうにエドの後をついていった。エドはウェイターになにやら注文をした後、リンの分も軽く注文してくれる。
テーブルに触れていいのだろうか。磨かれたグラスや銀食器に手をつけていいのだろうか。そもそもこんなところに座っていいのだろうか。捨て犬みたいな格好のリンがいて良い場所なのだろうか!
頭の中をぐるぐると、ちぐはぐな疑問が走り抜ける。やがて食事が運ばれ、リンは唖然とした。見たことのない料理がどんどん並べられていく。動揺を隠せないリンはエドのほうを見て、さらに絶句した。だから、しどろもどろに訊いてみる。
「それ……ひとりで食べるの?」
豪華な料理が、テーブルいっぱい二人の前に並べられたのだ。さらに運ばれてくる。
エドはフォークとナイフを手に、ナプキンをひざに置いて、平然と答えてくれた。
「うん。そうだけど」
リンは思わずエドをしげしげ眺めてしまう。
スレンダーな身体なのに、本当にこれだけの量を片付けられるのか。軽く見ても三人分はありそうだ。しかし、そんな杞憂はすぐに吹き飛ぶことになる。ぺろりとエドは平らげてしまったのだ。
「すごい、ね……エドって」
「そう? 普通でしょ」
かなり普通じゃないと思う。なんてツッコミをリンはしなかった。やっぱりここは不思議なところなんだなぁ、と改めて思った。故郷とは違う場所なのだ。エドの言う「普通」がまかり通ってしまう。食事も、これだけのボリュームが当然なのかもしれない。
感嘆するリンに、今度はエドがたずねた。
「どうしたの? あまり食べてないね」
ぎくりとリンは肩を弾ませる。
「え? そんなことないよ」
「じゃあどうしてそんなに残しているのさ」
リンは困ったような、情けない笑顔を見せた。
「なんか、好きじゃなくて……」
(高級すぎて食べる気がしない……なんてエドには言えない)
(それに、上品になんて食べられない)
天敵のように皿を睨みつけ、リンが唇を引き結ぶ。見よう見まねでナイフとフォークを持ったのに、どう使っていいのかもわからなくて、内心は泣きそうだった。リンはエドの食べ終わった皿と、自分の残っている皿とを見比べてさらに落胆した。テーブルクロスの汚れと、がちゃがちゃと立つ音はリンの側のみだ。他のテーブルから非難の目が向けられているような気がして、落ち着けなかった。だが、エドはなんでもないふうに平然とこなしている。
(おいしいくなんかないよ。本当に高級な料理なの?)
残すのはもったいなくてがんばったが、どうにも口に合わない。けれどエドはおいしいね、と言ってぱくぱくと食べるのだ。リンは困った笑顔を繕うしかできなかった。やっぱり、駄目なのか。精一杯努力しても食事でコレなのだから。
「じゃあ別のにしよう。……苦手そうだしね、キミ」
エドがいたずらっぽく目を細くした。ぺろりと出た舌が赤い。
「別の……?」
また、高級なお料理が出てくるのか、とリンはげんなりする。エドはナプキンで口元を丁寧に拭き、すっと席を立った。
「カフェに行こうよ。デザートはあっちがいいなって思ってたんだ。ね?」
リンは恥じ入った。見抜かれていたのだ。ぽんっと肩を叩かれて、慌てて颯爽と歩くエドを追いかける。エドがくすりと微笑んでいた。
アイスを片手に元のコンパートメントへと二人は戻った。カフェで注文した軽食は後から運んでもらい、部屋でゆっくり食べるのだ。それもエドの配慮からだった。リンがびくびくしながら食事をとらなくてもいいように、と。彼はそんなことなど一言も口にはしなかったが。
「ねえ、次の駅に着いたら外へ行かない? この列車は急行だから、待ち時間長いよ。気晴らしにもなるし」
「え? 三十分くらいじゃないの?」
エドが、この列車は各駅停車と違って大きな駅しか停まらないことを教えてくれた。
「四、五時間はあるんじゃないかな。急行って数が少ないんだ。おまけにちょっと危険で、乗る人も少ない。だから、停車時刻が長いんだよ」
「二週間で本当にクィダズに着くの?」
「着くよ、何もなければ。ワープが入るから、多少遅れることはあるかもね」
リンが仰天した。
「ワープするの?」
リンにとっては未知の技術だ。列車が星をわたるだけで、とんでもないように感じるのに。
「普通はしないけどさ、危険地帯を通るから止むを得ないんだって。石がごろごろ転がる場所を長い列車が通れないじゃない? だけど」
「だけど?」
シートにもたれかかって、エドが窓の外を眺めた。真っ暗な海は、景色がもうずっと変わらない。そこに何を見出したのか、エドが頬杖をつく。どこか不安交じりに、
「ワープってまだ不安定なんだよね。短い時間ならまだしも列車は大きい上に長い。平面宇宙を通り抜けるだけで、多少のリスクを伴うわけ。小さいものほど安定してるらしいから。最悪の場合……列車内部に混乱が起こるかも」
だからクィダズ行きの乗車券は高価になるのだ、とエドは付け足した。リンは、危険だから高いのだ、となんとなく理解をする。
「大丈夫なの、この列車……?」
「大丈夫だよ。そういうことは極稀なケースだし、その為に高い料金払ってんだから」
