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リンのてがみ  作者: 橘高 有紀
工芸と迷宮の街
14/16

08

「そのよう……だね!」

 伸び上がった足がアベルの側頭部を狙った。腕でガードしたアベルが反撃するより早く、怪盗はさらに身をひねる。防がれた足を軸に、ぐるんと身体が回転した。勢いに乗った二連続の蹴りが決まる。アベルが体勢を整えるより早く、沈んだ怪盗が伸び上がりざまに掌底であごを突き上げた。一瞬の攻防は、エルザの勝利だ。鋭い蹴りが、脳を揺さぶられたアベルの腹を突く。

「けが人だからって油断するなと教えなかったかしらね。生かして捕らえようとするからよ。その迷いが命取りになる」

 屋根の反対側に落ちたアベルを、静かに見送ってエルザが吐き捨てる。

「っ、アベルさん!」

 リンの絹を裂いたような声が、暮れなずむ街に反響した。




 エドは目を離せずにいた。エルザが苦痛に歯を食いしばって、こちらを振り返ったのだ。懐に手を突っ込んだ怪盗が取り出したのは、銃だった。エドが舌打ちした。警察たちは肝心のときに役立ってない!

 怪盗は油断なく周囲へ目を這わせ、フーリーへと銃の狙いを定めた。そのままこちらへ近づいてくる。

 やばい、と何かが頭の中で警鐘を発した。ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、と強烈な警告を身の内から感じているのに、逃げられない。怪盗へ注意を向けながら、エドはリンの腕をぎゅっとつかんだ。落ちたアベルの元へ駆け寄ろうとするリンを、必死に留めた。

「放してエド! アベルさんが、落ちちゃ……っ、アベルさんが!」

「わかってるよ! でも行っちゃダメだ!」

 ぎり、と奥歯をかみ締め、エドはリンを背中に庇った。エドだってできることなら助けに行きたい。まっ逆さまに落ちたのを見たのだ。安否が気になるのは当然だ。しかし、銃を持って立ちふさがるエルザを、無視できない。

 そのとき、二度目の銃声がした。次に呻いたのはフーリーだ。膝を屈し、腕を押さえてフーリーがエルザを睨んでいる。フーリーのすぐ隣の瓦が割れていた。エルザの持つあの銃は、おもちゃではないらしい。

 リンとエドに注意が向いた怪盗をフーリーは捕らえようとしたのだろう、しかし、イヌ族に変装した怪盗は、悠然と冷たい笑みを返す。この場の支配者が決まった瞬間だった。どくん、とエドの心臓が高鳴った。

「動かないで」

 その銃口が、子どもたち二人に向けられる。リンがひ、と喉を引きつらせた。恐慌状態に陥ったのか、荒い呼吸がエドにまで伝わってくる。今、このリンを渡してはいけない。しかし、守りきれる自信なんてエドにはなかった。負傷したフーリーや他の警察も、動くのを躊躇っている。

「やめろ、子どもたちに手を出すな!」

 だがエルザはフーリーを威嚇しながら、ゆっくり二人へ近づく。

 エドは乾いた唇をなめて、少しずつにじり下がった。恐怖で思考が停止しているのか、リンは背後で「アベルさん、フーリーさん、いやだ、そんな、いやだ、怖い……いやだ」などとぶつぶつ呟くばかりだ。しっかりしろ! とエドは頬でも張ってやりたかった。しかし、ヘビに睨まれたカエルと同じで、エルザからエドも目をはがせない。ゆっくりと、足を取られない程度に下がるしかできない。

「いい? つかまっても抵抗しないでね。刺激しちゃ駄目だ。何もしないで。叫ぶのもナシ」

 小声で話しかけると、リンはカタカタと震えていた。否、震えているのはリンの腕をつかんだエドのほうか。恐怖を飲み込んでエドはエリザを見据えた。リンが下手な真似をしないよう、銃撃からかばうように左腕を広げる。飛び出さないで。ゆっくりと下がって。落ち着いて。その意図がリンへ伝わるように。

「エ、エドは、どう、するの」

「やれることをする。――諦めないで」

 エドからは見えなかったが、リンの表情からすぅっと怯えが消えた。唇を引き結んでいる。恐ろしいことには変わりないだろうが、戦う決意がついたのか。放さずにいた鞄をぎゅっと握り締めて、エルザを強く見つめていた。

 そうとは知らず、エドは突破口を探して視線をさまよわせ、息を詰めた。屋根の端に誰かがしがみついている。アベルだ。落ちていない。助かっていた! 屋根へ登ろうとする腕が見えた。今、怪盗に気づかれたら、彼は今度こそ落とされる。

