03
だが、かばんの中身に変化はなかった。バッグの奥にしまった茶色い封筒も無事である。リンは封筒を引っ張り出して中身を覗いた。綺麗に赤のろう封をされた手紙が入っている。リンは胸をなで下ろした。汚しちゃいけない、とほとんど触れてもいないそれ。どの荷物よりも大切な手紙は無事だ。
乗車券やお金も、ちゃんとバッグに残っていた。エドが見張っていてくれたのだ。
しっかりしなければ。エドはリンを苛めるために、あんなことを言ったのではない。
「荷物、見ててくれてありがと」
少し声が震えたけれど、言った。ありがとうと、言えた。すると、エドは視線だけで意外そうな意図を示してきた。視線だけを向けた体勢のまま、シニカルな笑みを浮かべる。
「別に。お礼なんか言われるほどのことしてないよ。――いいの? 何か盗ったかもしれないよ?」
「ええぇ!? 本当なの?」
「なんで、中身確認しといて驚くのさ」
「あ? ああ! そ、そうだよね」
リンは気付いて顔を真っ赤にした。本当に、
「馬鹿だなぁ。もっとしっかりしなよ」
思っていたことをエドに口にされ、ますますリンが肩をすぼめる。そのとき、唐突にぴくんっとエドの耳が動いた。人間のそれよりエドの耳は性能がいいのだろう。すっと立ち上がるとコンパートメントの扉を開いた。廊下に視線を飛ばす。
「どうしたの」
「……別に、なにも。音がしたと思ったんだけど、気のせいみたい」
癖なのか、またエドが肩をすくめた。リンが不思議そうに小首をかしげる。
「ねぇ、お腹すかない? そろそろ夕飯だし、よかったら食べに行こうよ。実はまだとってなくて」
エドが懐中時計を取り出して時間を確認する。ふたをぱくん、と開くと音楽が流れた。あの銀の懐中時計は、オルゴールでもあるのだろう。いいなぁ、とリンはじっと見つめる。時計は意匠が凝らしてあって高価そうだった。表に刻まれているのは……何かの紋章だろうか。古いもののように思えた。
当然ながら懐中時計など、リンは持っていない。骨董品は値が高くて、一般市民には手が出せない代物だ。格好からも判断できたが、エドがお金持ちのご子息であることを再確認させられた。当然のように、高価なものを身に着けている。
服でさえ、家族のお下がりを修繕して使っているリンとは、信じられない差だった。 リンが知っているアンティークといえば、故郷にある大きな古時計のみである。振り子がゆれて、ぼーんぼーん、と時を知らせてくれる時計だ。あれが兄弟のささやかな自慢だったが――エドの持つ懐中時計以上の価値は恐らくない。
わずかに身体を後退させて、リンは苦い笑みを浮かべた。何のショックを受けているのだろう。そもそもこの列車に自分がいることさえ、おかしいのに。
お金持ちのエドが声をかけてくれただけで、嬉しいと思うべきなのだ。住む世界が違いすぎる『貴公子』なエドとは、相当不釣合いなのだから。
「ご飯食べたら、一緒にあちこち見てまわろうよ」
気さくな誘いにリンは目を輝かせたが、すぐ眉尻を下げた。お金がない。そんなこと、恥ずかしくて口に出せないけれど。
「ありがとう。でも……ぼくはいいよ。前に買った分がまだ少しあるからそれ、食べなきゃ」
「そうなの? じゃあ僕は行ってくるけど。また戻ってくるからここにいてくれる?」
うん、とリンが笑顔であごを引いた。貴重品を持ってエドが狭いコンパートメントを出ていく。彼は、扉が閉じるときリンを振り返った。情けなくメガネの少年は笑って手を振る。
静かな廊下を確認するように歩きながら、エドは一人言葉を零した。目線を床に落として、口元に手を添えて。赤い絨毯の上を、音もなく歩きながら。
「……本当にあの子がリン・ユイ?」
考え込むように柳眉を寄せた。
「なにかの間違いじゃないの? あんな」
あんな。
そこまで言ってから、エドは口を閉ざす。誰かに聞かれるのを恐れたように。
リンは鏡を覗き込んで深いため息をついていた。
ぼさぼさのはねた髪、汚れた頬、小さなひびやキズの入った丸い眼鏡。どんくさそうで頼りない顔は、どんよりと暗い影をまとわりつかせていた。今は眉尻が下がって、ますます情けない。
きれいなエドとは正反対だった。鮮やかな青の、艶やかな毛。大きな金色の輝く瞳。きりっとしたまなざしや、毅然とした仕草がかっこいい。
それに比べて、とリンはため息混じりに服を見下ろす。元はフェルトの暖かなコートははげていて、てかてかだ。所々破けているし、継ぎ当てだらけだ。下に着ているシャツはヨレヨレで、薄汚れていた。裾の方は糸がほつれていて、見るからに古い。深緑の膝丈ズボンも同様だ。虫に食われり、破けたがあちこち空いていた。
兄のニコラのお下がりで、ニコラ自身もだれかのお下がりを着ていたのだ。こんなボロボロの状態だって頷ける。故郷にいたときは、自分の恰好など気にしなかったのに。