断言されて、リンはにわかに嬉しくなった。
「ねぇ、エドってどうしていろんなこと知ってるの?」
リンが尊敬の眼差しでエドを見る。エドは間の抜けた顔でしばしリンを凝視し、照れたように顔をそむけた。
「これぐらい、常識」
ぶっきらぼうに言い放つエド。リンはにーっと歯を見せる。
リンは、エドが大好きになれそうだった。とても親切なのだ。アニエスに話したい。手紙を出して、教えてあげたい。
文面はこんな感じ、とリンが頭の中で考える。
『アニエス、お元気ですか。ぼくは、とても元気です。
列車はとてもはやいです。エンジャーグル駅は、とてもとても大きな駅でした。
今乗っている列車は一番目の列車より小さいけれど、ごうかできれいです。
それから友だちが、できそうです。ネコのような姿です』
アニエスに教えてあげたくて、たまらなくなってくる。
「あ、ねぇねぇ、次の駅でアニエスにお手紙を出していい? 列車じゃお手紙出せないでしょう?」
リンが軽く身を乗り出した。
「アニエス?」
「うん。大切な人なんだ」
はにかむリンに、エドがさらりと返す。
「恋人?」
「こ、こっこっこっこ!??」
リンはぎょっとなって立ち上がった。エドの冷静な目がリンを追いかける。
「冗談だよ。いいよ、手紙を出すぐらい。ヴィーグエングは工芸の街らしいから、いろいろ楽しいと思うよ。タイミングよくお祭りだって」
リンは釈然としない面持ちで席につく。少し溶けたアイスを慌ててなめた。手紙に付足さなければ、と思う。じょうだんを真顔で言うヒトですが、と。
「で、キミ、部屋どうするの? コンパートメント、ここじゃないでしょ?」
リンは首をかしげた。え、でも、とごもごも言うとエドがあきれた顔をする。
「せっかくのチケットだし、移動しないともったいないよ。ここより断然使い心地いいんだし」
それでもリンは、だけど、でも、と小さく繰り返す。
「高い料金払ったんだから使わなきゃ損でしょ? どうせならいい設備使いなよ。ね?」
リンはこうべを下げ、上目遣いでエドを見た。怒られた子どもが親のようすをうかがうように。
「……なに?」
エドは「言いたいことがあるならいいなよ」と言うように頬杖をつく。
「ぼくねは、そういうのより、こういうとこのが好き……なんだ」
リンは必死になって言葉をつむぐ。
先ほどの食事を思い出した。バスルームでのできごとも思い出した。高級感たっぷりでも、居心地が本当に悪かった。せっかくの食事もおいしいと感じなかったのだ。お風呂でさえ、トイレでさえ、リンにはわからない機能がたくさん付いている。シンプルなこのコンパートメントで、ようやっと安心できるほどなのだから。
「あんまり高級なのは苦手で……。普通のほうがほっとするんだ。エドは思わないかもだけど……。それに」
リンは一度言葉を切った。しん、とした緊張感が空気に滲む。
「ぼく、エドと一緒がいいんだ」
エドが目を見開いた。あわててリンが付け足す。
「だってクィダズまで一緒だって言ったし、よろしくねって握手もしたから、ね?」
一緒に食事だってした。風呂の入りかたも教わった。泣きじゃくる自分の話をちゃんと聞いてくれた。しっかりしなよ、と言ってくれた。次の駅でもいっしょに回ろうと約束もした。
「だからぼく、ここがいいんだ」
ふ、とエドが微笑した。照れたような泣き笑いのような、でも、嬉しそうな笑顔だ。
「キミって馬鹿じゃない? せっかくチケットあるのに」
リンが眉尻を下げる。エドは、顔をそらしてごほんっと咳をひとつした。
「安心しなよ。僕も一緒に五〇七号室、行くから」
リンが「え?」と顔を上げた。
エドがコートから取り出したチケットをひらひらと振っている。
「僕は相部屋の相手を探してたんだよリン・ユイ。そう聞いていたからね」
五〇七と記されたリンと同じチケットをエドは見せる。
「知らなかった? 五〇七って相部屋なんだよ。一等室だけど、個人専用じゃなくて家族用なんだって。最初にこのこと言ったんだけど、キミ、外を見てるんだもん。聞いてなかったでしょ?」
ほら、ここにちゃんと書いてある、とエドはチケットの隅を指す。読めない文字だったので、リンが眉尻を下げて笑った。
コンパートメントはだれもいないし、暇だったから探検もかねて探してたんだよ、とエドは言った。相部屋の相手は同じ年頃だと聞いていたため、楽しみにしていたのだ、と。
(そう言えば、エドの荷物って帽子とコートだけだった)
今更ながら気づいて、リンはバカだなぁと思う。クィダズまで二週間もあるのに、エドのようなヒトが着の身着のままなわけがない。
エドは改めて、と右手を差し出した。今度は、手袋をしていないあたたかな手のひらが、そこにある。
「クィダズまでよろしく。僕の名前はエトムント。呼びにくかったら好きなように呼んでね、機械音痴さん」
エドがやわらかく微笑んだ。とても綺麗に見えて、リンは光を撒いたような笑顔を返す。しっかりとエドの手を握りしめた。
「こちらこそよろしくお願いします。ぼくはリン・ユイです」
ふたりは顔を見合わせて笑いあった。