 エドは慎重にコートのポケットに触れた。上からそっと、エルザに気取られないように。

 恐らく、チャンスは一度きりだ。そのタイミングを誤ってはならない。

 撃たれた足を引きずったエルザ・スコーピオの手が、二人へと迫った。視界を怪盗にふさがれる。見上げた彼女が大きく映った。これは逆光のせいでそう感じただけなのか。大人という存在は、ここまで恐ろしかったか。

「騒がないでね。悪いけど、最後まで付き合ってもらうしかないわ」

 イヌ族の男の姿で、女の声がするのは不気味さに拍車をかけた。エドは果敢にもエルザを睨みつけ、立ちふさがる。

「無駄だね、怪盗。警察に包囲されてるって気づかないの」

 ドロボウがぴくりと眉を動かすのを見て、エドは畳み掛ける。

「それに星間列車の切符は、あんたは使えないんだ。あんたは単純なことを見逃して、る……!?」

 エルザがエドの胸倉をつかんで引き寄せた。手弱女ではない鍛えられたエルザの腕が、エドを締め上げる。エド、とリンが叫んだ。

「用があるのはそんなものじゃないのよ。手負いの私に仕掛けられない能無しにもね」

 至近距離ですごまれる。だが、エドは視線をそらさなかった。ゴールドグリーンの瞳が、怒りに燃える。この程度で屈服させられると思うな。そんな意思が伝わったのか、ふと怪盗が笑った気がした。

「子どもに乱暴するな! 正義を気取っていたんじゃなかったのか!」

 フーリーの怒りに、エルザの身体がわずかに震えた。その瞬間を見計らって、リンがドロボウに飛びつく。やめろ、とエドが止めるのも間に合わなかった。パン、という音と同時に、屋根瓦が弾けた。リンの身体が硬直する。弾丸は、リンのすぐ傍を通過したのだ。

「私は、悪だと言われても構わないのよ。そうじゃなければ今ここに、立っていない。――いいこと、大人しくしていなさい」

 じりじりと、包囲網から抜け出すべく移動するエルザは、油断なく辺りに目を走らせていた。銃を持たない手でリンの首根っこをつかみ、後退していく。そのエルザの腕で首を締められながら、エドがあえいだ。このままだと、エドとリン、どちらかしかエルザは連れて行かない。人質は一人で十分だ。

 どうしたらいい。どうしたら……エルザの意識を自分へ傾けさせるには。

 考えを巡らせ、エドは口を開いた。失敗は許されない。

「あんたに……何ができるって言うの。子どもを人質にとらなきゃ動けないあんたが、何を変えられるの。変装も下手な怪盗風情が、何をするって言うんだよ。義賊? 笑わせる。周り全部あざけって、独りよがりな偽善ばら撒いているだけじゃないか!」

 小さな声だったはずが、最後には怒鳴り声になっていた。エドが挑戦的に口角を押し上げる。もう少し――もう少し、エルザの注意を、僕に。エルザの背後で、アベルがこちらへ向かってくるの。エドをにらむ怪盗は、まだ気づいていない。

「坊やと善悪を問うつもりはないの。私の信じた道がこれだというだけ」

「なら、今あんたがしていることが信じる道なんだ? 子どもを追い詰め、子どもを泣かせて! なにが正義だ。なにが弱者の味方だ。あんたはただの犯罪者だ!」

 息をのむその一瞬、リンが怪盗の足にかばんを力いっぱいぶつけた。エドがポケットに忍ばせた何かを、バランスを崩したエルザのわき腹に押し当てる。それのスイッチを思い切り押した。直後女の悲鳴が響き、子ども二人は弾き飛ばされる。その隙をついたアベルが膝蹴りでエルザをなぎ倒した。

「フーリー警部補ッ」

「言われなくとも!」

 フーリーが傾いだ二人を屋根際で捕まえた。後一歩遅ければ、三階の高さから地上にまっさかさまだった。リンが気絶しているのをフーリーは確認して、安堵の息を吐き出す。エドはと言うと、自分のしたことに驚いたのか目を見開いたまま固まっていた。

「よくやったよ少年……。でもなァ、無茶はしちゃいかんよ。それは、スタンガンかい? どこでそんなものを」

 フーリーが息を吐き出して、呆れた眼差しをエドに向けた。エドの手の中にあるのは、十万ボルトのスタンガンだ。護衛用にと持たされたものが、まさか役に立つとは。エドは荒い呼吸を繰り返しながら、歯噛みした。