エドが宝石なら、リンは小石だった。泥のついた誰の目にもとまらない小石だ。自虐に浸り、何度目かの息をつく。豪華な列車が憂鬱の原因だった。トイレにしても見たことがない程きれいなこの場所が。
リンは鞄を握りしめ、よろよろとトイレを出ていく。そこを、いかつい顔の車掌が通りがかった。あまりにも暗い雰囲気の少年を憐れに思ったのか。その身なりや、子どもが一人でいることに興味が沸いたのか。リンを二人縦と横にくっつけても、まだお釣りがもらえそうな、大柄な車掌は気さくに話しかけた。
「どうした。何だか暗いなぁ?」
「ぼくの恰好、変ですか?」
今にも消え入りそうな声が予想外で、不安だったんだとリンは気づいた。そして口に出せば、一気に不安が流出する。
「ぼく、こんな……こんな、汚くて、列車に乗ってちゃ……っひ……」
突然はらはらと泣いたら、車掌は仰天するだろう。でも涙は止まらない。
「おいおいおい、泣くなよ。俺が泣かしたみたいじゃねぇか」
ちらちらと四方に視線を飛ばし、車掌がおろおろと手を動かす。通りがかった乗客の目が、心なしか冷たく車掌に注がれた。そんな乗客に気づき、ますますリンの背中が丸くなる。
「どうしよう……どうしたらいいの? だって、っひ、服も何も……」
自分が汚くて、みっともなくて、恥ずかしかった。おろおろしている車掌の制服さえ、ぱりっとしていて立派だ。この星間列車は廊下さえ、いちいち豪華だった。じゅうたんは、足を乗せれば軽く沈んで音も立てない。窓にかかるカーテンは、何気ないのに緻密な柄が入っている。ランプなんてアンティークな意匠だ。前の列車では、劣等感など持たなかった。みんなリンと似たり寄ったりの格好をしていたからだ。
しかし今、こんなリンを、ヒトビトはどう受け止めるだろう。
車掌が困っているのに気づいていても、泣きやめない。大きな身体を窮屈そうに折り曲げて、何かを言っているが耳に入らない。通り過ぎるヒトたちは、きっとリンを笑っている。惨めで消えてしまいたい――
そのとき、大きな手がひょいと少年を持ち上げた。リンは泣き顔のまま、ぽかん、と口を開ける。そのまま広い肩に乗せられてしまった。
「うん、よしよし。泣き止んだな」
「お、おじさん? え、ええ?」
車掌がそのまま歩き出すのだからたまらない。あわてて男の太い首にリンは手を回す。
「おじさんじゃない、エリックだ。いいから、落っこちないようしっかりつかまるんだぞ」
いかつい顔を、無理やりエリックは笑顔に変えた。肩に乗せてもらえただけでも嬉しいのに、どこかに連れて行ってもらえると知って、リンはぐずりながらも涙を拭う。
「ありがとう……ございます」
車掌は自分の帽子をリンにかぶらせ、ゆったり歩いた。ずしん、ずしん、と進むたび身体が揺れる。エリックは、少年がライトや天井に当たらないよう気を使ってくれた。リンは目元を腫らしながら、笑顔をこぼした。他の乗客がビックリしていて、少し気持ちがいい。
「あんまりはしゃぐと落っこちるぞ」
連れて行かれた先は、列車の中ほどにある風呂場だった。シャワーだけの個室もあるし、五・六人なら足を伸ばして入ることのできる広い浴槽もある。リンは個室の風呂に放り込まれた。
「汚れてるってんなら、風呂に入りゃいいんだ。なぁに、ここならいくら汚しても構わねぇ。ほら、着替えは持ってるか? クリーニングされるから、服はこっちに入れるんだ。必要なものは、ちゃんとそろってるだろう」
にや、と車掌が見せる太い笑みは、どうだ、と自信に満ちていた。問題ないだろう、と。
「え? え? でも、お金……」
落ち着きなく視線を這わせ、ないです、と続けようとしたリンの頭を、ぽんっと車掌が叩いた。
「金なら列車乗るとき、一緒に払っただろが。どら、乗車券見せてみろ」
混乱しながら、リンは乗車券を取り出す。なくさないよう封筒に入れて、バッグの奥にしまっていた。あの手紙の次に重要なのは、この乗車券だ。だがエリックは一目見るなり、眉をひそめた。
「お前さん、本当にこれ、自分で手に入れたものか?」
切符を仔細に眺めていたエリックから胡乱げに問われ、リンはしどろもどろになりながらも口を開く。
「それは……貰ったものなんです」
「盗んだんじゃねぇだろうなぁ」
エリックの顔は常時いかつい。それが訝しげにリンを貫いた。
「ち、違います。だってぼくの名前書いてあるって、あの、聞いて……」
消えかけていた不安が、再びそろりと背筋を這った。少年が列車にいること自体、異常なのだ。こんな、すばらしく豪華な列車に。
(どうしよう。ぼくのじゃなかったら、どうなるの)
嘘をつくことはいけないことだとリンは育てられた。嘘をつくのは嫌だ。しかし車掌のエリックに指摘されると、不安でたまらない。もし切符が自分のものじゃなかったら、宇宙空間に放り出されるのか。体が風船のように膨らんで弾けてしまうのか。やっと最果ての駅まで来たのに!
『ほら見なさい。だから言ったでしょう、小さなリンには無理だって。どうして私の言うことが聞けなかったの。私の言う通りにしていたらずっと一緒にいられたのに』
不意にアニエスの声が脳裏をかすめた。アニエスがそんなことなど言うはずなかった。だが、リンを責める声がいくつも頭の中を巡る。元々無謀だったのだ。来るべきではなかった。お前みたいな貧しい子どもが乗っていい列車じゃないのだ!
「……っ」
沈黙がどんどんリンを責め立てた。血の気が引いていくのが、わかった。リン自身が買い求めた乗車券ならよかった。でもあれは貰いものだったし、自分のものだ、と聞いたのだ。
「坊主、名前は?」
「り……リン・ユイ……です」
冷たい汗が全身から噴き出る。呼吸をするのも苦しい。ぼくはどうなるんだろう!
リンがパニックに陥っている隣で、車掌は乗車券を簡易チェッカーに通していた。ピピという軽い電子音に、リンがびく、と身体をはずませる。息を呑んで車掌の所作を見守り――
「お、出たでた。ほーら、問題ないじゃないか。悪かったな。これが仕事だからよ、つい悪い癖が出ちまうんだ。別に疑ってるわけじゃねぇからよ……っても駄目か。俺の顔はこんなだしなぁ」
分厚い大きな手が、少年の頭をわしわしと撫でた。リンは不安が拭えないままエリックをみつめる。エリックが苦笑していた。あの押し潰されそうだった威圧感が霧散した。
「これはお前さんのチケットだ。お前さんは、この列車の乗客で間違いない」
一気に緊張が解けて、へなへなとリンはしゃがみこんだ。その一言が、どれほど聞きたかったことか。
「これで安心できたろう。ほら、余計な気を揉んでないで、風呂入ってこい。な? それとお前さん、自由席にいただろ。坊主の席は五〇七号室……指定席だ。次はそこ行けよ」
こっくりうなずいて、リンは汗や涙をぬぐった。疲れが一気に襲ってきて、立ち上がるのも気力がいる。それでもきゅっと結ばれた唇が、未だ緊張している証だった。
(エドだったら)
エドだったらこんな風に疑われることもなかっただろう。リンの貧しい格好が原因だったに違いない。それが哀しくて悔しくて、どうしようもなくて、少年はうつむくしかできなかった。
「ほら、悪かったから、もう泣くんじゃねぇ。男だったらんなことで泣くな。な?」
その後二、三言葉をかわして車掌は風呂場を出た。後ろ手に扉を閉めると肺の中の空気をこれでもかと吐き出す。がりがりと頭をかいて苦笑いを浮かべた。
「五〇七だって? ありゃあ一等室だぞ。なのに一人だし、ボロ雑巾みてぇなヒト族の坊主だ……。ということは、あれが今回の積荷か? まいったな。ああもう、聞いてねぇぞ」
戻ってこないな、とエドはふと思った。入れ違いに「ちょっと行ってきます……」とリンが出てから、かなり時間が経っていた。なにをしているのだろう。食事に行こう、と誘ったときには断ったくせに。
(もしかしてコンパートメントの番号がわからないとか? それとも迷子?)
この縦長の列車で、迷子はないだろうけれど。
(まさかね)
否定しながらも、エドは渇いた笑みを浮かべた。よく似た内装をしているのだ。別のコンパートメントに入り込んだ可能性も十分あり得る。
大体、彼はどうしてこのコンパートメントにいるのだろう。本来ならばここではないはずだ。
しばらく思案したが、エドは深く考えないことにした。だれかの迷惑にならない限り、個人の自由は尊重すべきだ。傍にいることが優先事項なのであって、ここにいればそれはクリアできている。そして……先のエンジャーグルで手に入れた「小説」があったことを、エドは思い出したので。