 無茶をしてはいけないと言われても、この方法しか思い浮かばなかった。そうじゃなければ、どちらかがエルザに攫われていただろう。だが、その為に自分がしたことは。

 ヒトを傷つける行為を、今更ながら嫌悪した。それまで大切にしてきた何かが、涙となってぱらぱらと崩れていく。僕は、ヒトを傷つけられる。目的のために躊躇なく、実行できる。

 は、っはは、と引きつった笑いと共に涙が落ちた。手の中にある小さな武器は、これほど恐ろしいものだったのか。結果など想像できたのに、エルザの悲鳴が恐ろしかった。耳に残るあの叫びが、消えない。暴力を、自分が行ったという事実が。

 もしかしたら、これが銃でも迷わずトリガーを引けたかもしれない、と。

 そっと肩に誰かの手が触れた。

「怖かったね。よく頑張ったよ」

 エドの涙を隠すように、フーリーが頭をなでる。ねぎらいは、『子ども』へ向けたものだった。フーリーはエドを『守るべき存在』だと認識しているのだ。涙をぬぐおうとすると、がたがた震えている自分に気づいて、余計に情けなかった。

(僕はこれほどまでに子どもなんだ)

 その事実が胸をえぐる。だが、同時にホッとしていた。今は泣いていたい。『子ども』で、ありたい。

 フーリーが苦笑をして二人を抱きしめた。エドは、リンが気を失っていてよかった、泣き顔を見られずに済んだと、少し安堵したのだった。

 そのようすを背景に、アベルはエルザ・スコーピオを見下ろした。

「連邦警察アベル・ヨークだ。エルザ・スコーピオ。四十件を越える窃盗、二十三件の傷害罪・名誉毀損の疑いで、逮捕する」

 がちゃん、と手錠が落ちた。

「これで、もう逃さない。お前は法によって裁かれるんだ」

 アベルの声は怒りを押さえ込んだようだった。エルザが呆然としたまま、言った。

「まさかお前に捕まるなんてね。私の腕も、落ちたもんだわ」

「地元警察の踏ん張りのお陰だ。もっとも、今回の件はあんたらしくないが。警察を……親父を裏切ったあんたを、忘れたことはなかった」

 エルザは何かを言おうとして、やめた。小さくかぶりを振って、ひたりと男を見据える。

「――ひとつ聞かせて。私たちを『売った』のは、だれ」

 警察たちは目配せをする。話していいのか……、そんな逡巡が見え隠れした。エルザがふ、と笑う。暗い目に、不穏な光をにじませながら。

「私は、諦めないわ」

 そこに、エドが警察を掻き分けて近づいた。下がりなさい、という警察をアベルが制する。エドはホッとして、エルザの前で少しかがんだ。

「教えてよ、怪盗さん。どうしてアイツを狙ったの。あのリュックを盗んだの。ランタンなんて用意して、なんのつもり」

 エルザは探るようにエドを見つめ、「気まぐれよ」と答える。気色ばんだエドが詰め寄っても、エルザは動じない。冷静にエドを窺っている。自分が試されているような気分になり、エドは歯を食いしばった。拘束されている者への乱暴は、自分の価値を下げる気がしたのだ。

 襟首をつかんだネコ族の少年は、睨みつけるに留めた。

「あんたの行動は半端すぎる。逃げるにしても、見つかるように逃げていたとしか思えない。列車に乗って逃亡したいわけじゃ、なかったんでしょ」

 エルザは微笑した。

「いずれ、坊やたちにもわかるわ。私はこれでも、正義を掲げたい犯罪者なのだから」

 自身を皮肉った彼女は、意味深げにエドを見つめるばかりだ。そこに何らかのメッセージが込められているように。

「それって当てこすり?」

 さあ、とエルザがはぐらかす。問答は終わったと判断されたのか、エドの手がそっとエルザから外された。アベルが「もういいだろう」とエドを一瞥する。引っ立てられるエルザに、エドは付け足した。負け惜しみなのかもしれなかった。

「変装が下手だって言ったよね。イヌ族は、僕らの嫌いな臭いがするんだ。あなたの変装は、最初に会ったときからおかしかった」

 剥ぎ取られたマスクの下にあったのは、四十に近い女の顔だった。とても怪盗の正体には見えないような、平凡なヒト族の。それが苦笑して、エトムントに向かって口を開く。だが、タイミング悪く足元から上がった歓声によって、その台詞もよく聞き取れない。

「坊やはエスツェット伯の……気をつけなさ……ダズは決して坊やの……」

 なに、と聞き返そうとしたが、彼女は複数の警察によって連行されていく。エルザは一度エドを振り返ったが、すぐに人だかりによって隠れてしまった。十年間あちこちで怪盗騒動を巻き起こしてきた盗賊団の首魁(しゅかい)は、こうして捕まったのである。





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